2001年4月6日金曜日

2001年4月6日(金)

もう4月。東京の桜は散り始めている。

夕方に知り合いを誘って近くの公園でフリスビーをして遊んだ。
最初はうまく相手のいる場所へ届けることができなかったけれど、次第に感じがつかめてきた。慣れてくるにつれて、力が抜けて心は凪の状態に近づいていっ た。相手の方も同じ感覚だったように思う。僕らはとても心地良い波動を交換しあった。いつもこんな風に思いを伝え合えたらなと思う。

帰り道、桜並木の奇麗な川沿いの遊歩道を自転車で走る。緩やかな風で桜の花びらがひらひらと舞っていた。その情景を観て、ふと2年前のことを思い出した。

疲れのせいか少し無気力な日々が続いていた。たいしたわけもないのに、何もかもが、どうでもよく思えた。その夜も心にかかったもやがとれなくて、投げやりな気分から抜け出すことが出来なかった。そんな時に僕はなにげなく夜の散歩に出かけた。
そして今日の帰り道と同じ川沿いの遊歩道を歩いたのだ。
満開の夜桜は不感症気味の心を少し揺らしてくれた。しばらくすると、今日と同じような緩やかな風が吹いて、桜の花びらがひらひらと舞いだした。
僕は川の流れに目をやった。
川面に花びらが落ちて、静寂の中、それらがゆっくりと流れてゆく、そんな光景を月の光が映し出してくれた。
静かな時間の流れに身をゆだねながらいつからか僕はこんな言葉を心の中でリフレインしていた。「せっくだからー。」「せっくだからー。」何度も何度もそう 繰り返していた。生きて感じるということが、愛しく感じられた瞬間だった。この夜の散歩を境に僕は再びコンディションを取り戻していった。

僕がこの出来事を覚えているのは多分、歌に残すことが出来たからだ(そのままその時のことを歌っているわけではないけれど)。
僕らはあまりにも多くの記憶を無くしてしまう。もしも、泣きながら生まれてきた時のことや、目も見えず、話も出来ずに世界に向き合っていたことや、一人で は決して生きてこれなかったことや、無心に遊び続けた子供の頃の記憶を、無くさずに持ち続けていられたら、これほどにこんがらがったり、虚無に陥ることも こともないんじゃなかろうか。
僕は大切な記憶を失わないために、歌い続けているのかもしれない。

2001年3月26日月曜日

2001年3月26日(月)

3/13(火)前日に続きヘルツのレコーディング。当初の予定通 り5曲のリズム録り を終える。やばい。今までにない手応え。 レコーディングの後、下北沢でデザイナーの某氏と打ち合わせ。 もう3度めの打ち合わせだというのに、今だにぴんとくるアイデアが相手の方から出て こない。困ってしまう。 仕方なく、このコラポレートは中止させてもらうことにした。

3/14(水)新潟のジャンクボックスというライブハウスが主催するブルース系イ ヴェントにゲストで呼んでもらい、弾き語りで50分程のステージをやる。 自分以外の出演バンドは地元のコテコテのブルースバンドばかり。彼等の演奏からは 黒人ブルースへの憧れが無防備なほどストレートに伝わってきた。自分が音楽をやりは じめた80年代半ば頃の京都や大阪には全盛ではないにしても、こんなブルースバン ドがたくさん存在していて、ブルース系のイヴェントもよく行われていた。楽屋で演 奏を聴いていて少し懐かしさを覚えた。
こういうイヴェントにはよく、客席にしょうもないつっこみやヤジを飛ばすオヤジが いたけれど、この日のイヴェントには、そんな懐かしいオヤジまで登場した。僕のス テージでもやたらと客席から存在をアピールするので迷惑がってるお客さんもいたよ うだけれど、ステージと客席で久し振りに、そういうオヤジとのやりとりを楽しんだ。 元憂歌団の木村さのようにはいかないけれど、昔よりは図太くなって、客あしらいも うまくなった。

3/15(木)新潟から帰宅して、すぐにBSジャパンラジオの番組収録の為、渋谷へ。 トークを交えながらリクオとヘルツの曲を3曲オンエアーしてもらう。 その後、続いて渋谷で打ち合わせ。
3/16(金)下北CLUB QUEでロッキンタイムのライブをみる 。ロックステディ.スタ イルのレゲエ.サウンドに飾りのない素直で力強い歌を聴かせてくれるバンドだ。最近、 知った日本のバンドの中でも特に気に入っている。この日は彼等のライブ初体験。 歌心とグルーヴが心地よく絡み合った、いいライブだった。

3/18(日)吉祥寺でコーザノストラの鈴木桃子さんとリハーサルしたあと、下北 のラ.カーニャでツンタのピアノ弾き語りライブを2部から観る。まだ少し表現に遠慮 がある気がしたけれど、ツンタの魅力を再認識できた。 ライブの後、観に来ていたカルメン.マキさんやツンタ達と飲む。かなりの深酒。

