2015年7月24日金曜日

石田長生さんのこと

7月8日午前、随分とご無沙汰している知人からFacebookを通じて個人宛のメッセージが届いた。ギタリストでシンガーの石田長生さんの訃報を知らせる連絡だった。自分にとって石田さんは、学生時代から大変お世話になった大切な先輩だった。
今年の3月に食道がんの手術と治療のため大阪の病院に入院した石田さんの容態が芳しくないらしいことは、数人から聞いていた。先月仕事で大阪に行く際には、入院中の石田さんのお見舞に行くべきかどうか悩んだ。そのときにお見舞いを見送ったことが、今になって悔やまれる。
ツアーのスケジュールが入っていたため、石田さんの通夜にも告別式にも参加することができなかった。後でFacebookを通して、告別式で有山じゅんじさんが弔辞を読まれたことを知った。有山さんも大変お世話になり大きな影響を受けた先輩なのだが、その有山さんを自分に紹介してくれたのが石田さんだった。
有山さんの弔辞の内容を知って、何とも言えない気持ちになった。病床での石田さんの思いや、残された近しい人達の気持ちを想像して胸が締め付けられた。

石田さんが亡くなってからも、自分の暮らしは慌ただしく続いた。ツアーから戻った後は、5度目の尿管結石で数日苦しんだ末にどうにか石を排出し、不安な体調のまま安保法制の強行採決に異議を唱えるため国会前の抗議集会に参加し、翌日からまたツアーに出た。
その間、石田さんを知る人に会えば、なるべく石田さんの話をするようにした。そうすると忘れていた石田さんとのさまざまな思い出が次から次へと思い出された。その思い出のすべては無理にしても、文章にまとめておきたい、それが自分の石田さんへの追悼になるのではと思った。長い文章になりますが、お付き合い下さい。

大学3回生の頃、京都のライブハウス磔磔までシンガーソングライターの友部正人さんのライブを観に行った。その時のゲストギタリストが石田さんだった。ライブを観に行く際、鞄の中に自分のピアノ弾き語りのカセットデモテープを2つしのばせた。あわよくば終演後、石田さん、友部さんそれぞれに手渡そうと目論んでいたのだ。
磔磔は楽屋が2階にあって屋外に出るには1階の客席を通らなければいけない。自分は終演後も客席に居残り、2人を待ち続けた。
2階の楽屋から客席に降りてきた友部さんは、一言で言えば、近寄りがたかった。当時の友部さんは独特の緊張感、威圧感をまとっていて、1ファンが気軽に話しかけられる雰囲気ではなかった(ただ、友部さん本人は威圧している意識は皆無だったと思う。多分それが自然体だったのだろう)。客席に降り立った友部さんは、物販物の残りを受け取って、それらを収納してキャスターに巻き付け終えると、間を置くことなく磔磔を後にした。自分は、その友部さんの後ろ姿を、デモテープを持って固まったまま見送った。多分、声をかければ受け取ってもらえたのだろうと今にして思うけれど、当時はその結界を破る勇気がなかった。結果、友部さんとの出会いが2年程遅れた。

一方の石田さんは、友部さんとは対照的で、楽屋から客席に降りてくると、店を出ることなく、客席後方の座敷席に腰を下ろしてビールを注文し、スタッフや知人らしき人達と談笑を始めた。オープンな空気がこちらにも伝わってきた。これなら大丈夫そうだ。
自分は意を決して石田さんに近づきデモテープを手渡した。そのときのやり取りは忘れてしまったけれど、石田さんの気さくさが、とてもありがたかったことを覚えている。

磔磔で石田さんにデモテープを渡して多分1週間も経たない頃、自分がレギュラーで月2回出演していた十三のファンダンゴというライブハウスでいつものようにピアノの弾き語りをしていたら、10人にも満たないお客さんの中に、石田さんの姿を発見した。デモテープを聴いて興味を持ち、観に来てくれたのだという。驚いたし、すごく嬉しかった。それから石田さんとの交流が始まった。

ほどなくして、当時石田さんがやっていたバンド、ボイス&リズムのバナナホールでのワンマンライブのオープニングアクトに抜擢してもらい、続けて、石田さんのファンダンゴでのライブにもゲストで呼んでもらった。自分のライブイベントに石田さんにゲストとして出演してもらったこともあった。無名の学生アマチュアミュージシャンのライブに名の知れたプロが参加するというのは、なかなかあり得ないことだ。
大学を卒業したら就職せずプロのミュージシャンを目指すことを考え始めていた当時の自分にとって、石田さんとの出会いは大きな出来事だった。とても勇気づけられたし、自信にもなった。少し道がひらけたようにも思えた。

石田さんにはプラベートでもお世話になった。お互いプロレス好きということもあって、プロレス団体が大阪に興行しにやってくるときは、石田さんからお誘いの連絡をもらうようになった。石田さんの知人らと一緒にプロレス観戦し、その後はミナミに飲みに連れていってもらうのが恒例で、憂歌団の花岡さんもその中のレギュラーメンバーだった。その酒の席には、石田さんのつてでテレビや会場でしか観たことのなかったプロレスラーが参加することもあった。
いつも賑やかで楽しいお酒だった。ファンキーな男女が集うミナミの酒場の空気は、今の自分のお酒の飲み方にも影響を与えているかもしれない。

当時、石田さんと2人きりで飲ませてもらう機会があって、そのときのことも忘れられない。それは、皆で楽しく騒ぐ普段のお酒とは違っていた。当時の石田さんはプライベートは決して順調ではなかったようで、その酒の席で唐突に「リクオ、オレ嫁さんとうまいこといってなくて、多分離婚すると思うわ」と明かされた。どうリアクションしてよいのかわからず戸惑う一方で、こんな若造にも弱い面を見せてくれるその人柄に、より親しみを感じた。

