2020年4月24日金曜日

「うたつなぎ」のバトンリレーを断っている理由

主に自宅からの配信ライブをミュージシャン同士がバトンリレーする企画「うたつなぎ」の動画が、SNS上を賑わせている。
自分のところへも知り合いミュージシャンからそのバトンが何度か回ってきたのだけれど、その都度、丁重にお断りさせてもらっている。

コロナ禍の世の中を明るくする好企画だと理解しつつも、自宅からの配信に関しては、誰かに促されてやるのではなく、まずは自発的に発信したい思いがあり、それ以前の配信は控えておきたかったのが一番の理由だ。
せっかく自分を選んでもらったのに、断ってしまうことに心苦しさも感じたけれど、自分のタイミングを優先させてもらうことにした。

まわりの状況も自分の心持ちも変化してゆくので、1週間後には考えや態度が変化して、誰かのバトンを受け取っているかもしれないけれど(それもよしとしている)、今は、持て余しがちな感情に向き合いながら、一つ一つの発信を丁寧にやっていきたい気持ちが強い。
しばらく遠ざかっていたブログを更新するようになったのも、そういった思いによる。

振り返れば、この2ヶ月の間で、新型コロナウイルスに対する自分の考えや態度は随分変化した。多分、ほとんどの人と同様、2ヶ月前の自分は楽観的で、ここまでの状況を予測することはできなかった。
このコロナ禍では、状況に応じて自分の考えや行動を柔軟に変化対応させてゆくことも必要だと感じている。

ツアーから離れ、京都の部屋にこもる生活を始めてから、既に一月近くが経過した。
ツアーに出ていた頃に比べると、95パーセント以上の外出制限が続いているけれど、思っていたよりはこの暮らしに適応できている気がする。
この1ヶ月は、心身をメンテナンスしながら、想いを巡らせる時間を大切に心掛けた(お陰でツアーに出ていた頃より体調が良い)。同時に、ここ最近は、長期戦を想定しながらの具体的な準備にも入った感じだ。

今週中には、自宅でのピアノ弾き語りによる新曲の収録を行って、自身のYouTubeチャンネル「rikuonet」を通して、近日中に公開できたらと思っている。
動画撮影のための3脚や録音機器なども既に購入済み。ピアノの調律もバッチリ。部屋のお片付けはそこそこ。
2週間前にはYouTubeチャンネル収益化の申請を行い、先日認可が下りたばかり。一様、ユーチューバーへの道が開かれたわけだ。今後、YouTube機能の一つであるSuper Chatなどを使ったライブ配信も考えてみたいと思う。
なので、みなさん、チャンネル登録をよろしくお願いします。
https://www.youtube.com/user/rikuonet

来週4月29日(水祝)には、自分が暮らす京都一乗寺のミュージック・バー、Norwegianwood(ノルウェイジャンウッド)での無観客有料配信ライブも決定した。ツアーから離れて以来、久し振りのライブ。この1ヶ月の想いを2時間のステージに凝縮させたいと思う。
チケット購入→ https://twitcasting.tv/c:dop2020/shopcart/3661

今後は、配信ならではのライブのあり方を探ってゆくつもり。
もちろん、一番の願いは通常のライブができるようになることだけれど。
今は、離れた場所で、いつも来てくれるお客さんや応援してくれている人達、そして、まだ出会ったことのない人達とも繋がり合って、一緒に楽しめる手立てを考えてゆこうと思う。

自分にとっては、新しい試みばかり。この状況下でも、音楽を通じて、不安と期待の中に身を置けるのは幸せなことだ。

ー 2020年4月24日(金)

2020年4月20日月曜日

ポジティビズムと合理的利他主義

『BIG BANG』から名前を変えて同じ場所で40年続いた京都のライブハウス『VOXhall』が、コロナ禍の影響により、今月で閉店することになった。ビルごとなくなるそうだ。
個人的には、関わりの深い場所ではなかったけれど、長年、地元京都の音楽文化に貢献し続けてきた老舗のライブスポットの一つが、コロナのせいでなくなってしまうのは、やはりショツクだ。

