2015年1月29日木曜日

よし、明日へ行こうー「公の問題」と「私的な問題」と「もやもや」との関係

特別なライブを明日30日にひかえて、どうにも気持ちが落ち着かない。
「公の問題」と「私的な問題」がごっちゃになって切り離して考えることができずにいる。ニュースも気になるし、明日のことも考えるし、明日以降の仕事の準備もしなきゃいけない。やるべきことは多いけれど、心が「もやもや」したままで一つに集中できない。

午後になって自宅を出て、いつものように海沿いをチャリンコで走り、いつもの場所にチャリを置いて、しばし海を眺めながら体をのばしたり深呼吸繰り返したりした後、近くのファミレスへ行く。この街に越してきて以来続いているルーティーンに近い行動パターンだ。
ファミレスでランチをすませた後は、パソコンを開きながらコーヒーを何杯もおかわりして、そのままお店に居座り続ける。TwitterやFacebookのタイムラインを眺めていると、時間がどんどん過ぎてしまう。なんとなく罪悪感を覚える。
「もやもや」が消えないので、久し振りにブログをアップすることにした。




「公の問題に押しつぶされず、それぞれが関わる身近なものを、一番大切に生きるべきだ」という吉本隆明の言葉を時々思いだす。その通りだと思う一方で、「公の問題」と「私的な問題」を、完全に切り離すことは難しい。つきつめてゆけば、当然のことながら「公の問題」も他人事ではなく「私的な問題」とつながっているからだ。
「戦争に反対する唯一の手段は、各自の生活を美しくして、それに執着することである。」
作家の吉田健のこの言葉を自分のオリジナルである「パラダイス」という楽曲のエンディングの語りで、よく引用させてもらっている。こういう言葉に対しては、昔なら「プチブル」的であるとのレッテルが張られたりしたのだろうけれど、今もまた同じ意味のことを言われそうな空気を感じることがある。だから、最近この言葉を引用するときは、場によっては受け取る側の違和感を想像して、少し緊張したりする(意識過剰だと思う)。そんな状況だからこそ余計に必要な言葉だとも思うけれど。

ここ最近「公の問題」と「私的な問題」が重なって、軽い「孤立感」にに苛まれていたりする(そういう感情はそう長くは続かないけれど)。文章にしてしまうと深刻にとられ過ぎてしまうかもしれない。回りにこれだけよくしてもらって「孤立感」なんて言葉を出すのもどうかと思うけれど、誰もが日常の中にふと抱く感情だと思う。
3・11以降、思うところがあって、以前よりも社会にコミットすることを意識するようになり、社会的な発言をする機会が増えていたのだけれど、最近そういうことに関して自分の考えを表明する機会が少し減っている。
さまざまな出来事に対して思うところはあるけれど、なかなか言葉にまとまらず、はっきりした答をすぐに出せないことも多いので、流されて無理に意見や考えを述べるのをひかえている感じた。このブログの更新が滞っているのもそのことが一因になっていると思う(あと、忙しくて心の余裕がない)。
考えてみれば、自分がどの立場にも依りきれないという「孤立感」は、3・11以降、多くの人が自分と同じ思いを持っているという連帯感と平行して、ずっと抱え続けていた思いだった。そして、その「孤立感」が「もやもや」をもたらす一因となっている。
この「もやもや」は、はっきりとした答を自分の中で導き出せないことも一因なのだろうけれど、ならば、無理に解消するのではなく「もやもや」を抱え続けようかとも思う。それで曲ができれば、なおよい。でも、音楽生活の中では楽しいことも多くて、すぐに「もやもや」を忘れてしまいがちなのだ。

そういった思いを抱えているときに、朝日新聞デジタルに掲載された作家・高橋源一郎の文章「熱狂の陰の孤独 『表現の自由』を叫ぶ前に」に出会った。
http://digital.asahi.com/articles/DA3S11574914.html?_requesturl=articles%2FDA3S11574914.html&iref=comkiji_txt_end_s_kjid_DA3S11574914

文中の言葉を以下に引用させてもらう。

 テロにどう対処するのか、政府や国家、「国民」と名指しされたわたしたちは、こんな時どうすべきなのか。わたしにも「意見」はある。だが、書く気にはなれない。もっと別のことが頭をよぎる。
 動画を見た。オレンジの「拘束衣」を着せられ、跪(ひざまず)かされ、自分の死について語る男の声をすぐ横で聞かされながら、ふたりはなにを考えていたのだろうか。その思いが初めにある。「意見」はその後だ。
 同時代の誰よりも鋭く、考え抜かれた意見の持ち主であったにもかかわらず、スーザン・ソンタグは、「意見」を持つことに慎重だった。
 「意見というものの困った点は、私たちはそれに固着しがちだという点である……何ごとであれ、そこにはつねに、それ以上のことがある。どんな出来事でも、ほかにも出来事がある」
 そこにはつねに、それ以上のことがある。目に見えるそれ、とりあえずの知識で知っているそれ。それ以上のことが、そこにはある。そのことを覚えておきたい。なにか「意見」があるとしても。


これらの文章に触れて、少し腑に落ちたような、救われたような気持ちになった(と同時に、人の意見で無理に自分を納得させてはいけないとの心の声も聞こえてくるけれど)。さらに引用を続ける。

 襲撃事件から数日後、「二十世紀のもっとも偉大な風刺漫画家」ともいうべきアメリカ人ロバート・クラムのインタビューが掲載された。彼は四半世紀にわたってフランスに住んでいたのだ。
 クラムは、ことばを慎重に選びながら、「表現の自由」を守れと熱狂するフランスへの静かな違和を語った。
 「9・11の同時多発テロの時と同じだ。国の安全保障が最優先され、それに反するものは押しつぶされるのだ」
 「それで、あなたは何をしているのですか?」と記者は重ねて訊(たず)ねた。
 「わたしは(風刺)漫画を描いた。ひとりの臆病な(風刺)漫画家としてね」
 クラムは「意見」を述べるのではなく、漫画を描くことを選んだ。


