もうひと月以上前の話だけれど、高田渡さんの命日の4月16日(水)に鹿児島市で企画されたライブイベント「タカダワタリズム 2014」に、大先輩のシンガーソングライター・中川五郎さん、八重山出身の唄者・大工哲弘さん、漫画家のうえやまとちさんとともに参加させてもらった。印象に残る夜だったので、忘れる前に書き留めておこうと思う。
渡さんとの出会いは、自分が大学生の頃。偶然に渡さんと知り合ったという3つ上の姉に誘われて、京都のライブハウス・拾得にライブを観に行ったのが最初。はじめて見る渡さんは、随分と枯れた味わいのあるおじさんに見えたけれど、今思えば当時の渡さんはまだ30代後半で、今の自分の年齢よりも一回りぐらい下だったのだ。あれから四半世紀以上の歳月が流れ、渡さんが亡くなってから9年が経過した。
この日、五郎さんと大工さんのステージを拝見させてもらい、イベントを通じてあらためて渡さんの音楽にふれることで、さまざまなことを感じ考えさせられた。
「渡さんはストレートなメッセージソングを好んではいなかったから、僕がそういう歌を歌うのを嫌っていた。」そう語った後で、五郎さんがソロステージの1曲目に歌い始めたのは、ニック・ロウのカヴァー「(What's So Funny 'Bout)Peace,Love and Undaerstanding」だった。この曲はオレも去年から自分なりの日本語に意訳してステージで歌い始めた曲だったので、少々驚いたと同時に嬉しくも感じた。五郎さんの日本語訳はオレのそれよりももっとストレート、アレンジもアップテンポ、とてもエモーショナルな演奏だった。ギターをかき鳴らしシャウトする五郎さんの姿をみて、とにかくこの曲を今歌わなければならないという旬の思いが伝わってきた。
大工哲弘さんはこの日のステージで、明治・大正期に活躍した壮士演歌の草分け的存在、添田唖蝉坊(そえだ あぜんぼう)の曲を数曲聴かせてくれた。生前の渡さんも唖蝉坊の曲を何曲も取り上げていて、その詩にアメリカン・ルーツミュージックのメロディーを乗せて歌ったりもしていた。
演歌と言っても壮士演歌の歌の内容は今のそれとは違い、政治や世相を庶民の目から面白おかしく風刺するものだ。大工さんが三線で弾き語る唖蝉坊の「あきらめ節」を聴きながら、渡さんと大工さんが、壮士演歌の流れをくんでいることを実感した。その歌は、右や左や上からではなく、下からの実感の込められた異議申し立てだ。
大工さんは、ステージ上のMCでも、ユーモアを交えつつ、原発の再稼働と海外輸出にはっきりと意義申し立てする発言をしていて、音楽活動を通じて社会にコミットしてゆくことに、以前よりも積極的になられているように感じた。
五郎さんと大工さんのステージからは、3・11以降の態度がはっきりと伝わってきた。自分は、2人のステージに勇気づけられバトンを受け取ったような気持ちで、その後のステージに向かった。選曲も2人のステージを受けてのものになった。
五郎さんはストレートなメッセージで社会に異議申し立てをし、渡さんはあくまでも粋と素朴こだわりながら、落語にも似た表現で権威や権力を茶化したり皮肉ったり、時には無視して好きにやることである種の抵抗を示していたように思う。この日のイベントを通じて、表現方法、センスはそれぞれに違うけれど、権威や権力、既成の価値感と距離を置き、時にはそれらに対して抵抗を示す態度において、渡さん、五郎さん、大工さんは共通していると感じた。そして、3人ともが、どこかアウトローのニオイがして、実に人間くさい。結局、自分が魅力を感じる音楽や表現は、そういう要素を含んだものなんだとあらためて自覚した。そういった先人達から自分は勝手にバトンを受け取ったのだ。
2014年5月20日火曜日
2014年5月14日水曜日
「よくわらかない」という事実を受け入れる
漫画「美味しんぼ」の中で、福島を訪れた主人公らが鼻血を出す描写が、放射能と因果関係を結びつけているとして問題になっている。政治家や政府までが問題として取り上げ、メディアが過剰な報道を繰り返すことで、騒ぎは増々ひろがりを見せているようだ。これを機に、放射能の影響について、立場を超え、もっと冷静に検証してゆこうという空気が生まれればよいと思うのだが、そういう方向には向かっていない気がする。その騒ぎ方をみるにつけ、立場、思想によらず、ヒステリックな世の中になってきたなあと感じる。
自分は、放射能と鼻血を安易に関連づけることに対しては否定的な立場だけれど、原発事故による放射能の影響など一切ないという立場にも組しない。どちらの態度にもヒステリックな要素を感じる。一つの立場に固執するあまり、自分の見たい景色だけを見て、全体が見えなくなってしまっている気がするのだ。今回のような騒ぎ方は、原発の問題の本質を隠し、矮小化させてしまうように感じる。
大体、原発の抱える問題は放射能だけではない。原発は、中央からの支配によって、その地域を分断し、郷土を破壊してゆくという構造的問題を抱えている。原発事故を引き起こした電力会社のずさんな管理体制や隠蔽体質も、さらに検証され責任を問われてゆくべきだと思う。原発を再稼働させるのならば、なおさらだ。
福島原発事故はまだ収束していない。廃炉までの道のりは長く険しい。汚染水の問題も解決していないし、燃料棒が取り出される前に、その地域で再び大きな地震が起こればどうなってしまうのだろうと思う。
