沖縄民謡歌手の古謝美佐子さんが、6日(日)にSEALDsらが主催した日比谷野音の集会に参加して、辺野古基地移設に反対するスピーチをしたことを知って、さまざまな思いが巡った。
以前、古謝さんとイベントでご一緒させてもらった時の打ち上げの席で、米軍基地辺野古移設が話題になった。正直、打ち上げの場で、こんなナイーブな問題をウチナーの古謝さんが正面向いて話してくれるとは思わなかった。その話題の中で、古謝さんは自分の生い立ちを話して聞かせてくれた。
「両親は米軍嘉手納基地で働きながら自分を育ててくれた。父親は、自分が幼い頃に、基地内の事故で亡くなった(アメリカ軍の車両にひかれて亡くなられたそう)。けれど、自分には基地に育てられたという思いもある。日本に存在する米軍基地の70%が沖縄に集中しているのはおかしいことだと思うし、辺野古への基地移設も反対だけれど、基地で働いていた地元の人達とのつながりもあり、そういった人達の気持ちを気遣うと、自分が声を上げて辺野古移設に反対することには躊躇がある」そんな内容の話だったと記憶している。
古謝さんが、辺野古基地移設反対の意志を公に表明し行動するようになったのは、最近のことだ。自分が声を上げることで誰かを傷つけることも覚悟した上での、さまざまな葛藤を経ての行動だと想像する。古謝さんの思いのすべてを知ることはできないけれど、その葛藤を想像することが、この問題を自分の問題としてとらえることにつながってゆく気がしている。
古謝さんを中心として結成された沖縄民謡女性4人グループ「うないぐみ」と坂本龍一氏のコラボレーションで10月にリリースされた曲「弥勒世果報 (みるくゆがふ) - undercooled」には、古謝さんの思いが凝縮されているように感じる。 https://www.youtube.com/watch?v=JUDG_LSSyZ8 自分が知る今年リリースされた中で最も心揺さぶられた歌の一つだ。
自分も運営に関わっていた「海さくらミュージックフェスティバル」という江ノ島の展望台で開催されていた野外フェスに古謝さんに参加してもらったときのこと。
古謝さんの歌は、すべてを包み込むような包容力で天高く響き渡り、神がかっていた。ステージが始まってしばらくすると、不思議なことに、たくさんの鳶が古謝さんの頭上高くに集まり、中空で旋回を始めた。その数はどんんどん増え続け、旋回は古謝さんのステージが終わるまで続いた。忘れられない光景、体験だった。
古謝さんの歌は天と地と人を繋ぐ。天と地、自然との繋がりがなければ人間は生きてゆけない。人も自然の一部であり、人だけの繋がりだけでは生きてゆけないのだ。古謝さんの歌は、そんな当たり前のはずのことを思い出させ、感じさせてくれる。
辺野古の基地移設は日本の安全保障や沖縄の植民地的なあり方だけが問題ではない。人が自然の一部として、どう繋がり合って生きてゆくべきなのかも問われている。「弥勒世果報 (みるくゆがふ) - undercooled」という歌には、そんな問いかけと祈りが込められていると感じる。
ー2015年 12月8日(火)
2015年12月8日火曜日
2015年10月27日火曜日
TSUTAYA(ツタヤ)図書館問題と湘南T-SITEについて感じたこと
各地の公共図書館で指定管理者として業務を請け負っている民間企業、図書館流通センター(TRC)が、レンタル大手TSUTAYA(ツタヤ)を運営するカルチュア・コンビニエンス・クラブ(CCC)との図書館事業についての関係を解消する考えを表明した。最近、TSUTAYA管理の図書館に関する情報を追いかけていた自分にとって、タイムリーなニュースだった。
http://www.47news.jp/CN/201510/CN2015102601002183.html
図書館が民間企業に管理を委託するようになったのは、その運営に行き詰ったからだ。結果、TSUTAYA管理となった図書館は、集客増加に成功する一方で、貴重資料の破棄や選書、本の分類のやり方などが問題視されている。
そういった状況の中、愛知県小牧市のように、TSUTAYA管理の市立図書館建設計画に対して、市民の間に「図書館の質を落としかねない」などと反対論が広がることで、住民投票が行われ、反対多数の結果が出て、計画見直しを迫られる例も出始めている。
自分がこの問題に注視するようになり始めたのは、先月、自分が暮らす藤沢にできた書店とカフェを中心とした文化複合施設、湘南T-SITEに初めて足を運んだことが、一つのきっかけになっている。
湘南T-SITEは、2018年をめどに約1000戸の住宅が建ち、およそ3500人の住民が増加する計画Fujisawaサスティナブル・スマートタウン(Fujisawa SST)のランドマークとして、昨年年末にオープン。用地を提供したパナソニック側が、地域住民のカフェと書店が欲しいという要望に則して、代官山の蔦屋書店(代官山T-SITE)の存在をキャッチしてアプローチしたことでオープンが実現した。
http://real.tsite.jp/shonan/about/
自分がT-SITEに足を運んだ時は、平日に関わらず、施設はかなりのにぎわいだった。どの店舗も、おしゃれでスマート。居心地は悪くなかった。カフェと書店がつながっているのが嬉しいし、長く時間を過ごせる場所だと思った。もっと近所にあれば、頻繁に通うかもしれない。
でも、同時に違和感も残った。その感覚を、まだうまく言語化できずにいるのだけれど、本という存在がオシャレな雑貨として扱われていたことが印象的だった。それは、今後、書籍と書店が生き残ってゆくための一つの手段なのだろう。
その様を見て、音楽に携わる自分にとっても他人事ではないと感じた。今後、CDやアナログレコードも、グッズや雑貨の一つとしての要素をより強めてゆくのだろうと思う。
T-SITEの書店で、困ったことがあった。本の分類が独自でよくわからず、ほしい本がなかなか見つからないのだ。そこで自分が感じたのは、「本の内容は、あまり重視されていないのではないか」という疑問だった。売るための整理手段が優先されるのは、書店としては当然のことなのだろうけれど、本好きに対する配慮がもう少しほしい気がした。この本の分類に関しては、TSUTAYA管理の図書館でも問題視されている。
TSUTAYAは図書館の管理において、本来、図書館が最も果たすべき「知の集積場所」としての機能よりも、別のものを優先させようとしたのだろう。その姿勢には疑問を感じるけれど、図書館にカフェがあるのは嬉しいし(スターバックスでなくてもいいけれど)、そんな図書館が近所にあれば、頻繁に通いそうだ。