クラムが漫画を描くことを選んだように、自分の最大の表現の場はやはり音楽だ。テキトーなくせにどこかマジメで、臆病なくせに時々妙な正義感に左右され、常に引き裂かれている、そんな自分に向き合い、ユーモアとグルーヴを忘れずに、表現し続け、皆との解放空間をつくり続けたいと思う。
とにかくまずは、明日のライブですべてを昇華させよう。一つのことに集中し、瞬間にすべてをささげ、その瞬間を皆で共有する場を与えられているのは、本当にありがたく幸せなことだ。
お時間許す方、明日30日(金)下北沢GARDENに来て下さい。サイコーのメンバーと一緒にサイコーの「HAPPY DAY」にします。

しめが宣伝とお願いになってしまい、なんだかなあと思いつつも、これが本心です。
よし、無事を心より願いながら、明日へ行こう。

今年も、「もやもや」したり、立ち止まったりしながら、基本的には面白おかしく日々を過ごし、少しずつ前に進んでゆくつもりです。また時々、ブログも更新します。お付き合いの程、よろしくお願いします。
ー2015年1月29日(木)


1/30(金)東京 下北沢 GARDEN 03-3410-3431
『リクオ with HOBO HOUSE BAND Live at 伝承ホール』アルバム発売記念ライブ
開場18:30 開演19:30 前売¥4500 当日¥5000(いずれも飲食別)
【出演】リクオ with HOBO HOUSE BAND
笹倉慎介(ギター&コーラス)/椎野恭一(ドラム)/寺岡信芳(ベース)/ 宮下広輔(ペダルスティール)/橋本歩(チェロ)/阿部美緒(ヴァイオリン)/真城めぐみ(コーラス)
メール予約: reserve@rikuo.net (当日15:00まで受付)



2014年11月12日水曜日

広島土砂災害の安佐南区で「新しい町」を歌って感じたこと

ソウルフラワーユニオン中川敬君との「うたのありか 2014」ツアーの最中、先週8日に土砂災害で甚大な被害を受けた広島の安佐南区を訪れ、地域の集会場で中川君と2人で地元の方々を前に出前ライブを演らせてもらった。

午後2時頃、安佐南区に到着したら、早速地元の方が各被災場所を丁寧な説明を交えながら案内してくれた。
被災の様子を実際に目の当たりにして、その規模と被害は自分の想像を超えていた。ここまで広範囲で深刻な被害状況であったとは、テレビやネットの情報だけでは実感できなかった。




凄惨な現場を多く目にして、3.11から2ヶ月後に東北の被災地に入って目にした光景と、そのときの何とも言えない気分がフィードバックした。
地元の方の説明では、被害を受けた一帯は、高度経済成長期以降に山を切り崩して建てられた住宅街で、住民は70歳以上の高齢の方が多いのだそうだ。
住宅街の道は、どこも車1台がぎりぎりと通れるくらいに狭く、入り組んでいた。山に向かう坂道は相当な急勾配で、高齢の方が暮らすには厳しい環境に思えた。
各被災場所を見て回って、この一帯は町づくりにおいて充分な計画性と安全性の配慮が足りなかったのではないかという疑問を持たざるえなかった。

案内してくれた地元の方は、70人を超える死者の数ではなく、その場所で無くなられた1人1人個人の死について、その顔が思い浮かぶように丁寧に語って聞かせて下さった。それは感情を押さえた静かな語り口だった。
30代でこの場所に越してきて、念願のマイホームを手に入れ、こつこつ働いて、ようやく子育てを終え、この地を終の住処として夫婦で70代を迎え、被災された方の姿を想像すると、自分がこの場で感じた疑問や割り切れない気持ちを言葉にするのは憚れた。

夜のライブでは、集まってこられる方の中に家をなくしたり身内や知人を亡くされた方がおられること等を想像して、選曲に気を配った。当日になって当初予定していて選曲からはずされた曲もあった。
集会場には、まさに老若男女たくさんの地元の方が集まって、会場内に入りきれない人達は会場の外で、演奏を楽しんでくれた。演歌、民謡、アニメソングを交えた普段とは違った選曲で、ライブは終始大盛り上がり、涙と笑いに満ちた一期一会になった。「満月の夕」を演奏中、集まった人達の表情を見ていたら、なんとも言えない気持ちがせまってきた。歌の力を感じずにはいられなかった。



今回の中川くんとのツアーでは、カンサス・シティ・バンドの下田卓さんが、東日本大震災の被災地復興を願ってつくった歌「新しい町」をカヴァーさせてもらっている。この歌は単なる「復興」を願うだけではなく、戒めと祈りを込めて町が新しい価値観で生まれ変わることを願った歌だと自分は解釈している。
https://www.youtube.com/watch?v=FYd6iLlBVZs
当初、この曲こそ安佐南区で歌うにふさわしいと考えていたのだけれど、現地を訪れ被災地を見て回った後には、この歌をこの場所で歌うことに少しの躊躇を感じた。その躊躇には根本的な問いかけが含まれていた気がする。

3・11以降、あれだけの大きな災害と事故を経て、戦後の経済成長がとても大きなリスクとツケを背負って成り立っていたことを、多くの人が自覚させられたはずだ。けれど、あれから3年8ヶ月以上が経過して、その自覚は再び薄れつつあるように思う。
安佐南区を訪れて感じたことの1つは、残念ながら、これから戦後の経済成長主義のツケがさまざまに返ってくることを覚悟しなければいけないのではないか、ということだ。せめて今後は、次世代のためにも、そのツケを増やさない方向に向かうべきだと思う。

ライブ後は、ボランティア、地元の皆さんと屋外でテーブルを囲んで、この日の炊き出しの芋煮と焼きサンマをいただき、焼酎のお湯割りをチビチビとやりながら、語り合った。
自分の隣に座った若者は災害後、東京の仕事を辞めて故郷であるこの地に戻りボランティア活動を続けているのだそうだ。これからは地元で暮らしてゆくつもりだそう。

この日の夜空にはミラクルムーン直後の素晴しい満月が輝いていて、皆がその満月を携帯で撮ろうとするのだけれど、その美しさの百分の一もおさめることができないでいた。’11年の5月、初めて被災地入りした石巻でも、街灯りが消えた中で、夜空に満月が輝いていて、皆で見とれていたことを思いだした。


