2021年12月17日金曜日

コロナ禍のライブ活動を振り返り、「HOBO CONNECTION FESTIVAL」を語る

さっき、今年の自分のライブ数を計算したら80本だった。
コロナ禍前までは、年間130本前後のライブをやり続けていたので、例年の本数に比べれば大幅減だけれど、この状況でよくこれだけの数のライブがやれたなと思う。

コロナ禍でもある程度のライブ活動を続けることができたのは、経費のかからないソロで動けることが大きかった。
自分のライブ活動の中心は小規模のライブスポットなので、コロナ禍のガイダンスに則れば、許される客数が最小の場合は15人だったりする。この規模ではもちろん、バンド編成や複数人数でのライブは興行として成り立たないけれど、スタッフを帯同しないソロであれば、経費を最小に押さえることができるので、なんとかツアーを組むことが可能なのだ。

ただ、感染拡大が続いている時期は、地方会場だと限定15名の席数すら埋まらないこともあり、ツアー全体の中でなんとか収支の帳尻合わせをしていたのが実情だ。
そりゃ満員の熱気の中でライブがやれたらそれにこしたことはないけれど、お客さんが5人だったときでもライブのモチベーションが落ちることはなかった。演奏できることが嬉しくてありがたかったし、またこの街へ戻ってこれてよかったと心から思えた。
そういったコロナ禍での体験によって、自分がツアーをする意味や意義をあらためて確認できた気がする。

2年近くの厳しい状況の中、ソロ活動だけでなく、敢えて、なるべく多くの共演者、スタッフ関係者と仕事することも心がけてきた。自分の非力さを痛感しつつも、綱渡りをしながら、なんとか小さな経済を回そうと、自分がつぶれない程度の無理もしてきたつもりだ(結果、そういう無理が楽しみややり甲斐につながった)。
それが可能になったのは、ライブに足を運んでくれるお客さんと有料配信を観てくれる全国の視聴者の皆さんの存在があってこそだ。特にバンドでのライブや大勢が関わるイベントは、配信の収益なしには成り立たなかった。

感染拡大が始まる早い時期に、自分が暮らす街でライブ配信チーム(一乗寺フェス配信チーム)が結成され、彼らと活動を共にできたことは大きかった。コロナ禍においても自分は出会いに恵まれていたと思う。
配信ライブを通して自分が暮らす街から全国へ発信することで、グローバルに考えてローカルに行動し、離れたローカル同士でつながろうとする意識がより強まった。ローカルの活性化は、コロナ後も自分のテーマの一つになると思う。

コロナ禍でのライブイベント開催においては、行政からの交付金や補助金にもお世話になった。申請の手続きはとても複雑で、何度も書類申請のやり直しを指示され、 申請から補助金確定に至るまでには数ヶ月を要した。まわりのサポートなしに、こういった申請手続きをやり遂げることは出来なかった。というか、まわりに頼りきりだった。
こういった補助金制度が、もっと個人が申請しやすいシステムであればと思う。

音楽業界において、多分すべてのイベンターさんはJ-LODなどの補助金制度がなければコロナ禍を乗り切れなかっただろうし、飲食店は時短、休業に対する協力金が出なければ、さらに多くの店が閉店に追い込まれていただろう。
国や行政の政策によって、自分達の仕事や暮らしが大いに左右されることをこの2年間で思い知らされた。

来年1月10日(月祝)大阪・なんばHatchにて開催する「HOBO CONNECTION FESTIVAL」は、元々は自分のデビュー30周年記念として今年の5月23日に開催予定だったイベントの振替公演なのだけれど、来年1月の開催にあたっては、記念ライブのお祝い的な意味合いよりも、コロナ禍における自分の音楽活動の集大成となるフェスにしたいと思う。

「HOBO CONNECTION」は、ミュージシャン同士が一期一会のコラボを展開する出会いと化学反応の場として、自分が2013年から毎年開催し続けてきたイベントで、1月はその拡大版のフェスとして開催されるのだけれど、これまでの「HOBO CONNECTION」との違いは、関西から全国へ向けてのローカル発信を強く意識している点だ。出演者も関西ならではの地域色の伝わる人選を心掛けた。

有観客+オンライン配信の2WAY開催であることも、コロナ禍前との大きな違いだ。
配信の制作は「中津川 THE SOLAR BUDOKAN」などの配信を手かげるLIVE LOVERSと、コロナ禍に自分が暮らしている京都一乗寺で結成され活動を共にしてきた一乗寺フェス配信チームとのコラボレーション。ライブも配信もコラボ尽くしのフェスなのだ。

ミュージシャン、地元のスタッフ、イベンター、FM局 etc.、「HOBO CONNECTION FESTIVAL」は、自分が主催するライブイベントの中では、間違いなく最も多くの人が関わるイベントだ。しかも関わってくれる人達が多様であるのも特徴。コロナ禍を経なければ、こういった繋がりによる企画は生まれなかったし実現できなかっただろう。

フェスを通じて、この厳しい状況の中でもポジティブな何かを生み出されることを証明したいと思う。
多くの人たちの関わりの中で、こういう企画が実現すること自体が既に素晴らしいことだと思いつつも、今は正直、興行として成り立たせることができるのかどうかの不安とプレッシャーも大きい。自分の影響力のなさに悔しさも感じる。

今まで何度もこういう思いをしながらやってきたなと思う。結局、やり終えた後に後悔したことはなかった。
そんなことを思い出しながら、しっかりとイベントの準備を進め、日々の積み重ねを経て、みなで奇跡を起こせたらと思う。
応援してください。
ー2021年12月17日(金)


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2020年1月10日(月祝)@なんばHatch
《リクオ presents HOBO CONNECTION FESTIVAL》
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リクオと親交のある関西出身の多彩なアーティストをゲストを迎え、コロナ禍を経ての出会いとローカル発信のイベントとして、有観客+オンライン配信の2WAY開催。出演者同士のコラボを中心とした2部構成ステージ。
関西から全国にローカルパワーを発信します。
●FM COCOLO SPEICIAL LIVE
リクオ presents HOBO CONNECTION FESTIVAL(21年5月23日公演の振替公演)
【日時】2022年1月10日(月・祝) 開場16:00/開演17:00
【会場】大阪・なんばHatch
【出演】(五十音順) 
<1部> シェキナベイベーズ・オールスターズバンド
メンバー:安藤八主博&山口しんじ(ザ・たこさん) 、コージロー&タツロー(THE HillAndon)、城領明子、高木まひことシェキナベイベーズ、リクオ
<2部> ウルフルケイスケ、押尾コータロー、奇妙礼太郎、木村充揮、TAKUMA、中川敬(ソウル・フラワー・ユニオン)、リクオ
ハウスバンド:リクオ with HOBO HOUSE BAND
(ベース:寺岡信芳/ギター:高木克/ドラム:小宮山純平/ペダルスティール:宮下広輔/Chorus 真城めぐみ)
【M C】加美幸伸(FM COCOLO DJ)
【料金】6,000円(全席指定/税込) 配信あり(詳細は後日告知)
【チケット発売日】11月27日(土)10:00
■モバイルサイトGREENS!チケット
■チケットぴあ https://w.pia.jp/t/rikuo-o/ [WEBのみ受付 ] Pコード:206-681
■ローソンチケット https://l-tike.com/hof/ Lコード:54871
■イープラス https://eplus.jp/rikuo-o/
【配信視聴申し込み】
12月10日(金)よりチケット発売(Streaming+) 料金¥3300
アーカイブ視聴&視聴申し込みは2022年1月23日(日)まで。
【主催】FM COCOLO/GREENS
【お問い合わせ】GREENS 06-6882-1224<平日11:00-19:00>

2021年12月1日水曜日

自国ファースト、身内ファースト、自分ファーストを超えて ー 新たな変異株「オミクロン」に思うこと

最近のニュースは、南アフリカで新たに見つかった新型コロナウイルス変異株「オミクロン」の話題で持ちきりだ。
どうやらこの変異株が世界に蔓延するのは時間の問題のようで、話によれば、32カ所の変異が感染性を高めるだけでなく、ワクチンや自然感染による免疫を回避する恐れもあるという。そう聞かされると、デルタ株を超えるような、さらにやっかいなウイルスを想像して不安になる。

