福島県相馬市 菊池蔵(フレスコキクチ相馬店奥にある会議室)
「リクオLIVE in Soma Cityで~ドンちゃん騒ぎ!!!~」
この日の相馬ライブに対しては、やはり特別な思い入れがあった。元々今年の4月に相馬市でのライブが企画されていたのだけれど、3.11東日本大震災で
津波によって街が甚大な被害を受け、たくさんの犠牲者が出た上に、追い打ちをかけて福島第1原発の事故が起こり、放射能が降り注ぎ、ライブの開催どころで
はなくなってしまった。
相馬市は今も安定した日常を取り戻してはいない。そんな中で、通常のライブの開催することに対して、開催日が近づくにに連れて、ライブ企画者の1人であ
る森田さんや自分の中での不安や葛藤が大きくなっていった。特に県外からライブに足を運んでくれる人達に対しては、神経質になった。もっと事前にくわしく
相馬市の現状を伝えた上で、来てもらえるよう気を使うべきだったのではと、直前になって自問した。
相馬市街は、人通りが多く思いのほか賑わっていた。より放射線量の高い場所からの避難民と復興関係の仕事で来ている人達で、相馬市の滞在人口は3.11以前より随分と増えていて、市内のホテルは年末までどこも満室だそう。
この日宿泊したホテルの受付カウンターのテーブルの上には、放射線量を測るガイガーカウンターが置かれてあった。その数値に何度が目を通したけれど、大体0.1μSV/h前後で、線量は思っていたよりも低く、東京の数値とそう変わらない感じ。
ライブ会場のあるフレスコキクチは相馬市が本店のスーパーで、震災直後からお店を開け、市民の食を支え続けた。菊池蔵はフレスコキクチ相馬店の奥にある蔵作りの会議室。趣のある造りで音の響きもとてもよかった。
ライブのスタッフは何度もお世話になっている地元の人達ばかり。てきぱきと現場を仕切っていたのは、国連から派遣されて非営利活動法人「難民を助ける
会」で被災者支援を続けているえくちゃん。会場入り口の垂れ幕とステージのバックに飾られた垂れ幕は、南相馬市で障害者の人達の自立作業場「えんどう豆」
を運営している佐藤さん作。PAはいつもお世話になっている津田さん。開演前と終演後のDJ担当は南相馬市立病院で働く柚原くん。この日は、柚原君からえ
んどう豆の佐藤さんへガイガーカウンター2台が贈呈された。白石カフェ・ミルトンの三浦夫妻からは、スタッフの人達用にお弁当が届けられた。この他にも何
人もの地元の人達がライブのスタッフに加わっていた。思いがたくさんつまったライブイベントであることが、開演前から充分に伝わって、モチベーションが
増々上がった。
この日にどんなライブをやるかは、事前に色々イメージした。けれど結局、ステージに上がって、その時に感じたまま進行してゆくのがよいという考えに至った。つまり基本的にいつものソロライブのスタイルでやるということ。
ライブ前に相馬市の知人、蒼龍寺というお寺の住職である俊英さんからメールをいただいた。「あまり被災地であるということを意識せず、楽しい曲、心にし
みる曲を演奏してください」メールにはそう書かれていた。この言葉に少し気持ちが楽になった気がした。
ステージに上がったら、いきなりたくさんの拍手と歓声をもらった。会場を見渡すと、皆満面の笑顔。ああ、待ってくれていたんだなと感じた。思うまま、感
じるままに語り、演奏した。アンコールでは8月のカーネーション江ノ島ライブで知り合ったばかりの兄弟ユニット「ブラウンノーズ」1号の朝倉君がハープと
歌で飛び入り。彼は南相馬市で高校教師をしているのだ。
どんな状況でも今いるこの場所をパラダイスにする。そう思ってツアー暮らしを続けてきた。この日は、そんな自分自身の姿勢がためされているようにも思えた。この夜の菊池蔵は、たしかにパラダイスだった。忘れられない夜になった。
「相馬の人達がこんな風に音楽しめるようになったのが嬉しい」ライブの後に森田さんがそう語っていたのが、とても印象に残った。
沢山の人達がこの街で、葛藤、憤り、不安を抱えながらも、どうにか日々の営みを続け、新しい日常を取り戻そうとている。この街で暮らす人達がいる限り自分は何度でも相馬に戻ってきたいと思う。
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