2026年1月27日火曜日

モヤモヤを経て

 アジアン・カンフー・ジェネレーション・後藤正文氏のこの寄稿文、彼の徒労感が伝わって、今の自分の気分にも近いと思った。

《様々な法案について、市民の代わりに国会で話し合う議員を選ぶための選挙を、個人的な信任投票のように考えて行うのは、権力の乱用ではないか》と思うし、《選挙に圧勝したとしても、国会で首相にフリーハンドが与えられるわけではない。今回の衆議院の解散は、国会を軽視している。》とも思う。

《しかし、いつも通り開票日の夜にうなだれている自分を想像して悲しい。生業の音楽は、世の中のどのような仕事とも同じく、政治や社会と切り離せるものではないと考えているが、政治に熱狂する面倒くさい音楽家だと思われて徒労感が増すくらいなら、無言のまま、成り行きを傍観しようかと考えてしまう。》
自分もまさに今、そんな気分。

「日本は単一民族国家」と発言した候補者が「全国最年少知事」になったり、陰謀論・排外主義者が集まった団体が国政政党に認定されたり、トランプ政権下での移民関税執行局(ICE)による暴力行為が一般市民への殺害にまでエスカレートしたり──この数日のニュースに触れるだけで、社会のフェーズがさらに変化したことを痛感している。
先に挙げた出来事を肯定的に捉える人も少なくなく、そうした状況の中で、分断を避けながらどのような言葉を紡げばよいのか、悩むことがさらに多くなった。

傍観者に留まるつもりはないけれど、誰かや何かを切り捨てるような言葉は、できるだけ避けたい。内省を重ねながら自分事として言葉を紡ぎ、それを音楽表現へとつなげていけたらと思う今日のこの頃。
考え始めると、よりモヤモヤが広がる一方で、でも少しずつ何かが見えてくるような感覚もあって、その積み重ねをこれからも続けたい。

そろそろメロディーと言葉とリズムがつながってくれるかな。

ー 2026年1月27日(火)

2026年1月22日木曜日

世界は相互補完によって成り立っている ー カナダのマーク・カーニー首相の演説文を読んで

 カナダのマーク・カーニー首相によるダボス会議での演説の訳文を繰り返し読んでいる。

その言葉からは、国際秩序の衰退への強い危機感が伝わると同時に、「第三の道」を切り拓こうとする気概も感じ取れた。
カーニー首相の主張全てに同意するわけではないけれど、日本にとっても重要な提言が多々含まれた内容だと思う。

「多くの国は、食料、重要鉱物、金融、サプライチェーンにおいて、より大きな戦略的自律性を確保しなければならないけれど、要塞化した世界は、より貧しく、より脆弱で、より持続不可能なものになる」との提言は、国家としての話だけでなく、一人一人の生き方の比喩のようにも受け取れた。
「自立か依存か」という二択では個人も国家も救われない。世界は相互補完によって成り立っているのだ。

「自立」を「自給自足」や「ブロック化経済」と同一視すれば、コストは跳ね上がり、技術も人も分断され、危機対応能力はむしろ落ちてしまう。依存は危険だけれど、孤立は破滅をもたらす。
「覇権国への依存でも孤立主義でもない『第三の道』、日本を含むミドルパワー国の連携こそが新たな国際秩序を主体的に築き得る」とのカーニー首相の主張が実現に向かうことを願う。

彼の言葉から、理性や倫理を手放さないまま、現実の重さと選択のしんどさを引き受けようとする覚悟を受け取った。
後々語り継がれる価値のある、この時代を象徴する演説だと思う。

ー 2026年1月22日(木)

2026年1月8日木曜日

「綺麗事」かもしれないけれど

 2025年は、生成AIの進化に驚きと戸惑いを感じ、デマを伴う排外主義の浸透に危機感を深めた年だった。
以前とは異なり、悪意や自覚のない穏健な排外主義が社会に広く浸透したように思う。その傾向に伴ってナショナリズムの高まりも感じる。

去年の参院選あたりから、ナショナリズムを強く打ち出し、特定の政党や政権を支持するAI使用のミュージックビデオをYouTube上でいくつも目にするようになった(https://youtu.be/HC8ZZ2dDEa8?si=cLbDssXKJX6-PCfN)。今後はさらに、AIを活用した政治による音楽利用が活発化してゆくのだろう。

