2018年9月19日水曜日

点と線の縁 - 大柴広己君のこと

今から10年前、当時まだ20代半ばだったシンガーソングライターの大柴広己君から連絡があり、「煮詰まっているので、リクオさんのツアーに同行させて下さい」といきなり直談判された。
彼とは、大阪のイベントで何度か一緒になったことはあったけれど、キャリアも年齢も随分離れていて、正直、当時は一緒にツアーを回るような関係性ではなかった。きっと、こちらに電話してくるのに勇気がいっただろうと思う。面白い奴だなあと思った。
その電話の翌週だったか翌々週だったか、はっきりと覚えていないけれど、決まっていた4ヶ所の四国ツアーに同行してもらうことにした。その実力はわかっていたので、急遽、各会場のオープニングアクトを彼にまかせることにした。

当時の大柴君はメジャーレーベルと契約したものの、思うようなレコーディングや音楽活動ができず、今後の活動のあり方に随分と悩んでいた様子で、ツアー中に色々と相談に乗った記憶がある。ただ、彼は悩みの最中にあっても、その悩みにすべてをとらわれることがなく、初の地方ツアーをしっかり満喫して楽しんでいるように見えた。その物怖じせず、オープンな姿勢を見て、彼はツアー暮らしが向いていると思った。

あれから10年の歳月を経て、今週末から2人で各地11ヶ所を回るツアーに出ることになった。車の運転は10年前と同じように大柴君にお願いするけれど(オレ、免許持ってないんです)、もちろん今回はオープニング扱いではなくがっつり2人のジョイントライブとしてのツアーだ。
この10年の間に大柴くんもすっかりツアー暮らしが身につき、日本各地で彼の話を聞くようになった。ツアー先で誰かが楽しそうに大柴君の話をしているのを聞くと、こちらも嬉しくなる。大柴くん、愛されてるなあと思う。

彼の音楽活動を見ていると、自分よりも若いミュージシャンを発掘して率先して共演したり、フェスやイベントを企画したり、「場」をつくり「縁を繋ぐ」ことにも、とても自覚的だ。それは、自分も心掛けている姿勢なので、関わりある30代のミュージシャンの中に、そういう志を持って実践している人間がいてくれることが嬉しくて頼もしい。

今回の2人ツアーには、10年前に一緒に回った街や会場も含まれている。愛媛県八幡浜ライブの主催者は、10年前の2人ツアーで初めて大柴君を知って以来、彼の愛媛ライブを企画し続けている共通の知人だったりする。大柴くんの紹介で初めて演らせてもらう会場も多い。
10年前の縁が今も続き、さらに繋がり広がり続ける中で、今回のツアーが実現したことが嬉しい。多いに満喫して楽しもうと思う。大柴くん、よろしくね。
ー2018年9月19日(水)

★リクオ&大柴広己「点と線の縁」
●9/22(土)名古屋・ハルマカフェ  オレ
●9/23(日)大阪枚方・ハングオンカフェ
●9/24(月)大阪谷町四丁目・スキッピー 確認
●9/26(水)福岡・TheVoodooLounge 小屋敷
●9/28(金)愛媛八幡浜・スモーキードラゴン 
●9/29(土)高知・Sha.La.La(今年移転) 
●9/30(日)高松市・Bar RUFFHOUSE 大柴
●10/1(月)岡山・MO:GLA(モグラ) 
●10/8(月)山形米沢・ARB 
●10/9(火)岩手盛岡・すいれん 
●10/10(水)秋田・カフェブルージュ  
ライブ詳細:http://www.rikuo.net/live-information/


2018年9月14日金曜日

何をあきらめて、何をあきらめていないのか - 打ち上げの席でケーヤンの話を聞いて考えたこと

8月後半から関西と山陰地区9ヶ所を回ったケーヤン(ウルフルケイスケ)との6年振りの2人ツアーは、どの公演も盛況で、ライブ後半では、お客さんが総立ちになるのが常だった。これまでのケーヤンとのツアーの中でも、最も弾けたステージのツアーになった気がする。まるで、2人で最小編成のロックバンドをやってるような気分だった。
最近のケーヤンからは、自分が決めたこと、選んだことをやっている開放感と決意みたいなもんを勝手に受け取っている。

