2012年9月30日日曜日

UMISAKURA MUSIC FESTIVAL 2012」に参加して感じたことー「LONELY」を経た「TOGETHER」

今年のUMISAKURA MUSIC FESTIVAL (以後「海さくらフェス」と表記)は、江ノ島から三浦市三崎町にあるシーボニア野外に場所を移して開催された。今年から自分は、ミュージックプロデュー サーという役割を終えて1出演者としての参加になったけれど、このフェスに対する思い入れは、立場が変わっても特別だ。
会場では、各地方からやってきた多くの知人と再会することができた。今年は特に、東北の被災地から足を運んでくれた人達が多かった。
 イベントを主催する海さくらのスタッフの中には、お客としてこのフェスに参加したことがきっかけでスタッフになった人が何人もいる。
 とにかく年を重ねて、スタッフ、お客、出演者を問わず、知った顔がどんどんこのフェスに集まるようになった。海さくらフェスは、ただ1日の刹那的なお祭りの場ではなく、「繋がり、持続してゆく何かが生まれる場所」なのだと思う。
 このような場を作った張本人は、海さくら代表の古澤君である。彼とは、考えの違いでぶつかり合うこともあったけれど、その情熱と誠実さに裏切られたことは、今迄一度もない。
 今回司会を勤めたルー大柴さんと内田恭子さんも、古澤君の情熱に巻き込まれた人達だ。特にルーさんは今年に入ってから、海さくらが主催する江ノ島でのゴ ミ拾いにも参加し、復興支援のため古澤君らと何度も被災地を訪れている。単にメジャーな人を呼んで司会をしてもらったという関係性では全くないのだ。
 この日会場に足を運んでくれた人達には、そういった関係性の中で、このフェスが成り立っていることが伝わったんじゃないかと思う。関わっている人達の熱量、思い入れ、繋がりがこれだけストレートに伝わるイベントもなかなかないと思う。
 今年の海さくらフェスには「TOGETHER」というサブタイトルがつけられた。自分は勝手に、その言葉の裏に、長い孤独な時間の積み重ねをイメージした。自分にとっての「TOGETHER」は、「LONELY」を経てこそ成り立つものだ。
 イベント終了後に会場で、福島県相馬市から足を運んでくれた知人夫妻としばらく話をさせてもらう時間があった。震災以降、メールと電話では何度もやりと りしていたけれど、こうやって顔を付き合わせてしっかりと話をさせてもらうのは久し振りのことだった。
 3.11以降の2人の思いをダイレクトに受け取って、色々と感じるものがあった。しばらく話をした後に、「やっと話すことができました」と話す2人の表 情が、なんだか少し肩の荷が降りたといった感じだったのが、印象に残った。誰にでも話せる思いではなかったのだろう。多分2人は震災以降、多くの人達と支 え合う一方で、さまざまなことに気づいてしまったが故の孤独感、孤立感、違和感も深めていたのではないかという気がした。
 この日の会場には、スタッフ、出演者も含めて、震災以降、2人と同じような気持ちを抱いていた人達が多く集まっていた気がする。そういう人達が
「TOGETHER」できる場所が、海さくらフェスだった、と言えば大げさすぎるかな。この日の海さくらフェスには、「LONELY」を経た「TOGETHER」が、方々で成り立っていたと思う。
 この実感を大切に、次につなげてゆきたいと思う。

2012年9月10日月曜日

フクシマで「アリガトウ サヨナラ 原子力発電所」を歌う

16日に京都の実家で大文字の送り火を見た翌日、東北の福島市に向かい、福島駅近くで開催されたサーキット形式の街フェ ス「福島クダラナ庄助祭り」に参加させてもらった。イベントの首謀者は、ミュージシャンのマダムギターこと長見順さん、ギターパンダこと山川のりをくん、 そして漫画家のしりあがり寿さん。この3人が関わっているだけあって、他のフェスではお目にかかれないであろう実に多彩で個性的なアーティストが福島に集 まった。
 今の福島であえて「意味のないくだらないことをやる」には、それなりの信念や決意が必要だったに違いない。けれど、自分の見た限り、このフェスには、信 念とか決意とかいった堅苦しい言葉がちっとも似合わないユルい空気がそこかしこに漂っていた。まさに、その空気こそが、このフェスの目指そうとしたもの だったのだろう。
 自分も、この日は、いつも以上に堅苦しいこと抜きに、楽しいステージを心掛けるつもりではいたけれど、あの曲は避けて通るわけにはいかなかった。東北の 地で「アリガトウ サヨナラ 原子力発電所」を歌うのは、この日が初めてだった。集中して、力み過ぎず、想いを込めて、歌うことができたと思う。