自分が感じた違和感の正体の一つは、本やCD、レコード、そのものが本来持っている価値や思い入れがないがしろにされてゆくことに対するものだと思う。でも、それだけではない。
便利や快適、オシャレやスマートを求める一方で、無自覚にそういった方向へ向かうことへの警戒心とか危機感が自分の中で大きくなっている気がする。湘南T-SITEのあり方や、民間企業が図書館を管理するというやり方が、何か一つの大きな流れと結びついているように感じて、それを疑問なく受け入れていいのかなと考えてしまうのだ。
それでも、音楽と本とカフェが好きな自分は、T-SITEとTSUTAYA管理の図書館が自宅近所にあれば、違和感を持ちながらも通うのだろう。ただ、それ以外の選択肢が残っていてほしいと思う。
ー2014年10月27日
http://www.47news.jp/CN/201510/CN2015102601002183.html
図書館が民間企業に管理を委託するようになったのは、その運営に行き詰ったからだ。結果、TSUTAYA管理となった図書館は、集客増加に成功する一方で、貴重資料の破棄や選書、本の分類のやり方などが問題視されている。
そういった状況の中、愛知県小牧市のように、TSUTAYA管理の市立図書館建設計画に対して、市民の間に「図書館の質を落としかねない」などと反対論が広がることで、住民投票が行われ、反対多数の結果が出て、計画見直しを迫られる例も出始めている。
自分がこの問題に注視するようになり始めたのは、先月、自分が暮らす藤沢にできた書店とカフェを中心とした文化複合施設、湘南T-SITEに初めて足を運んだことが、一つのきっかけになっている。
湘南T-SITEは、2018年をめどに約1000戸の住宅が建ち、およそ3500人の住民が増加する計画Fujisawaサスティナブル・スマートタウン(Fujisawa SST)のランドマークとして、昨年年末にオープン。用地を提供したパナソニック側が、地域住民のカフェと書店が欲しいという要望に則して、代官山の蔦屋書店(代官山T-SITE)の存在をキャッチしてアプローチしたことでオープンが実現した。
http://real.tsite.jp/shonan/about/
自分がT-SITEに足を運んだ時は、平日に関わらず、施設はかなりのにぎわいだった。どの店舗も、おしゃれでスマート。居心地は悪くなかった。カフェと書店がつながっているのが嬉しいし、長く時間を過ごせる場所だと思った。もっと近所にあれば、頻繁に通うかもしれない。
でも、同時に違和感も残った。その感覚を、まだうまく言語化できずにいるのだけれど、本という存在がオシャレな雑貨として扱われていたことが印象的だった。それは、今後、書籍と書店が生き残ってゆくための一つの手段なのだろう。
その様を見て、音楽に携わる自分にとっても他人事ではないと感じた。今後、CDやアナログレコードも、グッズや雑貨の一つとしての要素をより強めてゆくのだろうと思う。
T-SITEの書店で、困ったことがあった。本の分類が独自でよくわからず、ほしい本がなかなか見つからないのだ。そこで自分が感じたのは、「本の内容は、あまり重視されていないのではないか」という疑問だった。売るための整理手段が優先されるのは、書店としては当然のことなのだろうけれど、本好きに対する配慮がもう少しほしい気がした。この本の分類に関しては、TSUTAYA管理の図書館でも問題視されている。
TSUTAYAは図書館の管理において、本来、図書館が最も果たすべき「知の集積場所」としての機能よりも、別のものを優先させようとしたのだろう。その姿勢には疑問を感じるけれど、図書館にカフェがあるのは嬉しいし(スターバックスでなくてもいいけれど)、そんな図書館が近所にあれば、頻繁に通いそうだ。
自分が感じた違和感の正体の一つは、本やCD、レコード、そのものが本来持っている価値や思い入れがないがしろにされてゆくことに対するものだと思う。でも、それだけではない。
便利や快適、オシャレやスマートを求める一方で、無自覚にそういった方向へ向かうことへの警戒心とか危機感が自分の中で大きくなっている気がする。湘南T-SITEのあり方や、民間企業が図書館を管理するというやり方が、何か一つの大きな流れと結びついているように感じて、それを疑問なく受け入れていいのかなと考えてしまうのだ。
それでも、音楽と本とカフェが好きな自分は、T-SITEとTSUTAYA管理の図書館が自宅近所にあれば、違和感を持ちながらも通うのだろう。ただ、それ以外の選択肢が残っていてほしいと思う。
ー2014年10月27日
2015年10月14日水曜日
辺野古の埋め立て承認取り消しで考えたことー1年前に辺野古を訪れたときのこと
沖縄県の翁長知事が米軍普天間飛行場の移設予定地の辺野古の埋め立て承認を取り消した。このニュースを受けて、まず思い浮かんだのは、辺野古で暮らす人達のことだった。これは、今から1年近く前、沖縄知事選直後というタイミングで、沖縄在住の2人の若いミュージシャン、ソウルフラワーユニオンの中川敬君、オレの4人のメンバーで辺野古を訪れ、アップルタウンと呼ばれる社交街で、地元住民の方を交えて飲ませてもらった体験が大きく作用している。
その酒の席で住民の方の話を聞いて感じたのは、「基地移設に反対する側も賛成する側も、辺野古に暮らす住民の立場には寄り添ってくれない、辺野古の未来については考えてくれていない」ことへの、強い不信と絶望、憤りだった。これは3・11以降に福島各地に何度も足を運び、住民の人達の話を聞いたときにも感じた思いと重なる。
その後、辺野古での出来事をブログにまとめようと何度か試みたけれど、できなかった。とても複雑でナーバスな問題が含まれていて、うまくまとめる自信がなかったし、ブログで公表することで誰かを傷つけたり、誤解を招くことも危惧した。今もその日の出来事のすべてをブログにまとめようとは思わない。
その日は、社交街を訪れる前にまず、辺野古への基地移設の反対運動で座り込みが続けられているテント村を尋ねた。辺野古の浜辺にあるテント村では、穏やかな表情で椅子に座り、編み物をしていた白髪のおばあさんと話をさせてもらった。聞けば、2004年からずっと座り込みを続けられていると言う。「私の老後は座り込みになってしまいました」と柔らかい笑顔で仰っていたのが印象に残った。辺野古の海は快晴に映え、穏やかで、とても美しかった。
その後は米軍のヘリパッド増設が予定される高江に向かい、同じく反対運動で座り込みを続けるテント村を尋ね、夜に再び辺野古に戻り社交街へ入った。高江は随分と辺鄙な場所にあるのだなと感じた。
