2016年5月14日土曜日

熊本、大分の地震から一月を経て 

★熊本、大分の地震から一月を経て 

4月15日。アルバム発売記念ツアー初日の鹿児島公演の打ち上げを終えて、ホテルに戻り、クールダウンし始めた頃に、地震を知らせる携帯の警告音がけたたましく鳴り響いた。その数秒後に、かなり強くて長い揺れがやってきた。14日、熊本での震度7の地震直後の揺れだから、震源地が熊本であることはすぐに想像できた。
その後は、テレビをつけっぱなしにしつつ、ネットでの情報を追い続けた。鹿児島市内にいても強い揺れを感じたので、川内原発の状況も気になった。次第に、今回の地震が14日の地震を上回る被害をもたらしていて、熊本のみならず大分でも強い揺れがあり、かなりの被害が出ていることが明らかになってきた。その間も、余震が頻発し、携帯の警告音は夜明けまで繰り返し鳴り続けた。
ツアー2日目、明日のライブ地は熊本市だった。それまでは、予定通りライブを行うつもりでいたのだけれど、夜が明けるまでには、ライブができるような状況ではないことを理解した。早朝に熊本のライブ会場BATTLE-BOXのオーナー林田さんと連絡を取り合って、ライブは中止ではなく延期とすることを確認し合って、その旨の告知を急いだ。
林田さんによると、お店には相当の被害が出ていて、まだ強い余震が続いているとのこと。熊本の知人達と連絡を取り合うかどうか迷いながら、数人に連絡を入れる。ある知人は、強い余震が続いているので、車中泊しているとのこと。

17日のライブ地は博多だったのだけれど、この地震によって、JRは運行を中止し、既に陸路を経たれた状況だったので、急遽、ネットでエアチケットを予約し、一睡もしないまま、熊本空港から午前の便で福岡に向かった。
移動中は、なんとも複雑で重たい気分だった。仕方ががないことと思いながらも、熊本と大分の状況を想像して、後ろめたさがつきまとった。5年前の東日本大震災、福島第1原発事故直後の気分がよみがえった。
博多に到着したら、ホテルに荷物を預け、近くのカフェで一服した。少し気持ちが落ち着いたと思ったら、クラクラとめまいがした。と思ったら余震だった。

翌日の福岡・BASSICライブは、予約キャンセルが多く出た。来る予定だった知人から連絡があり、家族が外出を心配しているので、行けなくなったとのこと。
この夜、集まってくれたお客さんの盛り上がりは特別なものだった。こういった状況の中で、皆が希望を求めていたのだと思う。
ライブ後半で「新しい町」を歌っている最中に、涙腺がゆるんで、声が上ずってしまった。そんなことではダメだと思った。
東日本大震災から2ヶ月後に被災地入りして、もの凄い被災状況を見て回ったときは、心にリミッターがかかったみたいで、一切涙が出なかった。それらは感傷を許さない光景だった。

博多の夜は長かった。地元の知人、打ち上げで合流した大柴広己らと多いに飲んで語り合ったはずだが、飲み過ぎたせいであんまり覚えていない。
翌日、ヘトヘトで帰宅して、少し気を抜いたら、いろんな気持ちが押し寄せてきてズンと落ち込んだ。ああ、これはやばいなあと思った。しかし、落ち込んでいる余裕がないくらい、その後のスケジュールは立て込んでいた。
取り急ぎの結論は、とにかく寝ることだった。
翌日、目が覚めたら、昨夜より気分が前向きになっていた。気を落ち着けて頭の中を整理しながら、焦らず一つ一つに丁寧に対処してゆくよう心掛けた。その後もキャンペーンとツアーに負われる日々が続いた。それがよかったのかどうかわからないけれど、余裕無いままに気持ちは安定して、日々がどんどんと過ぎていった。