土砂災害以降、安佐南区には述べ5万人を超えるボランティアの人達が集まったそうだ。受け入れ態勢ができていない中で、一度にたくさんのボランティアが集まり過ぎて、一時は混乱が生じたという話も聞いたけれど、日本にボランティア活動の意識が根付いたのは素晴しいことだと思う。この日の出前ライブも各地から集まったボランティアの人達よって企画された。
3・11以降、被災地でボランティア活動をする何人もの人達と出会ってきたけれど、彼らの中には地元の人達との出会いと交流の中で、その後被災地に移り住んだり、その土地で家庭を持った人もいる。
「新しい町」は、元々その町に暮らす人達だけでなく、他から集まった多くの人達とともにつくられてゆくのだろうと思う。

ー2014年11月12日(水)


2014年10月19日日曜日

藤井裕さんのこと

生き続けることは誰かを見送り続けること。
年齢を積み重ねるにつれ、この言葉が実感となりつつある。
最近は、旅立った人を想って感傷的になり過ぎることを自制しようとする自分がいる。多分その理由は色々で、まだうまく説明できそうにない。
会えなくなった人達のことを忘れずにいたいと思う。忘れてしまうことで、自分自身の何かが欠けてしまう気がする。あのニオイや佇まい、あの時の気分を覚えてはいても、具体的な出来事が思いだせなくて寂しい気持ちになることがある。もっと感傷以外の感情や出来事も思いだしたいのだ。あの人達のさまざまな姿が自分の中で、ずっと生き続けてほしいのだ。

再活動を始めたばかりの上田正樹とサウス・トゥ・サウスのメンバーであり、リトル・スクリーミング・レビューやラフィータフィーのメンバーとして忌野清志郎さんとも活動をともにしたベーシストの藤井裕さんが亡くなった。食道がんだった。

裕さんとは、自分がまだ大学生だった頃、石田長生さんの紹介で知り合った。自分の初の東京ツアーだった高円寺JIROKICHIのライブをブッキングしてくれたのは裕さんだった。そのライブでサックス奏者の梅津和時さんと知り合ったことが、自分のメジャーデビューの1つのきっかけになった。
自分の本格的なレコーディング初体験となった有山じゅんじさんのソロアルバム「聞こえる聞こえる」のレコーディングでのベーシストも裕さんだった。特に20代の頃は、裕さんと共演させてもらう機会が多く、勉強になることばかりだった。
音楽家・藤井裕のワン&オンリーの個性を支えていたのは、音楽に対してどこまでも真面目で真摯であり続ける姿勢と、その継続によって身につけられた極めて高い演奏技術だった。感性に頼るだけでなく、冷静に科学的にグルーヴをとらえることのできる人だったと思う。
精神面では、自分のナイーブさをいつまでも切り捨てることのない人だったとの印象がある。そういう姿は、人によっては不器用とうつったかもしれないけれど、自分が大切にする何かを最後まで守り通した人だと思う。

8月のお盆前、入院している裕さんを見舞いに有明の病院を訪ねた。相部屋のドアを開けて中に入り、区切りに使われていたカーテンを開けると、ベッドの上で上半身を起こし、頭にヘッドフォンをつけCDを聴いている裕さんの姿が目に入った。こちらに気付くと、裕さんは不意をつかれたような表情をした。その姿を見て、思ったよりは元気そうだという印象を持った。
傍らには何枚ものCDが置かれていて、ベッドの横には中身の入ったベースのハードケースが立てかけられていた。自分は裕さんにチェットベイカーとニーナシモンと自分の新譜のCDをプレゼントした。
サウス・トゥ・サウスの再活動に向けて既に数曲を完成させていて、これからさらにサウスのための曲作りを続けるつもりでいること等、裕さんは今後の活動について前向きに話して聞かせてくれた。病院の相部屋の狭いスペースの中でも裕さんの音楽生活は続けられていた。

見舞いにうかがう前は、何を話せばいいのかわからない気分だったけれど、会ってみれば予想以上に会話がはずみ、随分と長居してしまった。会話の流れの中で、10年くらい前に下北沢の飲み屋で裕さんと朝まで口論したことを思いだして、その話をしてみたら、本人はあまり覚えていない様子だった。
口論のきっかけは笑ってしまうような些細な出来事だったけれど、2人ともムキになって言い合いを続け、気付けば始発どころか朝の通勤ラッシュの時間になっていた(そんな時間まで突き合ってくれたお店のマスターに感謝)。2人でお店を出た時、朝日がまぶしかったことを覚えている。その頃には既に2人のわだかまりは解けていて、深酒したにも関わらず、裕さんはすっきりとした顔をしていた。多分、自分も同じような表情をしていたに違いない。
一回り年の離れた先輩と口喧嘩するなんて、なかなかないことだけれど、裕さんとは年齢を超えてそういうコミュニケーションが成り立った。それは、裕さんが対等な関係で自分と付き合おうとしてくれていたからだと思う。

「その時のことはよく覚えてないけど、多分そのときオレはリクオに対して悔しい気持ちがあったんやと思う」
下北沢での口論の話をした後、裕さんからこんなふうに言われた。裕さんから自分に対して「悔しい」という言葉を聞いたのはこれが始めてではなく、以前も酒の席でそんなことを言われたことがあった。その時は、尊敬する先輩の裕さんが自分を意識してくれていたことを意外に感じると同時に、少し嬉しくも思えた。一回り年の離れた後輩に対して、そういう気持ちを伝えることのできる正直さ、素直さを、裕さんはずっと持ち続けていたのだと思う。

病室を出る時、裕さんは不自由な体でわざわざエレベーターのある場所まで見送ってくれた。恐縮する一方で、まだ歩行も難しい状態だと聞いていたので、これだけ動けるまでには回復したんだと、希望を持った。
部屋を出てエレベーターに到着するまでの間、裕さんは自分に何度か感謝の気持ちを述べてくれた。そのときに、「また来ます」と伝えたら、「その前に退院してるわ」という言葉が笑顔と一緒に返ってきた。それが裕さんとの最後の対面になった。

9月の半ば、松坂でのサウス・トゥ・サウスのライブで、裕さんがベースを3曲弾いたという話を聞いたときは、本当に嬉しかった。裕さんは最期まで音楽とともにあり続けたのだ。
これからも裕さんのことはすぐに思い出せるだろう。あの低い位置でベースを弾く姿、あのグルーヴ、音色、あの声、あの笑顔、お酒をちょびちょびと飲む哀愁ある姿、嘘のない言葉。きっと、いつでも思い出せるだろう。