那覇から高速を使って辺野古まで車で約1時間。高江までは辺野古からさらに1時間強の時間を要した。自分の予想以上に那覇から遠く離れた距離で、本島南部の市街とは、景色も空気もまるで違っていた。辺野古も高江も、どちらも過疎地という点で共通していた。
「那覇で暮らす人達の中には、辺野古も高江も、本土の人と同じような感覚で、遠い存在と感じている人も結構多いかもしれない」
辺野古と高江を訪れる前日に、沖縄で暮らす知人からそんな話を聞いていて、意外に思っていたのだけれど、実際に現地に足を運ぶことで、その言葉が理解できるように思えた。辺野古も高江も、沖縄の都市部で暮らす人の目には映りにくい、生活圏からかなり離れた場所に存在しているのだ。
自分と中川君が辺野古の社交街に足を踏み入れることができたのは、同行してくれた沖縄在住の知人ミュージシャン2人のおかげだった。地区外から辺野古に来て基地移設反対運動をする人のほとんどが、区域の住民との接触を持たない中で、2人は社交街に足を運び続け、時間をかけて地元の人達との交流を重ねていた。
その日の社交街での飲み会は、さまざまな感情が行き交う、波乱含みの忘れられない夜になった。
よく飲み、よく歌い(カラオケ)、よく踊り、よく笑った後に、ようやく基地移設について皆で語り合った。話が核心に近づくほど地元の方の感情がたかぶり、怒り、哀しみ、やるせなさが噴出して、ついにはぶつかり合った。自分は、その感情の強さに戸惑い、圧倒され、次第に言葉を失くした。そのときの怒りや不信は、自分にも向けられていたのだ。
その夜の出来事は尾を引いた。その時のさまざまな場面や住民の人達から受け取った言葉を、その後何度も反芻した。
例えばこんな言葉だ。
「基地移設反対運動をしている人達は流行でやっているように感じる」
反対運動をしている人達にしてみれば、受け入れられない言葉だろう。しかし、辺野古で暮らす人達の立場に立てば、基地が来ようが来まいが、その後も辺野古で生きていかなければならないという現実がある。どちらの結論が出ても、過疎化の進む辺野古の問題は終わらないのだ(辺野古に200軒以上あったお店が今は12〜3軒にまで減ってしまっているそうだ)。基地移設に関する結論が出た後に、反対運動をしていた区域外の人達が、辺野古の将来について、共に考えてくれるのか。自分も含めた移設反対派は、こういった問いかけに向き合う必要があるのではないだろうか。
区域の住民にとっては、居住区のすぐそばで反対運動で騒がれることで、自分達の生活が阻害されているとの意識も強い。こういった不信は、区域の住民と辺野古で反対運動を行う人達との間に交流の場が確立されていないことにも原因があるように思える。
「マスコミが報道するように、辺野古住民が基地移設の賛成、反対で分断されているわけではない。本当は地元の誰も積極的には基地移設に賛成していない」
自分は、この発言をした地元の方を基地移設容認派と認識していたので、最初聞いたときは聞き間違いかと思ったけれど、そうじゃなかった。この言葉には諦念や絶望も含まれているように感じた。
辺野古で暮らす人達にとって、基地移設問題はイエスかノーで解決できる問題ではない。積極的には基地移設に賛成していなくても、この街で暮らし続ける限りは、移設問題を、自分達の暮らしと辺野古の街の将来にからめた条件闘争として考えざるを得ないのだ。
辺野古を訪れ地元の方から話を聞くまでは、社交街が入植者中心の街であることを、自分は全く知らなかった。キャンプ・シュワブができるときに米兵相手の商売ができるようにと奄美大島、宮古、八重山などの沖縄本島外から入植者を募集して生まれた街がアップルタウンだった。つまり、辺野古の街自体が、基地の存在によって生まれたと言えるのだ。
元々の辺野古住民は軍用地料を得て生活している人が多いそうで、小さな街の中で、入植者と元々の辺野古住民の居住地が上下2つに別れていた。
辺野古に足を運び、地元の方の話を聞くことで、自分はやっと辺野古について何も知らなかったということを自覚した。
それまで自分は、普天間基地の移設予定地としての「辺野古」には興味があっても、1人1人の生活が営まれている地域社会としての辺野古に興味を持つ機会が、ほとんどなかった。辺野古で暮らす人達を傷つけ、絶望させてきたのは、そういった態度だったのだ。
自分は辺野古基地移設に対しては反対の考えだけれど、辺野古や福島などの現地を訪れた体験によって、「その反対運動がその地域で暮らす人達1人1人の思いや立場を無視するものであってはならない」という思いも強くした。
最後に、インターネット情報サイト・ポリタスに掲載された「辺野古に暮らす私たちの願い」という記事での辺野古商工社交業組合会長・飯田昭弘さんの言葉にぜひ目を通してもらいたい。
http://politas.jp/features/7/article/407
飯田さんが語られているように、辺野古基地移設問題を考えるにあたっては、オール・オア・ナッシングばかりにとらわれず、「沖縄や辺野古の抱える複雑さ」に焦点をあて、辺野古の未来につながる議論もなされるべきだと思う。
ー2015年10月14日(水)
その酒の席で住民の方の話を聞いて感じたのは、「基地移設に反対する側も賛成する側も、辺野古に暮らす住民の立場には寄り添ってくれない、辺野古の未来については考えてくれていない」ことへの、強い不信と絶望、憤りだった。これは3・11以降に福島各地に何度も足を運び、住民の人達の話を聞いたときにも感じた思いと重なる。
その後、辺野古での出来事をブログにまとめようと何度か試みたけれど、できなかった。とても複雑でナーバスな問題が含まれていて、うまくまとめる自信がなかったし、ブログで公表することで誰かを傷つけたり、誤解を招くことも危惧した。今もその日の出来事のすべてをブログにまとめようとは思わない。
その日は、社交街を訪れる前にまず、辺野古への基地移設の反対運動で座り込みが続けられているテント村を尋ねた。辺野古の浜辺にあるテント村では、穏やかな表情で椅子に座り、編み物をしていた白髪のおばあさんと話をさせてもらった。聞けば、2004年からずっと座り込みを続けられていると言う。「私の老後は座り込みになってしまいました」と柔らかい笑顔で仰っていたのが印象に残った。辺野古の海は快晴に映え、穏やかで、とても美しかった。
那覇から高速を使って辺野古まで車で約1時間。高江までは辺野古からさらに1時間強の時間を要した。自分の予想以上に那覇から遠く離れた距離で、本島南部の市街とは、景色も空気もまるで違っていた。辺野古も高江も、どちらも過疎地という点で共通していた。