その一方で、南アフリカの医師会の会長からは「オミクロン株の症状は軽く、重症患者はほとんどいないため、パニックになる理由はない」とのコメントもあり(https://news.tv-asahi.co.jp/news_international/articles/000236639.html?fbclid=IwAR3mJnGgBdVtk5nqAKaferEDuAubqlN4KqlKcbgJ86TjN-5MLEgv0SteXVk)、じゃあ、それって風邪みたいなもんじゃないのとツッコミもいれたくなる。
この新たな変異株に関する知見はまだまだ乏しく、その実態がはっきりつかめていないのが実情なのだろう。楽観し過ぎず、悲観し過ぎず、冷静に状況を受け止めたいと思う。

この変異株が南アフリカで発見されたという事実を知ったときには、懸念が実現してしまったような思いを持った。
以下は、11月27日のニューズウィークの記事(https://www.newsweekjapan.jp/kimura/2021/11/post-129_2.php)からの抜粋。

《「アフリカの人口のうちコロナワクチンを1回でも接種したことのある人はわずか11%程度。 これまでのところサハラ以南のアフリカ諸国の多くは公衆衛生や医療サービスのリソースが非常に限られているにもかかわらず、流行をうまく抑えてきた」と評価する。

「しかし感染しやすい集団がたくさんあるため、コロナの流行が低所得層の医療サービスを圧迫する可能性は十分にあり、その結果、新たなVOCが増える恐れもある。これはワクチン展開の不公平さがもたらした結果であり、富裕国が十分すぎるワクチンを手にしたとしても、いつかは自分たちに跳ね返ってくる」》


やはり自国ファースト、身内ファースト、自分ファーストでは、コロナを克服することはできないんだと思う。
日本では今月から3回目のワクチン接種受付が始まっているけれど、途上国へのワクチン展開を加速させることができなければ、いくら先進国で3回目の接種が進んでも、あらたな変異株とのイタチごっこは終わらないのかもしれない。これは人類全体の問題なのだ。

そして、ワクチン接種が全世界に行き届いてコロナが世界的に一旦収束したとしても、このウイルスが人類に提起した問題の根本解決にはならない気がする。ワクチンによって新型コロナを急速に駆逐すれば、今度はそれによる副作用、自然からのあらたなしっぺ返しが起こるかもしれない。

そもそも、自然を完全にコントロールしようとする人間の傲慢さが、この状況をもたらしたのではないだろうか。やはり、人類のあり方そのものが問われているように思う。
これを一つの機会と捉えて、前向きに新たな価値観を模索する1人でありたい。

ー 2021年12月1日(水)

2021年11月13日土曜日

卒業できない

 高校を卒業できずに校内をさまよう夢を見た。

自分のクラスもわからない。でも卒業はできていないのだ。心許ない気分。
この手の卒業できない夢を30年以上見続けてる。大学を卒業できない夢が多いので高校はめずらしい。

「学校は卒業したけれど
ハッピーバースデーは重ねているけど
何を卒業したんだ」

チャボさんの「ティーンエイジャー」の歌詞の一節。

自分はこれからもはみだした気持ちを抱え続けたまま、いつまでも卒業できないのかもしれない。
それでいい気もする。

ー2021年11月13日(土)

2021年9月28日火曜日

「問いかけ」としての存在 ー 映画『太陽の塔』を観て

 アマゾンプライムビデオでドミュメンタリー映画『太陽の塔』を観た。
『太陽の塔』は1970年に開催された大阪万博のシンボルとして岡本太郎が制作した建造物で、万博終了後50年以上を経て今も万博公園に残され続けている。

2011年の東日本大震災から3週間後、自分は太陽の塔を観るために万博公園にまで足を運んでいる。震災と原発事故のショックで心揺れる日々の中、太陽の塔に何か答えを求めていたのかもしれない。
離れた場所からは寂しげに見えたその姿が、近くで見上げた時には突き抜けるようなエネルギーを感じたことを覚えている。


その時、特に印象に残ったのが、塔が背後に背負う「黒い太陽の顔」だった。
映画によれば、それは人間によって分析しつくされた太陽であり、核エネルギーの象徴とのことだった。
「原子力発電は、人類が人工の太陽を手に入れたことだ。」と太郎は語っている。




太陽の塔が、大阪万博のテーマであった「人類の進歩と調和」に対するアンチテーゼが込められた作品であることは明白だけれど、その表現は、糾弾に走らず、明確な答えや選択を提示することもなく両義的だ。
なんだかよくわからないけれど、とにかくスケールがでかい。過去、現在、未来、絶望、希望、矛盾、生と死、etc.全体的なものが表現されている感じ。そこには、人類が切り捨ててきた何かが含まれている。

自分たちは今、進歩と調和からはかけ離れた場所にいるのかもしれない。太郎が言うように、全体性を失った人間が他者や地球と調和をはかれるとは思えない。
万博から50年以上を経たこの時期を、「進歩と調和」の欺瞞に向き合う何度目かのチャンスと捉えたい。自分が生きている間に、既にいくつかのチャンスを逃してしまった気がする。

太陽の塔が今も存在し続けることは、一つの救いのように思える。取り壊すことのできない畏れや良心が働いたのかもしれない。
太陽の塔は、これからも時代を超えて「問いかけ」として存在し続けるのだろう。選択や答えを導き出すのは自分自身なのだ。

ー2021年9月27日(火)

2021年8月12日木曜日

時代の変化と自身の変化 ー 張本勲氏の発言から考える

先日のツアー先での出来事。
ある宿泊先の書棚に大量の漫画が並べられていたので、小学生の頃から思い入れの深かった作品を手に取り、深夜に読み耽けった。

数十年ぶりに読み返してみて、やはり魅力的な作品だと確認できた一方で、ある戸惑いが残った。今の時代にはNGの差別用語、差別表現が想定以上に散見されたからだ。
用語使用の問題だけでなく、明らかな女性蔑視や人権意識の低さからくる表現も見受けられ、こういう表現を当時の自分が問題意識なく受け入れていたことにある種の感慨を抱いた。時代の変化と自身の意識の変化を大いに感じさせられる出来事だった。

ツアーから戻ってきたら、女子フェザー級で金メダル獲得した入江聖奈さん対する野球評論家の張本勲氏の発言が問題になっていた。

「女性でも殴り合い好きな人がいるんだね。どうするのかな、嫁入り前のお嬢ちゃんが顔を殴り合って、こんな競技好きな人がいるんだ。それにしても金だから、あっぱれあげてください」

ジェンダーフリーが浸透した社会の中では相当に時代錯誤だし、ジェンダーの平等を掲げるオリンピック精神にもそぐわない発言だと思う。
10年前ならスルーされた発言かもしれないけれど、10年前であってもこの発言に傷つき違和感を抱く人は多数存在しただろう。

日本においても人権意識の高まりが加速していることは、歓迎すべき変化だと思う。その変化に自分も適応していきたい。そして、人権意識が変化する以前から、差別や抑圧そのものは存在し続け、見過ごされてきた事実も忘れちゃいけないと思う。

諦観的な態度で、差別や抑圧が消えることはないと発言する人は多い。そうかもしれないけれど、それらを可視化し、多くの人が問題を共有することで、状況は少しずつよくなるんじゃないかと思う。

ー 2021年8月12日(木)

2021年8月11日水曜日

久し振りに公で「陰謀論」という言葉を解禁して、思うことをつらつらと

AERAの連載「鴻上尚史のほがらか人生相談」は毎回読み応えがあるのだけれど、今回の、陰謀論を信じる母に悩む28歳女性の相談への鴻上氏の対応は、特に考えさせられるというか、身につまされる内容だった。

陰謀論に関しては、自分もSNSで何度も取り上げてきたし、その広がりに対する危惧を昨年7月17日のブログにもまとめている。  https://rikuonet.blogspot.com/2020/07/blog-post.html 今回読み返してみて、当時から陰謀論に対する自分の基本的な考えは今と変わっていないと思った。

このコロナ禍、自分の周囲にも陰謀論にハマる人が出始め、何人もの知人から陰謀論に関する相談も受けるようになった。もうこれは特別な傾向ではなく時代の空気なのだと実感している。誰もがコロナに感染する可能性があるように、誰もが陰謀論にハマる可能性を有しているのだ。

陰謀論やインフォデミックのひろがりの先に待っているのが全体主義であることは、歴史が証明していると思う。きっと、先の戦争中は、国民の多くが大本営発表というデマを率先して信じ、国を挙げての陰謀論に熱狂したのだろう。