酒の席で石田さんが何度も真面目な顔で「オレは野垂れ死にする気がしてんねん」と語っていたのも強く印象に残っている。自分には、その言葉は、どんな状況になっても音楽を演り続けるのだという決意表明のように感じられた。
2人きりになると、石田さんはより素直に対等に接してくれた印象があり、そういうときに石田さんが見せる「哀愁」や「素直さ」が、自分の中の石田さんのイメージの1部分となった。
考えてみれば、当時の石田さんはまだ34、5歳くらいの年齢で、今の自分よりもずっと年下だったのだ。自身もさまざまな不安や葛藤の最中であったのではないかと今にして思う。そんな自身の姿を石田さんは、学生のアマチュアミュージシャンだった自分にも、素直に見せようとしてくれていた気がする。
自分がお世話になった先輩ミュージシャンは皆、「素直」と「誠実」を感じさせてくれる人達ばかりだった。この文章を綴りながら、自分はいい出会いに恵まれているなあとつくづく思う。

自分もプロミュージシャンとしてのキャリアを重ねるようになると、石田さんとは、酒の席で自我やプライドをぶつけあって険悪になることもあった。石田さんにとって、自分は少し生意気な後輩だったかもしれない。
数年前、石田さんを含めた数人で下北沢で飲み明かしたことがあった。そのとき、かなり酔った石田さんから随分ときついことを言われて腹を立て、自分も刺のある言葉で言い返し、場が険悪な雰囲気になってしまった。自分は腹を立てたまま朝の7時頃に店を出たのだが、石田さんはそのまま店に残って飲み続けた。腹が立ったのは耳の痛いことを人前で言われたからでもあった。

それから1週間程して、大阪で知り合いのバンドのライブを観に行った時、会場で偶然に石田さんと遭遇して、また飲みに誘われた。石田さんへのわだかまりはまだ残っていたのだけれど、断る選択肢はなかった。石田さんと2人きりのお酒は久し振りだった。
自分は嫌な事を心にためることがあまりできない質なので、先週の下北沢の酒席でのわだかまりを正直に話した。
こちらの話を一通り聞いた後、石田さんは申し訳なさそうに「リクオ、オレ酔ってて全然覚えてへんけど、すまんかったな。今日はお詫びにオレにおごらせてくれ。」と言って、その日のお代をすべて支払ってくれた。
石田さんの言葉と態度によって、わだかまりは消えてしまった。自分もようやく素直な気持ちになることができて、下北沢では買い言葉とはいえお世話になった先輩に失礼な物言いをしたことを申し訳なく思った。もしかしたら石田さんはあの時のことを本当は覚えていたのかもしれないと思う。

文章を綴れば綴る程、石田さんともっと飲みたかったし、話したかったし、もっと一緒に演奏したかったという思いがつのる。そして、自分は石田さんに認められたかったのだなあ、褒められたかったのだなあとも思う。
石田さんには色んなアドヴァイスをしてもらった。時には厳しい言い方をされて腹を立てたりもしたけれど、もうそんな風に言ってくれる人が回りにほとんどいなくなってしまったことが寂しい。

デビューから8年間お世話になった事務所を辞めたばかりの頃、大阪から東京に越してきて間もない石田さんの阿佐ヶ谷の部屋にお邪魔して、確定申告のやり方を教えてもらった。こういう時の石田さんは本当に親身なのだ。今も石田さんに教えてもらった確定申告のやり方を忠実に守っている。
石田さんの部屋の隅には束になった東スポが積みあげられていた。「リクオ、オレはここで毎日ヒンズースクワットやってるんやで」と、なぜか自慢げに話す石田さんの姿を思い出す。

いくつになっても練習や鍛錬を自分に課すことのできる人だったと思う。石田さんのテクニカルなギターはそうした積み重ねによって支えられていた。ずば抜けた演奏技術を維持しながら、自身の不器用さを謙虚に自覚していて、準備を怠らない人だった。石田さんからは「練習せいよ」と何度も言われた。
テクニカルなギタリストが失くしがちな人間臭さや歌心が石田さんのギターからは充分感じられた。自身がシンガーであったことも影響していると思う。
特に複数のセッションの時に石田さんがみせるアグレッシブなギターは、闘いに挑む格闘家の姿とだぶった。負けず嫌いな性格が反映されていたのだと思う。個人的には、シンガーに最大のリスペクトを表して抑制気味にギターを弾くときの石田さんの色気により魅力を感じた。
石田さんは亡くなる2日前まで病室でギターを練習していたそうだ。

5年前、自分のデビュー20周年を記念するライブイベントを下北沢で開催した時に、ゲストの1人として石田さんに出演してもらった。出演をお願いするため久し振りに石田さんに電話したら「リクオがオレを誘うのは久し振りやな」と言われて、少しドキリとした。
本番当日、石田さんの盟友であるヒップランドの阿部登さんが他界した。当日、石田さんは阿部さんが入院していた大阪の病室から直接会場入りした。
その日のステージで石田さんとRCサクセションの「スローバラード」をセッションした。ボーカルは自分と多和田えみちゃんでパート分けをして歌った。ドラムは坂田学、ベースは寺岡信芳。めずらしく石田さんはテレキャスターをエフェクターに通さずアンプにダイレクトでつないだ。
そのときの共演を作品に残せて本当に良かったと思う。魂を揺さぶる最高のギターだった。演奏後、自分はひどく感動して、石田さんとしばらく肩を抱きあった。石田さんの肩越しで、誰にもばれないように少しだけ泣いた。
そう言えば、あの時も石田さんと朝まで飲んだなあ。

石田さんの回りには同時代を生きた同世代の盟友が数多く存在した。刺激し合い、支え合い、ケンカし合える、端から見ていてホントに羨ましく思えるステキな関係だった。
昨年夏、石田さんと同じ食道がんで亡くなったベーシストの藤井裕さんをお見舞いした時に、裕さんと石田さんの話になった。とにかく石田さんがしょっちゅう見舞いに来てくれるのだと言う。「リクオ、持つべきもんは友達やなあ」と裕さんがしみじみと語っていたのを思い出す。
石田さんはこれまで同世代の仲間をたくさん見送ってきたけれど、こんなに早く自分が見送られることになるとは予測していなかっただろうと思う。入院直後の石田さんから受け取ったメールには「心配かけて、かえって悪かったね…。しかし、私は生き続けるのだ!」と打たれていた。