ネット上では、鹿児島の川内原発がこの地震を受けても稼働し続けている事への是非が盛んに問われていた。平行線をたどる議論を追いながら、原発の問題は、思想とか知識以前に、感受性の問題ではないかと思った。
自分は、こういう地震があったりすると、余計に原発を早く止めてほしいと願う。でも、止めたからそれで安全というわけでもなく、廃炉までには何十年も時間を要してしまう。かかる費用も莫大だ。
「ほんまに、えらいもんつくってもうたなあ、えらいもんに頼ってもうたなあ」と、つくづく思う。立ち入ってはいけないところまで、人間は立ち入ってしまったんではないかという気持ちになる。欲深さと傲慢が、人間が本来備えていた「畏れ」を麻痺させている気がする。自分の感覚も普段は麻痺しているのだろう。やっぱり忘れていいことと、忘れちゃいけないことがあるんではないか。あれから何を終わらせて、何を始めたんだろう、そんなことをあらためて考えさせられた。しかし、日々の中で、こういった感覚がまた薄れてしまいそうだ。

震災からもう一月も経ってしまったなあと思う。熊本と大分ではまだ余震が続いていて、被災地で暮らす人達は今も不安な日々をすごしている。
先日、熊本・BATTLE-BOXのオーナー林田さんと連絡を取り合って、延期になったライブの日程について話し合った。お店は現在もまだ復旧には至っていないけれど、8月には延期になったライブが行えそうだ。

最近、2011年3月の東日本大震災の直後に、松山千春さんがラジオで述べたという言葉を思い出している。

知恵がある奴は知恵を出そう。
力がある奴は力を出そう。
金がある奴は金を出そう。
「自分は何にも出せないよ」っていう奴は元気出せ。

大きなことは言えないけれど、被災地の知人達、お世話になった人達の顔を思い浮かべながら、まずは元気でいようと思う。
この一月の間、余裕のない日々を過ごしていたのだけれど、せめて地震直後からの自分の気持ちくらい、書き留めておこうと思った次第。さあ、これからステージ。全身全霊でのぞみます。
ー2016年 5月14日 那覇にて

2016年4月28日木曜日

アルバム「Hello!」のリリースに寄せて

自分にとって2年振りのスタジオ・アルバム「Hello!」が発売となりました(CDとLPレコード同時発売)。
ここまで長い道のりでした。アルバムの最初のレコーディングが去年の1月。その後、スタジオを変えての3月のレコーディング時から、めまいと耳鳴りに悩まされるようになり、ボーカル録りの音程がとれない状況に陥りました。診断の結果は突発性難聴とメニエール症候群とのこと。特に左耳の聴力が落ちていました。
薬で症状をおさえながら、その後のツアースケジュールはだましだましなんとか乗り切りましたが、レコーディングはしばらく中断せざるえなくなりました。その間、レコーディングの方向性についても色々と悩みました。

耳の回復を待って、9月から再開したレコーディングでは、吉祥寺のGOK SOUNDを使用させてもらい、それまでのプロトゥールスを使ったDAW(Digital Audio Workstation)録音からSSLのコンソールと24トラックのスチューダーを使ったアナログ録音に切り替えました。これで、レコーディングの方向性がはっきりと定まりました。スタジオの選択に関しては、カーネーションの直枝さんに相談させてもらったことがきっかけで、GOK SOUNDを使わせてもらうことになりました。

アナログレコーディングに切り替えることで、それまで録音していた曲も録り直すことにしました。制作費のことを考えると、かなり思い切った判断でした。
この時点で、原盤制作費がインディー・レーベルで負担できる額を超えてしまうことは、はっきりしていました。自分が制作費を負担して原盤権を持ち、インディー・レーベルでリリースした場合、今度はリクープラインがあまりにも高くなり、回収が困難になります。
今回、自主レーベル「Hello Records」を立ち上げてのリリースを決めたのは、インディーズとしては、制作費がかかり過ぎてしまったことが一つのきっかけになりました。制作費のことやLPレコードの発売も含めて、自身のレーベルだからこそ、リスクをしょって無理ができたわけです。前作までお世話になっていたレーベル、ホームワーク・レコードには、ミュージシャン側の立場にたった良心的な対応をしてもらい、感謝してます。
レーベルを立ち上げてみて、「レーベルやるのって大変やな」というのが今のところの実感です。自分を含めたスタッフ2人の弱小レーベルとして、手探り奮闘中です。