「那覇で暮らす人達の中には、辺野古も高江も、本土の人と同じような感覚で、遠い存在と感じている人も結構多いかもしれない」
辺野古と高江を訪れる前日に、沖縄で暮らす知人からそんな話を聞いていて、意外に思っていたのだけれど、実際に現地に足を運ぶことで、その言葉が理解できるように思えた。辺野古も高江も、沖縄の都市部で暮らす人の目には映りにくい、生活圏からかなり離れた場所に存在しているのだ。
自分と中川君が辺野古の社交街に足を踏み入れることができたのは、同行してくれた沖縄在住の知人ミュージシャン2人のおかげだった。地区外から辺野古に来て基地移設反対運動をする人のほとんどが、区域の住民との接触を持たない中で、2人は社交街に足を運び続け、時間をかけて地元の人達との交流を重ねていた。
よく飲み、よく歌い(カラオケ)、よく踊り、よく笑った後に、ようやく基地移設について皆で語り合った。話が核心に近づくほど地元の方の感情がたかぶり、怒り、哀しみ、やるせなさが噴出して、ついにはぶつかり合った。自分は、その感情の強さに戸惑い、圧倒され、次第に言葉を失くした。そのときの怒りや不信は、自分にも向けられていたのだ。
その夜の出来事は尾を引いた。その時のさまざまな場面や住民の人達から受け取った言葉を、その後何度も反芻した。
例えばこんな言葉だ。
「基地移設反対運動をしている人達は流行でやっているように感じる」
反対運動をしている人達にしてみれば、受け入れられない言葉だろう。しかし、辺野古で暮らす人達の立場に立てば、基地が来ようが来まいが、その後も辺野古で生きていかなければならないという現実がある。どちらの結論が出ても、過疎化の進む辺野古の問題は終わらないのだ(辺野古に200軒以上あったお店が今は12〜3軒にまで減ってしまっているそうだ)。基地移設に関する結論が出た後に、反対運動をしていた区域外の人達が、辺野古の将来について、共に考えてくれるのか。自分も含めた移設反対派は、こういった問いかけに向き合う必要があるのではないだろうか。
区域の住民にとっては、居住区のすぐそばで反対運動で騒がれることで、自分達の生活が阻害されているとの意識も強い。こういった不信は、区域の住民と辺野古で反対運動を行う人達との間に交流の場が確立されていないことにも原因があるように思える。
「マスコミが報道するように、辺野古住民が基地移設の賛成、反対で分断されているわけではない。本当は地元の誰も積極的には基地移設に賛成していない」
自分は、この発言をした地元の方を基地移設容認派と認識していたので、最初聞いたときは聞き間違いかと思ったけれど、そうじゃなかった。この言葉には諦念や絶望も含まれているように感じた。
辺野古で暮らす人達にとって、基地移設問題はイエスかノーで解決できる問題ではない。積極的には基地移設に賛成していなくても、この街で暮らし続ける限りは、移設問題を、自分達の暮らしと辺野古の街の将来にからめた条件闘争として考えざるを得ないのだ。
辺野古を訪れ地元の方から話を聞くまでは、社交街が入植者中心の街であることを、自分は全く知らなかった。キャンプ・シュワブができるときに米兵相手の商売ができるようにと奄美大島、宮古、八重山などの沖縄本島外から入植者を募集して生まれた街がアップルタウンだった。つまり、辺野古の街自体が、基地の存在によって生まれたと言えるのだ。
元々の辺野古住民は軍用地料を得て生活している人が多いそうで、小さな街の中で、入植者と元々の辺野古住民の居住地が上下2つに別れていた。
辺野古に足を運び、地元の方の話を聞くことで、自分はやっと辺野古について何も知らなかったということを自覚した。
それまで自分は、普天間基地の移設予定地としての「辺野古」には興味があっても、1人1人の生活が営まれている地域社会としての辺野古に興味を持つ機会が、ほとんどなかった。辺野古で暮らす人達を傷つけ、絶望させてきたのは、そういった態度だったのだ。
自分は辺野古基地移設に対しては反対の考えだけれど、辺野古や福島などの現地を訪れた体験によって、「その反対運動がその地域で暮らす人達1人1人の思いや立場を無視するものであってはならない」という思いも強くした。
最後に、インターネット情報サイト・ポリタスに掲載された「辺野古に暮らす私たちの願い」という記事での辺野古商工社交業組合会長・飯田昭弘さんの言葉にぜひ目を通してもらいたい。
http://politas.jp/features/7/article/407
飯田さんが語られているように、辺野古基地移設問題を考えるにあたっては、オール・オア・ナッシングばかりにとらわれず、「沖縄や辺野古の抱える複雑さ」に焦点をあて、辺野古の未来につながる議論もなされるべきだと思う。
ー2015年10月14日(水)
2015年9月16日水曜日
煽動について
2015年9月15日 Facebookより転載
自分は足を運ぶことができなかったけれど、国会前には昨夜も凄い数の人達が集まった。http://www3.nhk.or.jp/news/html/20150914/k10010234441000.html
違和感を持ったなら、誰もが疑問の声を上げて行動できるのが民主主義の社会。この状況に於いて、政治や社会に対して怒りを表明することも必要なんだと感じている(あくまでも罵倒や暴力には頼らずに)。
今国会前に集まる人達が煽られた集団だとの認識は間違っている。何度も国会前デモ集会に参加した者の印象として、そもそも一括りにはできない多様な集まりだと感じる。
とは言え、集団の熱狂に身をおいて、煽動に巻き込まれる怖さを感じる瞬間があることも確かだ。そのような怖さを感じながら、デモに参加している人の数は少なくないと想像している。
自分は、最も危険な煽動は、社会や他者に対する無関心を経た上で起こるのではないかと考える。過去の戦争に於ける煽動も、そのような無関心の先に成り立ち、煽る側と煽られる側が共犯関係を持って暴走してしまったのではないだろうか。
安保法案が成立しそうな差し迫った状況ではあるけれど、デモの高揚に身を委ねた後は、クールダウンして、日常の暮らしを維持することも大切にしたい。そのような日常を守るために、安保法案の採決強行に反対するのだ。
自分は足を運ぶことができなかったけれど、国会前には昨夜も凄い数の人達が集まった。http://www3.nhk.or.jp/news/html/20150914/k10010234441000.html
違和感を持ったなら、誰もが疑問の声を上げて行動できるのが民主主義の社会。この状況に於いて、政治や社会に対して怒りを表明することも必要なんだと感じている(あくまでも罵倒や暴力には頼らずに)。