先週末、ツアーの合間に大阪ミナミで行われた知人の結婚パーティーに参加した。午後8時にはパーティーが終演したので、その後は若い頃に石田さんに連れていってもらったバーなどを含め、ミナミの飲み屋を4軒ハシゴした。
4軒めにたどり着く頃には、自分は相当な酔っ払いに仕上がっていた。最後のお店は、アメリカ村の外れにあるカウンターだけの小さなミュージックバーで、石田さんも馴染みの場所だった。
お店に到着したらまずマスターに、石田さんによるザ・バンドのカヴァー「ザ・ウェイト(THE WEIGHT )」を流してほしいとリクエストした。けれど、リクエスト直後に、もし今その曲を聴いたら自分の感情が押さえられなくなりそうな気がして、すぐにリクエストを取りやめた。「実は自分もまだ石田さんの声やギターが聴けないんですよ」とマスターが言った。

それからほどなくして3人のお客さんがお店に入ってきた。その中の1人の顔に見覚えがあった。なんと、自分に最初に石田さんの訃報を伝えてくれたNさんだった。そして驚くことに、Nさんが紹介してくれたお連れの1人の女性が、昨年再婚したばかりの石田さんの奥さんだったのだ。
石田さんを想ってミナミで飲んでいたら、石田さんの訃報を伝えてくれたNさんと石田さんの奥さんに出会うなんて、偶然の巡り合わせにしても出来過ぎた話だ。

初対面だった奥さんから「石田が会わせてくれたんやねえ」と言われて、自分もそのように思えた。それからは皆で石田さんの話をたくさんした。自分も石田さんへの思いを語った。
「病床で石田はリクオさんの話を色々と聞かせてくれたのよ。石田はリクオさんのことがホントに好きだった。」奥さんからそう言ってもらって、自分はもう言葉が出なくなった。

石田さんには本当に色々とお世話になったけれど、まだまだお返しがしきれなかった。せめて、石田さんが自分にしてくれたことを、次の世代の人達にやっていけたらと思う。

後日Facebookの個人宛メッセージを通じて石田さんの奥さんから連絡をいただいた。その文章は「これからも石田長生を宜しくお願い致します。」という言葉で締めくくられていた。
自分は、これからも繰り返し石田さんのことを思い出し、色んな場所で石田さんの話をし続けるだろう。自分だけでなく、石田さんの音楽と人柄に触れたすべての人達の心の中から、石田さんの存在が消えることは決してないと思う。

ー2015年 7月24日

2015年5月23日土曜日

希望のための絶望の歌ー復活した遠藤ミチロウさんの歌を聴いて

今年の「祝春一番」3日目、5月5日大阪・服部緑地野外音楽堂のステージで、病から復活した遠藤ミチロウさん率いるバンド、THE ENDのライブを見た。病み上がり後の今年初ライブでは椅子に座ってのステージだったと人伝に聞いて、心配していたのだけれど、この日のミチロウさんは終始スタンディングで、声もよく出ていて、とてもエネルギッシュなパフォーマンスだった。

復活したミチロウさんを暖かく迎え入れようとする会場の柔らかい空気は、THE ENDの演奏が始まると一定の緊張感に支配されるようになった。自分は、ステージ上で「終わりの始まりだ」と歌い叫ぶミチロウさんの姿に圧倒されながら、その剥き出しの表現にどこか懐かしさのようなものも感じていた。
ミチロウさんの空気を切り裂く雄叫びは、3・11以降も知らないふりを決め込み、絶望に目を背け続ける社会に対する孤独な抵抗のように感じた。
「自分はどちらの側なのだろうか?」と考えた。多分、どちらの側でもある。
今のフクイチの状況のヤバさを感じながらも、ずっとそのこを考え続けることには耐えられない自分がいる。公の出来事と個人の暮らしはつながっているけれど、どこかで線引きをしないとやっていけないとも思う。世の中の嫌な空気には染まりたくないのだ。
絶望をキャッチし、受け止めて歌にするミチロウさんは、だからこそ強く希望を探し求めている。自分にとってミチロウさんの歌は、「希望のための絶望の歌」だ。

自分は流行歌や軽薄の衣装を着た音楽も好きだけれど、ミチロウさんのむき出しの歌の中に自分の表現の原点の1つがあると感じる。軽さや洗練を目指す一方で、その原点を忘れてはいけないと思う。そして、そのような歌や表現が今の世の中には足りないと感じる。自分も含め、多くの人間が時代の空気に流され過ぎなのかもしれない。流されてゆく中で、無自覚な自主規制が始まり、思考が停止してゆく。流されていいこともあるけれど、流されちゃいけないこともあるはずだ。

ミチロウさんの姿が「美しい」のはドロドロの醜さや絶望を吐き出す事を厭わないからだ。それは「きれい」とは別のものだ。たぶん「きれい」過ぎるものには本質が抜け落ちているのだろう。
こういうことを書いていると、自分の言葉に自身が突きつけられることになる。自分の表現は「きれい」過ぎはしないかと自問する。一見「きれい」に見えて、その実「美しい」表現ができたらなと思う。
言葉が抽象に走り過ぎかもしれない。