演奏者の表情や空気感、ライブ感の伝わるサウンドを目指して、録音のベーシックは、顔を突き合わせての同時演奏、「一発録り」にこだわりました。技術とハートを兼ね備えた素晴しいレコーディングメンバーの存在なくして、今回の作品は成り立ちませんでした。
レコーディングに参加してくれたメンバー、特にHOBO HOUSE BANDとして自分のライブにも参加してくれている寺さん(寺岡信芳:ベース)、椎野さん(椎野恭一:ドラム)、コースケ(宮下広輔:ペダルスティール)、歩ちゃん(橋本歩:チェロ)、阿部美緒(ヴァイオリン)には、スタジオを変えて繰り返される録り直しにも、根気よく付き合ってもらいました。
オルガンの小林創くん、ギターの佐藤克彦さん、コーラスの真城めぐみさん、サックスの梅津和時さん、トランペットの黄啓傑くんも、この作品に欠かせない存在です。「Hello!」の冒頭を飾るナンバー「僕らのパレード」を共作してくれた丸谷マナブくんは、自分のポップの扉を新たに開いてくれました。

GOK SOUNDのオーナーでもあるエンジニアの近藤さんには、録りとミックスで、ひつこく付き合ってもらいました。お互いのこだわりをぶつけ合うことで、作品のクオリティーを高めることができたと思います。
GOKを使用するまでのレコーディングに付き合ってくれたエンジニアのモーキー(谷澤一輝)は、素晴しいセンスを持った、オレのよき理解者です。「永遠のダウンタウンボーイ」のミックスは彼によるものです。

マスタリングは前作の「HOBO HOUSE」に続いてビクター・マスタリング・センターの小鐵 徹さんにお願いしました。まさに匠の技。音量、音圧稼ぎに走らず、あくまでも空気感、響き、奥行きを大切にした柔らかい音作りは、作品の方向性にぴったりとはまりました。

パッケージ作品としてのアルバム・ジャケットの重要性を増々強く感じている中で、今回、小山雅嗣さんにデザインと撮影をお願いしたのは大正解でした。雅嗣さんによるアートワークが作品全体のイメージに与えている影響は大きいと思います。
渋谷のスクランブル交差点と日比谷公園で行われた撮影ロケのアシスタントは、雅嗣さんの弟の小山琢也くん。彼は「リクオwith HOBO HOUSE BAND Live at 伝承ホール」でジャケットに使われた写真のカメラマンです。

ジャケット内ブックレットのライナー・ノーツと曲解説は、前作のライブ盤「リクオwith HOBO HOUSE BAND Live at 伝承ホール」に続いて宮井章裕くんにお願いしました。知識と愛に裏打ちされた、人柄の伝わるステキな文章です。
彼は湘南で洋楽専門のレーベル「サンドフィッシュ・レコード」を主催していて、良質のシンガーソングライター作品をリリースし続けています。昨年サンドフィッシュからリリースされたジョン・リーゲンのアルバム「ストップ・タイム」は、オレの愛聴盤です。

前作のスタジオ・アルバム「HOBO HOUSE」に続いて、今回も出版会社のソニー・ミュージック・パブリッシング(SMP)と出版契約を結ばせてもらいました。SMPの大坂さんと舟田さんには、アルバムの曲作りの段階から色々と相談に乗ってもらいました。舟田さんには、アルバムのA&R的な存在として、制作に関わってもらいました。
「僕らのパレード」の共作者である丸谷君を紹介してくれたのも舟田さんです。大坂さんと舟田さんとの関わりによって今回の作品への流れができました。