裕さん、ありがとうございます。
もう言い合いができないのは、やっぱり寂しいです。

ー2014年10月18日 ツアー先札幌のホテルにて

2014年9月17日水曜日

50歳の初夢に山下達郎さんが

50歳の初夢に山下達郎さんが出てきた。
夢の中で、達郎さんの自宅にご招待していただいた。
「以外と庶民的で質素な暮らしをされているんだなあ」
これがはじめて達郎さんの自宅を訪問しての感想だった(あくまでも夢の話ですよ)。奥さんが(夢の中での奥さんは竹内まりやさんではなかった)こちらの様子を見て何かを察したように、「この人(達郎さん)は音楽以外のことに対しては強いこだわりや執着がないんですよ」と自分に向かって柔らかい笑顔で話された。奥さんの話を聞いて「ああ、オレもそうかも」などと思った(繰り返しますが、あくまでの夢の中の話です)。
目が覚めてしばらくは、布団の中で不思議な夢の余韻を味わい続けた。

達郎さんと初めてお会いしたのは自分がCDデビューした直後だった。
自分が最初に契約したレコード会社エム・エム・ジー株式会社 (MMG) は、米ワーナー・ミュージック・グループ傘下として、アルファレコードの関連会社アルファ・ムーンとマザーエンタープライズ傘下のレコード会社マザーアンドチルドレンが合併し、新たにGARLANDレーベルを社内に発足させ、社名にそれぞれの頭文字を取って、’90年にスタートした(つまり、自分がデビューした年にMMGは発足した)。主な所属アーティストはTHE BLUE HEARTS、竹内まりやさん、そして山下達郎さんだった。
達郎さんはMMGの所属ミュージシャンであると同時に、アルファ・ムーンの設立から深く関わる会社の役員でもあった。自分はGARLANDの所属で、達郎さんとは所属レーベルが違っていたのだけれど、自分のデビューミニアルバムを聴いてくれた達郎さんから、一度会いたいと声をかけてもらい、MMGのオフィスでお会いすることになった。
緊張気味の自分に対して、達郎さんはとても気さくで多弁であった。ミニアルバムのことを褒めてもらえてとても嬉しかったし、勇気づけられたのを覚えている。達郎さんの話からは音楽に対する愛情があふれていた。

「君はなかなか売れないかもしれないけれど、長く続けてほしい」
そのときに達郎さんから言われたこの言葉を、今でも思い出すことがある。
達郎さんとはそのとき以来、一度も再会を果たせずにいる。オレのこと覚えてくれているかなあ。もう一度お会いする機会があればこう伝えたい。
「その節は、ありがたい言葉を色々とありがとうございました。お陰さまで50歳になっても、面白おかしく音楽活動を続けてます。これからもずっと続けていきます。達郎さんのアルバム『RAY OF HOPE』何度も繰り返し聴きました。」


2014年8月28日木曜日

「ネトウヨ」「サヨク」とレッテル貼りされる2人による議論 

以下は、自分がツイッターと同期させてFACEBOOKに投稿した記事と文章に対するHさんのコメント書き込みをきっかけに始まった、Hさんと自分によるFACEBOOK上での議論です。Hさんは、自分が社会的な記事を掲載したり、社会にコミットするような発言をした時に、よくコメント欄に書き込みをしてくる音楽業界の同業者です(実際にお会いしたことはありませんが)。
自分はHさんから「サヨク」とレッテル貼りされることがあり、Hさんの方は、おそらく「ネトウヨ」とレッテル貼りされることを自覚しておられるようなので、このようなブログタイトルをつけました。ちなみにオレは自分が左翼だとは思っていません。特定のイデオロギーから発言しているという自覚もありません。おそらくHさんも自分のことを「ネトウヨ」だとは思っていないのではと想像しています。
正直、この議論が対話として成り立っているという自信はありませんが、対話の道筋に至る何かのきっかけになればとの思いがあります。FACEBOOK上でのHさんとの議論は平行線をたどることが多いのですが、ぎりぎりのところで互いを記号化しないという信頼があることで、この議論が成り立っていると思っています。
今回のHさんとの議論を通して、あたらめて気づいたことは、特に3.11以降、自分がまず大切に考えてきたのは、「理屈」や「思想」よりも、他者との「共感」を試みようとする「態度」であるということです。そして、その「態度」を常に維持することの難しさも感じています。
長くなりますが、よければお付き合い下さい。

※このブログをアップした後もコメント欄でのHさんとの議論が続いたので、そん部分を8月30日に加筆しました。

まずは、議論のきっかけになった8月26日の自分の投稿記事と、それに添えらえた文章です。

関東大震災の朝鮮人虐殺から今のレイシズム(民族・人種差別)が見えてくる<加藤直樹氏インタビュー>
http://www.asiapress.org/apn/archives/2014/04/24170846.php
広島の土砂災害でも、ツイッター上で在日の人達や中国人が空き巣狙いをしているといったひどいデマが流れてる。


以下からが、この投稿を受けてのHさんコメントから始まった2人の議論です。

●Hさん
震災発生後、混乱に乗じた一部朝鮮人による凶悪犯罪、暴動などが発生したが、こうした事件情報は混乱期にあって流言、デマなども生み出し、過度に警戒した民衆によって朝鮮人が殺害されるなど、朝鮮人側にも大きな被害をもたらしたわけです。
混乱に乗じて朝鮮人が凶悪犯罪を繰り返した戦後の「朝鮮進駐軍」もご参考下さい。
そして現代でも在日韓国朝鮮人の犯罪率が極めて高いという事実も。
いろいろな方向からの見方があることは忘れてはいけません。
それらの事実を互いに理解した上で、友好的であるべきと思います。

●リクオ
「朝鮮進駐軍」は、在特会などが随分前から拡散していたトピックですね。
終戦直後に一部の在日コリアンがアウトロー化したことは事実のようですが、4千人の日本人市民が「朝鮮進駐軍」の犠牲となり殺害されたなどという情報はひどいデマだと思われます。
いまだに信じて情報を拡散している人もいるようですが、ネット上でも多くの人達によって検証され、デマと判断されてますよ。

そもそも「朝鮮進駐軍」に関する文献など一つも存在しない。在特会が証拠としている流しているキャプション付きの「朝鮮進駐軍」の写真もねつ造。その写真は、毎日新聞社提供サービス「毎日フォトバンク」が収蔵していて、写真に写ってる腰拳銃の男達は「朝鮮進駐軍」なる武装組織ではなく朝連の本部を捜索する日本の武装警察官です。
在日特権に関するデマも含め、こういう情報は調べればネット上でも確認できますよ。ただネットですべての”事実”や”真実”がわかるとは思いませんが。