ステージ上のミチロウさんは何かヤバいこと、歌ってはいけないことを歌っているように感じた。それは、自分の中の自主規制やその場の空気を優先するセンサーがそう感じさせたのかもしれない。「本当のこと」はヤバいのだ。ミチロウさんは、「空気を読む」ことよりも「空気を切り裂く」ことを優先しているように感じた。
世の中にはそんなミチロウさんの歌に「違和感」を持つ人もいるだろう。自分も先日のミチロウさんのステージに、共感と同時にある種の「違和感」を持ったけれど、それは懐かしさや親しみを覚える「違和感」だった。そして、その感覚は今も尾を引いてる。きっと、その「違和感」の中にこそ「本当のこと」は隠されている。ただ気持ちがいい、心地良いだけが音楽ではないのだ。

「終わりの始まりだ」と叫ぶミチロウさんの姿を見て、3・11直後に自分が最もリアリティーをもって受け止めたメッセージを思い出した。
「終わりを始めなければ、新しい未来は始まらない。絶望の暗闇に向き合わなければ、希望の光は見えない。」
自分は3・11以前もそのようなことを思い、歌にもしてきたはずだけれど、3・11直後、それらの言葉の意味やリアリティーが明らかに変わった。言葉に強い実感がともなったのだ。その時の記憶を大切にしたいと思う。
あれから自分達はどれほどの絶望に向き合えたのだろう。

ミチロウさんのことを考えながら、社会のことを考え、最終的に自分のことを考えていた。自分が「ロック」だと感じる音楽には、娯楽をこえて、そのような作用がある。
ー2015年5月23日(土)

2015年4月2日木曜日

はかめく思いー桜の季節に

桜並木の続く川沿いの通りで自転車を止め、短い花見をすませた後、喫茶店に入り、このブログを更新している。今日の藤沢は風が強く、8分咲きの桜の花もはらはらと散り始めていた。

桜の季節を迎えると心が不安定になりがちだったのが、近年はそうでもなくなった。桜が満開になり散ってゆく過程で、今も感傷的な気分にはなるけれど、それで心のバランスが崩れて鬱々とするようなことはなくなった。
この時期に忙しくすることが多くなって、不安定になる余裕がなくなってしまったのかもしれない。或は自分の感性がにぶってしまったのだろうか。そう言えば、この時期ひどかった花粉症もほとんど治ってしまった。

自意識過剰で過敏だった若い頃と比べれば、今は心が安定している。涙腺は緩くなったけれど、気持ちを引きずる事が少なくなった。自分のことばかり考えていたあの頃よりは、色んな意味で生きやすくなった。
割り切れない気持ちがなくなったわけではないけれど、その思いを心のどこかに置いたままバランスをとって生きてゆく術に長けてきた気がする。体験の積み重ねが、自分を以前よりもタフにしたことも確かだろう。

こういうことを書いていると、なんとなく寂しいような気持ちにもなる。
タフになるということは(あくまでも当時に比べれば)、ある種の感受性を鈍らせるということかもしれない。あの頃に戻りたいわけではないけれど、あの思いを失なってしまうことに対する寂しさがどこかにあるのだろう。
ただ、若い頃の自分は過敏ではあったけれど、他者に対しては今よりも鈍感で、今以上に平気で相手を傷つけた。で、それが結局ブーメランになって自分に返ってきた。もう、そんな頃に戻りたいとは思わないし、そもそもどんな時代にも戻りたいとは思わない。生まれ変わりたいという欲求も希薄だ。めんどくさいと感じる。一生一度でいいかなと。そう考えた方が、日々を大切に生きてゆけるような気もする。

ツアー先の弘前で聞いた「はかめく」という方言にインスパイアされて、’06年に「はかめき」https://www.youtube.com/watch?v=72MnBTIxMXo&feature=youtu.beという桜ソングを書いた。自分の中で大切な曲の1つではあったけれど、ライブのレパートリーとして定番になることはなかった。それが、なぜか’11年の東日本大震災以降、お客さんや知人からこの曲をリクエストされたり好きだと言われる機会が増えた。特に被災地の知人からそう言われる機会が多くて、理由がよくわからず不思議に思っていたのだけれど、昨年末にリリースしたライブ盤「リクオ with HOBO HOUSE BAND LIVE at 伝承ホール」に「はかめき」を収録するにあたり、何度もこの曲を繰り返し聴き、リリースを受けてライブでも演奏する機会が増える中で、その理由がなんとなく自分なりにわかるような気がしはじめた。

心の柔らかい部分を失わずにいるということは「痛み」をともなう。その過去がつらいのは、その相手や場所や出来事に強い「思い入れ」が存在したからだ。その過去を忘れてしまうことは、その相手や場所や出来事を心の中から消し去ることだ。
たとえ「痛み」をともなっても失いたくない記憶がある。そして、「痛み」をともなっても忘れちゃいけない過去もあるはずだ。最近は、立ち止まり振り返ることの大切さを感じている。

なんだか考えがまとまらぬままに書き綴ってしまった。やはり桜の季節のせいかもしれない。
ー2015年4月2日(木)

【告知です】今週末4月5日(日)下北沢GARDEN 公演を皮切りに、自分がコーディネイトする毎年恒例のコラボセッションイベント『HOBO CONNECTION 2015』が、今年も日本各地で9公演開催されます。最近は、レコーディングと平行して日々イベントの準備に追われています。「一期一会」という言葉がこれほどふさわしいイベントは他にないと自負しています。 初日5日(日)下北沢GARDENでは、チャボさん、金子マリさん、奇妙礼太郎とセッションしまくります。ベースは寺さん、ドラムの椎野さん。ぜひ観に来て下さい。
web site http://www.rikuo.net/hoboconnection/
FB page https://www.facebook.com/HOBOCONNECTION/
最近、BARKSに掲載されインタビューで「HOBO CONNECTION」について語っています。イベントの趣旨や意義が伝わる内容です。
http://www.barks.jp/news/?id=1000113784