 YouTubeでこの曲を公開して以来、東北に暮らす何人もの知人から連絡をもらった。彼らの曲への感想を通じて、3.11以降、東北に暮らす人々が抱え続けている想いの一端を知ることができたような気がした。
 福島県いわき市のライブハウスSONICのスタッフでもあるシンガーソングライターの三ヶ田圭三君は、この曲をライブでカヴァーして東北各地で歌ってく れているそうだ。三ヶ田くん以外にも、数人からこの曲を歌いたいとの連絡をもらった。どんどん歌ってもらいたい。
 山口洋のセッティングで4年前に熊本で1度だけ共演させてもらった大先輩ミュージシャン野田敏(ex.メインストリート)さんから、先日、思いがけない 電話をいただき、「アリガトウ サヨナラ 原子力発電所」への感想を聞かせてもらった。「こういう歌を歌ってくれる人は今迄いなかった。歌ってくれてありがとう」敏さんから、こんな言葉をもらっ て、とても勇気づけられた。
 6月に曲を書いて公表して以来、曲を通して、さまざまな想いに触れ、いろいろと考えさせてもらっている最中だ。そのことによって、歌への向き合い方にも 変化が生まれ、自然、歌唱法も、短期間で随分と変わった。今は、歌い始めた当初より、もっと静かな気持ちで歌に向き合っている感じ。歌に込める祈りの要素 が強くなった気がする。そういう期間を経ていたから、フクシマでも意識過剰になることなく、落ち着いて歌えたのかもしれない。
 
 うだるような暑さの中で、この日の福島市街は、平静を装うように落ち着きはらって見えた。線量の高さは目には見えないのだ。福島に来て、なるべく地元の 人達の話を聞きたいと思っていたのだけれど、やはり1日滞在したぐらいでは、福島の現状は把握できないと思った。
 イベント会場で出会ったある東北の被災した街で暮らす知人は、自分に会うなり、地元の厳しい状況を吐き出すように話し続けた。「3.11直後は皆が協力 し合っていたけれど、余裕のない状況が続く中、次第にそれぞれの立場に違いが出てきて、『絆』という言葉が空々しく響きはじめている。」そんな話だった。
 原発事故の影響で線量の高い東北の街で暮らす知人からはこんな話を聞いた。「今、地元で自分の考えを述べることには、とても慎重になる。特に原発の話 は、同じ街に住んでいても、それぞれに立場、考えの違いがあるので、どうしても同じ考えの人同士でばかり話すことになる。」つまり、立場の違う者同士が、 議論、対話することが難しい状況だというのだ。
 これらの話を聞かせてくれた人達は、その状況をただ受け入れて嘆くだけでなく、どうにか変えてゆきたいと願い、自分なりのやり方で動き続けている人達 だ。自分は、彼らとの出会いを大切に、良き時間をシェアすることで、場をつなぎ、縁をつなぎ続けてゆけたらと思う。これからも何度でも東北に戻ってくるつ もりだ。
 9月末からはバンバンバザールと、10月後半からは、ケイヤンと一緒に東北をツアーする予定。最高の空気を集まった皆さんと一緒につくりたいと思う。