そして、念を押しますが今回の広島土砂災害で在日の人達や中国人が空き巣をしたという事実はありません。
http://mainichi.jp/fea・・・/news/20140826mog00m040012000c.html
広島土砂災害:空き巣で外国人犯罪の情報ない 広島県警ー毎日新聞

●Hさん
朝鮮進駐軍はwikiにも詳しいですよね。その「名称」についての妥当性はともかく多くの悪質な犯罪があったことは事実です。
しかし、日本では、なぜ在日韓国朝鮮人だけが差別的な対象として捉えられやすいのでしょうか?インド人やアメリカ人やフィリピン人となぜ違う印象になるのか?
それは歴史的な経験や事実が我々の深層心理に空気のようなものとして残っているからではないでしょうか。
それを差別というのか、本能的防御というのかはわかりませんが、そういう深層心理が働いていることは確かだと思います。
現代でも在日韓国朝鮮人の犯罪率の高さは事実ですので、危ない経験をしたら気を付けようと思うのは、人間として自然なことだと思います。
もちろん事実が誇大化され集団ヒステリーになるのは良くないですが、火の無いところに煙は立たないことも認識しつつ、どう付き合って行くのか、お互いに考えて行けたらなあと思います。

●Hさん
若いころ、母親が「彼女連れてきてもいいけど韓国人はダメよ!」と言ってって、ずいぶん差別的だなあと思った記憶があります(笑)。
愛し合っていたらなんでもOKと思いますが、人ひとりが背負っている家族や歴史の背景ってのは、現実社会になるととてつもなく大きいんですよね。大人になるほど感じます。
素敵な音楽の前では、みんなそんなこと忘れられるんですけどね。

●リクオ
これですね。
http://ja.wikipedia.org/wiki/朝鮮進駐軍
ウィキにも4,000人以上の日本人が殺されたとする「GHQ(連合国軍最高司令官総司令部)の資料」の出典は明らかにされておらず、在特会が証拠としている流しているキャプション付きの「朝鮮進駐軍」の写真がねつ造であることが指摘されてます。ただ、ウィキも間違いやデマだらけなので、すべてを鵜呑みにしない方がいいですよ。ここで紹介されている『マンガ 嫌韓流』『嫌韓流の真実!ザ・在日特権』からの情報も間違いやねつ造が多いと考えています。

終戦直後に一部の在日コリアンがアウトロー化して犯罪行為に走ったことが事実でも、Hさんがコメントした「朝鮮進駐軍」なるものの犯罪、4000人の日本人が在日コリアンに殺されたというのは根拠のない悪質なデマでしょう。

在日コリアンが差別的な対象にとらえられやすい理由を、在日コリアン側にばかり押し付けるのも間違いだと思います。在日コリアンの犯罪率が高いのだとしたも、彼らが置かれた境遇や歴史背景を無視して、その理由を彼らの資質や民族性に求めるのは、とても危険な思考だと思います。Hさんの言うところのそういった「深層心理」が集合し暴走することで、ファシズムが生まれ、ユダヤ人大虐殺のような歴史的悲劇が起きてしまったのではないでしょうか。当時のドイツ国民の多くが、ユダヤ人には虐殺されるべき理由があると考えていたのでしょう。

Hさんの言うように、ステキな音楽を通して、そういった偏見や差別がなくなることを切に願っています。音楽には、「差別」や「敵対」ではなく他者との「共感」をもたらす力があると信じてます。


●Hさん
私も在特会の動きは、やってる人たち自身のガス抜きに過ぎず、在日コリアンの問題解決の効果があるとは思いません。言動が品性に欠けるので伝わることも無いと思っています。
でも「朝鮮進駐軍」というのは、言い得て妙だなと個人的には思っています。勝戦国でないのに勝手にそう主張した彼の国の態度にはピッタリのネーミングと思います。いささか皮肉が効きすぎってぐらいです。
在日コリアンのほとんどが、戦後、自分の自由意思で日本に残り、または密入国したまま自国に帰ろうともせず、かといって帰化もせず日本に居座り続けて来たという歴史的背景を持っています。
敗戦した日本に対して「我々は強制連行されて嫌々ここにいるしかないんだ!」との嘘を実に巧妙に利用し、現在に至っています。慰安婦の嘘と同じ構図ですね。
「差別」さえも逆に利用してです。帰化しない方がメリットがある訳です。
大阪に住んでいた頃の在日コリアンの逆差別暴力の話はほんとうに辛いものがありました。

音楽の力で、誰かを癒すことは出来ると信じていますが、あくまでエンタテインメントを超えるものにはならないと思っています。
こんなに音楽が溢れていたって、ナチスどころかチベット人というだけで差別され殺される現代の民族浄化が隣の国で今もまさに起きています。そこに行って身一つで歌う覚悟があったとしても、残念ながら瞬殺されて終わりだと思います。若いチベット僧侶が自らの身体に火を点けて訴えても何もできないんですから我々の歌に何の力があるでしょうか?

でも、楽しいから音楽はやめられないっ!ですよね!

●リクオ
在日コリアンが日本にわたってきた要因は日本による朝鮮の植民地支配でしょう。当時の朝鮮人が日本国民であったという事実を忘れてはいけないと思います。
当時、日本側が、彼らを労働力、兵力として必要とし、日本に進行する行政計画を立てた時期もあります。それらがすべてが強制連行であったとは思いませんが、朝鮮の人達が、生きるため、喰うために、低賃金労働力として日本に流入せざる得なかった背景も考える必要があります。
多くの在日コリアンが戦後に帰国しなかった、できなかったのも、朝鮮半島の険悪な政治状況、祖国の荒廃、一家離散、生活苦等さまざな理由があげられます。在日コリアンの人達に対しては、元宗主国としての責任が日本にはあるのではないかと考えています。繰り返しますが、在日コリアンが差別的な対象にとらえられやすい理由を、在日コリアン側にばかり押し付けるのは違うと思います。

在日コリアンの歴史背景等について、ここでこれ以上Hさんと議論するつもりはありません。とても、このコメント欄では語りきれないし、そこまでの時間をつくる余裕がありません。
このコメント欄でまず伝えたいことは、「『朝鮮進駐軍』なるものは、言えて妙も何も、言葉自体がねつ造であり、4000人の日本人が殺されたという事実は確認されていない。この点においてHさんは謝った情報を流している。」ということです。

Hさんがおっしゃるとおり、自分も音楽はまずエンターテインメントであると考えていますが、それを超えた存在にもなりうると実感してます。無力さも感じますが、少なくとも自分は音楽から「娯楽」以上のものを受け取ってます。


●Hさん
一日中音楽の仕事してますと、なんだかずーっと右脳使っているのか、仕事終わった後は逆に左脳というか言語を使いたくなりませんか(笑)?
リクオさんとの対話は、言葉を使う面白さが格別ですね!