ツアー2公演め、奈良公演での打ち上げの席で、ケーヤンがしてくれた話が印象に残っていたので、ブログに残しておくことにした。
その日の打ち上げは、少人数だったこともあり、落ち着いて色んな話ができた気がする。
居酒屋での内々の打ち上げが始まって、それぞれに程よくアルコールが回り始めた頃、どういった話の流れだったのかは思い出せないのだけれど、「あきらめることの大切さ」が話のテーマになった。
ケーヤンは、自分が深く悩んでいた頃、ある尊敬する先輩ギタリスト某さん宅にしばらく居候させてもらっていた時の話を聞かせてくれた。そのときに某さんから「オマエはチャーになるのはあきらめて、チャボさんを目指せ」とアドヴァイスを受けたことが、自分が変わる1つのきっかけになったそうだ。
実は、ケーヤンと自分が再会するきっかけをつくってくれたのも、その先輩ギタリスト某さんなのだ。

今のケーヤンは、「自分ができることをやる」ということに自覚的なんだと思う。それは音楽的な話だけではない。さまざまな経験を経て、自分に合ったやり方、自分がやりたかったこと、自分ができることがはっきりしてきたんだと思う。
今のソロ活動は、ケーヤンが自らの意志で選択した道なのだ。話を聞いていて、「ケーヤンはちゃんといろんなことを前向きにあきらめることができたんだな」と思った。じゃあ、自分はどうなんだろう?

自分が今のような草の根のネットワークに頼ったツアー暮らしをするようになったのは、メジャーレーベルとの契約が切れて、デビュー当時からお世話になっていた事務所からも離れざるを得なくなったことがきっかけになっている。その時点で自分が音楽で食べてゆくための選択肢は、スタジオ仕事やツアーのサポートなどのバックミュージシャンとしてやってゆくか、フロントマンとしてシンガーソングライターとして、ツアーで細かく全国の数十人キャパのお店を回るか、その2択に限られていた。
当時は、サポート仕事も結構やらせてもらっていたのだけれど、この仕事をメインにするには技術が足りないし、もっと意識を変えなきゃ、続けていくことは難しいと自覚していた。自分はそんなに悩むことなく、後者に軸足を置くことにした。

このインディペンデントな立ち位置でのツアー暮らしは、思いの外自分に向いていた。ツアー先々でのダイレクトな反応、さまざまな出会い、日々受け取る実感が、数字に打ちのめされていた自分の心の支えになってくれた。それは、今も変わらない。
それでも、本格的にツアー暮らしにシフトチェンジした当初は、ファンではない人達の前で演奏することに戸惑ったり、空席だらけの客席に落ち込んだり、毎日続く打ち上げが苦痛になったりすることも多かった(今は率先して打ち上がってます)。
ツアーの移動中、旅の空をながめながら、もう全てを投げ出してしまいたいような気持ちになったこともある。
けれど、ツアー暮らしを続けるうちに、人と関わること、ライブすることが以前よりも楽しくて、より好きになっていった。自分は追いつめられて、環境に適応したんだと思う。それと平行するように、自分の音楽性やライブに向かう姿勢も変化していった。

今のケーヤンと自分の活動スタンスは重なる部分が多いけれど、この活動に至るまでのプロセスには違いがある。ケーヤンは、メジャーで成功した上で、自らの意志でこの活動を選んだけれと、自分の場合は自らの意志で選んだとは言い切れない。少ない選択肢の中で自分を適応させることで役割を見つけたというか、役割を与えてもらった気がしている。

長くツアー暮らしを続ける中で、50代半ばを迎え、残された時間を考えるようになり、「このままでいいのかな」との思いがふくらみ始めている。というか、多分、このままではいられないのだろう。
今の自分は、またこれまでと違ったチャプターに入ったような気がしている。今もツアー暮らしは大好きだけれど、このままツアーの「楽しさ」に埋没していいのだろうかとも思うのだ。
いや、本当は楽しいことばかりじゃなくて、ツアー先で、空席だらけの客席に自尊心を傷つけられ、やるせなく悔しい思いをすることが今だってある。その悔しさに蓋をしていいのかなと思う。
つまり、自分はまだちゃんとあきらめきれていないのだろう。

自分が何を感じて、何が好きで、何がやりたくて、何を求めているのか、正直に自分の心の底に降りてみようと思う。
ケーヤンが吹っ切れて見えるのは、正直にやろうとしているからだと思う。自分も、いつでもそうありたい。この時期に、2人でツアーを回れたことは、自分にとってはとてもタイムリーだった。
ー2018年9月14日