コロナ禍以降、政治信条や事実とデマに対する認識の違いが明確になることで、相手との関係性に亀裂が入る経験を何度か重ねた。自分のSNSやブログへの投稿が、読み手である知人の大切にしていたナラティブ(物語・語り)を、結果的に否定していたことも自覚している。

正直に言えば、最近は社会や政治に関わる投稿を躊躇する機会が増えていた。自分が臆病になったというよりも、言葉が一瞬で「立場」や「陣営」に回収されてしまう空気が、さらに強まったように感じるからだ。
「結果的に自分自身も社会の分断に加担しているのではないか」と、自問することもある。


だからこそ、他者への想像力を失いたくないし、つながりのある相手とは特に、考えが異なっていても、議論や対話が成り立つ関係性でありたい。もし、その願いが相手にとっての圧になるのなら、対話にならなくても相手の話に耳を傾けることのできる自身のキャパを保ちたい。
「綺麗事」と受け取られるのかもしれないけれど、本心だ。

ー 2026年1月18日(木)

2026年1月7日水曜日

「心の隙間」について ー 久し振りに清志郎さんの「あの娘の神様」を聴いて

 年が明けてから、ふと忌野清志郎さんの「あの娘の神様」という曲を思い出し、久しぶりに聴いてみた。

34、5年前、ライブのサポートをさせてもらっていた当時、清志郎さんがファンから受け取った一通の手紙をもとに書いた新曲として、この曲を何度も一緒に演奏していた。後に忌野清志郎&2・3’Sの1stアルバムに収録されることになるが、その頃の記憶と強く結びついた忘れがたい歌だ。

恋人が自分よりも「信じられるもの」(=神様)を見つけ、離れていってしまったことへの複雑な思いを綴った歌詞は、小・中・高と仲の良かった同級生がカルト宗教に入信し、関係が途絶えてしまった自身の体験とも重なった。
今あらためて聴いても、身につまされるような切なさを覚えるのは、この歌が2026年にも通じる、普遍的なテーマを抱えているからだろう。

自分は今も、歌詞の中で語られる「光」を感じることができず、取り残される側にいる気がしている。振り返っては考え込み、モヤモヤとした思いを抱えながら、それでも何とか、その感情を言葉やメロディーに昇華できないかと試行錯誤を続けている。歌や言葉にすることが、自分にとっての救いなんだと思う。

でも、それだけじゃ楽になりきれないことも確かだ。
今も「理解できない」「理解されない」もどかしさを抱え続けてはいるけれど、日常のささやかな出来事や人の情に救われたり、音楽を通じて誰かと同じ時間を共有することで、どうにか、ありがたく楽しい日々を過ごしている。

自分の心のベースにあるのは、「哀しみ」と「不安」だと思う。そのベースを眩い光で消し去ることで、自分自身を失うだけでなく、他者の排除へと加担することを恐れている。
「分からないこと」「分かり合えないこと」「距離があること」を、まずはそのまま受け入れるところから始めたい。そして、それでもなお、世界は素晴らしいと感じ、歌い続けていたい。

「心の隙間」は、誰にでも存在する。今は、その隙間を簡単に埋めることができてしまう時代だ。「答え」や「真実」ばかりが溢れ、「問いかけ」が蔑ろにされていく傾向に、やはり危うさを感じている。


  あの娘の神様   詞曲 忌野清志郎

あの娘は僕より信じられるものを
見つけたらしい 秋が深まるころ
僕は今までとほとんど変わらない
毎日の中で 君の神様を恨むよ

心の隙間を埋めてくれるものは
君の笑顔だったのに
心の隙間が君にもあったなんて
僕は情けない奴だな

宗教は君に何を与える
しらけた僕は恋人をうばわれただけ

心の隙間を埋めてくれるものは
君の笑顔だったのに
心の隙間が君にもあったなんて
僕は情けない奴だな

宗教は君に何を与える
何をうばったか気にも止めないほど

僕はあいにく 光を感じない
毎日の中で 君の神様を恨むよ
君の感性を恨むよ
君の教祖様を恨むよ

この世の奇跡を恨むよ


ー 2026年1月7日(水)

2025年12月3日水曜日

熱狂への恐れ

 添付したのは、「GEZAN」フロントマンのマヒトゥ・ザ・ピーポーことマヒト氏が、22日にX上で高市首相を「こんなバカ」呼ばわりして物議を醸したことを受けて、29日Xに投稿したコメント。




正否のみで即座に判断するのが勿体無い、真摯な文章だと思ったので、その一文を添えて、29日のマヒト氏の投稿を引用リポストしたら、誹謗中傷を含む否定的なコメントばかりが返ってきた。