最近、朝日新聞が慰安婦問題の誤報を認めましたが、こういうことって今後も在日コリアンを語る上で必ず起きてくる問題です。
ずーっと私も、日本が侵略してすまないことをしたとだけ教えられて信じて来ましたが、最近になって決してそれだけでは済まされない問題であることがさまざまな資料の検証からわかって来ました。
はたして、日本だけが悪かったのか?永遠に我々は気を使い、謝罪し続けなければならないのか?
それは、我々を必ずしも幸せにする考え方では無いと思います。
在日コリアンや韓国、朝鮮人をも幸せにする考え方では無いと思います。

お互い、悪いところもあった。良いところもあった。それを理解した上で初めて、対等に仲良くなれるのではないでしょうか。甘やかすことなく、甘えることなく。それが人間として対等で、お互いに誇り高くあるということでしょう。
歴史を語ることは、常にフィクションになってしまいますが、どのフィクションがより多くの人にとっての幸福となるのか?平和的なのか?ということを常に考えながら、我々は歴史を作って行かなくてはなりません。

在日コリアンの歴史については、GHQが戦争についての罪悪感を日本人の心に植えつけた占領時期の洗脳政策の流れを汲んだままの解説サイトも未だいくつかありますし(これはリクオさんの考え方と近いですね)、また、それに反する検証を行っているサイトもあります。もちろん、書籍でもさまざまな視点から書かれているものがあります。

例えば、私はこちらのサイトの認識に近いわけですね。
http://www.geocities.co.jp/WallS・・・/6199/zainiti_raireki.htm

同じ歴史的事実を元にしていても、これだけ見え方が違ってくるのが歴史の面白いところです。

その判断基準は、私にとっては先に書いたように、人間として対等であるか、お互いに誇り高くあるかということです。
広島のデマも、在特会のデマも、そしてもちろん朝日新聞が行った誤報も、間違いで誰かを貶めてしまうという、我々にも韓国人にとっても、極めて無礼なことであったと思います。

どちらにも正義があり、裏には必ず悪もあります。それを認識し合うことが、対等であるということだと思っています。

●リクオ
「お互い、悪いところもあった。良いところもあった。それを理解した上で初めて、対等に仲良くなれる」「その判断基準は、私にとっては先に書いたように、人間として対等であるか、お互いに誇り高くあるかということです。」というHさんの考えに同意します。戦後の日本人の多くが「かつて日本が一方的に悪いことをした」ですまし、思考停止したことが、現在の反動や歪みをもたらす要因になっている気がします。

その後のHさんのコメントは「広島のデマも、在特会のデマも、そしてもちろん朝日新聞が行った誤報も、間違いで誰かを貶めてしまうという、我々にも韓国人にとっても、極めて無礼なことであったと思います。」と続きますが、そう考えるのなら、Hさんがこのコメント欄で『朝鮮進駐軍』というデマを流したのも「極めて無礼なこと」です。

今、身内が占領期にGHQが行った占領政策を研究していることもあり、自分もその時代に興味を持ちはじめてます。生活や言論の側かれ見れば、占領期は武装解除が済んだだけの「戦中」だったのかもしれない。そして、その「戦中」の流れが今も続いている側面があるのでは、と考えはじめています。「多様な価値観や思考を受け入れられない」「排他的である」「全体で一方に流れやすい」という点において、最近は戦中や終戦直後の空気により近づきつつあるのかもしれません。

Hさんが紹介してくれたサイトにも目を通させてもらいましたが、視点が一方に偏り過ぎていると感じました。こういった情報の流し方も「戦中」の流れにある気がします。イデオロギーから抜け出せずに、強制連行の有無の2択にばかりこだわって議論していたら、事実や本質にはたどりつけないと思います。「左」が反転して「右」になるのは態度としては同じ気がします。

Hさんが言う「人間として対等である」ためには、相手の立場を想像し、違いも含めて「共感」に至る態度が必要だと考えます。特に3.11以降、自分が「理屈」や「思想」よりもまず大切に考えているのは、こういった「態度」です。難しいですが。
Hさんは左脳ばかりでコメントを書かれているのかもしれませんが、「意見や立場の違う他者との共感の試み」には「右脳」の活動も必要と感じます。

※これ以降は8月30日に追加

●Hさん
どうもです!
そもそも私がここに書き込もうと思ったのは、シェア元の文章が我々日本人に対して「無礼」だと感じたからです。事の発端が朝鮮人の混乱に乗じた一部朝鮮人による凶悪犯罪、暴動などが発生したことにあるということが、一切書かれていない。それを書かずして、日本人のレイシズムだけを悪と書くのは誠に卑怯です。許されるものではありません。それを安易にシェアするリクオさんも同じくです。・・・もっと見る

●Hさん
もし仮に、リクオさんが「共感の試み」をされているなら、私の言うことも充分ご理解頂けると思いますが。

●Hさん
私は、共感するためにこそ、多様な視点を提示させて頂いておるわけですよ~。

●Hさん
日本は、そもそも大昔から多様な価値観や思考を受け入れてきた国民でした。
世界で初めてレイシズム、人種差別を無くそうと世界に訴えたのも、日本です。
それは、有色人種がずっと差別されて来たこととの戦いです。・・・もっと見る
●リクオ
Hさんのシェアの文章に対する受け止め方、憤りの理由を、ある程度理解しました(事の発端が一部朝鮮人による犯罪、暴動であったとして、その暴動が起きるに至った背景を考える必要があると思いますが)。オレはシェアした文章が「卑怯」だとは感じませんが、そのように受け取る人がいることもわかりました。