10年振りにリリースしたシングルCDの1曲目「永遠のロックンロール」でケーヤンが素晴しいロックギターを弾いてくれてます。聴いてもらえたら嬉しいです。オレなりの音楽讃歌です。このシングル曲のミュージックビデオ、今のバンドライブの空気が伝わると思います。ケーヤンもオレも、みんないい笑顔。

リクオ『永遠のロックンロール』Music Video
https://youtu.be/SY9RnyDZVWI

リクオ『海さくら』Music Video
https://youtu.be/dQ5bYwULpA0

ケーヤンの会場限定発売アナログシングル「ミュージック/アホみたい」にピアノとコーラスで参加しました。アナログレコードにぴったりのご機嫌なバンドサウンド。名曲「ミュージック」がバンドサウンドでリリースされるのも嬉しいですね。ぜひ、会場で手に入れて下さい。https://www.ulfulkeisuke.com/item/

2018年9月8日土曜日

君と僕とサンダーロード ー 祝・マーサ・リニューアル・オープン

毎年8月に行われていた恒例の大阪・マーサでのライブは、お店の改装工事のために今年は9月開催となった。
お店に足を運ぶのは、この日が改装後初だったので、どんな風に生まれ変わっているのか、ちょっとドキドキした。
リニューアルしたマーサは、これまでの店の雰囲気を充分残しつつ、ライブカフェとしてよりカスタマイズされたつくりに変化していた。客席からステージが見やすくなって、何よりも音がさらに良くなったのが嬉しかった。ライブカフェとして、今後さらに評判を呼ぶことは間違いないと思う。


個人的な思い入れで、この日のリニューアル記念ライブまでに完成させたかった曲があり、前夜まで歌詞とメロディーの推敲を重ねた。
マーサ代表の片平社長とは学生時代に一緒にバンドをやっていた仲なので、その頃の思い出を元に、当時のバンドのボーカル&ギター、曲作り担当だった外村伸二の歌へのオマージュも込めた歌が書けたらと考えていたのだ。なんとかぎりぎり曲としてまとめることができたので、アンコールで初披露させてもらった。
「君と僕とサンダーロード」というタイトルをつけたのだけれど、ちょっと恥ずかしい感じもあって、タイトルも歌詞もまだ変更があるかもしれない。「サンダーロード」はスプリングスティーンの曲からの引用。

片平や外村らとバンドをやり始めて、もう33年以上の歳月が流れた。彼らとのバンドで過ごした数年間で、自分は何か確信を得た気がする。音楽と共に生きてゆくための鍵をあの数年間で手に入れたんだと思う。

随分と時が流れ、僕らは「ハイウェイへの鍵」を手にすることはなかった気がするけれど、今も音楽で高鳴り続けている。ただ、あの頃とは歌の響きが少し変わった。
あの頃好きだった歌は、当時よりもずっと「痛みの記憶」を刺激するようになった。その記憶が強過ぎると、聴くのがつらくなる。けれど、その痛みをこえたときに、あの頃聴いていた歌の意味が今になってわかった気がして、あらたな高鳴りを覚える。僕らは今も痛みとともに高鳴り続けている。
暮らしとともに、人生とともに音楽はあるのだと実感する。33年を経て、それぞれがそれぞれのやり方で音楽と関わり続け、僕らは音楽を通じて今も繋がってる。そのことが嬉しく誇らしい。
新しいマーサのステージで歌いながら、物語はまだ続いているのだと思った。

ゲストの蠣崎未来ちゃんとは初共演。心のやわらかい部分に深く沁み入る歌声だった。
彼女を紹介してくれた片平社長の目利きはさすがだと思った。思えば、ハンバートハンバートや杉瀬陽子ちゃん、優河ちゃん等を紹介してくれたのも社長だった。ん?女性ばっかりやん、社長。
未来ちゃんとのアンコール・セッションでは、また彼女の違った側面が感じられて、そのポテンシャルの高さを存分に感じた。きっと彼女のブルースは、これからさらに解放されてゆくのだろう。こうやって若い才能と共演できるのは、ありがたいことだ。

大学時代の軽音仲間の同級生が夫婦でライブを観に来てくれて、ライブ後にメッセージを送ってくれた。「今週は、関西を直撃した台風でお客さんの会社が大打撃を受けたり、お客さんの自宅が半壊したり、たくさん悲しいことがあったけれど、リクオのライブで元気になった」そんな内容だった。
直接の被害は少なくても、災害続きで心のダメージを抱えながら、この日のライブに足を運んでくれた人がきっと何人もおられただろうと思う。もし一時でも、気持ちを楽にしてもらえたなら嬉しいです。