実際に事故によって、生活を根本的に破壊された人達がたくさん存在する事実を忘れてはいけない。その中に、偏った情報に惑わされて避難した人がいたとしても、その根本の原因は原発事故にある。福島第一原発の事故は過去の出来事ではなく、現在進行形の問題なのだ。
今回の騒動を受けての原作者のブログを読んで気になったのは、「真実は我にあり」というその態度だ。なんだが、いろんな人がそれぞれの依る立場から「真実」の押し付け合いをしている気がする。そういった態度が視野狭窄につながり、二項対立を深め、問題の解決を遠ざけてゆく一因になっているのではないだろうか。互いにもう少し、「よくわらかない」という事実を謙虚に受け入れるべきではないかと思う。そして、対立しあう者としてではなく、立場や視点に違いのある「補いあう者同士」として情報交換し、対話を重ねて、問題の解決にあたることはできないものだろうか。
自分は、放射能と鼻血を安易に関連づけることに対しては否定的な立場だけれど、原発事故による放射能の影響など一切ないという立場にも組しない。どちらの態度にもヒステリックな要素を感じる。一つの立場に固執するあまり、自分の見たい景色だけを見て、全体が見えなくなってしまっている気がするのだ。今回のような騒ぎ方は、原発の問題の本質を隠し、矮小化させてしまうように感じる。
大体、原発の抱える問題は放射能だけではない。原発は、中央からの支配によって、その地域を分断し、郷土を破壊してゆくという構造的問題を抱えている。原発事故を引き起こした電力会社のずさんな管理体制や隠蔽体質も、さらに検証され責任を問われてゆくべきだと思う。原発を再稼働させるのならば、なおさらだ。
福島原発事故はまだ収束していない。廃炉までの道のりは長く険しい。汚染水の問題も解決していないし、燃料棒が取り出される前に、その地域で再び大きな地震が起こればどうなってしまうのだろうと思う。
実際に事故によって、生活を根本的に破壊された人達がたくさん存在する事実を忘れてはいけない。その中に、偏った情報に惑わされて避難した人がいたとしても、その根本の原因は原発事故にある。福島第一原発の事故は過去の出来事ではなく、現在進行形の問題なのだ。
今回の騒動を受けての原作者のブログを読んで気になったのは、「真実は我にあり」というその態度だ。なんだが、いろんな人がそれぞれの依る立場から「真実」の押し付け合いをしている気がする。そういった態度が視野狭窄につながり、二項対立を深め、問題の解決を遠ざけてゆく一因になっているのではないだろうか。互いにもう少し、「よくわらかない」という事実を謙虚に受け入れるべきではないかと思う。そして、対立しあう者としてではなく、立場や視点に違いのある「補いあう者同士」として情報交換し、対話を重ねて、問題の解決にあたることはできないものだろうか。
2014年5月11日日曜日
不真面目に マジメに 寄り道 宝探し
博多、名古屋、大阪、渋谷の4公演行われるレコ発ツアーの暫定セットリストを考えた。色々と想像しているとワクワクしてきて、楽しい作業だった。早くメンバーと合流してリハーサルがやりたいなあ。
このまま音楽にだけ没頭していたいものだ。一つのことに集中できるというのは幸せなことだなあと思う。そういう環境をつくるために雑事もやりこなそう。心の煩わしさにも向き合おう。
ツアー中は頭でっかちになることがあまりない。いろんな人や風景や価値感に出会うことで、五感のバランスがとれて心の風通しがよくなるからだ。あとはステージと打ち上げに集中すればよい。といいつつ、最近はツアー中も雑事に追われたりしているのだが。
人と出会ってライブをやって楽しく打ち上がれば、心はすっきりする。まあ翌朝は、テンション低く、二日酔いと疲れによる気だるさを感じながら次の街に移動するのだけれど、心はどこか清々しい。きっと風が通り抜けているからだ。
でも、ツアー中にも時々ふと、自分が世の中から置き去りされているような気持ちにもなることがある。そして、自分の「とるにたりなさ」を思ったりして寂しくなる。ここ数年の世の中の変化の影響もあって、最近そんな思いが強くなっている気がする。ツアー暮らしは好きだけれど、そこに埋没しすぎてもいけないとも思う。
世の状況や自分自身に向き合って、もっと悩んだり、葛藤したり、反芻する時間が必要なのかもしれない。自分はどこかに属すことなく、門の前にたたずみ、割り切れずに悩み続ける人のはずなのだが、音楽生活が楽しすぎて、そのへんが中途半端というか、まだまだ突きつめ方が足りないというか、マジメさが足りないというか。そう言えばオレ「不真面目に マジメに 寄り道 宝探し」って歌ってたなあ。ああそうか。
仕事をやりにきたファミレスでまたこんなことを考え始めてしまい、能率よく雑事をこなせないまま陽が暮れはじめている。チャリンコで海沿いを走って帰ろう。
このまま音楽にだけ没頭していたいものだ。一つのことに集中できるというのは幸せなことだなあと思う。そういう環境をつくるために雑事もやりこなそう。心の煩わしさにも向き合おう。
ツアー中は頭でっかちになることがあまりない。いろんな人や風景や価値感に出会うことで、五感のバランスがとれて心の風通しがよくなるからだ。あとはステージと打ち上げに集中すればよい。といいつつ、最近はツアー中も雑事に追われたりしているのだが。