ただ「卑怯」だと感じたからデマを流していいことにはなりません。何度も書きますが、終戦直後の在日コリアンの一部が犯罪を犯し、日本人を恐れさせたことが事実であっても、「朝鮮進駐軍」なるものが4000人の日本人を殺したという事実は確認されていません。ねつ造はネーミングだけではありません。

Hさんがおっしゃる通り「共感するためにこそ、多様な視点を提示する」ことがとても大切だとオレも考えます。さまざまな視点を謙虚に受け止めるよう心がけたいと思います。
先のコメントにも書きましたが、因果関係を一方だけの責任にして思考停止することの危険性を感じています。多分、アメリカの戦争責任という点においてはHさんと共通する考えがあるように思います。でも、ここでは、もうその話はやめましょうね(笑い)。

これも繰り返しになりますが、「左」が反転して「右」になるのは態度としては同じ気がします(その逆もしかり)。イデオロギーありき、前提ありきの思考から自分が完全に逃れているとは思いませんが、そうありたいと思います。

このコメント欄での議論はそろそろ終わりにしましょう。言いたいことを言い合うだけでなく、互いの言葉をしばらく受け止める時間も大切だと思います。

2014年8月24日日曜日

「甘っちょろい」言葉ー終戦記念日のツイートから考える

8月15日の終戦記念日に、以下の言葉をツイッターでつぶやいた。

単純な物語に寄りかからず、自分で丁寧に物語を紡ぐ。
「正義」を押し付けない。決めつけない。
受け身の取り合える喧嘩を。殺さない。
「敵対」より「共感」を。
社会から、多様性、他者への想像力、寛容、ユーモアが失われませんように。
ー2014年8月15日 

ツイートする前には、何度も自分の文面を見直し、自問を経た上で、画面の「ツイートする」をクリックした。
上記の言葉をツイートした後、自分がフォローしているある人物の連続したツイートをタイムライン上で目にした。そこには、とても強い言葉が連なっていた。

「戦いを望む連中に、戦わずに勝てると思うな。祈りは何の役にも立たない。行動だ。」

「社会を変えるには明確に照準を合わせる敵が必要だし、敵を本当に倒すには社会を変える必要がある。」

「『戦争に反対する人が闘いだ!なんて…。』とか甘っちょろい事を言っていてよい時代は終わりました。日本という国を戦争に向かわせる人間と“闘う”事と、そいつらと闘わないで、後から他国と“戦争”をして文字通り殺しあうこと。どちらが良いかは明白でしょう。」

一連のツイートを読みながら、なんだか自分が責められているような圧力を感じた。
3.11以降、この人物のツイートを長く読み続けてきた。脱原発を訴える反原連での活動やヘイトデモに対するカウンター活動など、その行動力にはリスペクトの気持ちを持っていたし、ツイートを読んで納得させられたり、教えられたりすることも多くあった。同意できない部分も含めて、ここ数年、この人物の言動が自分に考えるきっかけを色々と与えてくれていたことは確かだ。
今回、自分のツイートとこの人物のツイートを読み比べてみて、自分のツイートはいかにも「甘っちょろい」と感じた。これは自分を卑下しているわけではない。むしろ「甘っちょろい」言葉が通じない世の中が来ることを危惧している。
彼のツイートの中で特に「祈りは何の役にも立たない」という言葉が強く心に刺さった。
「もう2年前とは状況が変わったんだな」あらためてそう思った。

2年前の春から夏にかけて、自分は原発再稼働に反対する官邸前の抗議集会に何度も参加していた。春に参加した頃は数百人の集まりだった抗議集会が、時の野田政権が大飯原発の再稼働容認を表明したことを一つのきっかけに、6月以降は万単位が集まる大集会に膨れ上がっていった。その時期、官邸前の多勢を占めたのは、いわゆる活動家やセクトの人間ではなく、再稼働に反対するというワンイシューの下、イデオロギーを超えて集まった一般の幅広い世代の人達だった。
女性の参加者も多く、そこには激しい「怒り」や「闘い」だけではなく、静かな「祈り」も存在した。この抗議行動がイデオロギーを超えた集まりであり、行動の中に「祈り」が存在することに、自分は新しい社会運動としての可能性を感じた。

けれど、その官邸前デモを主催する側の立場だった1人が、「祈りは何の役にも立たない」とツイートしたことは、この2年間の状況の変化を象徴しているような気がする(ツイートした本人は、2年前から同じ考えだったのかもしれないけれど)。
外から見る限り、この2年の間に都市部を中心とした運動の多くが、「闘い」を全面に押し出し、先鋭化する方向に向かっている印象を受ける。その流れは、恐らく安倍政権発足以降に加速された。今月初旬、都内で行われた安倍政権とファシズムに反対するデモのタイトルが「怒りのブルドーザーデモ」だったことは、そうした傾向を象徴している気がする。それだけ危機感が高まったということだろう。
そういう状況の中では、「受け身の取り合える喧嘩を」「『敵対』より『共感』を」なんて言葉は、右からも左からも「甘っちょろい」「きれいごと」として、切り捨てられそうだ。

3.11以降、ネットやマスメディア上で、たくさんの人達がなじられ吊るし上げられるのを目にしてきた。責任の所在をはっきりさせるために、権力を持たない側から「糾弾」という形が取られることは、場合によっては仕方がないことかもしれない。けれど、「糾弾」が大手を振る社会が好ましいとは決して思わない。
自分は次第に、どちらかというと糾弾する側よりも糾弾される側の立場に自分の気持ちを置くようになっていた。2項対立を危惧し、どちらかに一方的に寄らない、グレーゾーンの存在を切り捨てない。そういった姿勢は、世の中が切羽詰まって同調圧力が強まる程に、左右関係なくどちらの立場からも「糾弾」の対象になりかねない気がしている。