各地で被災された方々には、この場をかりて、心よりお見舞い申し上げます。一日も早く日常の暮らしに戻れることを願っています。
疲れがたまってくる頃かと思います。自分をいたわってやりましょうね。
各地で、皆さんと再会できることを楽しみにしてます。また。
ー2018年9月8月

2018年7月1日日曜日

丑三つ時、悶々最中、友部正人さんの言葉の意味がわかった気がした

若い頃によくしてもらった先輩ミュージシャンの多くが、こんなに早く旅立ってゆくとは思わなかった。皆、自分の指針になってくれるような存在だったので、自然、自分の残された時間について考えさせられるようになった。
清志郎さんが亡くなった年齢まで後5年、高田渡さんが亡くなった年齢まで後3年。西岡恭蔵さんよりは長生きになった。

少し前に、自分より14歳年上のシンガーソングライター・友部正人さんとお会いして、旅立った人達の話をしていた時のこと。友部さんが、さらりとこう言った。

「リクオ、多分みんな、死ぬまで自分が死ぬとは思っていなかったんだよ」

その時は正直、友部さんの言葉をどう受け止めてよいのかわからなかった。
でもさっき、丑三つ時に独り悶々としている最中、ふと、その言葉の意味がわかった気がして、忘れないようにブログに残しておこうと思った。

「 みんな、最後まで生きようとしてたんやな。病床でも、死ぬことも忘れるくらい生きてたんやな。」

そう思えたのだ。
死ぬ覚悟ができていたからこそ、死ぬことに気を病むことなく、死ぬことを忘れて、最後まで生きることを考えられたんじゃないだろうか。
友部さんの言葉の実際の真意はわからないけれど、自分にはそんな風に思えたのだ。

出会った頃に石田長生さんが、学生だった自分を2人で飲みに連れてくれて「オレは野垂れ死にすると思う」と語ってくれたこと、癌で闘病中の藤井裕さんを病院に見舞ったときに、裕さんのベットの傍にベースギターが置かれていたこと、その時に裕さんが再活動予定のサウス・トゥ・サウスのために曲作りをしている話を聞かせてくれたこと、高田渡さんの「死ぬまで生きる」という言葉、いろいろと思い出した。
自分は今も、あの世にいる先輩のお世話になっているのだと気づいた。いい出会いに恵まれてきたのだなあと思う。

時には気弱になりつつ、悶々としつつも、自分は大丈夫そうだ。
変化を受け入れようとしながら、あえて平衡を崩しそうなギリギリのところでバランスを取ろうとしている自分がいる。
これからも悶々を経て、弾けてやろう、死ぬまで生きようと思う。

ー2018年7月1日

2018年6月14日木曜日

時代の無意識が向かう先 - RADWINPS「HINOMARU」を聴いて考えたこと

RADWINPSを「HINOMARU」という曲を聴いて、色々と考えさせられている。
曲を聞く前にまず、作者の野田氏がリリースにあたってツイッター上で発表したコメントに目を通した。そこには、「日本に生まれた人間として、純粋に何の思想的な意味も、右も左もなくこの国のことを歌いたい。自分の国を好きと言える自分でありたいし、言える国であってほしい」との思いが綴られていた。
https://www.huffingtonpost.jp/2018/06/08/radwimps_a_23454012/

そのコメントを読んだ後にネットで曲の歌詞を検索し、すぐに曲をダウンロードして、歌詞を追いながら曲を聴いてみた。
「HINOMARU」歌詞 http://j-lyric.net/artist/a04ac97/l0469f5.html

国体思想、国威発揚の中で使用されてきた古語を散りばめた勇ましい歌詞に対しては、違和感を拭えなかった。言葉が身についていない気がした。
和太鼓をアレンジの中心にすえ、抑制の効いた寂しげな前半から後半の盛り上がりに至る劇的な展開には、高揚と一体感をもたらす効力を感じた。
作者でもある野田氏の声は、やはり魅力的だと思った。どこか憂いを含んだ歌唱がサウンドに乗ることで、この歌が孤独と一体感のコントラストを描いているように感じられた。曲を通して受け取った、一体化へのあまりにも無防備な渇望は、自分の心を不安にさせた。
メインストリームをゆくバンドが、堂々と「愛国心」歌う時代が来たのだなと思った。