「Hello!」は自分名義のソロ作品ではありますが、多くの人との関わりの中で生まれた共同作品です。ポップ・ミュージックとは、多くの才能と情熱の集結によって生まれ得るものだと思います。自分が今回作りたかったのは、まさにポップ・ミュージックとして成り立つ作品でした。
作品の中にはさまざまなオマージュを散りばめました。自分の作品は、これまでのたくさんの記憶、先人から勝手に受け取ったバトンによって成り立っています。「Hello!」を通して、皆さんとさまざまな記憶を共有できることを、「Hello!」というバトンが誰かに受け継がれることを願っています。

この作品を自分の節目にすることで、色んな人達に恩返しができたらと思っています。制作に関わってくれたすべての人達、今、プロモーションに関わってくれているすべての人達に心から感謝します。
そして、「Hello!」を既に受け取ってくれた皆さん、これから受け取ろうとしてくれている皆さん、本当にありがとう。皆さんの心に寄り添う作品になれば嬉しいです。
明日からまたツアーに出て、このアルバムを抱えて、全国を回ります。各地で皆さんに会えることを楽しみにしてます。


2016年3月11日金曜日

あれから

ホームページとブログのリニューアルに合わせて久し振りにブログ更新します。
東日本大震災から5年目にあたる今日、震災から5日後の11年3月16日の自分のブログに掲載した詩を再掲載します。


しばらくテレビのニュースを消して パソコンも閉じて 心を鎮めてみる
自分の弱さ 脆さを嘆くのはやめる 認めてやる
そらしゃあない
自分にとって大切なものは何?
つないだ手のぬくもりを思い出す
忘れかけていたメロディーを口ずさむ
少し無理をしてバカなことを言ってみる
結構受けた
笑顔にほっとした
自分の中にあった優しさを思い出す
希望を思い出す
勇気を思い出す

新しい暮らしが始まる
新しい生き方を探す
一人ではなく
哀しみを忘れない
後悔を忘れない
後ろめたさも忘れない
でも、引きずらない
力み過ぎない
祈り続ける
歌い続ける
新しい言葉とメロディーが生まれる
呼吸を整えて、元気を出す

この5年の間、自分が書いたこの詩を何度も読み返しました。
あれから何を終わらせて、何を始めることができたのか。今も明確に答えることができずにいます。
自主レーベル「Hello Records」を立ち上げて、4月14日(木)にリリースされる自分のソロアルバム『Hello!』に収録したナンバー「あれから」の語りの部分に、少し手直しを加えて、この詩を使いました。

詩を使うにあたっては、5年前の自分の心情を忘れずに心の中にとどめたいとの思いがありました。出来事だけじゃなく、あのときの空気や絡み合った思いを忘れずにいたい、あきれる程に忘れがちではあるけれど、なかったことにしちゃいけない、でないと未来が塞がれてしまう。目をそらしがちな一方で、そんな危機感を含んだ思いも、この5年の間でさらに膨らんだ気がします。
前を向くばかりでなく、立ち止まり、振り返り、闇に目を凝らす態度が、未来を照らすことにつながるのだとの思いを強くしています。


 ー2016年 3月11日(金)

2015年12月8日火曜日

古謝美佐子さんのこと

沖縄民謡歌手の古謝美佐子さんが、6日(日)にSEALDsらが主催した日比谷野音の集会に参加して、辺野古基地移設に反対するスピーチをしたことを知って、さまざまな思いが巡った。