人と出会ってライブをやって楽しく打ち上がれば、心はすっきりする。まあ翌朝は、テンション低く、二日酔いと疲れによる気だるさを感じながら次の街に移動するのだけれど、心はどこか清々しい。きっと風が通り抜けているからだ。
でも、ツアー中にも時々ふと、自分が世の中から置き去りされているような気持ちにもなることがある。そして、自分の「とるにたりなさ」を思ったりして寂しくなる。ここ数年の世の中の変化の影響もあって、最近そんな思いが強くなっている気がする。ツアー暮らしは好きだけれど、そこに埋没しすぎてもいけないとも思う。
世の状況や自分自身に向き合って、もっと悩んだり、葛藤したり、反芻する時間が必要なのかもしれない。自分はどこかに属すことなく、門の前にたたずみ、割り切れずに悩み続ける人のはずなのだが、音楽生活が楽しすぎて、そのへんが中途半端というか、まだまだ突きつめ方が足りないというか、マジメさが足りないというか。そう言えばオレ「不真面目に マジメに 寄り道 宝探し」って歌ってたなあ。ああそうか。
仕事をやりにきたファミレスでまたこんなことを考え始めてしまい、能率よく雑事をこなせないまま陽が暮れはじめている。チャリンコで海沿いを走って帰ろう。
「修羅を曝す」かあ
ツアーから戻ってから雑事に追われて心の余裕がない。一つ一つ丁寧にやってゆこうと自分に言い聞かせるのだが、気が焦って、なかなか一つのことに心静かに集中することができない。こんな頭でっかちでは、曲もできん。アイデアやテーマはいろいろあるのに。
そんな心持ちのとき、久し振りに田口ランディさんのブログ「いま、伝えたいこと」を読んで、身につまされつつも、少し救われた気分になった。印象に残った文章の一部を以下に抜粋。
人はその人としてそこに存在しているだけで、どれくらいの影響力をもっているのかを、自分では気づけない存在だ。それは私も同じで、私自身の「とるにたらなさ」に日々落ち込み、日によっては有頂天になり、日によっては無力感に嘖まれてしまったりする。(中略)
そうやって人は、落ち込んだり悩んだりしながら、修羅を曝すことで実は他者を救っている菩薩のような存在なのだが、そんなことにもまったく気づかないで、ふがいない自分に苦しみながら、生きている。このごろは、それはなんて哀しい美しいことなんだろうと、思われてしょうがない。
2014年 04月 09日生きる愛しさ ダイアローグ研究会の夜
http://runday.exblog.jp/21972585/
日々のことすべてに集中できることを、悟りをひらいた人と呼ぶのかもしれない。そういう人はどこにでもいるだろう。なにげなくいるだろう。そして、ささやかに世の中を照らしていると思う。その人を見れば、誰でも、気持ちよいはずだから。
そういう人になりたいなあと思うのだけれど、まったく、ぜんぜん遠くて、いつも焦っていてとにかく早くやらなくちゃ、そしてやりながらもう次のこと別のこと終ったことを考えていて、あっちこっち、物事をやり散らかしながら、時折ぼんやりし、ふてくされ、ささくれだち、淋しくなったり、うれしくなったりしながら、ああ、忙しいとか呟いているのが現状なのである。
2014年 03月 14日「日々の悟り」
http://runday.exblog.jp/21825869/
どこかで「こんなこと続けても無駄なんじゃないか」という、魔の声が響いている。なんのために、誰のために、場を創ろうとしているのか。自分のなかの軸がわからなくなっている。
一緒に動いてくれる仲間がいるので、なんとか続けているが、一人では到底、無理だろう。私は焦っていると思う。とても強く、苛立っている。この状況に。たぶん。そして怒っている。対話なんかすっとばして、力と数でこの状況を変えたいと願う自分もいるのだ。そのほうがてっとり早いし、すかっとする。そういう自分の中の衝動を抑えつけて「対話」などと言っても、自分に自分が食われていく。だから、仏教に静けさを求めているのだろう。自分の修羅を静めたいからだ。
そんな時、いつも思い出すのは気功の師である新渡戸道子先生の言葉だ。
「田口さん、ゆっくりは怖くない。怖いのは止めてしまうことよ」
ゆっくりは怖くない。
呪文のように繰り返している。
ゆっくりは怖くない。
怖いのは止めてしまうこと。
2014年 03月 13日「3月11日が過ぎて」
http://runday.exblog.jp/21820668/
なんだか今の自分にタイムリーな言葉ばかりの気がした。
特に「そうやって人は、落ち込んだり悩んだりしながら、修羅を曝すことで実は他者を救っている」という1文が心に残ったというか、引っかかった。
「修羅を曝す」かあ。やってきたかなあ。多分、人並みには落ち込んだり悩んだりしてると思うし、自分の醜い部分も知ってるけど、どこまで曝してきたかなあ。
もし、これからブログを再開して、そこそこコンスタントに更新するとしたら、このへんがテーマの一つになるのかあと思ったり。曝したい気持ちがなくはないのだが、「曝し方」がようわからんかったり。
今の自分は、わりと頻繁に有頂天になる一方で、時々自身の「とるにたらなさ」に落ち込み、ツアー戻りの数日後には無力感に嘖まれたかと思うと、わりと早くに復活して、また物事をやり散らかしつつ、時折ぼんやりし、「やっぱ、むだなんじゃないか」と空しくなったり、淋しくなったり、で、また復活して、性懲りもなくやり散らかして、ああ、忙しいと独りごとをぼやき、力と数を求めて空回り気味に焦っているという、つまり、ランディさんのブログに書かれている姿は、自分の今の姿とよく重なるのだ。