2015年3月11日水曜日

立ち止まり振り返り、問い続けるー2015年3月11日に思う

東日本大震災から4年の歳月が流れた。
夕方、スタジオでのリハーサルを終えた後、カフェに立ち寄り、コーヒーをすすりながらパソコンを開き、’11年3月11日以降にアップした自分のブログを読み返した。
当時の記憶と気持ちが少しずつよみがえってくるのを感じた。不安、哀しみ、怒り、後ろめたさ、後悔を含んだ、なんともやりきれない思い。当時の感情のすべてを思いだしたくはない。つらくなるからだ。けれどそのつらさは、被災して身内や知人を失った人達、放射能汚染によって故郷を離れざるをえなくなった人達のそれに比べれば軽い。

先月、地震による津波で甚大な被害を受けた南三陸と石巻を訪れたときに、地元の知人達が口々に「3月11日が近づくと心が重くなる」と語っていたことを思いだす。あまりにも悲しくつらい記憶は、忘れたくても忘れ去ることができないのだ。3月11日に思いだすべきは、他人事として日々を過ごしがちな自分であり、あなたなのだろう。

今から3年前の2012年3月11日にブログにアップした文章を、再び掲載します。東日本大震災から4年を経て、前ばかり向くのではなく、立ち止まり振り返り、問い続けることの大切さを感じています。


●2012年3月11日(日)1年を経てー「希望」のための告白

「自分は、被災した人達と、思いを一体化させることはできない」
 わかっていたはずのことだけれど、昨年5月、震災後に初めて、被災地である石巻、女川、南三陸を訪れた時に、あらためてそのことを思い知りました。あまりにも大きな哀しみや絶望を受けとめるだけの想像力と心の容量を、自分は持ち合わせていませんでした。感情移入し過ぎると、自分が壊れそうな気がしました。

 この世は、あまりにも不条理に満ちていて、それらすべてを直視し、受け入れて暮らすことは、困難です。世界中の絶望に心のチャンネルを合わせることは不可能です。他者への想像力の大切さを感じる一方で、その想像力にリミッターがかかってしまうことがあるのも、仕方がないように思います。
 人は極度の不安と緊張に、長く堪え続けることはできません。だから、事態が収束もしていないのに、忘れようとしてしまう。オレもそうです。
 けれど、不安や絶望、矛盾に向き合わなければ、見いだせない希望があります。希望なしには人は生きていけない。だから、絶望に心のすべてを取り込まれないよう気をつけながら、その先の光に目を凝らさなければいけない。力み過ぎず、焦り過ぎず。

「人は互いに寄り添わなければ、生きていけない」
 そのことも被災地で強く感じました。そこでは、多くの人達が助け合い、いたわりあって生きていました。現地でのボランティアの皆さんの活躍には、頭の下がる思いでした。音楽を通して、被災地の人達と、ほんの少しでも繋がれたような気がしたことは、自分の救いになりました。震災後のやりきれない思いの中で、自分は音楽によって何度も救われました。
 そんな自分の行動には、自己満足や偽善も含まれていたと思います。被災地に何度も足を運んだ動機の一つには、「何かすることで、まとわりつく『後ろめたさ』を解消させたい」という都合の良い自分本位な思いがありました。高揚がおさまると、そういった自分の不純や矛盾に気づくことがありましたが、そのことで必要以上に自分を責めることは、やめるようにしました。行動には、そういう不純な動機も含まれるものだと思って、開き直ることにしました。ただし、これから生きてゆく上で、「後ろめたさ」とは、付き合い続けようと思います。

 人は「孤独」を抱えて生き続けることはできても、「孤立」に堪え続けて生きることはできないと思います。自分達の他者への無関心が、多くの人を孤立化させるだけでなく、結局、自分自分も孤立化させてしまうのだと思います。だから、しんどくても、その想像力のリミッターをはずさなければいけないときがあります。
 そのときに、きっと自分自身の心も傷つきます。だから心が壊れてしまわないよう、自分自身をいたわることも忘れずにいようと思います。

 最後に、去年(2011年)の3月16日のブログに掲載した詩を、あらためて掲載します。
 この詩を書いた時の自分は、東北から離れた場所にいて、不安と絶望に心を苛まれていました。被災した人達のことも想いました。自分の無力さに、やりきれない気持ちで一杯でした。そんな気分の中で、言葉を探し、メロディーを思い出そうとしたのは、つまり、どうにかして「希望」を見いだしたかったからです。そのときの思いを忘れずにいようと思います。
 一体にはなれなくても、繋がりたい。方々を巡りながら、その方法を探し続けてゆくつもりです。    
       ーリクオ           


しばらくテレビのニュースを消して、パソコンも閉じて、心を鎮めてみる。
自分の弱さ、脆さを嘆くのはやめる。認めてやる。
そらしゃあない。
自分にとって大切なものは何?
つないだ手のぬくもりを思い出す。
忘れかけていたメロディーを口ずさむ。
少し無理をしてバカなことを言ってみる。
結構受けた。
笑顔にほっとした。
自分の中にあった優しさを思い出す。
希望を思い出す。
勇気を思い出す。

新しい暮らしが始まる。
新しい生き方を探す。
一人ではなく。
哀しみを忘れない。
後悔を忘れない。
後ろめたさも忘れない。
でも、引きずらない。
力み過ぎない。
祈り続ける。
歌い続ける。
新しい言葉とメロディーが生まれる。
呼吸を整えて、元気を出す。

2015年2月17日火曜日

「飲酒演奏」と「哀しみ」と「おかしみ」と「慈しみ」と「グルーヴ」と「ブルース」の関係についてー木村充揮さんとの共演で感じたこと

先日、自分が暮らす藤沢市のライブハウスGIGSで行われた木村充揮さんのライブに、特別出演という形で参加させてもらった。元々は、昨年11月に同店で共演予定だったのが、木村さんが急病でライブ前日に緊急入院となり、出演がキャンセルになってしまったことを受けて、今回あらためて企画され、3ヶ月越しに実現した共演だった。
この日、自分のステージを終えた後は、客席でお酒を飲みながら木村さんのライブを楽しませてもらった。実に味わい深い素敵なステージだった。自分の原点の1つと言える表現がそこにはあった。

