自分は、表現者としては、聖と俗、この世とあの世、ダイアローグとモノローグ、あるいは緊張と解放を「行き交う」感じが好きなんです。行きっぱなしは嫌なんです。あちらの世界にいったら、またこっちに戻ってきて、「行き交う」ことのプロセスを楽しみたいんです。
確かに、あの恍惚感、一体感は実に魅力的だけれど、こっちの世界に戻って、いろんな人の顔を見て、またバカな会話を続けたい。自分自身を笑いたい。人か
ら笑われてもいい。ボケたいし、ツッコミたい。誰もが出入り自由の開かれた世界にいたい。そう思うのです。
あっちの世界で恍惚にひたりっぱなしになるのは、一種のナルシシズムだと思います。そうなると、自分がボケであること、自分がネタになって笑われることも受け入れられず、今度は逆に、どんどん排他的な世界が築かれてゆきます。
そういった行き過ぎた恍惚感、ナルシシズムと一体化し、熱狂する人は多数存在します。きっと、誰の心の中にもナルシシズムによる一体感への志向は存在す
るのでしょう。けれど、そこにどれだけの人が集まり、一体感が得られようとも、他者の存在は消えてゆきます。
このように、他者と関わりナルシシズムを超えてゆくはずの「相互作用」の過程にも、「ナルシシズムの罠」「独善の罠」が存在するようです。独りよがり、
ナルシシズムとどう向き合ってゆくか、これは表現者としてだけでなく、自身の生き方を考える上でも、避けては通れない課題だと感じています。
今は「一億総ツッコミ時代」だとも言われますが、それは過剰な存在や万能感、一体感への憧れの裏返しのように感じます。 それらのツッコミには、他者へ
の柔らかい眼差しが欠けていることが多い。悪意を含んだツッコミや揚げ足取りが増えたなあという気がしています。そして、他人につっこみはするけれど、他
人からつっこまれることは受け入れられない人が多いようです。自意識が強くなり過ぎて、立場の違う他者を受け入れられず、自分の中でのボケとツッコミのバ
ランスが悪くなっているんです。そういった余裕のない心持ちは、過剰なナルシシズムに一気に取り込まれてゆく危険性を孕んでいると思います。
「相互作用」について語ろうと思っていたら、ナルシシズムの話を避けて通れなくなってしまいました。こういう方向に話が進んでしまうのは、今の社会を取
り巻く閉塞感や穏やかならざる空気に対する自身の不安感、危機感の表れかもしれません。社会全体の余裕のなさが、多くの人を、誰かのナルシシズムや「国
家」のような大きな存在にすがった上での万能感の獲得に向かわせているように感じています。その動きは他者の排除を意味します。
ファシズム的な熱狂が多数の「無関心」を一気に飲み込んでゆく、そんな時代がやって来ないことを願っています。他人への「無関心」や虚無の増大は、ファ
シズムを生み出す大きな要因になると考えています。「無関心」と「ファシズム的熱狂」の両者に共通して、いつまでも万能感に包まれていたいという幼児的願
望を感じます。そういった願望の行くつく先は破滅です。
「相互作用」とは、雑多な他者が参加してこそ成り立つ作用だと考えています。それは、他者を受け入れ、共感を生み出すことによって、他人同士に気づきと変化をもたらす態度です。
こうした態度が作用し合うことによって、新しい価値観の共有が生まれ、世の中がもう少し柔らかく寛容になることを願っています。自分が変わることなく、他者にばかり変化を求めても、歪みが起こり、より対立が深まるばかりです。
最近、時々自分が現実離れした理想主義者のように思えることがあります。ややこしいことには首をつっこまず、状況をある程度受け入れ、その中で楽しみを
見つけ、うまく泳いでゆくのが、自分のスタンスだったはずなのですが。こういう文章を書いてしまう自分自身に対して、戸惑いを感じます。自分が変わってし
まったのか、世の状況が変わり過ぎてしまったのか。やはり3.11の震災と福島第1原発の事故が、自身と社会にもたらした影響は、大きかったのだと思いま
す。
自分達は今、変化と反動のはざまにいるのかもしれません。どんな世の中がやってきても、自分が音楽生活の中で積み重ねた体験と実感をもとに、時にはアル
コールにまみれたり、バカをやらかしながら、「相互作用」の実践を積み重ねたいと思います。(終)
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