とりあえず、自分の目の前の不安は、バンドで回る博多、名古屋、大阪、渋谷のレコ発ツアーやな。お客さん来てくれるかなあ。これが心配。集大成なんやけどな。だいぶ現実的な不安です。状況もっと変えたいなあ。つまり力と数を求めて焦ってるってことか。こういうことの繰り返し。
「ゆっくりは怖くない。」はずだが、そうも言っとれん状況もあり。でも腹を据え、腰を据えんと、うまくいかん。東北ツアーもあるし、まだしばらくはノンストップ。とりあえず、6月3日(火)渋谷・伝承ホールで一区切り。
「修羅を曝す」かあ。ちょっと大げさかな。
とにかく、悩んで、学んで、心鎮めて、歌って、弾いて、叩いて、語って、飲んで、笑って、騒いで、寂しくなって、いろいろ巡って、おもしろおかしくやるよー。
多分また近々。
2014年5月11日
2014年2月23日日曜日
ソロアルバム「HOBO HOUSE」発売に寄せて
ソロアルバム「HOBO HOUSE」が一般発売になりました。3.11以降にリリースする初のオリジナル・ソロルバムということもあり、特別な感慨があります。
このアルバムの最初のレコーディングセッションが行われたのが、2011年の7月。その後、コラボ・ライブアルバム「HOBO CONNECTION VOL.1」、MAGICAL CHAIN CLUB BANDの1st.アルバム「MAGICAL CHAIN CLUB BAND」のリリースを挟んで、作品の完成までには随分と時間を要しました。
ここまで、時間がかかってしまったのは、やはり3・11の影響が大きかった。あの出来事とそれ以降の社会の変化によって、ソロアルバムの内容を考え直さざるを得なくなりました。3.11以降の自分のスタンスが表れた内容にしたいと思ったんです。なんて言い方をすると、少しかた苦しいイメージをもたれてしまうかもしれませんが、今回のアルバムの中では、具体的な何かに反対を表明したり、アンチテーゼを掲げようという気持ちはなかったんです。
曲を書いたりアルバムを制作する上での動機には、ストレス、怒り、閉塞感といったネガティブな感情が存在しましたが、その思いをストレートに表現しようとは思いませんでした。今の世の中に閉塞感、息苦しさのようなものを感じるからこそ、柔らかく風通しのよい作品にしたかった。敵をつくって2項対立を深めようとする流れがあるからこそ、そういう殺伐とした空気から離れたい、社会から少し距離を置いて、旅人の視点からの歌をアルバムにおさめたいと考えました。他者との繋がりを求める普遍的なラブソングも歌いたかった。世の中のやな空気にチャンネルを合わせ続けたくなかったんです。
今回のアルバムの共同プロデューサーの笹倉慎介くんは、現在32歳の才能あるシンガーソングライターです。録音場所となった埼玉県入間市の米軍ハウス街にあるスタジオ、グズリレコーディングハウスは、彼が運営するスタジオです。慎ちゃんがこの木造の古いアメリカンハウスに越してきたのが2007年。以前から、この街と縁のあった僕は、越してきたばかりの慎ちゃんと知り合い、以来、交流を深めてきました。
元々、住居として使われていた空間を、彼は自らの手で、こつこつと時間をかけてリフォームし、機材を揃え、この場所で自身のアルバムを制作するだけでなく、レコデーィングスタジオとして一般にも開放するようになりました。通常のスタジオの密閉された空間ではなく、周囲に緑が多く、日中は自然光が入る心地よいオープンな空間で、時間をかけてレコーディングはすすめられました。このスタジオと慎ちゃんの存在なくして、今回のアルバムは成立しませんでした。
多分’0年代後半くらいから、自分よりも若い世代と交流し、自分とは違った感性やその暮らしぶりに触れることで、水面下で時代の価値観は既に変わり始めているのだということを実感するようになりました。慎ちゃんの世代の多くに、自分のようなバブル世代にはない「地の足のつき方」、頼もしさを感じる機会が増えました。
慎ちゃんも、音楽活動の最初から、メジャー資本に期待しない、インディペンデントな活動を続けていて、そのありようがとても自然に感じられました。インディペンデントであることが、特別なことではなく当たり前なんです。既成の価値観に反対を表明するまでもなく、既に新しい価値観の中で暮らし、音楽活動を続けているって言うと、ちょっと持ち上げ過ぎかな。
なんというか、自分にはない成熟や洗練を、若くして身につけているなあという気もしたんです。その一方で、年齢の割に幼さを感じる部分もあったりして、多分、目指すところは同じでも、たどってきた今までの道順が自分とは違う。そういうところも新鮮に思えたんです。
今回の作品には、慎ちゃんのような自分よりも若い世代のセンス、空気感、才能が必要でした。その感性から受けた影響を作品に反映させたかったんです。自分一人で作品をプロデュースしていたら、もっと暑苦しい内容になっていただろうと思います。