今国会前に集まる人達が煽られた集団だとの認識は間違っている。何度も国会前デモ集会に参加した者の印象として、そもそも一括りにはできない多様な集まりだと感じる。
とは言え、集団の熱狂に身をおいて、煽動に巻き込まれる怖さを感じる瞬間があることも確かだ。そのような怖さを感じながら、デモに参加している人の数は少なくないと想像している。
自分は、最も危険な煽動は、社会や他者に対する無関心を経た上で起こるのではないかと考える。過去の戦争に於ける煽動も、そのような無関心の先に成り立ち、煽る側と煽られる側が共犯関係を持って暴走してしまったのではないだろうか。
安保法案が成立しそうな差し迫った状況ではあるけれど、デモの高揚に身を委ねた後は、クールダウンして、日常の暮らしを維持することも大切にしたい。そのような日常を守るために、安保法案の採決強行に反対するのだ。
嬉しい再会 ー 榊いずみちゃん、竹原ピストル君と共演
2015年9月14日 Facebookより転載
昨夜は、町田市にオープンしたばかりのライブハウスまほろ座にて、榊いずみちゃん、竹原ピストル君と共演しました。とても楽しみにしていたイベントでした。
いずみちゃんとはお互いが学生の頃からの知り合い。ピストル君とは彼が野狐禅でデビューしたばかりの頃に名古屋で共演してから、多分3、4年に一度くらいの割合で共演してきました。
客席後方から2人のステージを観させてもらって、大げさに聞こえるかもしれないけれど、それぞれが経てきた人生を感じたり、想像したりしました。2人とも鋭利でありながらあったかい。その優しさとかあたたかさは、出会いや別れを繰り返しながら積み重ねされた経験の中で、より身についていったもののように感じました。
この日の自分のステージは、普段に比べると、盛り上がりや一体感よりも緊張感、言葉と歌を伝えることに重心をおいた内容になりました。これは、いずみちゃんとピストル君のステージから受け取った刺激と「言葉の森に棲む。」というイベントタイトル、そして、歌を聴こうとするお客さんの集中力に多いに影響された結果です。
前日のサウサリートとは笑ってしまうくらいに対照的なステージ。その場からの刺激によってパフォーマンスが変わってゆくのがライブの醍醐味だと思います。
オープンしたばかりのまほろ座は、大人もゆったりと楽しめる洒落た空間でした。料理も充実していて、ブルーノートの敷居をもっと低くした感じ。グランドピアノがあるのも嬉しいし、オレの好きなミラーボールも設置されてました(この日は照明スタッフが気を利かして1曲めからミラーボールを回してくれました)。
そうそう、ライブ終了後にお店のスタッフさんが、グランドピアノをとても丁寧に拭いてくれてる姿が印象に残りました。お店のスタッフの皆さんが皆愛想よく接してくれたのも嬉しかったです。
いずみちゃん、ピストルくんと共演させてもらって、2人との次回の共演も楽しみになりました。まほろ座にも近いうちに戻ってくると思います。観に来てくれた皆さん、ありがとう。とてもいい夜でした。
次回の東京公演は10月3日(土)渋谷BYGにて、リクオ with HOBO HOUSE BAND(ドラム:椎野恭一/ベース:寺岡信芳/ペダルスティール:宮下広輔)のワンマンライブです。これ、必見ですよ。
Photo by TAKUYA
昨夜は、町田市にオープンしたばかりのライブハウスまほろ座にて、榊いずみちゃん、竹原ピストル君と共演しました。とても楽しみにしていたイベントでした。
いずみちゃんとはお互いが学生の頃からの知り合い。ピストル君とは彼が野狐禅でデビューしたばかりの頃に名古屋で共演してから、多分3、4年に一度くらいの割合で共演してきました。
客席後方から2人のステージを観させてもらって、大げさに聞こえるかもしれないけれど、それぞれが経てきた人生を感じたり、想像したりしました。2人とも鋭利でありながらあったかい。その優しさとかあたたかさは、出会いや別れを繰り返しながら積み重ねされた経験の中で、より身についていったもののように感じました。
この日の自分のステージは、普段に比べると、盛り上がりや一体感よりも緊張感、言葉と歌を伝えることに重心をおいた内容になりました。これは、いずみちゃんとピストル君のステージから受け取った刺激と「言葉の森に棲む。」というイベントタイトル、そして、歌を聴こうとするお客さんの集中力に多いに影響された結果です。
前日のサウサリートとは笑ってしまうくらいに対照的なステージ。その場からの刺激によってパフォーマンスが変わってゆくのがライブの醍醐味だと思います。
オープンしたばかりのまほろ座は、大人もゆったりと楽しめる洒落た空間でした。料理も充実していて、ブルーノートの敷居をもっと低くした感じ。グランドピアノがあるのも嬉しいし、オレの好きなミラーボールも設置されてました(この日は照明スタッフが気を利かして1曲めからミラーボールを回してくれました)。
そうそう、ライブ終了後にお店のスタッフさんが、グランドピアノをとても丁寧に拭いてくれてる姿が印象に残りました。お店のスタッフの皆さんが皆愛想よく接してくれたのも嬉しかったです。
いずみちゃん、ピストルくんと共演させてもらって、2人との次回の共演も楽しみになりました。まほろ座にも近いうちに戻ってくると思います。観に来てくれた皆さん、ありがとう。とてもいい夜でした。
次回の東京公演は10月3日(土)渋谷BYGにて、リクオ with HOBO HOUSE BAND(ドラム:椎野恭一/ベース:寺岡信芳/ペダルスティール:宮下広輔)のワンマンライブです。これ、必見ですよ。
Photo by TAKUYA
マイルーツ ー 伊勢にて外村伸二と「2人で100歳記念ライブ」
2015年9月9日 Facebookより転載
昨日は伊勢市のおはらい町にあるカフェ、カップジュビーにて、「2人で100歳記念ライブ」と銘打って、シンガーソングライターでカップジュビーのマスターの外村伸二と共演しました。とても感慨深い夜でした。
外ちゃんとの出会いは大学に入ってすぐだから、もう30年を超える付き合いになります。学生時代に一緒にバンドをやっていた、自分にとって盟友ような存在です。当時は彼がボーカル&ギターで、オレはキーボード担当。
出会ったその日に外ちゃんの下宿に連れて行かれ、その時に初めてドクター・ジョンのアルバム「ガンボ」を聴かせてもらいました。自分のピアノスタイルに決定的な影響を与えた作品です。
それからも、たくさんのいい音楽を彼から教えてもらいました。この日一緒にセッションした「ミラクルマン」や「光」は、学生時代に彼を含めた音楽仲間と過ごした日々がなければ、生まれなかった曲です。オレの大切なルーツの1つとして外ちゃんの存在があると思ってます。