以前、古謝さんとイベントでご一緒させてもらった時の打ち上げの席で、米軍基地辺野古移設が話題になった。正直、打ち上げの場で、こんなナイーブな問題をウチナーの古謝さんが正面向いて話してくれるとは思わなかった。その話題の中で、古謝さんは自分の生い立ちを話して聞かせてくれた。
「両親は米軍嘉手納基地で働きながら自分を育ててくれた。父親は、自分が幼い頃に、基地内の事故で亡くなった(アメリカ軍の車両にひかれて亡くなられたそう)。けれど、自分には基地に育てられたという思いもある。日本に存在する米軍基地の70%が沖縄に集中しているのはおかしいことだと思うし、辺野古への基地移設も反対だけれど、基地で働いていた地元の人達とのつながりもあり、そういった人達の気持ちを気遣うと、自分が声を上げて辺野古移設に反対することには躊躇がある」そんな内容の話だったと記憶している。

古謝さんが、辺野古基地移設反対の意志を公に表明し行動するようになったのは、最近のことだ。自分が声を上げることで誰かを傷つけることも覚悟した上での、さまざまな葛藤を経ての行動だと想像する。古謝さんの思いのすべてを知ることはできないけれど、その葛藤を想像することが、この問題を自分の問題としてとらえることにつながってゆく気がしている。

古謝さんを中心として結成された沖縄民謡女性4人グループ「うないぐみ」と坂本龍一氏のコラボレーションで10月にリリースされた曲「弥勒世果報 (みるくゆがふ) - undercooled」には、古謝さんの思いが凝縮されているように感じる。 https://www.youtube.com/watch?v=JUDG_LSSyZ8 自分が知る今年リリースされた中で最も心揺さぶられた歌の一つだ。

自分も運営に関わっていた「海さくらミュージックフェスティバル」という江ノ島の展望台で開催されていた野外フェスに古謝さんに参加してもらったときのこと。
古謝さんの歌は、すべてを包み込むような包容力で天高く響き渡り、神がかっていた。ステージが始まってしばらくすると、不思議なことに、たくさんの鳶が古謝さんの頭上高くに集まり、中空で旋回を始めた。その数はどんんどん増え続け、旋回は古謝さんのステージが終わるまで続いた。忘れられない光景、体験だった。
古謝さんの歌は天と地と人を繋ぐ。天と地、自然との繋がりがなければ人間は生きてゆけない。人も自然の一部であり、人だけの繋がりだけでは生きてゆけないのだ。古謝さんの歌は、そんな当たり前のはずのことを思い出させ、感じさせてくれる。

辺野古の基地移設は日本の安全保障や沖縄の植民地的なあり方だけが問題ではない。人が自然の一部として、どう繋がり合って生きてゆくべきなのかも問われている。「弥勒世果報 (みるくゆがふ) - undercooled」という歌には、そんな問いかけと祈りが込められていると感じる。

 ー2015年 12月8日(火)

2015年10月27日火曜日

TSUTAYA(ツタヤ)図書館問題と湘南T-SITEについて感じたこと

各地の公共図書館で指定管理者として業務を請け負っている民間企業、図書館流通センター(TRC)が、レンタル大手TSUTAYA(ツタヤ)を運営するカルチュア・コンビニエンス・クラブ(CCC)との図書館事業についての関係を解消する考えを表明した。最近、TSUTAYA管理の図書館に関する情報を追いかけていた自分にとって、タイムリーなニュースだった。
http://www.47news.jp/CN/201510/CN2015102601002183.html

図書館が民間企業に管理を委託するようになったのは、その運営に行き詰ったからだ。結果、TSUTAYA管理となった図書館は、集客増加に成功する一方で、貴重資料の破棄や選書、本の分類のやり方などが問題視されている。
そういった状況の中、愛知県小牧市のように、TSUTAYA管理の市立図書館建設計画に対して、市民の間に「図書館の質を落としかねない」などと反対論が広がることで、住民投票が行われ、反対多数の結果が出て、計画見直しを迫られる例も出始めている。
自分がこの問題に注視するようになり始めたのは、先月、自分が暮らす藤沢にできた書店とカフェを中心とした文化複合施設、湘南T-SITEに初めて足を運んだことが、一つのきっかけになっている。