曲を聴いた後に自分はFacebookに以下の文を投稿した。

『RADWIMPSの「HINOMARU」を聴いた。
単純で大きな物語に身を委ね、自身で丁寧に新しい物語を紡いでゆくことを、無自覚に放棄してしまっているように感じた。この無自覚さに、より危うさを感じる。
こんな国体思想的な言葉遣いをすることに躊躇はなかったのだろうか?気持ちが暗くなった。』

投稿に対しては、いつもより多めのコメントが寄せられて、この件に対する関心の高さがうかがわれた。それらのコメントの中に以下のような一文があった。

「薄々感じていたのですが、リクオさんて日本が嫌いですよね。」

こういう反応は想定内ではあった。
この人や作者の野田氏が指す「日本」や「国」って何なんだろうと考えた。

自分は、長年のツアー生活を通して、日本各地でさまざまな人に出会い、各地の自然、風土、文化、歴史にも触れてきたつもりだ。五感を通して、日本の豊かな多様性を発見し実感できたことで、心の閉塞から解放され、随分と救われた気がする。各地で知り合った人達との繋がりは自分の大切な財産になっている。
生まれ育った京都、長年暮らした大阪、東京、湘南に対する愛着もある。
日本各地のさまざまな街並み、自然の風景、出会った人達のことを、すぐに思い出すことができるし、それらに愛おしさを感じる。
自分の好きな「日本」は、記号ではなく具体的になった。抽象的だった「日本」の姿が、以前よりもリアルになった。そのことによって、自分が「日本」について、まだまだ知らないことばかりだとも自覚できた。

そもそも「国」という日本語は、場合によって意味合いの変わる曖昧を含んだ言葉だと思う。
歴史学者の江口圭一氏によれば、英語で「国」に該当する言葉には、land,country,nation,stateと、少なくとも四つの表現があるそうだ。landは自然的な国土、countryは人びとの集団、nationはそれの政治的統一体、そしてstateは、そういうnationやcountryに作られる政府とか、裁判所とか、軍隊とか、議会とか、地方行政機関とかを持った国家機構を意味するとのこと。
だとすると、自分はnationとstateに対しては、嫌いとか否定ではなく、一定の距離を心がけているのだと思う。それは、自分なりに過去の歴史から学んだ結果だろう。
「HINOMARU」作者の野田氏が想いを寄せる「国」は、何を指すのだろう。

国体思想を思わせる古語を使った歌詞からは、自分も含め多くの人が、国家を拠り所とするナショナリズムへの回帰をイメージした。けれど、野田氏にそのような自覚や意図はなかったようだ。
「日本人のみんなが一つになれるような歌を作りたい」という「真っ直ぐ」な想いが、本人の意図を離れ、ナショナリズムを煽るとも受け取れる曲を生み出したのだろう。
曲を聴き、コメントを読んだ上で、「そもそも、野田氏自身の中で『国』や『愛国心』という言葉に対する定義が曖昧なのでは」との印象を持った。それらの言葉がたどってきた歴史の検証に対しても無頓着なまま、「真っ直ぐ」な想いそのままに、この時代の空気の中で、曲を書き進めていったのではないかと想像する。
2年後の東京オリンピックに向けて、今後「愛国心」をテーマにした曲への需要がさらに高まってゆくのだろう。「HINOMARU」は、そういった時代の空気の中で生まれた1曲だと捉えている。

以下は、2013年12月22日に自分がFacebookに投稿した文章。

《以前、右翼の鈴木邦男氏が私にこんな事を言った。
「昔はね、自分の周りに家族があって、家族の周りに地域社会があって………というふうに、同心円を描くような形で『自分と国家』がつながっていた。今は違いますね。家族も地域社会も崩壊し、自分と国家が直接つながってるって感じの若者が多い」
ー週刊文春12月12日号 中村うさぎ「さすらいの女王」より抜粋
自分が国家と直結している感覚は、外側から自分を眺めるメタ視点の獲得を困難にし、「自分=世界」という錯覚を簡単にもたらす。アニメ用語などで使われる「セカイ系」にも通じる世界と私の一体化は、「全体主義」につながる危険な兆候であると、コラムの中で中村うさぎは指摘しています。興味深い内容でした。》