カルト宗教にハマった友人の洗脳を解いた自らの体験を交えてながら相談に応じる鴻上氏の文面からは、言葉選びに慎重な跡が窺える。そもそも、こういった相談に対する単純な答など存在しないはずで、その慎重ぶりこそが氏の誠実さのあらわれなのだと思う。

実は自分も浪人時代に、高校時代からの数少ない友人をカルト宗教に奪われた体験がある。それは苦さの残る記憶だ。
カルト宗教にハマった友人から執拗に勧誘を受けるようになり、彼に連れられて団体の施設を訪れた結果、自分は施設の一室に軟禁された。
狭い部屋に閉じ込められて信者に周りを囲まれ、入会をすすめる説得が続いた後、今度は長時間延々とビデオを観せられ続けた。それは、人類滅亡の恐怖を煽るおどろおどろしい内容だった。
信者から今日は帰らないようにと言われ、さすがに危険を感じて、なんとか部屋を抜け出して深夜に帰宅したのだけれど、今思えば、あれは洗脳作業の一環だったのだろう。

その後も友人は何度か自宅を尋ねてきたけれど、自分はまた施設に連れて行かれる怖さもあって、彼と面会することを拒絶した。門前払いされて、寂しげに帰ってゆく友人の背中を、自宅の窓のカーテンの隙間から見送り続けていたのを覚えている。
鴻上氏とは違って、自分は友人を取り戻すどころか、突き放してしまった。

鴻上氏が語るように、カルト宗教にハマる根本の原因は淋しさや不安で、それは陰謀論にハマる場合も同じなのだろう。
そして、さらにのめり込む理由が、「使命感」と「充実感」という指摘もその通りなんだろうと思う。

《自分だけが知っている「世界の真実」を他人に語る時、「使命感」と「充実感」を感じ、ずっと苦しめられていた淋しさや不安、空しさは消えていきます。
 ですから、冷静な論理的説得は意味がないのです。》 

この一文には心が痛んだ。
自分は、コロナ禍に陰謀論にハマった知人に対して、ある席で論理的説得を試みたことがあり、後になってその言動をずっと後悔し続けていたのだ。論理的と言いつつも、その時の自分の心持ちは、かなり感情的だったことを否定できない。話をせずにいられなかった知人の思いを受け止めるキャパが、その時の自分にはなかったのだ。
後日、別の知人がその知人と会食したときに「もうリクオとは話ができない」といった内容の話をしていたと聞いて、より後悔が深まった。

鴻上氏が指摘するように、自分の世界観を熱心に相手に説こうとするのは、心のどこかに「一抹の不安」があるからなのだろう。あのとき、知人の言葉をもう少し柔らかく受け止めることができたらと今になって思うけれど、自分がそこまでの人格者でないことも確かだ。
それでも今は、「今度その知人と会う機会があり、またそういった話が始まったときは、説得を試みるのではなく、もっと話を聞いてみよう」と思っている。

今年に入ってからは、公の場で「陰謀論」という言葉を多用することを控えるようになった。
「陰謀論」にハマった知人たちが、その言葉をレッテル貼りと感じ、そう呼ばれることを嫌い、そう呼ばれることで余計に心を頑なにしていると実感するようになったからだ。
それでもあえて、今回は久しぶりに公で「陰謀論」という言葉を使うことにしたのは、やはり今の時代に避けて通れないキーワードだと感じるからだ。ただ、今後も多用は避けようとは思うし、使用するときはその副作用を自覚しておこうと思う。

「陰謀論」という言葉で断罪するのではなく、そこに含まれる「物語の単純化」「大きな物語への依存」「排外思想」「分断志向」「独善性」「偏見」「全体主義的傾向」といった問題の本質や、陰謀論を生み出す「不安」や「寄る辺なさ」といった心性や社会状況に目を向け、一刀両断することなく丁寧に言葉を綴るよう心がけたいと思う。
つまり「陰謀論」とは他人事ではなく、自身と地続きの問題なのだ。
自らの胸に手を当てて考えることを忘れずにいたい。

ー 2021年8月11日(水)

2021年7月14日水曜日

ちょっと、ぶっちゃけます ー オンライン配信ライブの投げ銭制について

 ちょっと、ぶっちゃけます。

7月9日(土)&10日(日)高円寺・JIROKICHI 2days公演の配信アーカイブ期限を、今週末18日(日)まで延長した件についての本音です。

配信期間延期の告知で述べられていたように、ライブと配信が好評で、配信の視聴回数が伸び続けていることが配信期間を延長した理由の一つではあります。
けれど、もう一つの大きな理由があります。それは、配信収益の少なさです。

今回の2daysの視聴回数は、コロナ禍での前回2回のJIROKICHI公演を超える勢いで、足を運んで下さったお客さん、視聴者の皆さんからSNSやチャットを通じて多くの反響をいただきました。
にもかかわらず、その配信収益は現状、前回の4分の1程度にとどまっています。

ライブを企画する側としては完全に状況を見誤りました。前回までは、支援の気持ちで「後売りチケット(投げ銭)」を購入してくださった視聴者の方も多かったのだろうと思います。
コロナ禍が長く続く中、配信ライブも供給過多の飽和状態であることを理解しつつ、それでも正直、「これだけの視聴回数があるのに」というもやもやした思いが残っています。

東京では今週から4度目の緊急事態宣言が施行されています。ライブスポットはどこも、長期間、営業時間を制限された上に、限定人数でのライブ開催を強いられ続けています。そして、昨日からまた、アルコールの提供ができなくなりました。
そういった影響で、老舗のJIROKICHIでさえブッキングが埋まらなくなり、お店を開けることすらできない日が多くなっています。こういったあまりにも厳しい状況において、配信の収益は、お店とミュージシャンにとっての命綱なんです。

JIROKICHIがYouTube配信で採用しているフリー視聴可能な投げ銭(「後売りチケット」)システムは、視聴者の皆さんの善意に信頼を寄せることで成り立っています。
今回の2days公演はお陰様で両日ソールドアウトとなりましたが、限定人数での開催ということもあり、元々、配信の収益なしには興行として成り立たない企画でした。前回のJIROKICHIライブでの配信収益をもとに、採算が取れると踏んでの企画でしたが、甘かったです。

長く続くコロナ禍において、フリー視聴可能な投げ銭のオンライン配信というやり方自体が状況にそぐわなくなりつつあるという考えも可能だと思います。けれど、このオープンなやり方が、配信の一つの選択肢として今後も成り立つのであれば、それは、コロナ後においても、ライブシーンの裾野を広げてゆく一つの可能性になり得るだろうと自分は考えています。

フリー視聴も可能なこの配信方法は、あらかじめチケットを購入しなければ視聴できない課金制に比べて、開かれたやり方だと思うんです。視聴者が今まで知らなかった音楽を知る窓口になりやすく、送り手側にとっても、新しい視聴者に自分達の存在を知ってもらえる機会が広がる良さがあります。経済的に余裕のない人が等しく音楽を楽しめるのも、このシステムの良さだと思います。
自分は、どちらの配信システムも成り立つことで、受け手の選択の幅が確保され、送り手がそれらを臨機応変に活用できることが理想だと考えています。

コロナ禍においては、多くのミュージシャンが、自分達のこれまでのファンだけを対象にした、コアなファンを囲い込むような発信方法や活動に向かわざるを得ない状況が続いていると感じています。それが、限られてしまった選択肢だと理解しつつも、コロナ後を考えれば、もう少し外に向かうベクトルも必要だと思うんです。

自分がこのコロナ禍において、ソロライブだけでなく、あえて共演者の多いコラボイベントを企画したり、複数スタッフとチームを組んでの配信ライブを重ねるのは、こういう状況だからこそ、開かれた場を作りたい、微力ながら小さな経済を回したい、という思いの反映でもあります。
皆にギャラが支払えるだろうかと毎回ひやひやするけれど、こういった共同作業はホント楽しいんです。目先の利益や効率を優先することでは得られない充実感があります。この楽しみと充実感を忘れたくないんです。
こういった試みが、コロナ禍でもそれなりに成り立ってきたのは、多くの人達の支援と理解があってのことです。とても感謝していますし、世の中捨てたもんじゃないなと思ってます。