前日に50歳を迎えた外ちゃんと、30年の歳月を経て、こうやってまた同じステージに立って音を交わせることが、とても嬉しかったし、誇らしく思えました。この日のライブのために、古い仲間が方々から集まってくれたことも嬉しかったなあ。
昨夜の外ちゃんの歌、とてもしみました。
外ちゃんの作品は以下から試聴できます。彼の名曲「入道雲」ではオレがピアノで参加してます。ぜひ聴いてみて下さい。
https://itunes.apple.com/…/arti…/wai-cun-shen-er/id315129835
外ちゃんとは、110歳記念、120歳記念でも共演できたらいいなと思ってます。
さあ、今日もこれからステージです。
岐阜県関市の居酒屋さん「高橋商店」にて、今夜も弾けます。
昨日は伊勢市のおはらい町にあるカフェ、カップジュビーにて、「2人で100歳記念ライブ」と銘打って、シンガーソングライターでカップジュビーのマスターの外村伸二と共演しました。とても感慨深い夜でした。
外ちゃんとの出会いは大学に入ってすぐだから、もう30年を超える付き合いになります。学生時代に一緒にバンドをやっていた、自分にとって盟友ような存在です。当時は彼がボーカル&ギターで、オレはキーボード担当。
出会ったその日に外ちゃんの下宿に連れて行かれ、その時に初めてドクター・ジョンのアルバム「ガンボ」を聴かせてもらいました。自分のピアノスタイルに決定的な影響を与えた作品です。
それからも、たくさんのいい音楽を彼から教えてもらいました。この日一緒にセッションした「ミラクルマン」や「光」は、学生時代に彼を含めた音楽仲間と過ごした日々がなければ、生まれなかった曲です。オレの大切なルーツの1つとして外ちゃんの存在があると思ってます。
前日に50歳を迎えた外ちゃんと、30年の歳月を経て、こうやってまた同じステージに立って音を交わせることが、とても嬉しかったし、誇らしく思えました。この日のライブのために、古い仲間が方々から集まってくれたことも嬉しかったなあ。
昨夜の外ちゃんの歌、とてもしみました。
外ちゃんの作品は以下から試聴できます。彼の名曲「入道雲」ではオレがピアノで参加してます。ぜひ聴いてみて下さい。
https://itunes.apple.com/…/arti…/wai-cun-shen-er/id315129835
外ちゃんとは、110歳記念、120歳記念でも共演できたらいいなと思ってます。
さあ、今日もこれからステージです。
岐阜県関市の居酒屋さん「高橋商店」にて、今夜も弾けます。
2015年9月1日火曜日
「日常」の延長にある抗議ー8.30国会前抗議集会に参加して
8月30日(日)は、ツアー先の札幌から帰宅する前に、羽田空港から国会議事堂前に向かった。「戦争法案」と呼ばれる「安全保障関連法案」に反対するデモ集会に参加するためだ。この法案に反対するために国会前に足を運ぶのは今回が3度目になる。
以前のブログにも書いたけれど、今回のデモ集会に参加するにあたっても、法案への反対意思を示すことはもちろんだけれど、歴史的な現場に立ち会いたい、2次、3次情報ではなく、この目で状況を確かめたいという思いが強かった。だから、現場のただ中に身を置く一方で、少し俯瞰したスタンスで現場を見ようという気持ちも働いた。
自分が桜田門駅に到着したのは午後3時前で、集会の開始から既に2時間近くが経過していた。駅構内は、集会に向かう人達と、そこから戻ってくる人達が交差する形でにぎわっていた。どちらかと言えば、国会前から戻ってくる人の数の方が多く、その中の多数は60代以上と思われる高齢者が占めていた。高齢の人達にとって、長時間の集会への参加は、体力的に厳しく、早めにリタイアする人が多くなったのだろうと想像した。
桜田門駅の地下からの階段を上り、自分が国会前に到着した頃には、正門前車道は既に開放された後で、すごい人の数で埋まっていた。壮観だった。小雨の降り続く中、方々でシュプレヒコールや打楽器、管楽器の音などが鳴り響き、ある種のカオス状態が生まれていた。
車道が開放されたことによって得られる開放感は想像以上だった。今まで参加したデモ集会の中で、一番気持ちが明るくワクワクした。
正門前車道の後方は、前方に比べると人の密集度が低く、個人参加、あるいは小グループ参加による人達が、それぞれに思い思いのアピールをしているのが印象に残った。方々でそれぞれが勝手にアピールする様は、かつての渋谷ホコ天を思い起こさせた。
団体行動の苦手な自分が、これまでよりは違和感少なく集会に参加できたのは、こういった解放的で自由な空気、ある種の「ゆるさ」が現場に混在していたからだと思う。メディアに取り上げられることの少ない集会の前線からはずれた場所の空気感にもスポットが当たれば、デモや集会に対するイメージは、また変わる気がする。
今年の7月以降、国会前の集会に2度参加して、この集会の規模で参加者を歩道に押しとどめておくことには、限界が近づいていることを実感していた。警察の厳しい警備の中、歩道に押し込められての抗議は、緊迫感が強く、息がつまる思いがしたし、危険も感じた。
この日の現場に向かう前は、警察の制止を振り切って、車道が決壊し、国会前に人が押し寄せた場合に、暴徒化や事故が起きることを危惧していたのだけれど、それは杞憂だった。
考えてみれば、’12年以降、自分が今まで参加してきたデモ集会で、参加者が暴徒化したり事故が起きたことは一度もなかった。これは主催者側の努力の積み重ねと、デモ集会への参加者と主催者側が「暴力には訴えない」という意識を共有したことによる成果なのだろう。
正門前の車道を前方に進み、参加者の密集度が高まるにつれ、場の空気が引き締まってゆくのを感じた。やはり、前方の盛り上がりは、後方にはない緊張感を含んでいた。密集した人の圧力に危険を感じることもあった。ただ、今回のデモ集会には「逃げ場」が存在した。前線にいて息がつまれば、一旦後方に下がることも可能だった。
前方では、野党党首や宗教家、作家、弁護士、ミュージシャンら、さまざまなジャンル、業種の人達がスピーチを繰り広げていた。そのすべてを聞くことはできなかったけれど、自分が聞いた中では、特にSEALDsら若者達による瑞々しいスピーチが素直に心に響いた。彼らの名古屋弁や熊本弁によるシュプレヒコールもよかった。
集会の中で、口汚い言葉やコールが聞こえてるくると、やはり少し心が痛んだ。「ナイーブ」だと言われようとも、こういう感性を、どんな状況でも維持し続けたいと思う。現場にいて、もっと自分が参加したくなるようなシュプレヒコールがあればいいのになとは思った。
