2013年11月2日土曜日

父西川長夫の死に寄せて

10月28日午後5時22分、京都の自宅にて静かに息をひきとり、79年の生涯を終えました。葬儀は、本人の遺志により、10月30日に密葬にてとりおこなわせてもらいました。
父は昨年の11月6日に胆管癌との診断を受けて、市内の病院に緊急入院しました。その後、幸いにも病状が落ち着き、今年の1月に退院し、自宅療養を続けてきました。
学者であった父は、自宅療養期間中も新しい著作への意欲を失うことなく、その準備を進め、多くの方々に支えられながら、最後迄研究者としてあり続けることができました。
父の研究はフランス文学から始まり、戦後日本文学、国民国家論と多岐に渡りますが、近年は、自身の朝鮮からの引き揚げ体験を基に搾取モデルとしての「植民地」をキーワードにして、文化、社会を批評してきました。
僕自身は、ミュージシャンという父とは畑の違う道を選び、意識的にも無意識的にも親とは違った価値観、生き方を模索してきた気がしますが、特に3.11以 降は、病床の父との会話や、その著作にふれることで、父の姿勢、考えに、以前よりも理解を寄せるようになりました。
3.11以降、僕はソウルフラワーユニオンの中川敬君らと伴に被災地各地の避難所や仮設住宅をボランティアで演奏して回りましたが、父と母はそのときの様 子を綴った僕のブログを読んでいて、震災から約1年後に2人で被災地を訪れ、僕が回った同じ場所を見て回りました。そのときのことが、今年の5月に出版さ れた父の最後の著書「植民地主義の時代を生きて」の中に書かれています。
著書の13章「二つの廃墟について」、14章「東日本大震災が明らかにしたこと」の中で父は、戦後日本の原発体制を新植民地主義の典型として言及しています。その中のほんの一部分を抜粋させてもらいます。

「日本の原発地図を一瞥すれば明らかなように、五十四基の原発が置かれているのは、列島の周辺部であり、その多くは巨大地震や大津波が予想されている地域 である。どうしてそういうことが起こるのか。現代のエネルギーの中心をなす原発の問題は、新植民地主義の典型例である。新しい植民地主義の最も単純明快な 定義は私の考えでは、「中核による周辺の支配と搾取」であるが、これは「中央による地方の支配と搾取」といいかえてもよいだろう。中核と周辺はアメリカと 日本のような場合もあれば東京と福島のような場合(国内植民地主義)もある。この2種の植民地の関係は複合的であり、また中核による支配と搾取を周辺の側 が求めるという倒錯した形をとることもありうるだろう。」

 「二つの廃墟。戦後はようやく一つのサイクルを終えたと思う。破局を迎えた「長い戦後」の全課程が厳しく再検討に付されなければならない。保守と革新、 あるいは右翼と左翼を問わず、長い戦後を支配したイデオロギーは「復興」であった。「復興イデオロギー」の内実は、経済成長(開発と消費)とナショナリズ ム(愛国心と家族愛)である。それは結局、資本と国家の論理に従うことを意味するだろう。」

「私の結論は一口で言ってしまえば、グローバル化は新しい形態をまとった第二の植民地主義(植民地なき植民地主義)である、というものです。~だが、 3.11の衝撃によって、私はより重要な本質的な問題を見落としていたいことに気付かされました、それはグローバル化が賭していたものは、石炭や石油に代 わる原子力エネルギー、すなわち原爆/原発体制の主導権であったということです。冷戦期にはじまったこの主導権争いは、社会主義圏の崩壊によってアメリカ の勝利に終わる。グローバル化がアメリカ化となるのはそのときからです。アメリカ化とはアメリカの資本と一体化したアメリカの世界政策(アメリカ主導によ る世界の原爆/原発体制化)の一環としてその枠内ですべてが進行するということです。つまりアメリカの支配と搾取の下にあるということです。韓国や台湾の 原発も同様で、決して独立したものではありません。」
ー『植民地主義の時代を生きて』西川長夫(著) 平凡社 (2013/5/27)より

最近の国内情勢、社会の空気を察すると、父の言うように「戦後はようやく一つのサイクルを終えた」とは必ずしも思えないし(終えるべきだと思っています が)、父のすべての考えに同意するわけでもありませんが、父のこの著書にふれて、さまざまな箇所で、積み重ねてきた自分の実感が言語化され、腑に落ちてゆ くような感覚を持ちました。
父は70代に入って、体力の衰えを自覚しながらも、中国、韓国、台湾といったアジア諸国へ積極的に出かけ、多くのシンポジウムで講演し、現地の人達との交 流を深めてきました。それは、日本の植民地で生まれ育ち、軍国少年であったという自分のルーツに向き合い、問い続けるための行動の一つだったのかもしれま せん。
今回、父の死を受けて、彼の考えのほんの一端を紹介することが、自分なりの父への供養の一つだと考えました。自分にとって特にこの半年は、父とのあらたな 出会いの期間であった気がします。父は他界しましたが、父との出会いをこれからも続けてゆくつもりです。父のことを考えることで、父とは違う自分なりの考 え、生き方も確認してゆきたいと思います。
自分の基本は、曲を書いて、ライブで弾けて、打ち上げでバカをやることだと思っているのですが、3.11以降は、時には社会にコミットする発言も必要なの ではとの思いが強くなりました。でも、そういう発言をすると、言葉がどんどんかた苦しくなって、嫌な空気を呼び寄せてしまい、気持ちまで硬直してゆくよう な気がして、正直、今もそのバランスの取り方に悩み続けています。以前よりも父の言葉や姿勢に共感を寄せるようになったのは、こういう自分自身の変化も関 係していると思います。
父の言葉を、自分なりにもっとわかりやすく翻訳できないものか、歌やライブや活動スタイルの中でも、頭でっかちになり過ぎず、五感をバランスよく使いなが ら、ユーモアを忘れずに、情をもって、柔らかく伝えられたらなあと思っています。でも、このブログでは、これからも時々、かたい話もすると思うので、無理 なくお付き合い下さい。
多くの研究者、仲間の皆さんに支えられ、家族に見守られ、父は幸せな最期を迎えることができたのではないかと思います。父に関わり続けてくれた皆さんのご尽力、ご協力に心から感謝します。ありがとうございました。
 ー2013年11月2日(土)