以下は、5月と6月に大阪と東京で共演予定の椎名純平さんのツイート。

「相撲ファンのみなさん、コロナ禍が明けたら両国国技館がなくなっていることを想像してみてください。野球ファンのサッカーファンの皆さん、気づいたらひいきのチームのスタジアムがなくなっていることを想像してください。いま音楽界で起こっているのはそういうことなんです。」

自分のところへも、お世話になっている日本全国のライブスポットから、悲痛な声が届く。今だからこそ余計に、痛みを分かち合うことの大切さを感じる。
音楽業界に限らず、アイデアを出し合い、手を差し伸べあうことで、何とか皆で生きのびたい。

もはや、コロナ禍があと1,2ヶ月で収束するとは思えない。正直、「緊急事態宣言」の期限である5月6日以降にブッキングされているライブの開催も、しばらくは難しいだろうと覚悟している。
年内中ライブができなくなることだって、想定しておいた方がいいのかもしれない。

悲観しすぎるのも良くないけれど、この状況での楽観が、前向きな姿勢とは思えない。
光は闇の中にある。
3.11直後にも感じていたことだ。
現実を受け入れて、この先を見据えたい。

NHK番組・ETV特集「緊急対談 パンデミックが変える世界〜海外の知性が語る展望〜」の中で、フランスの経済学者・思想家のジャック・アタリが、ポジティビズム(実証主義)とオプティズム(楽観主義)について、こう語っていた。

「ポジティビズムとオプティズムは違う。
例えば、観客として試合を見ながら『自分のチームが勝ちそうだな』と考えるのが楽観主義。
一方、ポジティビズムは、自らが試合に参加し、『うまくプレイできれば、この試合に勝てるぞ』と考えること。
自分は人類全てがこの試合(新型コロナとの戦い)に勝てると思っている。
自分達の安全のために最善を尽くし、世界規模で経済を変革させていくことができれば、きっと勝てるだろう。」

アタリは、自己の利益よりも他者の利益を優先する利他主義についても、こう語っていてる。

「利他主義とは、合理的利他主義に他ならない。
自らが感染の脅威にさらされないためには、他人の感染を確実に防ぐ必要がある。
利他的であることは、ひいては自分の利益となる。
また、他の国々が感染していないことも、自国の利益となる。
例えば、日本の場合も世界の国々が栄えていれば市場拡大し、長期的に見ると国益につながる。
利他主義とは、最も合理的で自己中心的な行動。」

ポジティビズムと合理的利他主義を意識しながら、日々を過ごしたいと思う。
まわりを見れば、既に、そういった態度に基づく良い兆しが方々で感じられる。この状況下で見出した希望は、持続可能な未来につながるはずだ。

ー 2020年4月20日(月)

2020年4月18日土曜日

闇の中で目を凝らす

音楽家のやることは、演奏したり歌うことだけじゃないはず。

ゆっくりと呼吸して、混沌の中でかき消されそうな声に耳をすます。

自分の心の声も聞いてやる。

思いっきりシャウトする日々が、またいずれおとずれる。今は他にできることを。

揺れる気持ちは押さえきれない。まあ、それもしゃあない。

心を揉みほぐして、体調に気を配る。

長期戦やろな。

楽観しないことが、むしろ前向き。闇の中で目をこらす。

こんな時だからこそ、1人でじっくり考え、想い描く時間を大切に。

しばらく会えない人達、命がけの現場で働いてくれている人達、明日の暮らしに困窮する人達に心を寄せながら。

ー 2020年4月18日(土)

2020年4月15日水曜日

「批判する者を批判する」ということ

新型コロナウイルス関係のニュースや意見ばかり追っていると、やはり心が疲れてくる。
起きる出来事の一々に反応していると、俯瞰の視点が消え、感情に流され過ぎて、自分を見失ってしまいそうだ。

