2016年8月19日金曜日

テレビが好きだ

テレビを観るのが好きだ。
と言うのが、憚れるような空気を感じたりするけれど、やっぱり好きだ。時間が許せば、もっとテレビを観ていたい。

特にお笑い番組が好きだ。「アメトーク」(テレビ朝日)と「ゴットタン」(テレビ東京)は毎週録画している(全部はみれないけれど)。「アメトーク」企画の中では特に「中学のときイケてない芸人」の回が印象深い。自分のイケてない過去をネタにすることでトラウマをこえてゆく芸人の姿に、笑いを超えた感動を覚えた。
「ゴットタン」の名物企画「芸人マジ歌選手権」「マジ歌ライブ」も毎回楽しみに観ている。芸人達が披露するオリジナルのお笑いソングとパフォーマンスのクオリティーの高さに、いつも驚かされる。番組を観ながら、いつのまにか同業者視点になって、自分はここまでお客さんを楽しませられるだろうかと自問している。

「ワールドプロレス」(テレビ朝日)は幼少の頃におばあちゃんと一緒に観始めてから、今もずっと見続けている。長い長い大河ドラマを観ているよう。今年の4月両国で行われたオカダカズチカ VS 内藤哲也のIWGPタイトル戦での内藤の突き抜けたパフォーマンスには唸った。殻を突き破った内藤の姿を見ていると、自分もまだまだチャレンジするぞという気にさせられる。
ジャンルは違えど、同じパフォーマーとして、お笑い芸人とプロレスラーから学ぶことは多い。

NHKのドキュメンタリーも時々観る。Eテレ「新・映像の世紀」は毎回見応えがあり、考えさせられる。
ニュースやワイドショーも観る。日曜の朝、TBSの「サンデージャポン」を観た後に、ネットで「日刊サイゾー」をチェックしたりして、俗人である自分を自覚する。

テレビドラマも時々観る。少し前まではNHKドラマ「トットてれび」を毎回楽しみに観ていた。役者、舞台セット、音楽、脚本がいい出会いを果たしていて、現場のワクワク感が画面を通して伝わってきた。今はNHK朝の連続テレビ小説「とと姉ちゃん」の録画が2週分程録りためられていて、早くまとめてみなきゃと思ってる。
最近、暮しの手帖編集部による「戦争中の暮しの記録」という単行本をAmazonで注文した。ドラマを通して、当時の人々の暮らしを通して戦争の姿を知ることの大切さを感じたのだ。

音楽番組も時々観る。アーティスト同士のセッションが売りのフジテレビ「FNS歌謡祭」はテレビだからこその予算と愛情のかけられた優れたエンターテインメント番組だと思う。番組を観ていると自分も出演したくなる。

それ程興味のないつもりでいたオリンピックも、テレビで試合を観戦すると、心動かされて涙腺がゆるんだりしている。卓球の愛ちゃんの涙にはぐっときたなあ。

今、自分が一番ハマってる番組は、フリースタイル(即興)のラップバトルを見せる「フリースタイルダンジョン」(テレビ朝日)だ。最も印象に残っているのは、ラスボスキャラの般若とチャレンジャー焚巻がバトルした回。暴力的なdisり合いからリスペクトとドラマが生まれる様はプロレスや格闘技にも通じる。
この番組を毎週録画して観るようになってから、YouTubeでもフリースタイル・バトルや日本のヒップホップをよくチェックするようになった。

同業者にはテレビ好きが少ない。若い人もめっきりテレビを観なくなったようだ。自分の回りにも部屋にテレビがないことを公言する人が増えた。とにかく、さまざまをスマートフォンとパソコンですませてしまえる時代だ。

「最近のテレビはくだらない」と言う声をよく聞くけれど、テレビ好きとしては必ずしもそうではないと言いたくなる。
「テレビは真実を伝えない」と言う人もいる。そう言う人の多くが「ネットで真実を知った」と言う。最近は、「テレビの嘘」よりも「ネットの嘘」に踊らされる人の方が増えている気がする。
テレビの中にもネットの中にも虚実は混在していて、それらを選り分けるのは自分自身だ。同じ事実も、見る側面によって見え方、捉え方は変化する。さまざまな視点を受け入れ、楽しむ余裕を持っていたい。

権力に対して腰が引けていたり、コンプライアンスを気にするあまり自粛が行き過ぎていたり、説明過多で、視聴者の想像力にゆだねるような番組が少なかったり、今のテレビを批判することはいくらでもできるだろう。それでもテレビの肩を持ちたくなるのは、年を追うごとにテレビの影響力が減ってゆくことに、不安に近い感情を覚えているからだ。
テレビの力が衰えるに従って、増々「公共の場」が減ってゆくような、人々の断絶が深まってゆくような気がしている。この感覚は、自分がテレビ全盛の時代に育ったことも関係しているのだろう。学校でも家庭でも、テレビはいつだって皆の共通の話題だったのだ。