湘南T-SITEは、2018年をめどに約1000戸の住宅が建ち、およそ3500人の住民が増加する計画Fujisawaサスティナブル・スマートタウン(Fujisawa SST)のランドマークとして、昨年年末にオープン。用地を提供したパナソニック側が、地域住民のカフェと書店が欲しいという要望に則して、代官山の蔦屋書店(代官山T-SITE)の存在をキャッチしてアプローチしたことでオープンが実現した。
http://real.tsite.jp/shonan/about/
自分がT-SITEに足を運んだ時は、平日に関わらず、施設はかなりのにぎわいだった。どの店舗も、おしゃれでスマート。居心地は悪くなかった。カフェと書店がつながっているのが嬉しいし、長く時間を過ごせる場所だと思った。もっと近所にあれば、頻繁に通うかもしれない。
でも、同時に違和感も残った。その感覚を、まだうまく言語化できずにいるのだけれど、本という存在がオシャレな雑貨として扱われていたことが印象的だった。それは、今後、書籍と書店が生き残ってゆくための一つの手段なのだろう。
その様を見て、音楽に携わる自分にとっても他人事ではないと感じた。今後、CDやアナログレコードも、グッズや雑貨の一つとしての要素をより強めてゆくのだろうと思う。

T-SITEの書店で、困ったことがあった。本の分類が独自でよくわからず、ほしい本がなかなか見つからないのだ。そこで自分が感じたのは、「本の内容は、あまり重視されていないのではないか」という疑問だった。売るための整理手段が優先されるのは、書店としては当然のことなのだろうけれど、本好きに対する配慮がもう少しほしい気がした。この本の分類に関しては、TSUTAYA管理の図書館でも問題視されている。

TSUTAYAは図書館の管理において、本来、図書館が最も果たすべき「知の集積場所」としての機能よりも、別のものを優先させようとしたのだろう。その姿勢には疑問を感じるけれど、図書館にカフェがあるのは嬉しいし(スターバックスでなくてもいいけれど)、そんな図書館が近所にあれば、頻繁に通いそうだ。

自分が感じた違和感の正体の一つは、本やCD、レコード、そのものが本来持っている価値や思い入れがないがしろにされてゆくことに対するものだと思う。でも、それだけではない。
便利や快適、オシャレやスマートを求める一方で、無自覚にそういった方向へ向かうことへの警戒心とか危機感が自分の中で大きくなっている気がする。湘南T-SITEのあり方や、民間企業が図書館を管理するというやり方が、何か一つの大きな流れと結びついているように感じて、それを疑問なく受け入れていいのかなと考えてしまうのだ。
それでも、音楽と本とカフェが好きな自分は、T-SITEとTSUTAYA管理の図書館が自宅近所にあれば、違和感を持ちながらも通うのだろう。ただ、それ以外の選択肢が残っていてほしいと思う。

ー2014年10月27日

2015年10月14日水曜日

辺野古の埋め立て承認取り消しで考えたことー1年前に辺野古を訪れたときのこと

沖縄県の翁長知事が米軍普天間飛行場の移設予定地の辺野古の埋め立て承認を取り消した。このニュースを受けて、まず思い浮かんだのは、辺野古で暮らす人達のことだった。これは、今から1年近く前、沖縄知事選直後というタイミングで、沖縄在住の2人の若いミュージシャン、ソウルフラワーユニオンの中川敬君、オレの4人のメンバーで辺野古を訪れ、アップルタウンと呼ばれる社交街で、地元住民の方を交えて飲ませてもらった体験が大きく作用している。

その酒の席で住民の方の話を聞いて感じたのは、「基地移設に反対する側も賛成する側も、辺野古に暮らす住民の立場には寄り添ってくれない、辺野古の未来については考えてくれていない」ことへの、強い不信と絶望、憤りだった。これは3・11以降に福島各地に何度も足を運び、住民の人達の話を聞いたときにも感じた思いと重なる。