空気を読むだけでなく、時には敢えて空気を壊す、緊張と緩和を操るようなステージング。歌い出したその瞬間に、場の空気を一瞬に掴んでしまうその凄みに、何度もしびれた。
そして、あの哀愁感。哀しくておかしい。おかしくて、やがて哀しい。
そこにはいつもグルーヴがある。どんな曲調でも身体が揺れるのだ。自分は、こんな音楽を「ブルース」と呼びたい。

木村さんは入院前と変わらずの飲酒演奏だった。その酒量は、多分、客席にいる自分の飲酒量を超えていた。それだけ飲める程、体力が回復したとも言えるけれど、やはり少し心配にもなった。まあ、自分が言うのもなんですが。
ステージ上で酒を飲み、タバコをくゆらせる姿がこれほど様になる人は、木村さん以外には有山じゅんじさんくらいしか思い浮かばない。

木村さんや有山さん、そして自分がステージで飲酒するのは、一種の依存だと思う(オレは飲まずに演ることもあります)。不安や緊張、疲れから解放されるためである。飲酒演奏がここまで定着してしまうと、お客さんや企画者側からそれを期待されるようにもなるので、ニーズに応えようとする側面も出てくる。それで、余計に酒量が増えてしまう。
そういった日々の積み重ねは確実に身体にダメージを与える。それがわかっていても飲んでしまう。酔ったノリでその夜がサイコーに楽しくもなるし、翌日に落ち込んだり、体力、気力ともひどく消耗したりもする。

木村さんや自分が演奏する機会の多いライブハウスやバーと言われる空間は、酒の存在を切り離すことのできない猥雑さを多分に含んだ場だ。けれど、そんな空間の中でもステージ上は、神聖さを多いに含んだ場所だ。つまり、ライブスポットは猥雑と神聖が同居する空間なのだ。飲酒するのは猥雑さのせいだけでなく、そこが常に何かと共鳴し合い、何かを生み出すための神聖な空間だからだ。
言い換えれば、ステージはすごく覚悟のいる、楽しいけれど、とても怖い場所だ。数百回、何千回ライブをこなしてもその意識は多分変わらない。

「酒は人間をダメにするものではない。人間は(本来)だめなもので、それをわからせてくれるものが酒だ。」

文章を書き連ねるうちに、この立川談志の言葉を思いだした。
木村さんはどうしようもない自分自身のことを知っている。そんな自分を抱えてステージに上がる。だから表現のベースにはいつも「哀しみ」がある。
木村さんがステージでお酒を飲み、お客さんがそれを受け入れるのは、自身を含めたどうしようもない「人間」という存在に対する肯定であり共感なのかもしれない(念のために言っておけば、先日の木村さんの演奏は、どれだけ酒が進んでも、崩れることのない素晴らしいものだった)。そう言えば、立川談志は「落語とは人間の業の肯定である」とも言っていた。自分が思う「ブルース」の精神もそのようなものだ。
木村さんの「哀しみ」は「おかしみ」となり、それらは「慈しみ」によって包み込まれる。「天使のダミ声」とはよく言ったものだなあと思う。木村さんの音楽と人となりは一体化していて、それらは聖と俗を併せ持っている。
どうしようもない「人間」に対する眼差しの優しさと共感。どんな時代に生きていても、この大切な感性を失いたくないし、奪われたくない。自分も大切に育んでいきたいと思う。

先日のGIGSライブのアンコールでは、この日のオープニングで演奏した心平(近田心平)とMai-kouちゃんも参加して、出演者全員で「お掃除おばちゃん」と「見上げてごらん夜の星を」の2曲をセッションした。26歳と20歳の2人は、ステージ上で、客席で、楽屋で、この先人から何を感じ取ったのだろう。遺伝子が引き継がれたらいいなと思う。

木村さんも有山さんも、少しは身体をいたわって長生きしてほしいと心から思う。オレも身体気いつけます。
4月には大阪でまた木村さんと共演予定です。関西の方、ぜひ。
ー2014年2月17日(火)

●4/24(金)大阪・シャングリラ 06-6343-8601
「HOBO CONNECTION 2015~シェキナ・コネクション ~」
出演:高木まひことシェキナベイべーズ/木村充揮/リクオ/本夛マキ/安藤八主博(ザ・たこさん)
前売り¥3500/当日¥4000(1D別)
open 18:30/start 19:00
2/14(土)チケット発売開始
ローソン/ぴあ/イープラス
問)06-6343-8601


●リクオがオーガナイズするコラボ・セッション・イベント「 HOBO CONNECTION 2015」が4月より全国各地9公演開催!詳細→ http://www.rikuo.net/hoboconnection/



2015年1月29日木曜日

よし、明日へ行こうー「公の問題」と「私的な問題」と「もやもや」との関係

特別なライブを明日30日にひかえて、どうにも気持ちが落ち着かない。
「公の問題」と「私的な問題」がごっちゃになって切り離して考えることができずにいる。ニュースも気になるし、明日のことも考えるし、明日以降の仕事の準備もしなきゃいけない。やるべきことは多いけれど、心が「もやもや」したままで一つに集中できない。

午後になって自宅を出て、いつものように海沿いをチャリンコで走り、いつもの場所にチャリを置いて、しばし海を眺めながら体をのばしたり深呼吸繰り返したりした後、近くのファミレスへ行く。この街に越してきて以来続いているルーティーンに近い行動パターンだ。
ファミレスでランチをすませた後は、パソコンを開きながらコーヒーを何杯もおかわりして、そのままお店に居座り続ける。TwitterやFacebookのタイムラインを眺めていると、時間がどんどん過ぎてしまう。なんとなく罪悪感を覚える。
「もやもや」が消えないので、久し振りにブログをアップすることにした。