集会に参加している間は、1つの場所にばかり留まらず、なるべく歩き回って多くを見るよう心掛けた。メディアは国会正門前の様子ばかりを報道していたけれど、集会に集まった人達は国会議事堂回りの広範囲に渡っていた。
自分も集会の全体を把握できたわけではない。集会を後にしてから、ネットやテレビのニュースなどで集会の情報を補い、それによって初めて知ることも多かった。国会正門前の歩道が決壊した瞬間も後でYouTubeで確認したし、坂本龍一さんがスピーチしたことも、高校生達が「ケサラ」を歌っていたことも、現場では確認できず、後で知った。
この長時間の開催の中で、集会の最初から最後まで参加していたのは、全体の中のごく限られた一部だろう。どの時間帯に、どの場所に居合わせたかによって、この日の集会に対するイメージは、それぞれに違いが生じると思う。自分がそこで見た光景が集会全体のすべてとは言えない。
そもそも、このデモ集会を統一したイメージで語ることには無理があるように感じられる。そして、恐らくその統一感のなさが、自分の「居やすさ」につながった。
この日の集会の参加者数は警察発表が3万人強で、主催発表は12万人だった。いつものことだが、その数字には大きな開きがある。そんな中、産経新聞が参加者数を試算し、国会正門前は多くても3万2千人程度と記事にしていたけれど、http://www.sankei.com/politics/news/150831/plt1508310051-n1.html実際に国会前に足を運び、その集会の広範囲を確認した人なら、この試算の間違いをすぐに指摘できるだろう。
産経新聞はデモ集会の参加者を国会正門前の一部分に限定して試算しているけれど、実際の参加者は国会回りのもっと広範囲に渡っている。しかも時間帯によってかなり参加者が入れ替わっているにもかかわらず、この試算は入れ替わりの人数が加算されていない。となると、実際の参加者数は産経新聞の試算を遥かに上回ることになる。この動画を見てもらえば、集会の規模と範囲の広さが伝わるかと思う。
https://www.youtube.com/watch?v=6ohr-TAI14M#t=10 多分、実際の正確な数字は誰も把握できていないのだろうと思う。
参加者の1人の実感として、間違いなく言えることは、この集会には一括りにできない多様な人達が参加していたということだ。現場の熱気と開放感は、自分の意志で足を運んだ一般参加者の存在によるところも大きいと思う。
さまざまな団体が動員をかけていたことも確かだろうけれど、集会を主催するSEALDsが大切に考えたのは、あくまでも個人の集まりであり、そういった姿勢と法案に反対する民意が結びつくことで、党派性に縛られない多数の一般参加者が呼び込まれたのだと思う。
SEALDsの若者達がスピーチをする近くで創価学会の三色旗が掲げられる光景に立ち会うなんて、ほんの少し前まで想像することができなかった。
家族連れの姿も多く見られ、多くの人達が日常の暮らしの延長という意識で抗議集会に足を運んでいる印象を受けた。デモ集会の形も変化しているのだ。
デモ集会を企画するSEALDsの奥田愛基さんはインタビューの中で「日常って感覚は、とても大事。おしゃれを気にしながら国会前に行ったっていい。ディズニーランドも行って、海も行って、国会前にも行けばいい。日常がある上で抗議すべきときは抗議するってことに意味があるんです。」と語っている。http://www.huffingtonpost.jp/2015/08/24/sealds-okuda-interview_n_8030550.html
これらの言葉はとても重要だ。「『日常』の延長にある抗議」という姿勢は、SEALDsの新しさの1つだろう。「生活を美しくする」ことの1つに、デモや集会に参加するという行為が存在する。そういうイメージを自分も持ち続けたいと思う。
若者達の感性が、大人達の党派性や敵対関係、イデオロギーにとらえられ、巻き込まれることなく、「日常」と手を取り合いながら、しなやかに育くまれてゆくことを願う。
この日は国会前だけでなく全国300ヶ所以上で安保法案に反対するデモ集会が行われたそうだ。民主主義の世の中では、誰もが「政治」や「社会」に対して疑問の声をあげ、行動することができる。そんな当たり前を確認する1日でもあった気がする。
こういった行動が、「日常」から離れて先鋭化することなく、当たり前の行動の1つとして幅広くひろがってゆくことを願いながら、自分のできることを考えてゆこうと思う。
ー2015年9月1日(火)
以前のブログにも書いたけれど、今回のデモ集会に参加するにあたっても、法案への反対意思を示すことはもちろんだけれど、歴史的な現場に立ち会いたい、2次、3次情報ではなく、この目で状況を確かめたいという思いが強かった。だから、現場のただ中に身を置く一方で、少し俯瞰したスタンスで現場を見ようという気持ちも働いた。
自分が桜田門駅に到着したのは午後3時前で、集会の開始から既に2時間近くが経過していた。駅構内は、集会に向かう人達と、そこから戻ってくる人達が交差する形でにぎわっていた。どちらかと言えば、国会前から戻ってくる人の数の方が多く、その中の多数は60代以上と思われる高齢者が占めていた。高齢の人達にとって、長時間の集会への参加は、体力的に厳しく、早めにリタイアする人が多くなったのだろうと想像した。
桜田門駅の地下からの階段を上り、自分が国会前に到着した頃には、正門前車道は既に開放された後で、すごい人の数で埋まっていた。壮観だった。小雨の降り続く中、方々でシュプレヒコールや打楽器、管楽器の音などが鳴り響き、ある種のカオス状態が生まれていた。
車道が開放されたことによって得られる開放感は想像以上だった。今まで参加したデモ集会の中で、一番気持ちが明るくワクワクした。
Photo by Rikuo
Photo by Rikuo
正門前車道の後方は、前方に比べると人の密集度が低く、個人参加、あるいは小グループ参加による人達が、それぞれに思い思いのアピールをしているのが印象に残った。方々でそれぞれが勝手にアピールする様は、かつての渋谷ホコ天を思い起こさせた。
Photo by Rikuo
Photo by Rikuo
団体行動の苦手な自分が、これまでよりは違和感少なく集会に参加できたのは、こういった解放的で自由な空気、ある種の「ゆるさ」が現場に混在していたからだと思う。メディアに取り上げられることの少ない集会の前線からはずれた場所の空気感にもスポットが当たれば、デモや集会に対するイメージは、また変わる気がする。