その後、辺野古での出来事をブログにまとめようと何度か試みたけれど、できなかった。とても複雑でナーバスな問題が含まれていて、うまくまとめる自信がなかったし、ブログで公表することで誰かを傷つけたり、誤解を招くことも危惧した。今もその日の出来事のすべてをブログにまとめようとは思わない。

その日は、社交街を訪れる前にまず、辺野古への基地移設の反対運動で座り込みが続けられているテント村を尋ねた。辺野古の浜辺にあるテント村では、穏やかな表情で椅子に座り、編み物をしていた白髪のおばあさんと話をさせてもらった。聞けば、2004年からずっと座り込みを続けられていると言う。「私の老後は座り込みになってしまいました」と柔らかい笑顔で仰っていたのが印象に残った。辺野古の海は快晴に映え、穏やかで、とても美しかった。

 その後は米軍のヘリパッド増設が予定される高江に向かい、同じく反対運動で座り込みを続けるテント村を尋ね、夜に再び辺野古に戻り社交街へ入った。高江は随分と辺鄙な場所にあるのだなと感じた。

那覇から高速を使って辺野古まで車で約1時間。高江までは辺野古からさらに1時間強の時間を要した。自分の予想以上に那覇から遠く離れた距離で、本島南部の市街とは、景色も空気もまるで違っていた。辺野古も高江も、どちらも過疎地という点で共通していた。

「那覇で暮らす人達の中には、辺野古も高江も、本土の人と同じような感覚で、遠い存在と感じている人も結構多いかもしれない」
辺野古と高江を訪れる前日に、沖縄で暮らす知人からそんな話を聞いていて、意外に思っていたのだけれど、実際に現地に足を運ぶことで、その言葉が理解できるように思えた。辺野古も高江も、沖縄の都市部で暮らす人の目には映りにくい、生活圏からかなり離れた場所に存在しているのだ。

自分と中川君が辺野古の社交街に足を踏み入れることができたのは、同行してくれた沖縄在住の知人ミュージシャン2人のおかげだった。地区外から辺野古に来て基地移設反対運動をする人のほとんどが、区域の住民との接触を持たない中で、2人は社交街に足を運び続け、時間をかけて地元の人達との交流を重ねていた。


その日の社交街での飲み会は、さまざまな感情が行き交う、波乱含みの忘れられない夜になった。
よく飲み、よく歌い(カラオケ)、よく踊り、よく笑った後に、ようやく基地移設について皆で語り合った。話が核心に近づくほど地元の方の感情がたかぶり、怒り、哀しみ、やるせなさが噴出して、ついにはぶつかり合った。自分は、その感情の強さに戸惑い、圧倒され、次第に言葉を失くした。そのときの怒りや不信は、自分にも向けられていたのだ。
その夜の出来事は尾を引いた。その時のさまざまな場面や住民の人達から受け取った言葉を、その後何度も反芻した。

例えばこんな言葉だ。
「基地移設反対運動をしている人達は流行でやっているように感じる」
反対運動をしている人達にしてみれば、受け入れられない言葉だろう。しかし、辺野古で暮らす人達の立場に立てば、基地が来ようが来まいが、その後も辺野古で生きていかなければならないという現実がある。どちらの結論が出ても、過疎化の進む辺野古の問題は終わらないのだ(辺野古に200軒以上あったお店が今は12〜3軒にまで減ってしまっているそうだ)。基地移設に関する結論が出た後に、反対運動をしていた区域外の人達が、辺野古の将来について、共に考えてくれるのか。自分も含めた移設反対派は、こういった問いかけに向き合う必要があるのではないだろうか。
区域の住民にとっては、居住区のすぐそばで反対運動で騒がれることで、自分達の生活が阻害されているとの意識も強い。こういった不信は、区域の住民と辺野古で反対運動を行う人達との間に交流の場が確立されていないことにも原因があるように思える。