2012年8月23日木曜日

過去・現在・未来ー金沢・もっきりや、京都・拾得、里帰りライブ

8月11日の金沢・もっきりや、12日の京都・拾得でのライブは、自分にとって里帰り的要素の強いライブになった。
 初めてもっきりを訪れたのは、16歳の夏だった。当時、3つ上の姉が金沢の大学に通い、もっきりやでアルバイトを初めていたで、夏休みを利用して、会いに行ったのだ。
 そのとき、姉のはからいで、もっきりやでジャズピアニスト、山下洋輔さんのトリオ編成のライブを最前列で観させてもらった。
 最初は、目の前で繰り広げられるインプロビゼーションの嵐と、山下洋輔さんの打楽器のような激しいピアノプレイに、ただただ圧倒されていたのだが、その 内に頭がボ~っとしてきて、ライブ途中から、こともあろうに客席最前列でふらふらと船を漕いでしまった。
 とは言え、悶々とした日々を過ごしていたティーンエイジャーにとって、そのときに体験したライブのインパクトは強烈だった。演奏だけでなく、ライブ空間 のあり方そのものが、10代の自分に強い印象を残した。多分、あの時が「コンサート」とは違う「ライブ」というものを初体験した瞬間だったのだろう。その 日から、もっきりやは自分にとって憧れの場所になった。
 あれから30年以上の歳月が流れ、自分は16年前から演奏者としてもっきりやに通うようになった。マスターの平賀さんの印象は、高校生の時に初めて出 会った当時から、ほとんど変わらない。平賀さんは今も、音楽にときめき、憧れ続ける素敵なロマンチストだ。
 ツアーでもっきりやに到着したら、まずカウンター席に座って、平賀さんが入れてくれたコーヒーを飲みながら、スピーカーから流れる音楽に耳を傾け、音楽 談義に花を咲かせるのが、1つのセレモノーのようになっている。好きな曲のことを嬉しそうに思い入れたっぷりに語っている時の平賀さんは実にチャーミング で、こちらも幸せな気分になる。人を最も遠くへ連れて行ってくれるのは、きっと想像力なんだろう。平賀さんは、歌の中で何度も恋に落ち、終わることのない 旅を続ける「カウンターの中の旅人」だ。その恋は成就することがないから「カウンターの中の寅さん」とも言えるかも。
 もっきりやでは、無理せず自然に、たくさんのインスピレーションを受けながら演奏することができる。自分の可能性が引き出される感じ。この日も、まさにそんなステージになった。この感覚を忘れずにいたい。

 京都・拾得のステージに初めて立ったのは、自分が大学2回生だったか、3回生だったか。とにかく、それから4半世紀以上の歳月が流れたけれど、拾得の印象も、マスターのテリーさんの印象も、当時とほとんど変わらない。
 この日、拾得の入り口のドアを開けるとき、少しドキドキした。緊張と期待で胸を膨らませていた25年前の感覚がよみがえった気がした。
 拾得でワンマンライブをやらせてもらうのは、7年半振り。思い入れたっぷりの長いライブになった。
 この日は、学生時代からの音楽仲間で、80年代後半から、ずっと拾得のステージに立ち続けている中島英述(shakin' hip shake)と西山元樹(DayBreakers)をゲストに招いた。この機会を逃したら、今度いつ2人と同じステージに立てるかわからない。自分にとっ ては、とても貴重なタイミングだったのだ。この日のステージにおいて、2人は、自分の過去と現在を繋げてくれる存在でもあった。
 この日は、自分にとって嬉しいサプライズがあった。同じく学生時代からの音楽仲間であるサックス奏者の小松竜吉(ex大西ユカリ&新世界)が、前日に フェイスブックを通じて、この日のセッションに参加したい旨の連絡をくれのたのだ。断る理由はなかった。4人の出演者全員が互いに、学生時代からの音楽仲 間であり、長い歳月を経て、このように拾得のステージで再会を果たせることが、嬉しくて誇らしい気がした。音楽で食っていようが、いまいが関係なく、好き な音楽をずっとやり続けてきたからこそ、実現することのできた再会なのだ。
 ルーツを共有し、ずっと大切にしてきた4人だから、長い歳月を経ても、違和感なく音を交わし合うことができた。とても楽しくて、感慨深いセッションになった。この再会を皆が喜んでくれたのが、ほんと嬉しかったなあ。
 拾得は来年、お店をオープンしてから40周年を迎える。ライブの後に、マスターのテリーさんと奥さんのふうさんから、来年2月の40周年イベントへの出演のお誘いを受けたのも嬉しかったなあ。

 当たり前の話だけれど、今の自分は、過去からの積み重ねと、さまざまな出会いによって成り立っている。この日のゲスト3人も、拾得のテリーさんも、もっきりやの平賀さんも、今の自分を成り立たせてくれている大切な存在なのだ。
 未来に向かうためには、前ばかりを見るのではなく、過去を振り返り、確認することも必要だ。お盆の時期にふさわしい貴重な2日間だった。