いや、少し深刻にとらえ過ぎなのかもしれない。
少なくとも、自分の回りは、そんなに閉塞した状況ではない。ツアー中心の音楽生活の中では、日々「HAPPY DAY」が地道に積み重ねられているし、自分達なりの楽しみや価値観を見つけ、新しい繋がりを模索し、丁寧に個々のストーリーを紡ごうとする人達との出会いも多い。そんな出会いを重ねることで、世の中は良い方向にも変化していると実感している。
ネットやマスメディアを通して得る情報と、自分の回りの状況はまるで別世界のように感じることがある。こちらの側でずっと面白おかしくやっていたいとも思うけれど、やはり両者はつながった作用し合う世界であり、無視することもできない。
どこか一方に寄り過ぎないよう、さまざまな世界を自分の中で保ち、それぞれを渡り歩き、つなぎあわせてゆけたらと思う。公の問題を無視することはできないけれど、それに押しつぶされてはいけない。深刻になり過ぎたらアカン。

自分はこれからも「甘っちょろい」「きれいごと」を言い続けてみようと思う。しんどくなったら多分やめる。他の表現方法を考える。
「甘っちょろい」「きれいごと」が言えるのは、ある程度余裕ある安全な立場に自分がいるからだということは自覚している。「汚れ役」を他にまかせているから、そういうことが言えるのだという批判も成り立つだろう。
けれど、世の中を変えるのは「闘い」を全面に押し出した社会運動や、政治運動だけではない。皆が正面切って闘う必要はないと思う。それぞれの立場、活動に違った役割があり、それらは互いを補完し合う関係にある。そんなことをイメージし合える世の中であってほしい。もちろん、この言葉も「甘っちょろい」「きれいごと」だと自覚している。
ー2014年8月24日

2014年8月5日火曜日

相馬のMさんからのメール

福島県相馬市・南相馬市発信のフリーペーパー「そうま・かえる新聞」最新号に寄稿させてもらった文章を、許可を得てブログに転載させてもらいます。
10月12日(日)には南相馬市・朝日座において、そうま・かえる新聞主催によるライブ・イベント「うたのありか2014〜そうま・かえる新聞presents リクオ&中川敬(ソウルフラワーユニオン)LIVE IN 朝日座〜」の開催が決定しました。
http://somakaeru.jugem.jp


2011年3月11日に東日本大震災が起きた時、自分は湘南の自宅でテレビを観ていました。湘南でも自分がかつて経験したことのない激しい揺れを感じました。
ほどなくしてテレビが、津波に飲み込まれてゆく東北各地の街の映像を流し始めました。その光景に強いショックを受けると同時に、東北で暮らす多くの知人の顔が想い浮かびました。被災したいくつもの街に、自分はツアーで何度も訪れていました。地震と津波によって多くの犠牲者を出した上に、原発事故によって大量の放射能が降り注いだ相馬市と南相馬市も、自分にとっては縁の深い街でした。
 相馬市には、カルメン・マキさんのツアーのサポート・キーボーディストとして、1998年に初めて訪れました。その後は主にソロでのピアノ弾き語りのスタイルで、定期的に相馬市と南相馬市を訪れるようになりました。お寺、小ホール、喫茶店、バー、イタリアン・レストラン、スーパーetc. 相馬ではホントさまざまな場所で演奏させてもらいました。
毎回地元の人たちと楽しく打ち上がり、ツアーで訪れるたびに相馬の知人が増えていきました。こういった繋がりがなければ、自分にとって震災や原発事故は、もっと他人事になっていたのかもしれません。
震災直後は、とにかく東北の知人の安否確認を急ぎました。まず相馬で最も付き合いの古いMさんと連絡を取ることができました。
彼は、津波に飲み込まれた相馬市海沿いの街の様子を写メで送ってくれました。その写真を見て言葉を失いました。どう返事を返してよいのか、わかりませんでした。Mさんの自宅も津波に飲まれたのです。
被災地の知人たちとの安否確認が一通り終わった後も、彼らとの連絡を取り続けるよう心がけました。被災した何人もの人が、ライフラインを断たれた避難生活の中で、夜空の明るさ、美しさを語ってくれていたのが印象に残っています。自分も震災から2カ月後に初めて被災地を回り、街の灯が消えた中で、輝く夜空に見とれました。夜空は輝き続けていたけれど、僕たちはそのことに気づく事なく、前ばかり見続けていたのかもしれません。
3・11以降の体験を経て、「手に入れることによって失った大切な何か」について考えるようになりました。
震災、原発事故直後からしばらくは、被災地以外の場所でも、大半の音楽ライブ・イベントが自粛され中止になりました。自分は、震災直後から多くのライブ・ツアースケジュールが入っていました。震災翌日の12日、小田原市でのライブでは、リハーサル中に、福島第一原発の事故が起きたことを知りました。激しく動揺する気持ちを押さえて、ライブを強行したのですが、大半のお客さんが来場をキャンセルしました。
翌13日の大和市、19日の藤沢市でのライブ・イベントは中止になりました。こういう状況下での音楽のあり方について、自分のなすべきことについて、深く悩みました。相馬のMさんから再びメールが届いたのは、そんな悩みと不安の最中でした。以下のような内容です。

リクオくん
駄目だよ、LIVEを中止しちゃ。
皆が元気になるパフォーマンスを全国に届けてあげないと。
この状況で音楽まで奪われたら人間だめになるよ。
やりなよ。
ミラクルマン唄いなよ。
リクオくんの使命だよ。

相馬にとどまり、降り注ぐ放射能の恐怖と不安を抱えながらの避難生活を続ける中で、Mさんはこのメールを送ってくれたのです。
震災直後、被災した何人かの知人が自分に託した言葉は「歌い続けてくれ」でした。彼らの言葉に背中を押されて、迷いや葛藤を抱えながらも、その後の音楽活動を続けました。先行き不安の中、不謹慎と言われようと、無理をしてでも皆で音楽を楽しもうと心がけました。
震災後、多くの被災地を回りました。相馬にも何度も訪れました。現地に足を運ぶたびに初めて知ること、感じることが多く、自分の想像力の限界を思い知らされました。情報化社会の中、我々は何でも知ったつもりになり、自覚無く多くを無視し、切り捨てているのだろうと思います。
被災地でショッキングな光景を目の当たりにしたときは、自分の心にリミッターがかかったような気がしました。あまりにも大きな哀しみや絶望を受けとめるだけの心の容量が、自分にはなかったのだと思います。
でもこの哀しみや絶望から目を背けることが、再び過ちを犯すことにつながるのでしょう。当事者として、過去を背負いながら、希望を失わず、そして楽しむことも忘れずに音楽活動を続けたいと思います。
そこに街があり人の営みがある限り、これからも相馬に何度も戻ってくるつもりです。