個人が大きく強い存在と直接つながることで、「他者」への想像力が欠落し、排除と敵対が増大する。劇的で大きな物語を成り立たせるためには、常に「敵」の存在を必要となる。こういった傾向は、近年特にネット上で頻繁に見受けられる。4年半を経て、鈴木邦男氏と中村うさぎ氏の言葉が、自分の中でさらに実感を増している。
自分には、こういった傾向と「HINOMARU」という曲がリンクしているように感じる。作者にとっては、不本意な受け取られ方にちがいない。

「HINOMARU」はネット上で多くの賛否をもたらし、作者の野田氏は、謝罪を含めたコメントを発表するに至った。
https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20180611-00000009-exmusic-musi

よくない流れだと思った。謝罪に追い込まれたという見え方が、さらに対立を煽る結果をもたらすのでないかとの危惧を抱いた。
この曲を批判した人のどれだけが謝罪を求めていたのかわからないけれど、RADWINPSのコンサート会場前で発売禁止を求める抗議街宣が企画されているという話を聞いて、こういったプレッシャーが、謝罪を急がせたのかもしれないと想像した。一つの曲に対して、批判を超えて抗議行動するというのは明らかな行き過ぎで、さらなる悪循環しかもたらさないと思う。
一方で、批判を受けて発表された野田氏のコメント文の内容にも、歌詞に共通する違和感を持った。

このコメントの中で彼が最も伝えたかった内容は、「そんな意図はなかった」の一言に集約されている気がする。きっとそうなんだろうと思う。コメントを読んで、少し腑に落ちたような気持ちにもなった。「HINOMARU」から自分が受け取った最大の違和感と不安は、その意図のなさ、無意識だった。

「この曲は日本の歌です。この曲は大震災があっても、大津波がきても、台風が襲ってきても、どんなことがあろうと立ち上がって進み続ける日本人の歌です。」
野田氏のこの言葉を受けて、自分は「日本人」と一括りにする歌よりも、日本で暮らす一人一人の物語を綴った歌の方が聴きたいと思った。実際、RADWIMPSは、数ヶ月前にそのような新曲を発表しているのだ。ぜひ、この曲も聴いてもらいたい。
RADWIMPS「空窓」 https://youtu.be/-0DZQaxPH5s

「日本人のみんなが一つになれるような歌が作りたかった」という作者の思いはピュアな本音なのだろう。けれど、そうした大きな物語を求める姿勢が内包する危うさに対して、野田氏は無自覚なんだと思う。

一体化への渇望、大きな共同体への帰属願望が、同調圧力や排除、選民意識、敵対、戦争をもたらす歴史が、日本だけでなく世界中で幾度となく繰り返されてきた。そのような時代には後戻りしたくない。多分、野田氏も同じ思いのはずなのだ。
今の日本に暮らしていて、左右両方の立場の中にも、無思想の立場の中にも、「セカイ系」の中にも、スピリチャリズムの中にも、陰謀論の中にも、さまざまな場所に、全体主義への流れを感じる。時代の無意識の先にそういう世界が待ち受けているならば、流れから距離を置き、今のうちに恐る恐る異議を唱えたいと思う。

以前から野田氏に対しては、リベラルな発言や行動を重ねてきた人との印象を持っていた。コメントにも書かれている、戦争や暴力を否定し、被災した人達に心を配り続ける姿勢に嘘はないと思っている。
けれど、そういった「誠実」や「純粋」、「素直」や「直感」が向かう先にも、危うさが存在することを、自身の肝にも銘じておこうと思う。野田氏と共通するメンタリティーが自分の中にもあると自覚している。

「HINOMARU」は時代の空気を無自覚に受け取って生まれた「純粋」な曲だと思う。その「純粋」さは、批判を受けながらも、若者を中心とした多くに受け入れられてゆくのだろう。自分は、その無自覚な「純粋」が集団に向かうことに、不安を感じている。

「リクオさんて日本が嫌いですよね」という問いに戻れば、「そんなことはない、好きですよ」とさりげない笑顔で答えたい。けれど、「愛国心」が、敵対や排除、戦争をもたらす装置として働いた歴史を忘れずにいたいとも思う。

国家や為政者、カリスマ、他の誰かが用意した劇的で大きな物語に身を委ねるのではなく、実感ある繋がりの中で、自身の手で一つ一つ丁寧に物語を紡いでゆきたいと思う。ユーモアと遊び心を忘れずに。

長文へのお付き合い、ありがとうございました。

ー 2018年6月13日(水)