2012年8月6日月曜日

8/25「UMISAKURA MUSIC FESTIVAL2012」開催に寄せて

「UMISAKURA MUSIC FESTIVAL2012」は、「江ノ島の海をきれにして次世代に残してゆこう」という趣旨で活動を続ける団体「海さくら」が’主催するライブイベント で、自分は’07年の1回目の開催からずっとこのイベントに関わり続けている。2回目の開催からはミュージックプロデューサーという肩書きをもらって、出 演者としてだけでなく、イベントスタッフの一人として、出演者のブッキング、ステージ構成、プロモーションなどにも関わるようになった。
 海さくらフェスは今年から開催場所を江ノ島から三浦市三崎町のSEABORNIA(野外)に変え、あらたなスタートを切ることになった。自分は今年から は、ミュージックプロデューサーとしての役割を終え、1出演者としてイベントに関わらることになったのだけれど、今迄、海さくら代表の古澤君はじめスタッ フの皆と一緒に、海さくらフェスを育ててきたという自負があるので、スタッフの一員ではなくなった今も、イベントに対する思い入れは深い。どんな形であ れ、このイベントが続く限り、これからもずっと関わらせてもらえたらなと思っている。
 この6年間、海さくら代表の古澤君が、さまざまな人達とかかわり合い、繋がってゆく様を、見続けてきた。彼の打算のない真っすぐな情熱が、多くの人の心を動かし、繋がりの輪はどんどん広がり続けている。
 今年の海さくらフェスには「TOGETHER UMISAKURA ×MY LIFE IS MY MESSEGE」というサブタイトルがつけられた。3.11の震災以降、被災地支援の活動を続ける海さくらと、HEATWAVEの山口洋が立ち上げた被災 地の相馬市を支援するプロジェクト「MY LIFE IS MY MESSEGE」が関わり合うことは、自然な流れであったように思う。きっと、今迄の海さくらフェスにはなかった色合いが加わり、あらたな化学反応が起き るに違いない。その化学反応と新しい出会いを、自分も多いに味わい、楽しみむつもりだ。

 自分は今年はMAGICAL CHAIN CLUB BANDの一員として参加。例年以上に弾けたステージお見せします!
 このイベントに参加してもらえば、奏でられる音の全てが、さまざまな繋がりの中で成り立っていることを実感してもらえると思います。自然に囲まれ、潮風にふかれながら、ゆったりと音楽を楽しめるライブフェスです。ぜひ、ご参加下さい。


※昨年の「UMISAKURA MUSIC FESTIVAL」の写真を添付しました。


 海さくらフェスの出演者を紹介する海さくらトゥギャザーTV第4弾にMAGICAL CHAIN CLUB BANDが登場。主催者と出演者のイベントへの想いが伝わるTVです。

2012年7月31日火曜日

人もコントロール不能な「自然」である

7月半ば、ケイヤン(ウルフルケイスケ)との充実した2人ツアーを終え、帰宅してからの数日間は、何もやる気が起こらなかった。嫌なことがあったわけでもないのに、気分が鬱々として、前向きな考えがちっとも浮かんでこないのだ。
 これは、長年続けているツアー暮らしの中で、程度の差こそあれ、毎度のように繰り返されている症状である。それで、ある日の朝目が覚めたら、特に何かい いことがあったわけでもないのに、すっと心に晴れ間がのぞいていて、何となく立ち直る、というのがよくあるパターン。身体も心も気紛れなところがあって、 どれだけ経験を積み重ねても、完全にコントロールすることができない。
 それにしても、今回は立ち直りにいつもより時間を要した。心身の疲れに気づかないまま、長時間スイッチをオンにし過ぎていたようだ。調子に乗り過ぎたんやな。
 気分がロウの時に「焦り」は禁物だ。そうなってしまったら、仕方がないと、なるべく諦めてしまうよう心掛けている。自分の身体も「自然」であり、「自 然」を完全にコントロールすることなど不可能なのだ。身体と心はつながっているのだから、身体がくたびれたら、心もくたびれるのが当然。抗うばかりではな く、「自然」に身を委ねることも大切だ。そうすることで、思いがけないギフトを受け取ることもある。
 あまりきついスケジュールを組んで、自身を管理しようとし過ぎないことだ。それは、「自然」に対する人間の傲慢さのあらわれと言えるかもしれない。もっと「ゆるさ」を保ってやろう。でも、やりたいことが色々とあるんやなあ。欲深い人間だと思う。

 「『自然』を完全にコントロールすることなど不可能である」という認識がもっと一般的になって、社会のシステムに反影されるようになれば、世の中は随分 と変化するだろう。そういう認識の元で、原子力発電所は存在しえないはずだ。逆に言えば、自分達の「自然」に対すると認識と姿勢が、原子力発電所を生み出 し、それらを維持させる一因になっているとも言えるんじゃないだろうか。やはり、他者に対してばかり変化を求めても、世の中は変わらない。自身も変わらな きゃ。
 言うは易く行うは難し。自分を変えるって、そんなすぐできることとちゃうわなあ。


 今日は自宅近くの海岸で、ゆるく夕暮れ時を過ごした。自分にとっては最高のチャージ場所。そのときの写真を添付します。お裾分けになれば。
ー2012年7月31日


2012年7月28日土曜日

デモに参加する人、しない人ー補完し合う関係

「脱原発のデモに行く人に対して、デモに行かないというスタンスをとる人は、デモに行くという行為と対立しているのではなく、デモに行くという行為によって削ぎ取られるある部分を補完している……と考えるのです。」
作家の田口ランディーさんのブログから引用させてもらった言葉だ。