当座をしのぐだけでは未来は開かれない、持続可能な希望が必要です。厳しい状況が長びくほどに、その思いを強くしています。
JIROKICHIスタッフのさまざまな奮闘と試みは、自分のとってのコロナ禍における希望の一つです。この希望灯をともし続けることができるかどうかは、お店側だけでなく音楽を愛する僕ら一人一人の自覚にもかかっている、と言えば言い過ぎでしょうか。
地べたから繋がるライブ文化を愛するすべての人が、このシーンを支えてくれている一人一人であることは間違いありません。

無理な「支援」をお願いするつもりはありません。「支援」ではなく「対価」として成り立つべきだと考えています。ライブや配信への対価がなければ、自分たちの活動は成り立たないし、JIROKICHIのこのオープンな配信システムも続かないんです。
視聴者の善意によって対価を受け取るこのオープンなやり方が続かないのであれば、コロナ禍に生まれた一つの可能性が失なわれることになります。

今回のライブ配信を楽しんでもらえたなら、余裕のある方は「後売りチケット」の購入をお願いします。
チケットは千円から用意されています。動画とライブ音源の特典も付いてます。
余裕のない方は、フリー視聴で楽しんでもらって結構です。もし、ライブを気に入ってもらえたら、誰かに教えてあげて下さい。余裕のあるときにまた「後売りチケット」を購入してください。
そして、JIROKICHIのYouTubeチャンネルにぜひ登録して下さい。 https://www.youtube.com/channel/UCAwGg0pRLhSLzhy3kIWvTng きっと新しい出会いが待っていると思います。

今回の2days公演は、会場全体が多幸感に満たされた最高の一期一会でした。その空気感、ライブ感、化学反応の瞬間をJIROKICHIのYouTube配信が十分に伝えてくれています。オンラインであってもライブの臨場感と熱量を「体験」してもらえると思います。
アーカイブ視聴は7月18日(日)23時まで可能です。自信を持っておすすめします。

もしよかったら、あなたも音楽文化を共に守り育む一員になってください。また一緒に楽しみましょう。

《リクオ JIROKICHI スペシャル2days 》 ※配信アーカイブは7/18(日)まで視聴可能
●7/9(金)〜 リクオ with ストリングス 〜 
出演:リクオ / 橋下歩(チェロ) / 阿部美緒(ヴァイオリン) 
【Youtubeチャンネル】https://youtu.be/jvuCDpQX978
●7/10(土) 〜 リクオ・トリオ Live goes on Tour vol.2 〜 
出演:リクオ・トリオ(ボーカル&ピアノ:リクオ/ベース:寺岡信芳/ドラム:小宮山純平) with 森俊之(キーボード)
飛び入りゲスト:ウルフルケイスケ(ギター)
【Youtubeチャンネル】https://youtu.be/16BTDDekuh8

【オンラインショップ(投げ銭)】https://jirokichi.official.ec



2021年6月27日日曜日

希望の始まり ー 「アメリカン・ユートピア」を観て

元トーキング・ヘッズのフロントマン、デイヴィッド・バーンと、さまざまな国籍を持つ11人の仲間たちのステージをスパイク・リーが映画化した「アメリカン・ユートピア」をやっと観れた。
既に方々での評判を耳にして、かなり期待していたのだけれど、その期待をも超えて、打ちのめされるくらいに素晴らしかった。音楽、パフォーマンス、演出、照明、撮影、すべての面で画期的な音楽映画だった。
これでもかというくらいに表現の可能性を見せつけられて、自分ももっとやらなきゃという気持ちにさせられた。この余韻を大切にしたい。

現実を見据えた上での、とても開かれた人間賛歌であることにも深い感銘を受けた。絶望やシニシズムに安住しないバーンの柔らかな信念に強い共感を覚えた。

「Everybody's Coming to My House」を披露する前に、バーンは曲に関するエピソードを語り始める。
ハイスクールの合唱部がこの曲を歌った時に、バーン本人が意図していなかった包容力が伝わったことに感銘を受け、「そっちの方がいい!」と思ったのに、自分は今も自宅に人を招き入れるのが苦手だ。そんな内容だったと記憶している。客席の笑いを誘ったこの告白は、彼の人柄を伝える印象的なシーンだった。
バーンの語りやパフォーマンスは、状況への危機感を伴ったアンチテーゼや啓蒙的要素が強かったけれど、押し付けがましさを感じなかったのは、そこに「内省」が存在したからだと思う。完璧ではない一人の人間としての自覚が伝わるのだ。

正直に言うと、デイヴィッド・バーンに対しては、もっと頭でっかちなイメージを持っていたけれど、画面から伝わったのは、知的ではあるけれど、知性への懐疑も忘れない謙虚さだった。
彼のパフォーマンスは、知性と野生がとても高いレベルで手を取り合っていた。長いキャリアを経て実践と実感を積み重ねた成果なのだろう。実感を経た思想が肉体を通して体現されている様に、頼もしい説得力を感じた。

そして、ユーモアを忘れない姿勢。何よりもバーンは最上のエンターテイナー、芸人だった。こんな風に人を楽しませて、心のバランスや風通しをよくしてくれる力こそを知性と呼びたい。

映画撮影当時のデイヴィッド・バーンは67歳。とにかく心体のコンディションが素晴らしい。アンチエイジングとはベクトルの違う67歳ならではの若さ、瑞々しさを感じた。自身の変化を受け入れる勇気と柔軟性の賜物なのだろう。その姿勢は、バーンがこれまでの体験によって培った信念として画面から伝わった。

まずは自身に向きあい、自分を変えてゆく。あらがえない自身の変化を受け入れる。そうした一人一人の変化の自覚が、他者への寛容を生み、社会をよりよく変えてゆく希望の始まりとなる。自分がこの映画から受け取った大切なメッセージの一つだ。
何が本当で、何が正義がわからない時代においても、一人一人がこうした態度を積み重ねれば、世界はほんの少しずつましになってゆくんじゃないかと思う。

映画監督のスパイク・リーのこと、多国籍の11人の演奏者のこと、曲のこと、照明のこと、カメラワークのこと、語りたいことはもっとたくさん。受け取ったものが多過ぎて、まだ消化しきれない感じ。
とにかく、もう一度観に行こうと思う。

ー 2021年6月27日(日)



2021年6月9日水曜日

プライドや嫉妬が関わる問題

若い頃は嫌なことをやられたらやり返そうとしがちだったけれど、今は腹が立っても仕返しを我慢するようになった。
不毛さが想像できて、めんどくさくなった。そういう機会自体も減った。
けれど、やられたことに対しては、どこかで根に持ち続けている。思い出すと腹が立ったり悲しくなるので、思い出さないようにしてる。
傷ついた心は傷ついたままなのだ。思い返すと、大体は、プライドや嫉妬が関わる問題だった。

ただ、相手から素直に謝られると、わりとすぐにわだかまりが解消する。こちらも、すっと素直な気持ちになれる。そういう単純さが自分の中にあってよかったと思う。

意識的に、こちらから先に相手を傷つけようとすることはないつもりだけれど、自分の振る舞いが、結果的に、相手のプライドを傷つけたことは、多々あったのだろうと想像する。いや、今もあるのかもしれない。
悪気がないのもタチが悪かろうけれど、若い頃は、それは相手側の問題として捉えることが多かった。「弱さ」を武器にされて、こっちも相当に傷つけられているんだという被害者意識が今以上に強かった。その体験をバネにもした。

言葉は、たった一言で相手を地獄に突き落とすことができる恐ろしい武器にもなり得るのだと思う。それくらい人の心は弱い(自分も含めて)。ホント、人間は皆ボチボチである。
やられたらやり返そうとする自分の暴力性は今も消えちゃいないし、いつまで経っても、人との関わりの中でプライドや嫉妬が関わる問題から抜け出すことは難しいけれど、最近は、もうちょっと労わり合いながら生きていけたらなと思っている。

ー 2021年6月9日(水)

2021年6月6日日曜日

映画「アメージング・グレイス アレサ・フランクリン」を観て

注意)この文章は少しのネタバレを含みます。

'72年1月、ロスのバプティスト教会で行われたアレサ・フランクリンのゴスペル・ライブを収めたドキュメンタリー映画「アメージング・グレイス」を観た。
画面に入り込み、自分もライブに参加した一員になって、特別な体験をしたような気分。
既に数多くの人が、興奮を押さえ切れずに、この映画のライブの凄さを語っているだろうから、自分は少し違った側面を伝えたい。

映画は、ライブの高揚や開放感を伝えるだけでなく、そこに至るまでの、アレサのナーバスな一面も映し出す。自分には、その部分こそが、このドキュメンタリーに欠かせない肝だと感じられた。