《追記》
以上の文を書き終えた後に、「HINOMARU」作者の野田氏が昨夜のRADWINPSのステージで「自分の生まれた国が好きで何が悪い!」と発言したと知った。この発言はネット上で既に波紋を呼んでいて、支持者の高揚を大いに煽っている。
今後、「HINOMARU」の批判に対する感情的な批判がさらに高まり、あらたな対立を生み出してゆくだろう。こうやって話が単純化されてゆく先に不安を覚える。
本人はこの状況をどう捉えているのだろうか。

2017年9月22日金曜日

山下達郎さんの「ライブ中に歌う客は迷惑」発言で考えたこと

山下達郎さんの発言が話題を呼んでいる。
https://headlines.yahoo.co.jp/article?a=20170921-00759556-jspa-life
自身がパーソナリティーを務めるラジオ番組『山下達郎のサンデー・ソングブック』の中で、ライブに行くと抑えきれずどうしても大声で歌ってしまうリスナーからの「これってダメですか?」との質問に、達郎さんは「ダメです。一番迷惑。あなたの歌を聞きに来ているわけではないので」と返答。この発言に対する議論がネット上で大いに盛り上がり、ヤフーやライブドア等いくつものネットニュースで取り上げられることになった。自分の知る範囲では、達郎さんの意見への賛同が大半のようだ。

達郎さんの気持ちは同業者として自分なりに理解できる。自分の体験を語らせてもらうと、席数が60席に満たない会場でのピアノ弾き語りライブの時に、客席最前列で、曲の最初から最後までずっと自分と一緒に歌い続けているお客さんがいて、その時は正直、やりづらくて困ってしまった。またその声がよく響くのだ。
しかも、そのお客さんは、こちらのテンポにあまり寄り添うことなく自分のテンポで歌い続け、常に演奏よりも先走って歌ってしまうから、こちらの演奏がそのお客さんの声にひきづられそうになってしまう。周りのお客さんも明らかに戸惑っているので、放置しておくわけにもいかなくなってしまった。
でも、自分の曲を空で歌えるくらいファンでいてくれて、回りが見えなくなる程楽しんでくれているのだから、とてもありがたいことでもあるのだ。時間を割いて、お金を払って観に来てくれるお客さんに対して、強い態度で接する気持ちにはなれなかった。場の空気も悪くなるので、MCでお客さんに直接注意すことはなるべく避けたいと思った。

そこで自分のとった行動は、こちらの演奏を変えることだった。
まず、マイクスタンドを口元から離し、会場に生声を響かせた。そして、ピアノタッチを最弱のピアニシモにして音数を極端に減らして演奏した。そうすると、自分と一緒に歌っていたお客さんの歌声もより会場に響き渡ることになった。そこに至ってようやく、そのお客さんも自分がその場に与えていた影響に気づいて、歌うことをやめてくれた。

ライブは、その場にいる皆とのエネルギー循環による化学反応、一期一会のプロセスを共有してゆくドキュメンタリー。
自分はそうとらえているので、その一連の流れこそが、その日のライブの最大の見せ場の一つとなったと思っている。
ただ、そのお客さんには少し恥ずかしい思いをさせてしまったかもしれない。次回もまたライブに来てもらえたらと思う。

では、自分のライブでお客さんの合唱はNGかと言うと、全くそんなことはない。むしろ、それを求めていると言っていい。
自分のライブでは、こちらがお客さんに対して合唱や手拍子を促す場面がとても多い。特に、ソロのピアノ弾き語りライブでは、歌い手、打楽器奏者としてのお客さんの立場がより重要な位置を占めている。
そういう場面では、自分の立場は指揮者なのだと思う。ただ、完全な統率は目指さない。リズムと音程がずれていても大丈夫。多少はみ出す奴がいてもいい。カオスを残しつつ、皆が高揚感を共有できれば、それが正解だ。
ただ、しっとりと歌うバラードで一緒に歌われたり手拍子されると、それは違います、そこは聴き所ですよと。その辺は臨機応変に対応してもらって、皆でライブをつくっていきましょう、ということなのだ。

ライブにはさまざまな場面が存在する。その場面によっても正解は変化する。だから面白いし、飽きない。
そこに多少のハプニングを含んだライブが好きだ。自分のライブでは、お客さんも、完璧なものよりも、そういったハプニング的要素を期待しているように感じる。アーティストによって、ライブによって、期待されるものも違ってくる。当たり前のことだ。