3/19(月)あれもこれもしなければと気はあせるが、作業は進まず。

3/20(火)気の重い話しあい。 「お節介をやくほど、どこかで相手を追い詰める。自分にできることと、出来ないこと を見極めるのは難しい。」こんな言葉を思いだしたりしながら自問自答。

3/21(水)日中、気分転換に地図を見ながら砧公園までチャリで散歩。道すがら たくさんの花が目に入ってくる。芳しい季節になった。 砧公園の梅の花はもう散ってしまっていて、桜もまだ固いつぼみのままだったけれど、 もくれんの白い花がきれいだった。

3/22(木)花を生けて、部屋のいろんな場所に置く。 鈴木桃子さんとリハーサル。 新曲を2曲同時に作りはじめる。いい感じでインスピレーションがわいたのに、集中 力が続かず、完成まで持っていけず。

2001年3月12日月曜日

2001年3月12日(月)

ヘルツのレコーディングがスタート。 今回はエンジニア兼プロデューサーに、新しい仲間、山崎哲也氏を迎え入れ、録音も彼 のホームスタジオで行っている。
今日は予定していた2曲のリズムトラック録りを無事終える。 予想以上に良い音で、ごきげんなトラックが録れた。 現場はとてもいい雰囲気だ。皆、ほどよくリラックスしていて、遊び心と偶然を大切に する空気が流れている。
今回のレコーディングは生音を生かしながらも、曲によってはハードディスクレコーデ ィングによる編集作業を大胆に行っていく予定。インストゥルメンタルの要素の強い、 かなり実験的な作品になりそう。新しい試みにいろいろとトライ出来そうで、わくわく している。
新しい仲間、山崎君は口の減らない20代関西人。出会った頃の彼はまだ10代で、 上京して来たばかりのドラマーだった。それが、3年前に会った時には若手バンドの プロデューサーになっていた。去年、再会した時には自宅にスタジオを構え、エンジニ アまでこなすようになっていて、態度のほうもますますでかくなっていた。そのとき、 久し振りに一緒に仕事をしてみて、ぴんとくるものがあったので、その後接触を試み、 こちらの企みに参加してもらうことにした。
彼は関西人気質のぼけとつっこみ、東京人らしい突き放し、べたとクールといった 両面を使い分けるところが頼もしい。有山じゅんじから友部正人を経て、ミッチェル. フレーム、トータスの話まで通じる貴重な存在だ。
これからは才能のある人材を集めて、どんどんコンラポレートしてゆくつもり。それ ぞれに独立した人間同士がゆるやかにつながるチームができればよいと思う。 才能を発掘し、引きだし、集めることによって、ひとりでは出来ない作品が生みだせ たらと思う。

2001年3月1日木曜日

2001年3月1日(木)

弾き語りソロアルバムのレコーディング終了。
昨日はレコーディングの最終行程であるマスタリングを、六本木のスタジオで行う。 予想以上に良い音に仕上がった。信頼するマスタリング.エンジニアの菊池さんが、 作品を色々と褒めながら作業を進めてくれるので、気分がよかった。
今回のレコーディングは、いわゆるレコーディング.スタジオを使わずに、キーボー ディストである小川文明さん宅の6畳程のピアノ室に器材を持ち込んで録音した音を、 ミュージシャンでありエンジニアでもある錦織さんの自宅スタジオに持ち込んでトラ ック.ダウンまで済ましてしまった。つまり宅録作品である。
この録音方法が良い効果をもたらし、味わいのある音に仕上がった。
発売は5月になりそう。
今年はヘルツも含め、かってない程のリリース.ラッシュ。
ここ数週間、大阪のFM802では3/5梅田バナナホールのイヴェントの前宣伝で ほぼ毎日(月~木)、昼間の時間帯に「雨上がり」がオンエアーされているそうだ。 結構、反響があるそうで、僕のところへも大阪の知り合いからオンエアーを聴いた との連絡がいくつか入っている。
最近嬉しかったことの一つが、営業回りで失敗して茶店で落ち込んでいたら、ラジオ から「雨上がり」が流れて来て元気がでたところだ、という知り合いからのメールだ。

2001年2月18日日曜日

2001年2月18日(月)

京都を含めて6日間に及んだライブイヴェント「リクオのハプニングDAYS」が無事 終了。
昨夜は最終日にふさわしい盛り上がり。今後への期待を残して、イヴェントの幕 を降ろすことが出来たんじゃないかと思う。
シークレットにしていたヘルツでの演奏も、予想以上の手応え。 メンバー3人が"初心"に戻って、弾けることができたのが大きな成果 。
自分にとっては"気付き"の6日間でもあった。
ゲストの皆さんに感じた尊敬、信頼、対抗心、嫉妬は今後の自分に良い効果をもた らすはずだ。
足を運んでくれたお客さん、支えてくれたスタッフ、ゲストの皆さんに感謝。