ステージに登場して歌い始める前のアレサの表情はどこか陰鬱で、明らかに緊張と不安の色が見て取れた。普段のエンターテイメントのライブとは勝手が違う、自分のコアな部分を確かめる特別な時間だったのだろう。

映画を観て、アレサの歌の凄さは、不安定な気持ちをそらしたり紛らわせるのではなく、それらに向き合い葛藤し、乗り越えることで、すべてを歌のエネルギーに変換してゆく、その集中力の賜物なんだと思った。
披露されるどの曲も、歌い出しから心を鷲掴みにされた。葛藤を経ての第一声にこそ、彼女の覚悟が凝縮されているように感じた。

ライブの中の1曲で、キャロル・キングの「You've Got A Friend」が歌われるのだけれど、アレサは歌詞の「Friend」の箇所を「Jesus」に置き換えて歌っている。
ゴスペル・ライブだから当然だけれど、映画の中のすべての曲は神に捧げられた歌ばかりだ。「Jesus」が連呼される中で、特定の宗教を持たない自分は「Jesus」を何に置き換えようかと考えた。
アレサが「Friend」を「Jesus」に置き換えたように、「Jesus」を別の何かに置き換えていいのだと思う(ちなみに、自分が書いた「友達でなくても」という曲は、「You've Got A Friend」の「Friend」を、もっと広い意味の何かに置き換えたいと思って書いた曲です)。

自分は、宗教とは、答えや安らぎを与えるだけでなく、不安に向き合う勇気や問いかけを与えてくれる存在ではないかと考えている。そう、あってほしいとも思う。
映画の中のアレサの姿を見て、自分の考えはそんなに的外れじゃないように感じた。

ー 2021年6月6日(日)


2021年5月31日月曜日

分解と合成の日々 ー ワクチンについて考える

夜の10時に寝て、夜中1時半には目が覚め、それ以降、眠れなくなくなってしまった。
何かをやろうとする気力もなく、ぼんやりと後ろめたいような心持ちで夜明けを待ち続けた。

そんな中、朝日新聞の連載『コロナ下で読み解く 風の谷のナウシカ』に掲載された分子生物学者・福岡伸一氏へのインタビューを読み直してみた。 https://www.asahi.com/articles/ASP353K7GP2SUCVL00Y.html

福岡氏が提唱する『動的平衡』の生命論(生命は自らの身体の合成と分解を絶えず繰り返すことによって存在を保っているとする考え)は、今の自分にタイムリーな考えだと思う。

《人間は『ロゴス(論理や言葉)』と『ピュシス(コントロールできないありのままの自然)』という二つの面を持つ矛盾した存在。ピュシスとしての生命を、技術というロゴスで扱おうとすると、必ずピュシスの側はロゴスでは制御しきれない反応をしてくる。

人間の免疫力も新型コロナの感染力も、ピュシスの領域に属する。これら二つのピュシスの間で『動的平衡』が達成されてはじめて、人間とウイルスとの共生関係が成立する。それには時間がかかる。

ワクチンは、ピュシス間の動的平衡をより速く達成するための『ロゴスによる限定的なピュシスへの介入』という使い方ならばよいけれど、ワクチンによって新型コロナを完全に駆逐しようとすれば、社会全体に思わぬ副作用をもたらしかねない。

制御しきれないピュシスをロゴスの力で何とかなだめつつ、最終的にはピュシスの定めた『死』『滅び』という運命を受け入れていく。そのあたりが落としどころ。》

コロナ禍における大切な提言だと思う。

自分は、順番がまわってくればワクチン接種するつもりでいるけれど、最近、周りの人達と話をしていて、自分が思っていた以上にワクチンへの拒否感が強い人が多いと感じている。陰謀論に依るとおぼしき反ワクチン論の高まりには危惧を抱く一方で、ワクチンを拒否する直感は尊重すべきじゃないかとも思う。
ワクチン接種が進まないことで、コロナ収束により時間がかかったとしても、それはもう仕方がないこととして受け入れ、その間、皆で支え合いながら生きてゆくことを考えるべきなのかもしれない。

福岡氏の語るように、ワクチンによって新型コロナを完全に駆逐しようとすれば、また大きなしっぺ返しが起こりそうな気がする。そもそも、ロゴスでピュシスを完全にコントロールしようとする人間の傲慢さが、この状況をもたらしたのだと思う。
コロナを乗り越えるということは、コロナを駆逐するのではなく、コロナとの共生を成り立たせることなのだろう。
覚悟を決めて腰を据え、分解と合成の日々を堪能しようと思う。

夜が明けて、部屋に朝日が差し込み始めた。思考を経て、前向きな気持ちが戻ってきた。

ー 2021年5月31日(月)







2021年5月11日火曜日

他者の欠如 ー 高橋洋一氏の発言に思うこと

菅首相の側近である高橋洋一内閣官房参与の発言に批判が集まっている。
ここ数年、この人の言動を時々チェックし続けてきたので、今回の発言には驚きを感じない。

もし自分の身内の誰かがコロナで亡くなっていたら、「さざ波」や「笑笑」という表現は出てこなかっただろう。他者への想像力や共感力が決定的に欠如しているのだと思う。

氏のツイッター上でのこれまでの発言から、独善と傲慢、冷笑を感じ取ることは容易い。間違いを認めないし、そもそも間違いに気づけない人との印象。

ネットの世界では、高橋氏のような態度や発言に喝采を送る人が多数存在する。氏も、批判以上に多くの支持が集まることを受けて、発言をエスカレートさせたのではないかと想像する。
支持者はそういった態度に同化して、自らも独善的、冷笑的発言を繰り返すことで、インフルエンサーと同じような万能感を共有する。そういう共犯関係のようなものが成り立っていたのだと思う。

高橋氏が内閣官房参与として官邸に招かれた時にも驚きはなかった。菅首相にとって高橋氏は、自分の考えを都合よく補完してくれる身内に近い存在なのだろうと思う。まわりに身内を固めるのは、安倍政権から続く流れだ。

身内以外の他者や市井の暮らしに対する想像力、共感力の乏しさは、この1年数ヶ月のコロナに対する国の対応にも反映されていると思う。「他者の欠如」という病は、ネット上だけではなく政治をも蝕んでいる。
高橋氏の発言は、そういった流れの中で起きた象徴的な出来事としてとらえている。

ー 2021年5月11日(火)

2021年4月16日金曜日

「願望」にすがらない ー 僕らは間違え失敗する

大阪ローカルテレビのワイドショー番組などを観ていて、専門家や識者と呼ばれるコメンテーターが、コロナに対して楽観的な見解を述べる場面を度々目にしてきた。緊急事態宣言は必要ない、空気感染はしない、ピークアウトはもう過ぎた、GO TOキャンペーンは感染拡大にはつながらない等々。

すべての番組にあてはまることではないだろうけれど、どちらかというと危機を煽りがちな東京メディアとの報道姿勢の違いを感じることが多かった。
どちらの姿勢も問題を含んでいると思うけれど、ここへきての大阪での突出した感染拡大は、在阪メディアによる楽観論の流布も一因ではないかと疑ってしまう。やはり、楽観と悲観、どちらにも寄り掛かるべきじゃないと思う。

コロナ禍にしょっ中在阪テレビに出演してきた某大学教授2人に対しては、市中感染が広がり始める1年以上前から、ネットを通してその存在を知り、注目していた。
「合理的な対策を徹底すれば、満員に近い状況でもライブハウスの営業を再開することができる」との2人の主張は、ライブ活動の自粛を余儀なくされた当時の自分に希望を与えてくれた。この思いは、多くの音楽関係者に共通していると思う。

けれど、自分は次第に彼らの主張の一部や態度に疑問を抱くようになりはじめた。
2人に対して他の識者から間違いの指摘や批判が起こり始め、そちらの方に説得力を感じ始めたり、彼らの予測が外れたり、その主張に矛盾を感じるようになったことも理由だけれど、自身の承認欲求を満たすことを優先する意思が見て取れたり、矛盾や間違いを認めない言動や独善的で感情に走っ態度が目立ち始めたことも大きい。
さらに、発信する側と受け取る側が互いに「願望」に縛られて、次第にカルト的な関係性が生まれ始めているように見えたことで、気持ちがひいてしまった。