7年前に慎ちゃんと初めて出会って、彼の弾き語りを生で聴かせてもらったときに、オレは彼に面と向かって「もっとストレス感じた方がええよ」なんて、偉そうなことを言ってしまいました。ただ、それは彼の音楽を聴いての素直な感想でもあり、彼の素晴らしいセンス、才能を感じたからこその、よけいな一言でもありました。慎ちゃんもその言葉をずっと覚えてくれていたようで、最近の彼のブログで、当時の2人出会いのことを書いてくれています。素直ないい文章だと思います。
http://sasakurashinsuke.com/2014/01/26/
それから月日が流れ、3・11を経て、オレも慎ちゃんもストレスを感じざるを得ない状況に追い込まれました。そんな中で、震災、原発事故から4ヶ月経たない頃に最初のレコーディングセッションが行われました。そのセッション自体は素晴らしいものでしたが、オレはその後のアルバム制作の展望が見えなくなっていました。
そのとき、2日間行われたレコーディングのオフ日に、慎ちゃんと2人で曲作りをしました。そこで生まれた曲が、アルバムにも収録した「夜明け前」です。その曲は自分にとって、3・11以降、初めて完成させることのできた曲でした。さまざまな不安、ストレスを経て生まれた、願いを込めた1曲です。この曲が生まれることで、アルバムの制作も一歩前に進めた気がします。それでも完成までには時間を要してしまいましたが。
こうやって長々とアルバム「HOBO HOUSE」について語ってきても、まだ作品のほんの一部分しか語れていない気がして、もどかしく感じます。実際にアルバムを聴いてもらえば、ここに書かれている内容とは、また違った印象を持たれるかもしれません。ぜひ聴いて、体験してください。
このアルバムは、自分を媒体として、共同プロデューサーの笹倉慎介はじめ、さまざまな人たちとの出会い、関わりの中で、生まれた作品です。参加してくれた多くのミュージシャン全員がホントに素晴らしかった。レコーディングエンジニアのモーキー、マスタリングのコテツさんとも一緒に仕事ができてホントによかったです。レコーディングの後、夜中にお邪魔して毎回美味しいて料理とお酒を出してくれたカフェSO-SOにも心から感謝。
今の時代に生きる歌と、愛おしい一期一会を残すことができました。
このアルバムを聴いてくれた人の心の風通しがよくなったら嬉しいです。
多くの人に届きますように。 ーリクオ
このアルバムの最初のレコーディングセッションが行われたのが、2011年の7月。その後、コラボ・ライブアルバム「HOBO CONNECTION VOL.1」、MAGICAL CHAIN CLUB BANDの1st.アルバム「MAGICAL CHAIN CLUB BAND」のリリースを挟んで、作品の完成までには随分と時間を要しました。
ここまで、時間がかかってしまったのは、やはり3・11の影響が大きかった。あの出来事とそれ以降の社会の変化によって、ソロアルバムの内容を考え直さざるを得なくなりました。3.11以降の自分のスタンスが表れた内容にしたいと思ったんです。なんて言い方をすると、少しかた苦しいイメージをもたれてしまうかもしれませんが、今回のアルバムの中では、具体的な何かに反対を表明したり、アンチテーゼを掲げようという気持ちはなかったんです。
曲を書いたりアルバムを制作する上での動機には、ストレス、怒り、閉塞感といったネガティブな感情が存在しましたが、その思いをストレートに表現しようとは思いませんでした。今の世の中に閉塞感、息苦しさのようなものを感じるからこそ、柔らかく風通しのよい作品にしたかった。敵をつくって2項対立を深めようとする流れがあるからこそ、そういう殺伐とした空気から離れたい、社会から少し距離を置いて、旅人の視点からの歌をアルバムにおさめたいと考えました。他者との繋がりを求める普遍的なラブソングも歌いたかった。世の中のやな空気にチャンネルを合わせ続けたくなかったんです。
元々、住居として使われていた空間を、彼は自らの手で、こつこつと時間をかけてリフォームし、機材を揃え、この場所で自身のアルバムを制作するだけでなく、レコデーィングスタジオとして一般にも開放するようになりました。通常のスタジオの密閉された空間ではなく、周囲に緑が多く、日中は自然光が入る心地よいオープンな空間で、時間をかけてレコーディングはすすめられました。このスタジオと慎ちゃんの存在なくして、今回のアルバムは成立しませんでした。
慎ちゃんも、音楽活動の最初から、メジャー資本に期待しない、インディペンデントな活動を続けていて、そのありようがとても自然に感じられました。インディペンデントであることが、特別なことではなく当たり前なんです。既成の価値観に反対を表明するまでもなく、既に新しい価値観の中で暮らし、音楽活動を続けているって言うと、ちょっと持ち上げ過ぎかな。
なんというか、自分にはない成熟や洗練を、若くして身につけているなあという気もしたんです。その一方で、年齢の割に幼さを感じる部分もあったりして、多分、目指すところは同じでも、たどってきた今までの道順が自分とは違う。そういうところも新鮮に思えたんです。
今回の作品には、慎ちゃんのような自分よりも若い世代のセンス、空気感、才能が必要でした。その感性から受けた影響を作品に反映させたかったんです。自分一人で作品をプロデュースしていたら、もっと暑苦しい内容になっていただろうと思います。
http://sasakurashinsuke.com/2014/01/26/