2001年2月11日日曜日

2001年2月11日(日)

ツアーから戻っても、レコーディングやハプニングデイズの準備のため忙しい日々 が続いている。
今日は一日、部屋にこもって譜面を書いていた。試験前の追い上げのような気分。
いやいや、あの無意味な暗記に比べれば、なんと有意義な時間だろう。
そういえばこの前も、単位が足りなくて卒業できない夢をみた。僕以外にも、中島らもと大槻ケンジが、卒業できない夢を見続けているとエッセイ の中で語っている。 いまだにそんな夢をみるのは、区切りのない人生を生きているからなのかもしれな い。
僕が20才を過ぎてからの過去をあまりなつかしく振り返ろうとしないのは、それ 以降の記憶の多くが完全な過去の思い出になりきれていないからだろう。思い出す と胸が締め付けらるような事柄が多くてつらくなるのだ。
卒業することが、何かを割り切って、切り離してゆくことなら、僕は一生、卒業す ることはないかもしれない。こんなことを、誰かが言っていた。
いよいよ近づいて来ました、東京版ハプニングデイズ、取り合えずは初日を見逃すな。最終日はカーニバルだあ~。メール予約、まだの人は急げ!!

2001年2月8日木曜日

2001年2月8日(火)

東北ツアーから無事、帰宅。
真冬の東北は初体験。
3日目の目的地、山形県川西町は恐ろしく雪深いところだった。 仙台からJR仙山線に乗り換えた時点で、車窓からの景色がどんどん濃い雪化粧を施し始 めたので、やばいとは思っていたのだが、まだ山形市内からH氏の車の運転で川西町に 向かい始めた頃は、水墨画を見るような田舎の雪景色に見とれる余裕があった。 しかし、車が米沢をこえたあたりから積雪量は更に増し、強力な地吹雪が始まり、数メ ートル先の視界が見えないという、とてもスリリングな状況に追い込まれてしまった。 ところが僕は、こんな危機的な状況の最中、連日のライブの疲れのため、強力な睡魔に 襲われてしまった。 「寝てはいけない、寝てはいけない」 雪なかの遭難者のような気分で自分に言い聞かせたのだが、次第に目の前の景色が夢の ように思えて、意識を無くしてしまった。 はっと目が覚めたら「もうすぐ近くですよ」と運転中のH氏が教えてくれた。しかし近 くと言われても回り一面深い雪ばかりで、まるで遭難車のなかにいるようなのだ。 しばらくして視界に民家が現われ始めて、少しほっとする。 予定よりかなり遅れて、ようやく目的地のライブスペース.ジャムに到着。 自然の猛威に遭遇して、「人はなんでこんな気候の厳しい土地で暮らすのだろう」な どと、おせっかいで素朴なことを考えた。
僕は「アリとキリギリス」の話を思い出した。それまでは、どちらかといえば後先を 考えずその瞬間を楽しんでいるキリギリスの方にシンパシーを抱いていたのだが、こ んな土地じゃあ、そうそうキリギリスではいられそうにない。 開演が近づいても吹雪は止まず、とてもお客さんが来れる状況には思えなかったのだ が、意外にも用意された席は開演前にほぼ、埋ってしまった。しかもスタートから出 来上がっているお客さん達で、やたらと乗りがよい。ただ騒ぐのではなく、好奇心が旺 盛で、積極的に楽しみを見つけようとする姿勢が感じられる。理想に近い客層と言え た。オーナーの板倉さんのこだわりを反映して、ピアノはよく調整されており、会場 の音鳴りもとても良かった。これだけの条件がそろうライブというのも、なかなかない ものだ。
おかげで、いいライブが出来たと思う。 打ち上げでは、地元の人達と多いに語り合う。 ジャムのオーナー、板倉さんは話し出したらなかなか止まらない、饒舌な人だ。 こだわりと遊び心を持った相当な趣味人でいろいろと感心させられてしまった。 冬はスキー、春は山菜とり、夏はバーベキューパーティーと季節ごとの遊びも非常に 充実しているようでうらやましく思った。 板倉さんはじめ、この日出会った人達は、自然と共生し、工夫しながら川西町での暮 らしを楽しもうとする姿勢が、感じられた。 打ち上げの席で「この土地の気候は厳しいばかりじゃないんですよ。」と僕に言った人 がいた。こんな雪深い季節だって、彼等は楽しむ術を知っているのだろう。 また違った季節にも川西町を訪れてみたいと思う。
今回の東北ツアーはどの場所も印象深く、ここですべて紹介できないのが残念。 新しい出会いと再会に感謝。