今も彼らは、多くの人達の「願望」に応えてくれる存在なのだと思う。けれど、その「願望」通りに事が進まないのは、今の大阪の状況が示している。
大阪府政も「願望」に応える関係性にしばられ、現実への対応が後手に回ってしまったんじゃないだろうか。

コロナは誰にとっても未知の体験であり、その主張や政策に間違いや失敗が起きるのは仕方がないと思う。この状況では、ある程度の間違いや失敗は許されるべきた。大切なのは、それらを認めて受け入れ、状況に対応して、共によりよい方策を探してゆくことだと思う。
「願望」に応えてくれる眩い光は、その場の安心や快感を与えてくれるだろうけれど、それは一時のものだと思う。
「願望」を横に置いて、闇に目を凝らし、その先に見える淡い光に希望を見出したい。

僕らは間違え失敗する。それを認めて、またあらたな一歩を踏み出せる人でありたい。
それこそが、コロナ禍において必要とされる態度だと思う。

ー 2021年4月15日(木)

2021年4月10日土曜日

「場」をつくる ー「まん延防止措置」適用決定を受けて

移動して、集まり、対話する自由が、もう1年以上も大幅に制限され続けている。
ツアーミュージシャンである自分の仕事は、これらの自由が保障されることを前提に成り立っていたので、まさか、こんな時代が来るとは思わなかった。

自分が暮らす京都も「まん延防止措置」の適用が決まった。飲食店への時短要請は、21時から再び20時に。
これではライブハウスや夜営業の飲食店は成り立たない。お世話になっているお店のマスターやスタッフの顔が思い浮かぶ。なんとか持ち堪えてほしい。

協力金は、その場しのぎにしかならない。その場所に人が戻らなければ、そこに人々の出会いと開放がなければ、意味がないのだ。文化をつくる上で欠かせないはずの社交の場が、今、かつてない危機にさらされている。

オンラインは便利な手段だし、配信ライブには新しい表現とコミュニケーションの可能性を感じるけれど、人々が実際に集う社交場の代替にはなり得ない。両者は共存し、補い合う関係であるべきだ。

こういった状況の中で、ある程度の自由が制限されるのは仕方がないと思いつつも、本来、保障されてしかるべき自由を、自分達は奪われた状態にあることは自覚しておきたい。この状態に慣れてしまうと、気づかないうちに大切な何かを失ってゆく気がする。

身動きが取りづらい状況だからこそ、「場」をつくることが自分の役割の一つなんだと、あらためて自覚させられている。
厳しい状況の中で、「場」を守るだけじゃなく、皆でアイデアを出し合って、今までとはまた違う「場」をつくってゆきたいと思う。それは、楽しくやりがいのある作業だと感じている。

5月23日(日)のナンバHatch公演は、そういったあらたな試みの場です。

ー 2021年4月10日(土)



●《 FM COCOLO -TOUCH THE HEART- SPECIAL LIVE
 リクオ presents HOBO CONNECTION FESTIVAL 》

“ローリングピアノマン”こと、シンガーソングライター リクオのデビュー30周年を記念した音 楽フェスティバルを開催!!リクオと親交のある関西出身のアーティストを中心に、多彩なゲ ストを迎え、コロナ禍だからこそできる出会いとローカル発信のイベントとして、有観客+オ ンライン配信の2WAY開催。1部、2部の二部構成。ハウスバンドをバックに、出演者のコラ ボを中心としたスペシャルライブ。こだわりの配信で関西から全国にローカルパワーを発信 します。
※配信詳細に関しては、近日発表します。

■会   場 : 大阪・なんばHatch tel 06-4397-0572

【日 時】 2021年5月23日(日) 開場 16:00 開演17:00(終演予定21:00)

【出 演】 (五十音順)
≪1部≫ シェキナベイベーズ・オールスターズバンド
メンバー:安藤八主博&山口しんじ(ザ・たこさん) 、コージロー&タツロー(THE HillAndon)、
城領明子、高木まひことシェキナベイベーズ、リクオ

≪2部≫ ウルフルケイスケ、奇妙礼太郎、木村 充揮、TAKUMA、中川敬(ソウル・フラワー・ユニオ ン)、リクオ
ハウスバンド:リクオ with HOBO HOUSE BAND (ベース:寺岡信芳/ギター:高木克/ドラム:小宮山純平/ペダルスティール:宮下広輔/ Chorus 真城めぐみ)

【M C】 加美幸伸(FM COCOLO DJ)

【料金】 6,000円(全席指定/税込) 配信料金=3,000円(税込)

【チケット発売日】 4月17日(土)
■モバイルサイトGREENS! https://sp.greens-corp.co.jp/ 
■チケットぴあ https://w.pia.jp/t/rikuo-o/ [WEB ] Pコード 195-700
■ローオンチケット http://l-tike.com/ Lコード 54871 
■イープラス https://eplus.jp/rikuo-o/

オフシャル先行発売
4/1(木) 12:00〜4/8(木) 23:59 https://eplus.jp/rikuo-o/
番組先行発売
4/9(金)FM COCOLO「THE MAGNIFICENT FRIDAY」番組内にて先行予約受付
【お問い合わせ】 GREENS 06-6882-1224<平日11:00〜19:00>
【主 催】 FM COCOLO/GREENS

2021年4月7日水曜日

変化を楽しむ


コロナの出現は人間活動が原因だとの指摘がある。

長崎大熱帯医学研究所の山本太郎教授(国際保健学)によれば「自然破壊や温暖化で野生動物が追い詰められた結果、野生動物と共存していたウイルスは行く場所を求めて人の社会に入り込み、密集した都市から世界の隅々へとあっという間に広がった。現代社会は新型コロナウイルスにとって格好な条件」なのだそう。

氏によれば、ほとんどのウイルスは人と共生して何もしないか、むしろ役に立っているとのこと。例えば、二酸化炭素の循環や雲の形成にウイルスがかかわっているという研究結果もあるのだそう。
コロナの世界的な感染拡大が、地球の生態系を破壊し続ける人類自身によってもたらされたものならば、この状況は一つの警告としてとらえるべきなのかもしれない。

ワクチンには期待するけれど、それが根本的な解決にはならないと考えた方がよさそうだ。状況を変えてゆくには、デフォルト解除して自分の意識も変えてゆくべきなんだろう。
人類に変化が起きなければ、今後さらに強力な感染症がひろまる可能性だってあるのかもしれない。個人的にも、何を変えて何を守るべきかを見定めてゆきたいと思う。

ドラスティックな変化を強いられることへの反発やしんどさも感じるけれど、1年を超えるコロナ禍の経験によって、変化を受け入れて楽しむ自信が少し持てた気がする。
厳しい状況が続いているけれど、嫌なことばかりではなかった。
この経験をこれからに生かしたい。

ー2021年4月7日(水)

2021年3月19日金曜日

コロナ、原発後の世界 ー 伊方原発の差止め取り消しに思う

東日本大震災、福島第一原発事故から10年。

今年は、制作やライブ以外に、この10年間の自分の活動や思考を振り返り、まとめる作業にも取り組みたいと考えている。このコロナ禍に、新しい歩みを始めるためにも、立ち止まり振り返る時間を大切にしたい。

中川敬君と2人での震災後の10年を振り返る配信トークライブの企画や、5月1日に予定している被災地である南三陸志津川からの配信ライブ、そして「アリガトウ サヨウナラ 原子力発電所」の弾き語りバージョンのYouTube公開は、そういった流れの一環だ。https://youtu.be/PU5D9SBz6NI 

この10年をまとめるような書籍も出版できたらと考えている。

今月に入ってからは、データ保存していた原発に関する記事や資料、自分のブログでの原発に関する発言を読み直す作業を続けている。

そんなときに、運転差し止めを命じられていた伊方原発3号機に対して、広島高裁仮処分異議審が、一転、運転を認める決定を下したというニュースが飛び込んできた。そのニュースは、自分にいくつかの記憶を蘇らせた。

今から9年近く前、四国ツアーの途中に、愛媛県八幡浜の知人の案内で、稼働停止中の伊方原発を訪れ、その建屋内部を見学してまわったことがあった。

愛媛松山から車で約1時間半、愛媛の西先端の佐田岬半島、周りは海と自然ばかりの風光明媚な僻地に、伊方原発はひっそり存在していた。

多分、地元の人以外で伊方原発の所在地を把握している人は、ごく少数だろう。






日本の54基の原発はどこも、産業が乏しく経済力の低い列島の周辺部に存在している。その電力は、その地域のためではなく、大量のエネルギーが消費される都市部のためにこそ必要とされる。