そのとき、2日間行われたレコーディングのオフ日に、慎ちゃんと2人で曲作りをしました。そこで生まれた曲が、アルバムにも収録した「夜明け前」です。その曲は自分にとって、3・11以降、初めて完成させることのできた曲でした。さまざまな不安、ストレスを経て生まれた、願いを込めた1曲です。この曲が生まれることで、アルバムの制作も一歩前に進めた気がします。それでも完成までには時間を要してしまいましたが。
このアルバムは、自分を媒体として、共同プロデューサーの笹倉慎介はじめ、さまざまな人たちとの出会い、関わりの中で、生まれた作品です。参加してくれた多くのミュージシャン全員がホントに素晴らしかった。レコーディングエンジニアのモーキー、マスタリングのコテツさんとも一緒に仕事ができてホントによかったです。レコーディングの後、夜中にお邪魔して毎回美味しいて料理とお酒を出してくれたカフェSO-SOにも心から感謝。
今の時代に生きる歌と、愛おしい一期一会を残すことができました。
このアルバムを聴いてくれた人の心の風通しがよくなったら嬉しいです。
多くの人に届きますように。 ーリクオ
★リクオ『HOBO HOUSE』
HOME WORK (HW031) 2014年2月21日発売
¥2,835(税込)
●アルバム特設サイト
●HOME WORKからの注文
●amazonからの注文
●OTOTOYからの超高音質HQD(24bit 48k WAV)&mp3(320dpi)での有料配信。
●アルバム曲のPV
「光」
「Happy Day」
HOME WORK (HW031) 2014年2月21日発売
¥2,835(税込)
「光」
「Happy Day」
2013年11月2日土曜日
父西川長夫の死に寄せて
父西川長夫は、10月28日午後5時22分、京都の自宅にて静かに息をひきとり、79年の生涯を終えました。葬儀は、本人の遺志により、10月30日に密葬にてとりおこなわせてもらいました。
父は昨年の11月6日に胆管癌との診断を受けて、市内の病院に緊急入院しました。その後、幸いにも病状が落ち着き、今年の1月に退院し、自宅療養を続けてきました。
学者であった父は、自宅療養期間中も新しい著作への意欲を失うことなく、その準備を進め、多くの方々に支えられながら、最後迄研究者としてあり続けることができました。
父の研究はフランス文学から始まり、戦後日本文学、国民国家論と多岐に渡りますが、近年は、自身の朝鮮からの引き揚げ体験を基に搾取モデルとしての「植民地」をキーワードにして、文化、社会を批評してきました。
僕自身は、ミュージシャンという父とは畑の違う道を選び、意識的にも無意識的にも親とは違った価値観、生き方を模索してきた気がしますが、特に3.11以 降は、病床の父との会話や、その著作にふれることで、父の姿勢、考えに、以前よりも理解を寄せるようになりました。
3.11以降、僕はソウルフラワーユニオンの中川敬君らと伴に被災地各地の避難所や仮設住宅をボランティアで演奏して回りましたが、父と母はそのときの様 子を綴った僕のブログを読んでいて、震災から約1年後に2人で被災地を訪れ、僕が回った同じ場所を見て回りました。そのときのことが、今年の5月に出版さ れた父の最後の著書「植民地主義の時代を生きて」の中に書かれています。
著書の13章「二つの廃墟について」、14章「東日本大震災が明らかにしたこと」の中で父は、戦後日本の原発体制を新植民地主義の典型として言及しています。その中のほんの一部分を抜粋させてもらいます。
「日本の原発地図を一瞥すれば明らかなように、五十四基の原発が置かれているのは、列島の周辺部であり、その多くは巨大地震や大津波が予想されている地域 である。どうしてそういうことが起こるのか。現代のエネルギーの中心をなす原発の問題は、新植民地主義の典型例である。新しい植民地主義の最も単純明快な 定義は私の考えでは、「中核による周辺の支配と搾取」であるが、これは「中央による地方の支配と搾取」といいかえてもよいだろう。中核と周辺はアメリカと 日本のような場合もあれば東京と福島のような場合(国内植民地主義)もある。この2種の植民地の関係は複合的であり、また中核による支配と搾取を周辺の側 が求めるという倒錯した形をとることもありうるだろう。」
「二つの廃墟。戦後はようやく一つのサイクルを終えたと思う。破局を迎えた「長い戦後」の全課程が厳しく再検討に付されなければならない。保守と革新、 あるいは右翼と左翼を問わず、長い戦後を支配したイデオロギーは「復興」であった。「復興イデオロギー」の内実は、経済成長(開発と消費)とナショナリズ ム(愛国心と家族愛)である。それは結局、資本と国家の論理に従うことを意味するだろう。」
「私の結論は一口で言ってしまえば、グローバル化は新しい形態をまとった第二の植民地主義(植民地なき植民地主義)である、というものです。~だが、 3.11の衝撃によって、私はより重要な本質的な問題を見落としていたいことに気付かされました、それはグローバル化が賭していたものは、石炭や石油に代 わる原子力エネルギー、すなわち原爆/原発体制の主導権であったということです。冷戦期にはじまったこの主導権争いは、社会主義圏の崩壊によってアメリカ の勝利に終わる。グローバル化がアメリカ化となるのはそのときからです。アメリカ化とはアメリカの資本と一体化したアメリカの世界政策(アメリカ主導によ る世界の原爆/原発体制化)の一環としてその枠内ですべてが進行するということです。つまりアメリカの支配と搾取の下にあるということです。韓国や台湾の 原発も同様で、決して独立したものではありません。」