「公の問題に押しつぶされず、それぞれが関わる身近なものを、一番大切に生きるべきだ」という吉本隆明の言葉を時々思いだす。その通りだと思う一方で、「公の問題」と「私的な問題」を、完全に切り離すことは難しい。つきつめてゆけば、当然のことながら「公の問題」も他人事ではなく「私的な問題」とつながっているからだ。
「戦争に反対する唯一の手段は、各自の生活を美しくして、それに執着することである。」
作家の吉田健のこの言葉を自分のオリジナルである「パラダイス」という楽曲のエンディングの語りで、よく引用させてもらっている。こういう言葉に対しては、昔なら「プチブル」的であるとのレッテルが張られたりしたのだろうけれど、今もまた同じ意味のことを言われそうな空気を感じることがある。だから、最近この言葉を引用するときは、場によっては受け取る側の違和感を想像して、少し緊張したりする(意識過剰だと思う)。そんな状況だからこそ余計に必要な言葉だとも思うけれど。

ここ最近「公の問題」と「私的な問題」が重なって、軽い「孤立感」にに苛まれていたりする(そういう感情はそう長くは続かないけれど)。文章にしてしまうと深刻にとられ過ぎてしまうかもしれない。回りにこれだけよくしてもらって「孤立感」なんて言葉を出すのもどうかと思うけれど、誰もが日常の中にふと抱く感情だと思う。
3・11以降、思うところがあって、以前よりも社会にコミットすることを意識するようになり、社会的な発言をする機会が増えていたのだけれど、最近そういうことに関して自分の考えを表明する機会が少し減っている。
さまざまな出来事に対して思うところはあるけれど、なかなか言葉にまとまらず、はっきりした答をすぐに出せないことも多いので、流されて無理に意見や考えを述べるのをひかえている感じた。このブログの更新が滞っているのもそのことが一因になっていると思う(あと、忙しくて心の余裕がない)。
考えてみれば、自分がどの立場にも依りきれないという「孤立感」は、3・11以降、多くの人が自分と同じ思いを持っているという連帯感と平行して、ずっと抱え続けていた思いだった。そして、その「孤立感」が「もやもや」をもたらす一因となっている。
この「もやもや」は、はっきりとした答を自分の中で導き出せないことも一因なのだろうけれど、ならば、無理に解消するのではなく「もやもや」を抱え続けようかとも思う。それで曲ができれば、なおよい。でも、音楽生活の中では楽しいことも多くて、すぐに「もやもや」を忘れてしまいがちなのだ。

そういった思いを抱えているときに、朝日新聞デジタルに掲載された作家・高橋源一郎の文章「熱狂の陰の孤独 『表現の自由』を叫ぶ前に」に出会った。
http://digital.asahi.com/articles/DA3S11574914.html?_requesturl=articles%2FDA3S11574914.html&iref=comkiji_txt_end_s_kjid_DA3S11574914

文中の言葉を以下に引用させてもらう。

 テロにどう対処するのか、政府や国家、「国民」と名指しされたわたしたちは、こんな時どうすべきなのか。わたしにも「意見」はある。だが、書く気にはなれない。もっと別のことが頭をよぎる。
 動画を見た。オレンジの「拘束衣」を着せられ、跪(ひざまず)かされ、自分の死について語る男の声をすぐ横で聞かされながら、ふたりはなにを考えていたのだろうか。その思いが初めにある。「意見」はその後だ。
 同時代の誰よりも鋭く、考え抜かれた意見の持ち主であったにもかかわらず、スーザン・ソンタグは、「意見」を持つことに慎重だった。
 「意見というものの困った点は、私たちはそれに固着しがちだという点である……何ごとであれ、そこにはつねに、それ以上のことがある。どんな出来事でも、ほかにも出来事がある」
 そこにはつねに、それ以上のことがある。目に見えるそれ、とりあえずの知識で知っているそれ。それ以上のことが、そこにはある。そのことを覚えておきたい。なにか「意見」があるとしても。


これらの文章に触れて、少し腑に落ちたような、救われたような気持ちになった(と同時に、人の意見で無理に自分を納得させてはいけないとの心の声も聞こえてくるけれど)。さらに引用を続ける。

 襲撃事件から数日後、「二十世紀のもっとも偉大な風刺漫画家」ともいうべきアメリカ人ロバート・クラムのインタビューが掲載された。彼は四半世紀にわたってフランスに住んでいたのだ。
 クラムは、ことばを慎重に選びながら、「表現の自由」を守れと熱狂するフランスへの静かな違和を語った。
 「9・11の同時多発テロの時と同じだ。国の安全保障が最優先され、それに反するものは押しつぶされるのだ」
 「それで、あなたは何をしているのですか?」と記者は重ねて訊(たず)ねた。
 「わたしは(風刺)漫画を描いた。ひとりの臆病な(風刺)漫画家としてね」
 クラムは「意見」を述べるのではなく、漫画を描くことを選んだ。


クラムが漫画を描くことを選んだように、自分の最大の表現の場はやはり音楽だ。テキトーなくせにどこかマジメで、臆病なくせに時々妙な正義感に左右され、常に引き裂かれている、そんな自分に向き合い、ユーモアとグルーヴを忘れずに、表現し続け、皆との解放空間をつくり続けたいと思う。
とにかくまずは、明日のライブですべてを昇華させよう。一つのことに集中し、瞬間にすべてをささげ、その瞬間を皆で共有する場を与えられているのは、本当にありがたく幸せなことだ。
お時間許す方、明日30日(金)下北沢GARDENに来て下さい。サイコーのメンバーと一緒にサイコーの「HAPPY DAY」にします。

しめが宣伝とお願いになってしまい、なんだかなあと思いつつも、これが本心です。
よし、無事を心より願いながら、明日へ行こう。

今年も、「もやもや」したり、立ち止まったりしながら、基本的には面白おかしく日々を過ごし、少しずつ前に進んでゆくつもりです。また時々、ブログも更新します。お付き合いの程、よろしくお願いします。
ー2015年1月29日(木)