声を上げる側の切迫した思い、批判ばかり目にして心がやられそうになる人、どちらの痛みも想像しながら、一呼吸置いて発言したいと思う。

例の一件は、音楽に携わる人間として、非常に腹立たしく、やりきれない思いに囚われたけれど、感情にまかせた批判は自重することにした。
既に、たくさんの人達が批判の声を寄せ、その中には冷静で的確な指摘も含まれていたので、結果的に、その様が可視化された気がする。

最近は、批判をやめて皆が一丸となるべきとの声もよく聞かれる。確かに、この渦中で、敵対が深まり「分断」が広がれば、コロナ収束後の社会にも悪い影響を残すだろうと思う。
けれど、明日からの暮らしに困窮する人達が続出する中で、「批判する者を批判する」ことが結果的に、異論を排除し、弱い立場の声を封じ込めたり、彼らの存在を切り捨てることにもつながらないだろうか。
過去の歴史を振り返って、「批判を許さない空気がもたらした社会」についても忘れずにおきたい。強い口調の批判や非難ばかりを目にすることに疲れつつも、そう思う。

まわりの事業者やミュージシャンの間では、既に多くの助け合いやこの状況を乗り切るための助け合いやアイデアの交換が見られ、それが自分にとっては救いの一つになっているけれど、もはや、それだけで乗り切れる事態ではなくなっている。
この状況下での、国や各自治体の対応を見ていると、生活者の怒りや悲痛な声が、ある程度は届き始めているようにも思う。国の対応が遅まき過ぎると感じつつ、それらの声が届くことで政策が改善されてゆくことに、一つの希望を見いだしたい(急を要するけれど)。生活者の声が政策に反映され、国へのチェック機能が維持されることは民主主義のあるべき姿だと思う。

声を上げる者とそれを受け取る者、批判する者とされる者は、互いに「補い合う関係」だという意識を残しておきたい。特に、この状況においては、政治の場でも、超党派で案を出し合い、協力して、より良い政策を迅速に実現してもらいたい。

ただし、迅速さが求められるのは、非常時の対応においてであって、収束後は、空気に流されない、じっくりと時間をかけた議論も続けてもらいたい。そして、コロナウイルス禍での様々な対応を、きっちりと検証し直し、今後の教訓として生かしてゆくこことも大切だと思う。

怒りややり切れなさを抱えていても、「分断」という油に火を注ぐことのないよう、むやみに不安を煽ることのないよう、言葉を選び、「声の上げ方」にも慎重であろうと思う。
自分の言葉が、立場の違う誰かを傷つける可能性があること(それも致し方ない場合もあるとは思う)、議論は大切だけれど、「論破」することが前向きなものを何も生み出さないことも、あらためて自覚しておきたい。

こういう自分の態度は、無収入になっても、まだしばらくは蓄えでなんとか凌げそうな立場にいることで担保されているのかもしれない。この状態がさらに数ヶ月、半年と続く中で、冷静な思考を保ち続けることができるだろうか(今も冷静かどうかわからないけれど)。
そう考えると、今まさに切迫した立場に追いやられている人に、冷静で寛容な態度を求めるのは酷のように思う。まず、そういった人達に心を配り、手を差し伸べるのが成熟した社会ではないだろうか。

こういった非常時には、市民の様々な権利が抑制される。今はそれも仕方がないと考えて、自宅にこもっているけれど、決まって非常時に民主主義が崩壊してきた歴史は忘れずにいたい。
「一丸となる」という言葉への違和感を抱きながら、主義主張を超えて助け合いたいと思う。

コロナウイルス禍はいつかは収束する。そのダメージは長く残り続けるのかもしれないけれど、今は離れた場所で痛みを分かち合いながら、コロナ後の新しい世界に希望を描きたいと思う。

ー 2020年4月15日(水)