かつては、主義主張を超えて、テレビを通じて日本中で共有できた情報や時代感覚が、今はかなり希薄になってしまった気がする。ネット社会に移行してから、情報量は爆発的に増えたけれど、個人が幅広い多面的な情報を得る機会はむしろ減っている気がする。
特にSNS上では、自分と主義主張、価値観の近い者同士ばかりがつながりやすく、共有する情報も一面的で偏ったものになりがちだ。しかも、情報を受け取る側は、そういう偏りや受け身であることに対する自覚がなく、ある種の万能感に陥りやすい。そういった認識や感覚が、立場や考えの違う人間同士の断絶をより深めているように思う。

できれば、テレビとネットは、これからも手を取り合って両立し続けてほしいと思う。映画も、CDも、レコードも、ライブ文化も残っていてほしい。
テレビを観て、ネットをやって、音楽を聴いて、本を読んで、曲書いて、外に出て、海を見て、ぼーっとして、風を感じ、季節を感じ、街に出て、映画を観て、ライブを観て、人と出会って、語り合って、ケンカして、仲直りして、飲んで騒いで、二日酔いになって、また部屋にこもってテレビを観て、音楽聴いて、曲書いて、ツアーに出て、ピアノ弾いて、歌って、また部屋にこもって、またツアーに出る。自分は、そんな暮らしをこれからも続けたい。

ー 2016年8月19日(金) 

2016年8月2日火曜日

冷静に恐れる ー ショッキングだった2つのニュースについて

この1週間で特にショッキングだったニュースが2つある。
1つは、今回の都知事選で、特定の民族に対するヘイトデモとヘイトスピーチを繰り返してきた団体の元代表者が10万を超える票を集めたことだ。団体の主張の背後にこれだけの数の市民が列をなしていると想像すると、何ともやりきれず、恐ろしさを感じる。多分、この流れは日本だけでなく世界的なもので、残念ながら、こういった排外主義はこれからもまだ広がり続けてゆくのだろう。
自分は今まで、ブログやSNS上で、不安を煽るような物言いを避けるよう心掛けてきたつもりだけれど、都知事選でこのような排外主義者が一定の支持を得たことや、トランプ氏がアメリカの大統領になりかねない状況に対しては、慣れることなく冷静に恐れるべきではないかと思う。自分の感覚では、もう1線を越えてしまっている。これは思想やイデオロギー以前の問題だ。

今年に入って、日本のメディアにもしょっちゅう登場するようになったトランプ氏を見続けていると、自分が次第に”トランプ慣れ”していることに気づく。彼に対する恐れが以前よりも薄まっているように感じるのだ。
特にテレビメディアは、意図的で有る無しに関わらず、彼のチャーミングさを表出してゆく。これまでの独裁者達がそうであったように、彼にも人を惹き付ける力があることは否定できない。だから怖い。
ああいう暴言やレイシズム、排外主義的物言いに、こちらが慣れてしまっちゃいけない。冷静に恐れるべきだと思う。
そして、今の日本を見渡せば、トランプ氏と同じように、暴言を吐きながら、レイシズム、セクシズム、排外主義、デマをまき散らす煽動家が幾人も存在する。彼らの勇ましく感情的な暴言に溜飲を下げているのは、自分と同じ一般民だ。ああいった言動が”本音”として受け入れられ、それが”普通”になってしまうことが本当に怖い。

もう1つのショッキングだったニュースは、相模原で起こった障がい者大量殺害事件だ。事件そのものに対する衝撃はもちろんのこと、犯人の考えに対して、ネット上で共感を寄せる者が多数存在することにもショックを受けた。
言葉にするのもおぞましいけれど、“障がい者抹殺思想”への同調を受け入れるような空気が、ごく1部にしても存在するという状況には、暗澹たる気分だ。
ホント当たり前のことなんだけれど、障がい者の1人1人が個別の個性を持った人間であり、彼ら1人1人を必要とし愛する家族があり、人間はそういった多様性の中で支え合って生きてゆく存在なのだという実感が、人々の中から失われて始めているのかもしれない。そのような弱い立場への不寛容な空気が犯行の背中を後押ししたのではないかとも想像してしまう。

こうした”弱者排除”と”排外主義”の傾向は、共通した背景を持っているように思える。追い込まれ疎外された者が、さらに弱い立場に攻撃を向けるという構図にも、やりきれなさを感じる。経済合理性やら自己責任やら優生思想やらを鵜呑みして、一時の万能感にひたることで、結果的に自分達の首を絞めている。
こんなふうに余裕を失いはじめた社会の中で、綺麗事ともとられてしまう自分の言葉がどこまで通じるのだろうかと考えさせられる。

「迷惑かけてありがとう」たこ八郎

「パラダイス」という曲をライブで歌うときに、エンディングの語りの部分で必ず引用する言葉だ。
色んな個性があって、それぞれに足りないところがあって、補い合って、迷惑かけたり、かけられたりしながら、互いに「ありがとう」って思える世の中の方がいいに決まっている。
ー 2016年8月2日(火)