「反発とか、批判とか、憎しみとか、怒りとかは、その対象を大きくしてしまうだけのような気がして、そういうやり方でなく、静かに、愛の中で、良い方向に導くことができないものかなあ、と、ここのところ考えている。」
これはfacebook上で見つけた、ある知人女性の言葉だ。

 自分をデモ参加に駆り立てた感情の1つに「怒り」があったことは間違いない。大飯原発の再稼働を受けて、それは、しごくまっとうな感情だったと今も思っ ている。けれど、彼女が危惧するように、「怒りや憎しみが、その対象を大きくしてしまう」ことも確かなのだ。
 「怒り」や「憎しみ」といった感情が、人間から完全に消え去ることはないだろう。だから大切なのは、「自身がそれらの感情にどう向き合い、いかに行動するか」なのだと思う。「怒り」にまかせた言行がもたらすものを自覚するべきだ。
 どんな状況においても、「静かな愛」を持ち続けていたいと思う。けれど、自分も含め、そこまでできた人間はそうそういない。だからこそ、田口ランディーさんが言う「補完し合う関係」というイメージが大切になってくるように思う。
 facebookで先の文章を掲載した女性の「静かな愛」が、正義感にかられ、怒りに震えて行動することによって失ってしまう何かを、補完してくれている。自分はそのように考えながら、明日の脱原発国会大包囲のデモにも参加しようと思う。
ー2012年7月28日(土)

※添付した写真は、大飯原発前での抗議集会に参加した女性が撮影してfacebookに掲載したものを、使用させてもらいました。

2012年7月24日火曜日

1枚のデモ写真ー「祈り」の感性

添付した写真は、7月6日に行われた官邸前抗議集会で撮影されたものだそうだ。フリーランスのフォトグラファー佐藤哲郎 氏が撮影し、facebookに掲載していたのを見て、感銘を受け、このブログに添付させてもらった。できれば写真をクリックして大きな画像で見てほし い。

 自分はこの前の週に、同じ官邸前で行われていたデモ集会に参加していた。まだ集会場所が警察によっていくつかに分断される前だったので、デモの全容を歩 いて確かめることができた。官邸前の車道は開放され、抗議の人であふれかえり、熱気が充満していた。何か祝祭空間の只中いるような感覚もあり、殺伐とした 空気はあまり感じられなかった。今行われているデモが、イデオロギーを超えて、多種多様な一般市民が参加する、非暴力のデモであることを、はっきりと実感 したことを覚えている。参加者の中に女性が多かったことも印象に残った。

 この日、夕方からのデモに参加する前に、若松孝二が監督の映画「11.25自決の日 三島由紀夫と若者たち」を横浜で見た。映画の主人公、三島由紀夫は じめ、盾の会や全共闘の若者達、自衛官他、登場人物は、三島由紀夫の妻、三島瑤子をのぞけば、全員が男性であった。映画の中で三島瑤子の存在はひどく浮い ていて、男達の中で蚊帳の外という印象を受けた。左であれ右であれ、当時の活動家のほとんどは男性で、その傾向は今もそんなには変わりがないのだろう。 70年安保当時のデモや集会を組織し、参加していた大半も男性であったと認識している。
 理不尽な出来事に遭遇したとき、男性は、「怒り」の感情に支配され、行動する傾向が、女性よりも強いと思う。この日観た映画の登場人物の多くも常に怒り、憤っていた。これまでの社会運動には、そのような男性心理が大きく作用していたように思う。
 自分はこれまで、デモとは「怒り」をぶつける場であり、場合によっては実力行使も辞さない、ある程度の暴力を肯定する場であるという印象を持っていた。 けれど官邸前の抗議集会に何度か参加してゆく中で、その認識が変わっていった。添付させてもらった写真が、官邸前でのデモのありようの一端を象徴している ように思う。
 女性をはじめ、多様な人達が参加することによって、デモに「祈り」の感性が加わることは、とても大きな変化だと思う。デモという主張のあり方が、かえっ て2項対立を深め、憎しみを増幅させてゆく危険を孕んでいることは否めない。しかし、そこに「祈り」の感性が加わることで、社会運動にあらたな可能性が生 まれるように思うのだ。そのような運動には、即効性を求めすぎるべきではない。長く続けることに意味を見いだすべきだと思う。
ー2012年7月24日(火)