ー『植民地主義の時代を生きて』西川長夫(著) 平凡社 (2013/5/27)より
最近の国内情勢、社会の空気を察すると、父の言うように「戦後はようやく一つのサイクルを終えた」とは必ずしも思えないし(終えるべきだと思っています が)、父のすべての考えに同意するわけでもありませんが、父のこの著書にふれて、さまざまな箇所で、積み重ねてきた自分の実感が言語化され、腑に落ちてゆ くような感覚を持ちました。
父は70代に入って、体力の衰えを自覚しながらも、中国、韓国、台湾といったアジア諸国へ積極的に出かけ、多くのシンポジウムで講演し、現地の人達との交 流を深めてきました。それは、日本の植民地で生まれ育ち、軍国少年であったという自分のルーツに向き合い、問い続けるための行動の一つだったのかもしれま せん。
今回、父の死を受けて、彼の考えのほんの一端を紹介することが、自分なりの父への供養の一つだと考えました。自分にとって特にこの半年は、父とのあらたな 出会いの期間であった気がします。父は他界しましたが、父との出会いをこれからも続けてゆくつもりです。父のことを考えることで、父とは違う自分なりの考 え、生き方も確認してゆきたいと思います。
自分の基本は、曲を書いて、ライブで弾けて、打ち上げでバカをやることだと思っているのですが、3.11以降は、時には社会にコミットする発言も必要なの ではとの思いが強くなりました。でも、そういう発言をすると、言葉がどんどんかた苦しくなって、嫌な空気を呼び寄せてしまい、気持ちまで硬直してゆくよう な気がして、正直、今もそのバランスの取り方に悩み続けています。以前よりも父の言葉や姿勢に共感を寄せるようになったのは、こういう自分自身の変化も関 係していると思います。
父の言葉を、自分なりにもっとわかりやすく翻訳できないものか、歌やライブや活動スタイルの中でも、頭でっかちになり過ぎず、五感をバランスよく使いなが ら、ユーモアを忘れずに、情をもって、柔らかく伝えられたらなあと思っています。でも、このブログでは、これからも時々、かたい話もすると思うので、無理 なくお付き合い下さい。
多くの研究者、仲間の皆さんに支えられ、家族に見守られ、父は幸せな最期を迎えることができたのではないかと思います。父に関わり続けてくれた皆さんのご尽力、ご協力に心から感謝します。ありがとうございました。
ー2013年11月2日(土)
父は昨年の11月6日に胆管癌との診断を受けて、市内の病院に緊急入院しました。その後、幸いにも病状が落ち着き、今年の1月に退院し、自宅療養を続けてきました。
学者であった父は、自宅療養期間中も新しい著作への意欲を失うことなく、その準備を進め、多くの方々に支えられながら、最後迄研究者としてあり続けることができました。
父の研究はフランス文学から始まり、戦後日本文学、国民国家論と多岐に渡りますが、近年は、自身の朝鮮からの引き揚げ体験を基に搾取モデルとしての「植民地」をキーワードにして、文化、社会を批評してきました。
僕自身は、ミュージシャンという父とは畑の違う道を選び、意識的にも無意識的にも親とは違った価値観、生き方を模索してきた気がしますが、特に3.11以 降は、病床の父との会話や、その著作にふれることで、父の姿勢、考えに、以前よりも理解を寄せるようになりました。
3.11以降、僕はソウルフラワーユニオンの中川敬君らと伴に被災地各地の避難所や仮設住宅をボランティアで演奏して回りましたが、父と母はそのときの様 子を綴った僕のブログを読んでいて、震災から約1年後に2人で被災地を訪れ、僕が回った同じ場所を見て回りました。そのときのことが、今年の5月に出版さ れた父の最後の著書「植民地主義の時代を生きて」の中に書かれています。
著書の13章「二つの廃墟について」、14章「東日本大震災が明らかにしたこと」の中で父は、戦後日本の原発体制を新植民地主義の典型として言及しています。その中のほんの一部分を抜粋させてもらいます。
「日本の原発地図を一瞥すれば明らかなように、五十四基の原発が置かれているのは、列島の周辺部であり、その多くは巨大地震や大津波が予想されている地域 である。どうしてそういうことが起こるのか。現代のエネルギーの中心をなす原発の問題は、新植民地主義の典型例である。新しい植民地主義の最も単純明快な 定義は私の考えでは、「中核による周辺の支配と搾取」であるが、これは「中央による地方の支配と搾取」といいかえてもよいだろう。中核と周辺はアメリカと 日本のような場合もあれば東京と福島のような場合(国内植民地主義)もある。この2種の植民地の関係は複合的であり、また中核による支配と搾取を周辺の側 が求めるという倒錯した形をとることもありうるだろう。」
「二つの廃墟。戦後はようやく一つのサイクルを終えたと思う。破局を迎えた「長い戦後」の全課程が厳しく再検討に付されなければならない。保守と革新、 あるいは右翼と左翼を問わず、長い戦後を支配したイデオロギーは「復興」であった。「復興イデオロギー」の内実は、経済成長(開発と消費)とナショナリズ ム(愛国心と家族愛)である。それは結局、資本と国家の論理に従うことを意味するだろう。」