原発の問題に関しては、安全性や放射能の問題だけでなく、「中央による地方の支配と搾取」という構図にも目を向けるべきだと思う。

この構図の中で、都市部で暮らす自分達は搾取する側であり続けた。自分達の文化と暮らしのために、経済を盾に、地方の文化や風土を蔑ろにして、コミュニティーを分断し、放射能の危険のリスクも押し付けてきたのだ。

事故や隠蔽の責任の所在や罪は明らかにするべきだし、責任の濃淡はあるにしても、原発の問題は、都市の暮らしを享受し続けた自分自身の問題としても捉えるべきだと思う。

「そんなことを言いながら、この10年間、お前は原発にどれほど向き合ってきたというのか」もう1人の自分がそう問いかける。自分も悲しいくらいに忘れっぽい人間の1人だ。

原発の問題は、このコロナ禍に炙り出されたさまざまな本質的な問題と地続きなんだと思う。

中央集権、都市集中型の生活様式、市場原理に比重を置き過ぎた価値観が限界が近づいていることを、コロナがあらためて伝えてくれた気がする。本当は、震災と原発事故が起きた10年前が、価値の転換をはかる大きな機会だったと思う。

だから、今のこの時期を大切にしたい。今がチャンスでもあると思う。

この1年を経て、日々の中で「足るを知る暮らし」や「シェアする関係」を意識する機会が以前よりも増した気がする。それは、コロナ禍でよかったことの一つだ。

できないのなら、その状況の中でやれることを見つけてきたし、敢えて少し無理をして人との共同作業を心掛け、足下のごく小さな経済を回すことも意識してきた。結果、それなりの成果も得られたと思う。

我慢や辛いばかりの1年では決してなかった。収入は減っても、やり甲斐や楽しみは減らなかった。新しいやり甲斐や楽しみが見つかった。

不安は消えないけれど、希望のほうが大きい。

この光を大切にしたい。コロナ、原発後の世界は、以前とは違っている方がいいと思う。

このブログを書いている最中に、今度は、水戸地裁が日本原子力発電に対し、東海第2原発の運転差し止めを命じる判決とのニュースが入ってきた。時代の過渡期を象徴するような1日なのかもしれない。

これからのために、今日という日を記憶に留めておきたいと思う。

ー 2021年3月19日(金)

2021年2月12日金曜日

自分が森喜朗氏に対して根に持っていたこと

「子どもを一人もつくらない女性を税金で面倒みるのはおかしい」

自分達夫婦には子供がいないこともあり、森喜朗氏のこの発言に対しては、正直ずっと根に持っていた。
森氏はその後も、偏見に基づく差別発言を繰り返してきたので、今回の発言(「女性がたくさん入っている理事会の会議は時間がかかる」等)もその延長線上としてとらえている。

東京オリンピック開催に向けて私利私欲を捨てて尽力されてきた人なのかもしれないけれど、それとこれとは話が別だ。そもそもジェンダーの平等を掲げるオリンピック精神にはそぐわない意識を持った人なんだと思う。

森氏への批判が集中することに対して、逆に、「集団リンチ」「魔女狩りだ」との批判も見受けられるけれど、これまで、森氏に象徴されるような言動によって、抑圧され、差別され、傷ついてきた多くの人達の存在も想像してもらいたい。
ただ、これは、森氏1人を批判すれば、それですむ問題ではない。

森氏の辞任を受けての後任人事のやり方と人選を見ていたら、こんな機会でもアップデートができない、意識が変えられない組織なのかと思った(この投稿を書き終えた直後に、「組織委が川淵氏の会長就任起用を見送る方針を固めた」との報道を知りました)。
森氏発言へのさまざまな反響を受けて、この問題は、森氏個人の問題でも、東京オリンピック・パラリンピック組織委員会だけの問題でもなく、社会全体の問題としてとらえるべきだとの意識をより強くした。

先週、森氏の発言に対する自分の考えをFacebookに投稿した際、コメント蘭に森氏への厳しいコメントが並んだ。
その中には、森氏の人格を揶揄するようなコメントも見受けられ、自分の発言がこういうコメントを引き寄せたのかと思うと複雑な気持ちになったし、個人の吊し上げに乗っかってしまったような居心地の悪さを感じたけれど、だからといって、森氏の発言を黙認することもできなかった。

それは、冒頭の森氏の発言に対するわだかまりが、ずっと消えていなかったことも関係していると思う。今回の発言を契機に、あのときの発言に対する憤りがよみがってきたのだ。
そういった発言は、森氏以外の政治家からもその後何度も耳にしてきた。「女性は産む機会」「子供を産まない方が幸せだと勝手なことを考える人がいる」等々。

政治家だけでなく、身近な知人からそういった内容の言葉を夫婦で受けたこともある。相手は全く悪気がなくても、言われた本人はその言葉を忘れない。森氏の今回の発言も、問題化されなければ、本人は発言したこと自体忘れてしまっていただろう。
やはりジェンダーフリーの問題は、個人や組織だけでなく、社会全体が受け止めて考えるべきなんだと思う。

ー 2021年2月12日(金)

2021年1月16日土曜日

映画「あの夜、マイアミで」を観て

 昨日深夜に観たAmazon Original映画「One Night in Miami」(邦題「あの夜、マイアミで」)の余韻が残ってる。

'64年当時、アメリカ黒人社会のアイコン的存在だった4人、活動家のマルコムX、モハメド・アリと改名する前のカシアス・クレイ、アメリカンフットボール選手で俳優のジム・ブラウン、歌手のサム・クックが一堂に会したマイアミでの一夜を、実話をもとに描いた会話劇。

公民権運動の盛り上がりを背景に、それぞれの立場から考えの違いを激しくぶつけあい、互いになじりあいながらも対話を続け、それぞれの役割を自覚してゆくというストーリー。場面展開が乏しくとも飽きたり間延びすることがなく、終始画面に魅きつけられた。


ジム・ブラウンから、「肌色の明るい黒人が、同じ黒人から厳しい目で見られることで、自分の立場を証明するために、より過激に走る傾向にある」ことを指摘され、マルコムが戸惑いを隠せずにいる場面が特に印象に残った。

現在に通じる分断の複雑さだけでなく、一人一人の内面にある複雑さや矛盾を丁寧に描いていて、この作品の誠実さを象徴するシーンだと思った。


映画を見終えたあと、ボブ・ディランの”Blowin' in the Wind”に触発されてサム・クックが作詞作曲したと言われる“A Change Is Gonna Come”を聴き直した。


It’s been a long, a long time coming

But I know a change gonna come, oh yes it will

長い、長い時間が掛かかる

でも転機は訪れる、きっとそうなる

https://youtu.be/wEBlaMOmKV4


マルコムは早急な革命を望み、サムクックは時間をかけた変化を求めたのだろう。

自分は、どちらかと言えば後者の立場だけれど、画面から伝わるマルコムやり切れなさに共感を覚えた。


分断が進み、対話の成り立ちにくいこの時代にこそ多くに見てもらいたい作品。

ー2021年1月16日(土)

2021年1月15日金曜日

「言論の自由」について ー トランプ大統領のアカウント永久停止から考える

 先週6日に発生した米連邦議会議事堂への暴徒乱入事件を契機に、暴動を煽動したとしてトランプ大統領のツイッターのアカウントが永久停止された。それを受けて、日本でも、トランプ支持者を中心に「言論弾圧」を訴える投稿がSNSで拡散され、ツイッターのトレンドワードになるほどの盛り上がりを見せた。

この出来事は、「言論の自由」について再考させる機会を自分に与えた。

SNSのアカウント停止の背景には、トランプ派による暴力の危機が継続していて、20日に就任式が行われる首都ワシントンだけでなく、全国各州でトランプ派による暴動が懸念される切迫した状況がある。

トランプ氏がSNSでメッセージを発し続けることで、さらなる暴力が誘発される可能性は高いと思う。既に実際、彼の煽動によって、議事堂襲撃事件は起きてしまったのだ。

こうした切迫した暴力を避けるための緊急措置としてのアカウント停止に対しては、自分は理解を示す立場でありつつも、永久停止ではなく、一時停止という選択肢もはなかったのかとの思いも残る。