今年の7月以降、国会前の集会に2度参加して、この集会の規模で参加者を歩道に押しとどめておくことには、限界が近づいていることを実感していた。警察の厳しい警備の中、歩道に押し込められての抗議は、緊迫感が強く、息がつまる思いがしたし、危険も感じた。
この日の現場に向かう前は、警察の制止を振り切って、車道が決壊し、国会前に人が押し寄せた場合に、暴徒化や事故が起きることを危惧していたのだけれど、それは杞憂だった。
考えてみれば、’12年以降、自分が今まで参加してきたデモ集会で、参加者が暴徒化したり事故が起きたことは一度もなかった。これは主催者側の努力の積み重ねと、デモ集会への参加者と主催者側が「暴力には訴えない」という意識を共有したことによる成果なのだろう。
Photo by Rikuo
正門前の車道を前方に進み、参加者の密集度が高まるにつれ、場の空気が引き締まってゆくのを感じた。やはり、前方の盛り上がりは、後方にはない緊張感を含んでいた。密集した人の圧力に危険を感じることもあった。ただ、今回のデモ集会には「逃げ場」が存在した。前線にいて息がつまれば、一旦後方に下がることも可能だった。
Photo by Rikuo
前方では、野党党首や宗教家、作家、弁護士、ミュージシャンら、さまざまなジャンル、業種の人達がスピーチを繰り広げていた。そのすべてを聞くことはできなかったけれど、自分が聞いた中では、特にSEALDsら若者達による瑞々しいスピーチが素直に心に響いた。彼らの名古屋弁や熊本弁によるシュプレヒコールもよかった。
集会の中で、口汚い言葉やコールが聞こえてるくると、やはり少し心が痛んだ。「ナイーブ」だと言われようとも、こういう感性を、どんな状況でも維持し続けたいと思う。現場にいて、もっと自分が参加したくなるようなシュプレヒコールがあればいいのになとは思った。
集会に参加している間は、1つの場所にばかり留まらず、なるべく歩き回って多くを見るよう心掛けた。メディアは国会正門前の様子ばかりを報道していたけれど、集会に集まった人達は国会議事堂回りの広範囲に渡っていた。
自分も集会の全体を把握できたわけではない。集会を後にしてから、ネットやテレビのニュースなどで集会の情報を補い、それによって初めて知ることも多かった。国会正門前の歩道が決壊した瞬間も後でYouTubeで確認したし、坂本龍一さんがスピーチしたことも、高校生達が「ケサラ」を歌っていたことも、現場では確認できず、後で知った。
この長時間の開催の中で、集会の最初から最後まで参加していたのは、全体の中のごく限られた一部だろう。どの時間帯に、どの場所に居合わせたかによって、この日の集会に対するイメージは、それぞれに違いが生じると思う。自分がそこで見た光景が集会全体のすべてとは言えない。
そもそも、このデモ集会を統一したイメージで語ることには無理があるように感じられる。そして、恐らくその統一感のなさが、自分の「居やすさ」につながった。
この日の集会の参加者数は警察発表が3万人強で、主催発表は12万人だった。いつものことだが、その数字には大きな開きがある。そんな中、産経新聞が参加者数を試算し、国会正門前は多くても3万2千人程度と記事にしていたけれど、http://www.sankei.com/politics/news/150831/plt1508310051-n1.html実際に国会前に足を運び、その集会の広範囲を確認した人なら、この試算の間違いをすぐに指摘できるだろう。
産経新聞はデモ集会の参加者を国会正門前の一部分に限定して試算しているけれど、実際の参加者は国会回りのもっと広範囲に渡っている。しかも時間帯によってかなり参加者が入れ替わっているにもかかわらず、この試算は入れ替わりの人数が加算されていない。となると、実際の参加者数は産経新聞の試算を遥かに上回ることになる。この動画を見てもらえば、集会の規模と範囲の広さが伝わるかと思う。
https://www.youtube.com/watch?v=6ohr-TAI14M#t=10 多分、実際の正確な数字は誰も把握できていないのだろうと思う。
参加者の1人の実感として、間違いなく言えることは、この集会には一括りにできない多様な人達が参加していたということだ。現場の熱気と開放感は、自分の意志で足を運んだ一般参加者の存在によるところも大きいと思う。
さまざまな団体が動員をかけていたことも確かだろうけれど、集会を主催するSEALDsが大切に考えたのは、あくまでも個人の集まりであり、そういった姿勢と法案に反対する民意が結びつくことで、党派性に縛られない多数の一般参加者が呼び込まれたのだと思う。
SEALDsの若者達がスピーチをする近くで創価学会の三色旗が掲げられる光景に立ち会うなんて、ほんの少し前まで想像することができなかった。
家族連れの姿も多く見られ、多くの人達が日常の暮らしの延長という意識で抗議集会に足を運んでいる印象を受けた。デモ集会の形も変化しているのだ。
デモ集会を企画するSEALDsの奥田愛基さんはインタビューの中で「日常って感覚は、とても大事。おしゃれを気にしながら国会前に行ったっていい。ディズニーランドも行って、海も行って、国会前にも行けばいい。日常がある上で抗議すべきときは抗議するってことに意味があるんです。」と語っている。http://www.huffingtonpost.jp/2015/08/24/sealds-okuda-interview_n_8030550.html
これらの言葉はとても重要だ。「『日常』の延長にある抗議」という姿勢は、SEALDsの新しさの1つだろう。「生活を美しくする」ことの1つに、デモや集会に参加するという行為が存在する。そういうイメージを自分も持ち続けたいと思う。
若者達の感性が、大人達の党派性や敵対関係、イデオロギーにとらえられ、巻き込まれることなく、「日常」と手を取り合いながら、しなやかに育くまれてゆくことを願う。
この日は国会前だけでなく全国300ヶ所以上で安保法案に反対するデモ集会が行われたそうだ。民主主義の世の中では、誰もが「政治」や「社会」に対して疑問の声をあげ、行動することができる。そんな当たり前を確認する1日でもあった気がする。
こういった行動が、「日常」から離れて先鋭化することなく、当たり前の行動の1つとして幅広くひろがってゆくことを願いながら、自分のできることを考えてゆこうと思う。
ー2015年9月1日(火)
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