「私の結論は一口で言ってしまえば、グローバル化は新しい形態をまとった第二の植民地主義(植民地なき植民地主義)である、というものです。~だが、 3.11の衝撃によって、私はより重要な本質的な問題を見落としていたいことに気付かされました、それはグローバル化が賭していたものは、石炭や石油に代 わる原子力エネルギー、すなわち原爆/原発体制の主導権であったということです。冷戦期にはじまったこの主導権争いは、社会主義圏の崩壊によってアメリカ の勝利に終わる。グローバル化がアメリカ化となるのはそのときからです。アメリカ化とはアメリカの資本と一体化したアメリカの世界政策(アメリカ主導によ る世界の原爆/原発体制化)の一環としてその枠内ですべてが進行するということです。つまりアメリカの支配と搾取の下にあるということです。韓国や台湾の 原発も同様で、決して独立したものではありません。」
ー『植民地主義の時代を生きて』西川長夫(著) 平凡社 (2013/5/27)より
最近の国内情勢、社会の空気を察すると、父の言うように「戦後はようやく一つのサイクルを終えた」とは必ずしも思えないし(終えるべきだと思っています が)、父のすべての考えに同意するわけでもありませんが、父のこの著書にふれて、さまざまな箇所で、積み重ねてきた自分の実感が言語化され、腑に落ちてゆ くような感覚を持ちました。
父は70代に入って、体力の衰えを自覚しながらも、中国、韓国、台湾といったアジア諸国へ積極的に出かけ、多くのシンポジウムで講演し、現地の人達との交 流を深めてきました。それは、日本の植民地で生まれ育ち、軍国少年であったという自分のルーツに向き合い、問い続けるための行動の一つだったのかもしれま せん。
今回、父の死を受けて、彼の考えのほんの一端を紹介することが、自分なりの父への供養の一つだと考えました。自分にとって特にこの半年は、父とのあらたな 出会いの期間であった気がします。父は他界しましたが、父との出会いをこれからも続けてゆくつもりです。父のことを考えることで、父とは違う自分なりの考 え、生き方も確認してゆきたいと思います。
自分の基本は、曲を書いて、ライブで弾けて、打ち上げでバカをやることだと思っているのですが、3.11以降は、時には社会にコミットする発言も必要なの ではとの思いが強くなりました。でも、そういう発言をすると、言葉がどんどんかた苦しくなって、嫌な空気を呼び寄せてしまい、気持ちまで硬直してゆくよう な気がして、正直、今もそのバランスの取り方に悩み続けています。以前よりも父の言葉や姿勢に共感を寄せるようになったのは、こういう自分自身の変化も関 係していると思います。
父の言葉を、自分なりにもっとわかりやすく翻訳できないものか、歌やライブや活動スタイルの中でも、頭でっかちになり過ぎず、五感をバランスよく使いなが ら、ユーモアを忘れずに、情をもって、柔らかく伝えられたらなあと思っています。でも、このブログでは、これからも時々、かたい話もすると思うので、無理 なくお付き合い下さい。
多くの研究者、仲間の皆さんに支えられ、家族に見守られ、父は幸せな最期を迎えることができたのではないかと思います。父に関わり続けてくれた皆さんのご尽力、ご協力に心から感謝します。ありがとうございました。
ー2013年11月2日(土)
2013年8月25日日曜日
AZUMIさんが藤沢にやってきた
ー孤独を「経て」最高の泣き笑いライブ 昨夜は、藤沢のバー「ケインズ」で、大阪からやってきたAZUMIさんのギター弾き語りライブを観た。AZUMIさんは、自分にとってのリアルブルーズマ ン。出会ったのはオレが学生の頃だから、随分長い付き合いになる。自分が大阪を離れて17年。東京暮らしを経て、藤沢に越してきて5年。今、暮らしている 街の馴染みのお店にAZUMIさんが来てくれて、この街で知り合った人達と一緒に、そのライブを観れることが嬉しかった。
久し振りにAZUMIさんのライブをみて、やられた。ホンマに。最高の泣き笑いの夜だった。
すべての感情を引き受けた音楽。混沌、矛盾、醜さに向き合うことで生まれる震えるような説得力。ドロドロの感情を経た透明感。AZUMIさんの表現は、と にかく「経て」を積み重ねて、積み重ねて、ここにある。いつでもリアルタイム。進行形の音楽なのだ。
出会った頃からずっと、AZUMIさんには孤独の影がつきまとう。あまりにも敏感な自分のアンテナに振り回され続けている人なのかもしれない。オフステー ジでは、いつもどこか所在無さげ。1人が嫌いなわけじゃないのに、優しくされ過ぎると、どうしていいかわからない、逃げ出したくなってしまう。そんな不器 用な人なのだ。
AZUMIさんは、孤独にずっと向き合い続けてきた人なんだと思う。その姿勢は音楽に昇華されている。この夜のステージを見ていて、AZUMIさんは、孤独を「経て」ゆくことで、すべに通じるような水脈に行き着いたような気がした。
心の奥底での共感は魂の浄化をうながす。結構飲んだわりに、今朝の目覚めが清々しかったのは、AZUMIさんの音楽に深く共感して、泣き笑いさせてもらったおかげだと思う。
-2013年8月25日
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