「言論の自由」の観点からだけでなく、この措置が、一部の狂信的なトランプ支持者をよりカルト化させ、火に油を注ぐ結果を招くことも懸念している。

そもそもトランプ氏は、今回の扇動だけでなく、これまでも、ツイッター社との利用規約に反するツイートを繰り返してきたのではないか。それを許容してきたツイッター社の対応と、今回のアカウント停止は整合性がとれていないように思う。

むしろ、もっと早くにデマ、暴力、偏見、差別、分断を煽る規約違反のツイートを削除するなり、アカウントを一時停止するべきだったのではないだろうか。ツイッターが、トランプをさらにモンスター化してしまった側面もあるように思う。

BBSニュースによれば、議会襲撃を受けてツイッター社員約350人が、ジャック・ドーシーCEOに、大統領のアカウントを禁止するよう連名の手紙で呼びかけていたそうだ。社員たちはその中で「(ツイッターは)トランプのメガホンになり、1月6日の流血沙汰に、我々が燃料を提供する結果になってしまった」と書いていたという。

この記事によるならば、トランプ氏のアカウント永久停止は、ツイッター社員の良心が後押しした判断だともとらえられる。

トランプ支持者を中心に盛り上がる「言論弾圧」という主張への反論として、一企業との契約の中の利用規約に違反してアカウントが停止されただけなのだから、それは「言論弾圧」に当たらないという意見もネット上で散見して、一定の説得力を感じた。

ただ、日本ツイッター社のアカウント停止の傾向を見ていても、この企業にどこまで信頼を置いていいのだろうかとの疑念が自分の中には残っている。

こういった大きなプラットホームが今後、時の権力や影響力の強い勢力と結びつくことで、言論統制、思想統制の意向が組み込まれる可能性だって考えられると思う。利用規約に違反したから仕方がない、では片付けられない状況も想定すべきではないだろうか。

今回のアカウント永久停止は、本来なら行うべきではない、止むに止まれずの選択、緊急の最終手段であるべきだと思う。結果論かもしれないけれど、ツイッター社は、ここまでの事態に至る前の段階で、行うべき対処があったのではないだろうか。

ドイツのメルケル首相が今回のアカウント永久停止に批判的であるとのニュースに対しては、「メルケルがトランプのアカウント停止を批判したのは、私企業が判断を下す危険性について批判したのであって、それは国家が法的に規制するべきという主張が背景にある。」との清義明氏のツイートに説得力を感じた。

ナチスに関する言論が法律によって規制されるドイツと、国家が言論の自由に介入せず、それに対する批判も規制も私権に委ねられるアメリカとの違いが、メルケル首相の発言の背景にあるようだ。

「言論弾圧」を声高に主張する人達に対しては、何を言っても許されるのが「言論の自由」なのかと問いかけたい。

ヘイトスピーチを繰り返すレイシストが、「〇〇人を皆殺しにしろ」「〇〇人はゴキブリ以下」「〇〇人は強制送還しろ」などと叫ぶことも「言論の自由」だと訴える場面を、この10年ほどの間に何度も目にして、憤りとやりきれなさを感じてきた。

「言論の自由」は大切だけれど、無制限ではないと思う。その境界線が必ずしもはっきりしなくとも、デマを撒き散らして、暴力、差別、犯罪を過剰に煽るようなツイートは、やはり制限されるべきだと思う。

そもそも憲法が保障する言論や表現の自由は、権力者に対する主権者の権利を保障する言葉だったはず。

「言論の自由」という言葉の成り立ちや意味をもう一度確認し、問い直すべきだと思う。その問いかけが放棄された時に、自由は容易く失われてゆくのだろう。

誰かが用意した劇的な物語を盲信する時点で、実は、「言論の自由」以前に、自由な思考は放棄され失われているのだと思う。

ー2021年1月15日(金)

2021年1月5日火曜日

「踊り場」に立つ意識

 イタリア在住の作家・塩野七生氏が、昨夜のNHK番組「ニュースウォッチ9」にリモート出演して、コロナ禍に思うことを語っていて、印象に残る言葉が多かったので、忘れてないよう書き留めておいた。

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《100%信仰を捨てる》

民意にそってロックダウンを小刻みに繰り返すことも、強力な対策で市民を押さえつけることも、どちらに流されることもよくない。その中間をゆくべき。

100%安全でなければいけない、100%民意に添うべきだといった100%信仰を捨てる。

《「踊り場」に立つ意識》

いままで我々は上に行くのに、エスカレーターやエレベーターで上がるのは当然と思っていた。そうではなく、階段を上っていて、今は「踊り場」にいると考える。「踊り場」は、息を整える場所。そうして、また階段を上り始める。

コロナ禍で我々は歴史の「踊り場」に立っている、そう考えればいいのでは。

《16世紀のベネチアに学ぶ》

16世紀のベネチアも「踊り場」に立たされていた。

東にオスマルトルコ帝国、北に神聖ローマ帝国など領土拡張を狙う大国に囲まれ、キリスト教陣営の一員としてイスラム教のトルコとの戦いの最前線におかれることに。

一方で、ベネチアはトルコと戦火を交えながらも交易は維持。価値観の異なる相手にも国を開き続けることで、高い経済力を誇り、その後200年以上にわたって独立を保ち続けた。

ベネチア人は、海上に立つ船の姿のように、バランスをとるのに慣れている。安全保障というのは、1国だけに頼るのは非常に危険。

芸術家もビジネスマンもベネチアを好んだ。ベネチアは亡命者も受け入れた。

人々がベネチアに求めたものは、人間らしく生きること。

強圧的な政策は一時的には成功するかもしれないが、長続きしない。それは人間性に反しているから。

《自由の大切さ》

日本人、日本に捨ててほしいと切に願うのは減点主義。

自由とは失敗をしてもいいということ。失敗が許されないのは、もう自由がないということ。どこの国でも、政体が違っても、自由があれば「踊り場」から上へ向かうことができる。

失敗を恐れない生き方で、階段を上ることができる。

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転がり落ちるわけでも、八方塞がりというわけでもなく、人類がこれまで繰り返しパンデミックを乗り越えてきたように、今回もきっと自分達に見合ったペースで乗り越えてゆける。自分たちの足で「踊り場」からもう一度上ってゆける。

そのときに大事なのが自由。自由な思考と行動が可能だからこそ、危機を乗り越えるための知恵があらたに生まれる。

歴史を見るとそういう国こそが長く続いてきた。

芯の強さを感じさせる塩野氏の言葉に、心が奮い立たされる気がした。

不安に流されず、楽観にも悲観にも寄り掛からず、「踊り場」から未来を見据え、また一段一段、階段を上ってゆこうと思う。


ー 2021年1月5日(火)

2021年1月2日土曜日

2021年 新年のご挨拶


明けましておめでとうございます。
今年は京都で静かなお正月を過ごしてます。

コロナ禍の昨年は、「落としどころ」の難しい年でした。今年もそういう状況が続きそうです。
精神的な意味合いも含めて、コロナを乗り越えるためには、「不確定要素」を受け入れる態度が重要なポイントの1つになると思ってます。悲観と楽観、どちらに流されることもなく、遊び心を忘れず、心身をほぐしながら、この状況を泳いでゆきたいです。

昨年は、いろんな計画が流れたり変更を余儀なくされてしまったけれど、そういう状況だからこそ気付かされたこと、実現できたこともありました。記憶に残る重要な1年だったと思います。
今年は、コロナ禍での積み重ねを形にしてゆくつもりです。今月末からはピアノ弾き語りアルバムのレコーディングに入ります。完全弾き語りアルバムの制作は11年ぶりとなります。楽しみにしてもらえたら嬉しいです。

ガイダンスに則った上でのライブ活動、ツアーも続けてゆくつもりです。5月には、自分にとっては大きなライブイベントも予定しています。もちろん配信も続けます。
今年も、さまざまな繋がりを頼りに、皆さんと一緒に楽しめる場所、出会いの場をつくってゆきたい、地べたと繋がるライブ文化を大切にしてゆきたいと思います。

「グローバルに考えてローカルに行動する。」
コロナ禍を通じて、この姿勢の重要性を再認識しました。
足元の充実を心がけながら、身近から離れた誰かへの想像力や思いやりを忘れずにいたいと思います。

待っていてくれる人がいる、喜んでくれる人がいることが、自分の最大のモチベーションです。
皆さんの応援、心遣いに感謝しています。今年もよろしくお願いします。
良い年にしましょう。

ー2021年1月2日(土)