26日の、ファンキー末吉さんの投稿に対する自分の引用リポスト(https://x.com/Rikuo_office/status/1993637199120671143?s=20 )に対しては、100を超える否定コメントが集まった。
「共産党の犬」「もう辞めたほうがいい」「ロックじゃない」「アホ丸出し」「お花畑」「くっそダサい」「垢の見本」等々、ここまで過剰な誹謗中傷が集まるのは、自分のアカウントでは珍しいことだ。
どちらの投稿もダイレクトな政権批判をしたわけでもなかったので、正直、予想を超える反応だった。

炎上の発端となった22日のマヒト氏の投稿に対しては、彼の元に「殺すぞ」「バンドができないようにしてやる」との脅迫を含んだメールも多く届いたそうだ。それを受けての添付した彼のコメントに対しても、心無い言葉の集中砲火が続いた。

高市政権発足以降、政権批判に対する過剰反応がエスカレートしていて、それは言論封殺の域に達しているように思う。明らかにフェーズが変わったし、その熱狂ぶりに怖さを感じる。

先日観た報道番組の中で、政権に異議申し立てをするデモに集まった若者たちの姿が報じられていたのだけれど、インタビューを申し込まれた若者たちは、身元が割れることとを恐れて顔出しを拒み、ボカシ映像でのインタビューに応じていた。10年前のシールズのデモでは、そういった事態は起こらなかったと記憶している。
顔を隠さなければ政権批判できない、本音を言えない状況が既に始まっている。

嫌中を掲げて口汚く罵る者たちが、結果的に、今の中国に通じる抑圧・言論封鎖に加担しているのは皮肉に思える。自分で自分の首を絞めている。
冷笑・揶揄・誹謗中傷・罵詈雑言を浴びせて、一時は万能感を得たり、スッキリするのかもしれないけれど、返ってくる代償は大きいと思う。

ー 2025年12月3日(水)

2025年11月20日木曜日

映画「スプリングスティーン 孤独のハイウェイ」感想

自分にとってブルース・スプリングスティーンの魅力の一つは「光と闇のコントラスト」だと思う。あの爆発的エネルギーは深い内省を経てこそ解き放たれる。
‘82年にリリースされたスプリングスティーンの弾き語りアルバム『Nebraska』の制作時期を描いた映画『孤独のハイウェイ』は、スプリングスティーンの弱さと内省にスポットを当てた作品だった。劇的で華やかなストーリーと映像を期待していた向きには肩透かしの内容かもしれないけれど、自分にとっては、スプリングスティーンに惹かれ続けてきた理由をあらためて確認させてくれるような映画だった。

スプリングスティーンを演じた主演のジェレミー・アレン・ホワイトは、あんまりスプリングスティーンに似ていなかったけれど、それが気にならないくらい繊細の伝わる惹きつける演技だった。彼が、プロレス一家を描いた映画「アイアンクロー」の主役、プロレスラーのケリー・フォン・エリック役を演じていたことには、映画を観た後で気づいた。どちらの作品も父親との複雑な関係や孤独を描いていて、何か腑に落ちたような繋がった気がした。

この映画の核の一つはスプリングスティーンとマネージャー・ジョン・ランダウとの友情物語なのだけれど、今度はスプリングスティーンと長く活動を共にしてきたEストリートバンドとの関係を描いた映画も見たいと思った。

帰宅してから久し振りに「ネブラスカ」を聴いた。静かに迫るものがあって心がざわついた。

ー 2025年11月20日(木)



2025年10月23日木曜日

新内閣に思うこと

 多分、政権交代が起きたくらいの大きな変化なんだと思う。

自分には危うさばかりが目につくけれど、世論調査によれば若年層の高市内閣への期待は高い。それくらい閉塞感の強い社会ということか。


海外のメディアは新首相を「国家主義」「極右」と表現しているけれど、日本の既成メディアはそういった表現を避けている。社会の流れに対して既成のメディアは基本的に追随してゆくのだと思う。


今後さらにスローガン的、扇動的な言葉が広がってゆく気がする(「日本人ファースト」も一例)。そういう社会の中では、左右に関係なく「対話」は重視されなくなるのだろう。

もう、そういう心構えを持っておいた方がいい気がする。


波に飲み込まれないよう引きの視点を持ち続け、余裕のない社会の中でも「思いやり」と「想像力」を失わずにいたい。


ー 2025年10月23日(木)