多分、達郎さんのライブに比べて自分のライブは、ステージと客席、パフォーマーとオーディエンスの間の仕切りが曖昧なのだと思う。自分がそういう方向に向かったのは、体験と置かれた立場によるところが多い。そういった体験について語る良い機会かもしれないと思いつつ、長くなりそうなので、それはまた次回に。

達郎さんの言葉は、一部を切り取られることで極端な解釈がひろがってしまったように感じる。
ライブのあり方の正解は一つではない。やり方は人それぞれだし、与えられた場所やその時の気持ちによっても変化する。千のライブがあれば、千の正解があると自分は考えている。達郎さんだって、きっと、そう考えているんじゃないかと想像する。
正解を決めつけずに、集まってくれた皆と一緒にその日の正解を導き出し、最高のグルーヴに至るステージができたらと思う。
ー 2O17年9月22日(金)

2017年9月3日日曜日

リクオからのご報告 ー 京都に引っ越すことになりました


皆さんに報告があります。来月10月に、生まれ故郷の京都市に引っ越すことになりました。33年ぶりの京都暮らしです。
大阪の大学入学を機に京都を離れ大阪吹田市で11年間を過ごし、その後、東京で12年間暮らした後、’08年4月に神奈川県藤沢市鵠沼海岸に居を移し、約9年半を過ごしました。藤沢に越してきたのは、’06年から’12年の間、江ノ島で開催されていた「海さくらミュージックフェスティバル」というイベントに関わりだしたことがきっかけでした。




江ノ島の海をクリーンにして、次世代に残してゆこうという趣旨で今も活動を続ける「海さくら」という団体が、毎年9月に開催していた野外フェスに、自分は、出演者としてだけでなく出演者のブッキングやイベントの構成、プロモーションにまで関わるスタッフとして参加していました。その打ち合わせなどで何度も湘南に通う内に、自然が近くてオープンな街の雰囲気に魅了され、思い切って、東京からの引っ越しを決めました。この選択は大正解でした。

藤沢に越してから、自分の生活スタイルも変化しました。ツアーから戻ると、陽が暮れる前に、鵠沼海岸から片瀬江ノ島に続く海沿いを散歩するのが、この9年間の日課となりました。海沿いのお気に入りスポットから、夕暮に包まれたシルエットを眺める時間が、自分の心を最も穏やかにさせてくれる瞬間でした。





越してきた当時は、東京に住んでいた頃のように夜の街に繰り出す機会は減るだろうと思っていたのですが、その予想は外れました。最寄駅から2駅の藤沢駅周辺が、東京暮らしの時の下北沢のような存在になり、東京で暮らしていた時以上に、馴染みのお店が増えました。ただ、そこにも東京との違いはありました。
夜の街で出会ったり、一緒に飲む主な相手が、ミュージシャンや業界界隈の人ではなくなりました。音楽と酒好きを共通項に、業界以外の人たちと出会う機会が増えて、その生活の一端にふれ、一緒に楽しい時間を過ごすことができたことが、自分にとってはとてもよかった。出会った地元の人達には、とてもよくしてもらい感謝してます。

この街の暮らしの中で、人と自然にふれることで、心の風通しが良くなりました。ホント、いい思い出しかないです。正直、この暮らしがもっと長く続くのだと思っていました。
この街と、この街で出会った人達との縁がこれからも続いてゆくことを願ってます。皆が拍子抜けするくらい、ライブやなんやらで湘南に戻ってくる機会が多くなるかもしれません。これからもお付き合いのほど、よろしくお願いします。

京都に居を移すことで、自分の音楽活動の基本スタンスを変えるつもりはありません。今まで同様、曲を書き続け、作品をリリースして、ツアー暮らしを続け、届くべき人に自分の音楽が届くよう 、ますます意欲的に活動してゆくつもりです。
せっかく京都で暮らし始めるのだから、藤沢で暮らしていた時と同様に、地元の人たちとの交流を深め、京都発信、関西発信の音楽活動にも積極的に取り組んでいけたらと思っています。今は、藤沢を離れる寂しさと、京都暮らしへの期待が同居してる感じです。
与えられた条件、残された時間の中で精一杯やってみよう、関わってくれる人達やお客さんと夢を重ね合わせて、一つ一つ現実にしてゆこう。そんな思いをさらに強くしています。
これからもよろしくお願いします。
ー 2017年9月3日(日)