2020年4月12日日曜日

「限定条件付きの優しさ」をいかに克服するか ー このウイルスを乗り越えるために

緊急事態宣言が出された東京で、路上に追い出された「ネットカフェ難民」に対して都が12億円の予算措置をつけることへの批判が、ネット上で拡散されているのを見て、つらい気持ちになった。 「弱い者たちが夕暮れ さらに弱い者を叩く その音が響きわたれば ブルースは加速してゆく」 ザ・ブルーハーツ「TRAIN-TRAIN」の1節を思い出した。 自分も「加速したブルース」を持て余しながら、この文章を綴っている。 批判する者にとって、「ネットカフェ難民」は、納税義務も果たさずに国から保護を受けようとするずるい存在として、怒りの対象になっているようだ。休業補償を行う厚生労働省の制度が、接待を伴うナイトクラブなどの飲食店や風俗業の関係者に支給されることへの批判と同じ流れだ(そういった人達を一括りに非納税者と断定すること自体が偏見で、間違いを含んでいると思う)。 つまるところ「自己責任論」のもとに、「ネットカフェ難民」や風俗関係者は救うべき存在とは見なされていないのだ(あるいは優先順位の最下位)。「不安定な生き方を選んだ自分のせいだ、社会のせいにするな」として、彼らが切り捨てられることをよしとしているのだろう。 そういった考えは、新型コロナウイルスの感染拡大をより広めてゆくことにもつながりかねない。都が「ネットカフェ難民」を援助しようとするのは、感染拡大を防ぐための切迫した事情だと想像する。 自分のようなフリーランスのミュージシャンの多くは、この状況下で、路頭に迷う自分自身の姿を現実的に想像する者も多いんじゃないかと思う。自分も、収入の大半を占めていたライブ活動を自粛しているので、しばらくは無収入に近い状態が続くだろう。 「収入がなくなり納税も滞るようになれば、自分達も社会から切り捨てられるべき存在と見なされるのだろうか。いや、もともと自分達のような不安定な業種は、こういう事態に陥れば、早くに切り捨てられる存在だったのかもしれない。」なんてことも考えてしまう。まあ、そうであっても、くたばってたまるかって気持ちだけれど。 「自己責任論」を振りかざす者の多くは、多分、悪人なんかではなく、周囲に対しては気配りや思いやりを注ぐことのできる、真面目で優しい人間だったりするのだと思う。だから余計にかなしい。 その「思いやり」を、自分とは立場の違う存在、「ネットカフェ難民」やホームレス、夜の接客や風俗で働く人達、生まれたところや皮膚や目の色の違う人達に、少しだけでも注ぐことはできないだろうか。 その「優しさ」の対象は、あくまでも「限定条件付き」でしかないのだろうか。 「ネットカフェ難民」のことを、ずるい存在、怒りの対象ではなく、手を差し伸べるべき弱い立場の人間、この社会の一員として受け入れることはできないだろうか。彼らの存在を一括りに見るばかりではなく、それぞれ異なる事情を持った一人一人の人間として想像することはできないのだろうか。 これらの言葉が「きれいごと」に受け取られるのは重々承知しているけれど、この「きれいごと」こそが新型コロナウイルスを克服するための一つの手立てだと思える。 この状況の中で、自分達はどこまで「限定条件」を外して、他者への想像力を広げてゆくことができるだろうか。 今、本当に困っている立場の弱い人達に手を差し伸べることができなければ、収束はますます遠のいてゆくように思う。今こそ、セーフティネットの重要性を、国や行政の側だけでなく、自分達生活者が意識すべき時じゃないだろうか。 グローバル化した社会において、この感染の影響は一国のみの収束を許さない。自分達さえ良ければ済む問題ではなくなってしまったのだ。国や人種、あらゆる立場を超えた「連帯」がなければ、経済面も含めて、このウイルスのダメージはますます長引いてゆくだろう。 ウイルス感染が収束した後の世界は、「連帯」に向かってゆくのか、あるいは、さらに内向きに「分断」してゆくのか。どちらが人類にとって持続可能な世界なのか。その答は出ているように思う。 今、自分達はウイルスによって試されている気がする。  ー 2020年4月12日(日)