2021年8月12日木曜日

時代の変化と自身の変化 ー 張本勲氏の発言から考える

先日のツアー先での出来事。
ある宿泊先の書棚に大量の漫画が並べられていたので、小学生の頃から思い入れの深かった作品を手に取り、深夜に読み耽けった。

数十年ぶりに読み返してみて、やはり魅力的な作品だと確認できた一方で、ある戸惑いが残った。今の時代にはNGの差別用語、差別表現が想定以上に散見されたからだ。
用語使用の問題だけでなく、明らかな女性蔑視や人権意識の低さからくる表現も見受けられ、こういう表現を当時の自分が問題意識なく受け入れていたことにある種の感慨を抱いた。時代の変化と自身の意識の変化を大いに感じさせられる出来事だった。

ツアーから戻ってきたら、女子フェザー級で金メダル獲得した入江聖奈さん対する野球評論家の張本勲氏の発言が問題になっていた。

「女性でも殴り合い好きな人がいるんだね。どうするのかな、嫁入り前のお嬢ちゃんが顔を殴り合って、こんな競技好きな人がいるんだ。それにしても金だから、あっぱれあげてください」

ジェンダーフリーが浸透した社会の中では相当に時代錯誤だし、ジェンダーの平等を掲げるオリンピック精神にもそぐわない発言だと思う。
10年前ならスルーされた発言かもしれないけれど、10年前であってもこの発言に傷つき違和感を抱く人は多数存在しただろう。

日本においても人権意識の高まりが加速していることは、歓迎すべき変化だと思う。その変化に自分も適応していきたい。そして、人権意識が変化する以前から、差別や抑圧そのものは存在し続け、見過ごされてきた事実も忘れちゃいけないと思う。

諦観的な態度で、差別や抑圧が消えることはないと発言する人は多い。そうかもしれないけれど、それらを可視化し、多くの人が問題を共有することで、状況は少しずつよくなるんじゃないかと思う。

ー 2021年8月12日(木)

2021年8月11日水曜日

久し振りに公で「陰謀論」という言葉を解禁して、思うことをつらつらと

AERAの連載「鴻上尚史のほがらか人生相談」は毎回読み応えがあるのだけれど、今回の、陰謀論を信じる母に悩む28歳女性の相談への鴻上氏の対応は、特に考えさせられるというか、身につまされる内容だった。

陰謀論に関しては、自分もSNSで何度も取り上げてきたし、その広がりに対する危惧を昨年7月17日のブログにもまとめている。  https://rikuonet.blogspot.com/2020/07/blog-post.html 今回読み返してみて、当時から陰謀論に対する自分の基本的な考えは今と変わっていないと思った。

このコロナ禍、自分の周囲にも陰謀論にハマる人が出始め、何人もの知人から陰謀論に関する相談も受けるようになった。もうこれは特別な傾向ではなく時代の空気なのだと実感している。誰もがコロナに感染する可能性があるように、誰もが陰謀論にハマる可能性を有しているのだ。

陰謀論やインフォデミックのひろがりの先に待っているのが全体主義であることは、歴史が証明していると思う。きっと、先の戦争中は、国民の多くが大本営発表というデマを率先して信じ、国を挙げての陰謀論に熱狂したのだろう。

カルト宗教にハマった友人の洗脳を解いた自らの体験を交えてながら相談に応じる鴻上氏の文面からは、言葉選びに慎重な跡が窺える。そもそも、こういった相談に対する単純な答など存在しないはずで、その慎重ぶりこそが氏の誠実さのあらわれなのだと思う。

実は自分も浪人時代に、高校時代からの数少ない友人をカルト宗教に奪われた体験がある。それは苦さの残る記憶だ。
カルト宗教にハマった友人から執拗に勧誘を受けるようになり、彼に連れられて団体の施設を訪れた結果、自分は施設の一室に軟禁された。
狭い部屋に閉じ込められて信者に周りを囲まれ、入会をすすめる説得が続いた後、今度は長時間延々とビデオを観せられ続けた。それは、人類滅亡の恐怖を煽るおどろおどろしい内容だった。
信者から今日は帰らないようにと言われ、さすがに危険を感じて、なんとか部屋を抜け出して深夜に帰宅したのだけれど、今思えば、あれは洗脳作業の一環だったのだろう。

その後も友人は何度か自宅を尋ねてきたけれど、自分はまた施設に連れて行かれる怖さもあって、彼と面会することを拒絶した。門前払いされて、寂しげに帰ってゆく友人の背中を、自宅の窓のカーテンの隙間から見送り続けていたのを覚えている。
鴻上氏とは違って、自分は友人を取り戻すどころか、突き放してしまった。

鴻上氏が語るように、カルト宗教にハマる根本の原因は淋しさや不安で、それは陰謀論にハマる場合も同じなのだろう。
そして、さらにのめり込む理由が、「使命感」と「充実感」という指摘もその通りなんだろうと思う。

《自分だけが知っている「世界の真実」を他人に語る時、「使命感」と「充実感」を感じ、ずっと苦しめられていた淋しさや不安、空しさは消えていきます。
 ですから、冷静な論理的説得は意味がないのです。》 

この一文には心が痛んだ。
自分は、コロナ禍に陰謀論にハマった知人に対して、ある席で論理的説得を試みたことがあり、後になってその言動をずっと後悔し続けていたのだ。論理的と言いつつも、その時の自分の心持ちは、かなり感情的だったことを否定できない。話をせずにいられなかった知人の思いを受け止めるキャパが、その時の自分にはなかったのだ。
後日、別の知人がその知人と会食したときに「もうリクオとは話ができない」といった内容の話をしていたと聞いて、より後悔が深まった。

鴻上氏が指摘するように、自分の世界観を熱心に相手に説こうとするのは、心のどこかに「一抹の不安」があるからなのだろう。あのとき、知人の言葉をもう少し柔らかく受け止めることができたらと今になって思うけれど、自分がそこまでの人格者でないことも確かだ。
それでも今は、「今度その知人と会う機会があり、またそういった話が始まったときは、説得を試みるのではなく、もっと話を聞いてみよう」と思っている。

今年に入ってからは、公の場で「陰謀論」という言葉を多用することを控えるようになった。
「陰謀論」にハマった知人たちが、その言葉をレッテル貼りと感じ、そう呼ばれることを嫌い、そう呼ばれることで余計に心を頑なにしていると実感するようになったからだ。
それでもあえて、今回は久しぶりに公で「陰謀論」という言葉を使うことにしたのは、やはり今の時代に避けて通れないキーワードだと感じるからだ。ただ、今後も多用は避けようとは思うし、使用するときはその副作用を自覚しておこうと思う。

「陰謀論」という言葉で断罪するのではなく、そこに含まれる「物語の単純化」「大きな物語への依存」「排外思想」「分断志向」「独善性」「偏見」「全体主義的傾向」といった問題の本質や、陰謀論を生み出す「不安」や「寄る辺なさ」といった心性や社会状況に目を向け、一刀両断することなく丁寧に言葉を綴るよう心がけたいと思う。
つまり「陰謀論」とは他人事ではなく、自身と地続きの問題なのだ。
自らの胸に手を当てて考えることを忘れずにいたい。

ー 2021年8月11日(水)