「マスコミが報道するように、辺野古住民が基地移設の賛成、反対で分断されているわけではない。本当は地元の誰も積極的には基地移設に賛成していない」
自分は、この発言をした地元の方を基地移設容認派と認識していたので、最初聞いたときは聞き間違いかと思ったけれど、そうじゃなかった。この言葉には諦念や絶望も含まれているように感じた。
辺野古で暮らす人達にとって、基地移設問題はイエスかノーで解決できる問題ではない。積極的には基地移設に賛成していなくても、この街で暮らし続ける限りは、移設問題を、自分達の暮らしと辺野古の街の将来にからめた条件闘争として考えざるを得ないのだ。

辺野古を訪れ地元の方から話を聞くまでは、社交街が入植者中心の街であることを、自分は全く知らなかった。キャンプ・シュワブができるときに米兵相手の商売ができるようにと奄美大島、宮古、八重山などの沖縄本島外から入植者を募集して生まれた街がアップルタウンだった。つまり、辺野古の街自体が、基地の存在によって生まれたと言えるのだ。
元々の辺野古住民は軍用地料を得て生活している人が多いそうで、小さな街の中で、入植者と元々の辺野古住民の居住地が上下2つに別れていた。

辺野古に足を運び、地元の方の話を聞くことで、自分はやっと辺野古について何も知らなかったということを自覚した。
それまで自分は、普天間基地の移設予定地としての「辺野古」には興味があっても、1人1人の生活が営まれている地域社会としての辺野古に興味を持つ機会が、ほとんどなかった。辺野古で暮らす人達を傷つけ、絶望させてきたのは、そういった態度だったのだ。

自分は辺野古基地移設に対しては反対の考えだけれど、辺野古や福島などの現地を訪れた体験によって、「その反対運動がその地域で暮らす人達1人1人の思いや立場を無視するものであってはならない」という思いも強くした。

最後に、インターネット情報サイト・ポリタスに掲載された「辺野古に暮らす私たちの願い」という記事での辺野古商工社交業組合会長・飯田昭弘さんの言葉にぜひ目を通してもらいたい。
http://politas.jp/features/7/article/407
飯田さんが語られているように、辺野古基地移設問題を考えるにあたっては、オール・オア・ナッシングばかりにとらわれず、「沖縄や辺野古の抱える複雑さ」に焦点をあて、辺野古の未来につながる議論もなされるべきだと思う。

ー2015年10月14日(水)

2015年9月16日水曜日

煽動について

2015年9月15日 Facebookより転載

自分は足を運ぶことができなかったけれど、国会前には昨夜も凄い数の人達が集まった。http://www3.nhk.or.jp/news/html/20150914/k10010234441000.html
違和感を持ったなら、誰もが疑問の声を上げて行動できるのが民主主義の社会。この状況に於いて、政治や社会に対して怒りを表明することも必要なんだと感じている(あくまでも罵倒や暴力には頼らずに)。
 
今国会前に集まる人達が煽られた集団だとの認識は間違っている。何度も国会前デモ集会に参加した者の印象として、そもそも一括りにはできない多様な集まりだと感じる。
とは言え、集団の熱狂に身をおいて、煽動に巻き込まれる怖さを感じる瞬間があることも確かだ。そのような怖さを感じながら、デモに参加している人の数は少なくないと想像している。
自分は、最も危険な煽動は、社会や他者に対する無関心を経た上で起こるのではないかと考える。過去の戦争に於ける煽動も、そのような無関心の先に成り立ち、煽る側と煽られる側が共犯関係を持って暴走してしまったのではないだろうか。

安保法案が成立しそうな差し迫った状況ではあるけれど、デモの高揚に身を委ねた後は、クールダウンして、日常の暮らしを維持することも大切にしたい。そのような日常を守るために、安保法案の採決強行に反対するのだ。