1/30(金)東京 下北沢 GARDEN 03-3410-3431
『リクオ with HOBO HOUSE BAND Live at 伝承ホール』アルバム発売記念ライブ
開場18:30 開演19:30 前売¥4500 当日¥5000(いずれも飲食別)
【出演】リクオ with HOBO HOUSE BAND
笹倉慎介(ギター&コーラス)/椎野恭一(ドラム)/寺岡信芳(ベース)/ 宮下広輔(ペダルスティール)/橋本歩(チェロ)/阿部美緒(ヴァイオリン)/真城めぐみ(コーラス)
メール予約: reserve@rikuo.net (当日15:00まで受付)



2014年11月12日水曜日

広島土砂災害の安佐南区で「新しい町」を歌って感じたこと

ソウルフラワーユニオン中川敬君との「うたのありか 2014」ツアーの最中、先週8日に土砂災害で甚大な被害を受けた広島の安佐南区を訪れ、地域の集会場で中川君と2人で地元の方々を前に出前ライブを演らせてもらった。

午後2時頃、安佐南区に到着したら、早速地元の方が各被災場所を丁寧な説明を交えながら案内してくれた。
被災の様子を実際に目の当たりにして、その規模と被害は自分の想像を超えていた。ここまで広範囲で深刻な被害状況であったとは、テレビやネットの情報だけでは実感できなかった。




凄惨な現場を多く目にして、3.11から2ヶ月後に東北の被災地に入って目にした光景と、そのときの何とも言えない気分がフィードバックした。
地元の方の説明では、被害を受けた一帯は、高度経済成長期以降に山を切り崩して建てられた住宅街で、住民は70歳以上の高齢の方が多いのだそうだ。
住宅街の道は、どこも車1台がぎりぎりと通れるくらいに狭く、入り組んでいた。山に向かう坂道は相当な急勾配で、高齢の方が暮らすには厳しい環境に思えた。
各被災場所を見て回って、この一帯は町づくりにおいて充分な計画性と安全性の配慮が足りなかったのではないかという疑問を持たざるえなかった。

案内してくれた地元の方は、70人を超える死者の数ではなく、その場所で無くなられた1人1人個人の死について、その顔が思い浮かぶように丁寧に語って聞かせて下さった。それは感情を押さえた静かな語り口だった。
30代でこの場所に越してきて、念願のマイホームを手に入れ、こつこつ働いて、ようやく子育てを終え、この地を終の住処として夫婦で70代を迎え、被災された方の姿を想像すると、自分がこの場で感じた疑問や割り切れない気持ちを言葉にするのは憚れた。

夜のライブでは、集まってこられる方の中に家をなくしたり身内や知人を亡くされた方がおられること等を想像して、選曲に気を配った。当日になって当初予定していて選曲からはずされた曲もあった。
集会場には、まさに老若男女たくさんの地元の方が集まって、会場内に入りきれない人達は会場の外で、演奏を楽しんでくれた。演歌、民謡、アニメソングを交えた普段とは違った選曲で、ライブは終始大盛り上がり、涙と笑いに満ちた一期一会になった。「満月の夕」を演奏中、集まった人達の表情を見ていたら、なんとも言えない気持ちがせまってきた。歌の力を感じずにはいられなかった。



今回の中川くんとのツアーでは、カンサス・シティ・バンドの下田卓さんが、東日本大震災の被災地復興を願ってつくった歌「新しい町」をカヴァーさせてもらっている。この歌は単なる「復興」を願うだけではなく、戒めと祈りを込めて町が新しい価値観で生まれ変わることを願った歌だと自分は解釈している。
https://www.youtube.com/watch?v=FYd6iLlBVZs
当初、この曲こそ安佐南区で歌うにふさわしいと考えていたのだけれど、現地を訪れ被災地を見て回った後には、この歌をこの場所で歌うことに少しの躊躇を感じた。その躊躇には根本的な問いかけが含まれていた気がする。

3・11以降、あれだけの大きな災害と事故を経て、戦後の経済成長がとても大きなリスクとツケを背負って成り立っていたことを、多くの人が自覚させられたはずだ。けれど、あれから3年8ヶ月以上が経過して、その自覚は再び薄れつつあるように思う。
安佐南区を訪れて感じたことの1つは、残念ながら、これから戦後の経済成長主義のツケがさまざまに返ってくることを覚悟しなければいけないのではないか、ということだ。せめて今後は、次世代のためにも、そのツケを増やさない方向に向かうべきだと思う。

ライブ後は、ボランティア、地元の皆さんと屋外でテーブルを囲んで、この日の炊き出しの芋煮と焼きサンマをいただき、焼酎のお湯割りをチビチビとやりながら、語り合った。
自分の隣に座った若者は災害後、東京の仕事を辞めて故郷であるこの地に戻りボランティア活動を続けているのだそうだ。これからは地元で暮らしてゆくつもりだそう。

この日の夜空にはミラクルムーン直後の素晴しい満月が輝いていて、皆がその満月を携帯で撮ろうとするのだけれど、その美しさの百分の一もおさめることができないでいた。’11年の5月、初めて被災地入りした石巻でも、街灯りが消えた中で、夜空に満月が輝いていて、皆で見とれていたことを思いだした。


土砂災害以降、安佐南区には述べ5万人を超えるボランティアの人達が集まったそうだ。受け入れ態勢ができていない中で、一度にたくさんのボランティアが集まり過ぎて、一時は混乱が生じたという話も聞いたけれど、日本にボランティア活動の意識が根付いたのは素晴しいことだと思う。この日の出前ライブも各地から集まったボランティアの人達よって企画された。
3・11以降、被災地でボランティア活動をする何人もの人達と出会ってきたけれど、彼らの中には地元の人達との出会いと交流の中で、その後被災地に移り住んだり、その土地で家庭を持った人もいる。
「新しい町」は、元々その町に暮らす人達だけでなく、他から集まった多くの人達とともにつくられてゆくのだろうと思う。

ー2014年11月12日(水)