先日、4/9(火)渋谷クアトロで開催されるセッションイベント「HOBO CONNECTION 2013 ~HOBO SPECIAL~」のリハーサルで、チャボさん(仲井戸麗市)と久し振りに再会しました。
スタジオ入りしたチャボさんは、オレの顔を見るなり「お~、リクオ!久し振り~!」と言いながら近づいて、やさしく肩をハグしてくれました。この一連の流れがとても自然で、「チャボさん、やっぱりかっこいいし、優しいなあ」って思いました。
チャボさんは、オレにとって清志郎さん以上に身近に感じるアイドルでした。清志郎さんは若い頃から確信に満ちていて、どこか完成されたイメージがあった
のですが、チャボさんはさまざまな逡巡を経て次第に確信に近づいてゆくような、少しずつ成長してゆくようなイメージがありました。そのイメージに自身を重
ね合わせていたんだと思います。
チャボさん初のソロアルバム「The
仲井戸麗市ブック」を、学生時代に繰り返し聴いていました。表面的にはカッコつけていても、すごく繊細で正直、ナイーブさが伝わる作品でした。アルバムを
聴く度に、どこか甘酸っぱい、胸を締め付けられるような思いにかられたのは、とっくに過ぎ去ったティーンエージャーの頃のときめきと「少年の眼差し」を、
チャボさんが大切に抱え続けていたからだと思います。
チャボさんは、いろんな音楽や人や場所に憧れ続けながらも、憧れそのものにはなれない、たどりつけないことを自覚して、自分がいる場所からの表現を探ろ
うとしているように感じました。チャボさんの音楽と表現に向かう姿勢が、自作曲を歌い始めようとしていた当時の自分の背中を押してくれた気がします。
チャボさんとはじめて共演させてもらったのは、今から23年前、自分がCDデビュー直前の時期でした。今はなき渋谷のジャンジャンでの友部さんのライブ
にチャボさんがゲストで呼ばれた時、自分も鍵盤奏者として参加させてもらったんです。この時のライブを清志郎さんが観に来ていたことが、自分が清志郎さん
のサポートをしばらくやらせてもらうきっかけになりました。
初対面したチャボさんは想像した通りの人でした。それは、清志郎さんと付き合わせてもらうようになったときにも感じたことでした。2人の音楽を聴き続けることで、自分は既に2人に出会っていたのです。
聞きたいことがたくさんあって、ライブの打ち上げでチャボさんにいろんな質問をしました。打ち上げの席にファンが1人紛れ込んだようなものです。「チャ
ボさんのあの歌のあの歌詞のフレーズは、あの曲のあの歌詞のフレーズのオマージュじゃないですか」といった質問に、チャボさんは嫌な顔1つせず、実に丁寧
に答えてくれました。で、その答が、やっぱりこちらの予想通りの答だったりして、2人の会話が弾み、すごく嬉しかったのを覚えてます。今思うと、場をわき
まえない自分の態度を恥ずかしくも思いますが、いい想い出です。
それからチャボさんの自宅住所を教えてもらって、すぐに手紙を出したら、すぐに返事が返ってきました。それが嬉しくって、また手紙を書いたら、またすぐ
に返事が返ってきました。さすがに、それ以上手紙を出すのはやめておきました。チャボさんって、そういう人なんです。
自分は、CDデビュー前後に、憧れの存在だったチャボさんと清志郎さんに対面することができたのですが、デビューして数年が過ぎ、音楽活動が煮詰まって
ゆくにつれ、次第に2人の存在を自分の中から遠ざけるようになりました。その内、2人の音楽をめったに聴かなくなくなりました。このへんの感情を説明する
のは、難しいです。「憧れ」や「ナイーブ」や「過去」から距離を置こうとしていた自分がいたことは確かです。大切なものだからこそ、やわらかい場所がしめ
つけられて、蓋をしてしまいたくなる時期があるのだと思います。
キャリアを重ねて嬉しく思うことの1つは、さまざまな再会を果たすことができるようになったことです。それは、再会を受け入れる心の準備が、次第に自分
の中で整ったということでもあります。そうなると、かたくなだった頃の自分が不思議に思えてきたりします。人はほんの少しずつ変わってゆくのだと思いま
す。
先日のチャボさんらとのリハーサルは、ほんとワクワクしっぱなしでした。リハサールに参加したすべてのミュージシャンが10代に戻ったような笑顔で音を
交わし合いました。皆と一緒に音を奏でているこの瞬間が最高の宝物のように感じられました。本番のステージでなかろうと、どんな時でも、音を交わし合う一
瞬一瞬が一期一会なんだということを実感しました。
ギターを弾き歌うチャボさんの眼差しが、とても印象に残りました。それは、オレがチャボさんと出会った頃から変わらない「少年の眼差し」でした。自分の中の、過去と現在が繋がってゆくようでした。
4/9(火)「HOBO CONNECTION 2013 ~HOBO SPECIAL~」渋谷クアトロ公演はオレにとってだけでなく、多分参加してくれた皆にとって、特別な夜になると思います。ぜひ立ち会って下さい。
ー2013年4月7日(日)
2013年4月7日日曜日
2013年2月22日金曜日
「We're All Alone」 の解釈を巡って
最近、Boz Scaggsの名曲「We're All Alone」
の歌詞の意味が気になって、ネットで色々と調べてみたら、さまざまな訳詞がアップされていました。ところが、元詞に対する意味の解釈が、それぞれに相当
違っていて、どれが正しいのかと最初は混乱してしまいました。けれど、ネットサーフィンをしながらさまざまな訳詞に目を通してゆくうちに、次第にその解釈
の違いが面白く感じられるようになりました。
歌詞全体の内容を、駆け落ちや不倫の歌と解釈する人もいれば、「死んだ主人公を目の前にして悲しんでいる恋人に向かって、その“死んだ主人公”が語りか けている」という解釈にそって訳している人もいました。シンプルな歌詞のようでいて、これだけ解釈に幅が生まれるのは、この曲がそれだけ聴き手の想像力を 掻き立てる魅力を持っているという証拠かもしれません。
その違いが最も顕著に表れていたのは、サビのフレーズにも出てくる曲タイトル「We're All Alone」 の解釈でした。この曲は、後にRita Coolidgeがカヴァーしてヒットさせていますが、そもそもボズとリタのヴァージョンでは邦題が違っています。ボズが歌ったヴァージョンには「二人だ け」という邦題がつけられていましたが、リタがカヴァーしたときは「みんなひとりぼっち」に変更され、タイトルの意味がまるで変わってしまっているので す。
自分はと言えば、長年の間「みんなひとりぼっち」の解釈で、この曲を聴いていました。けれども今回、曲を聴いて、あらためて英詞を読み直し、さまざまな 訳詞を見た上で、どうも「二人だけ」寄りの解釈の方が、歌詞全体を通してしっくりくるように感じました。
最近ではアンジェラ・アキさんが、この曲を日本語でカヴァーしていて、「人間は皆ひとりだから~」と歌っています。全体を通して、曲を自分の側に強引 に引き寄せたような、オリジナルな意訳で、新鮮な違和感を持ちました。違和感を持ったということは、ひっかかる何かがあったということでもあります。それ で、もう1度聴き直してみたら、1度目とは自分の感じ方、聴こえ方に変化がありました。曲のあらたなイメージに、自分の感覚が慣れてきたのだと思います。 聴き直してみることで「カヴァーだけれど本人のオリジナルな歌になっているんだな」と勝手に納得がいきました。こういう体験が自分にはとても面白く感じら れました。
「We're All Alone」 の歌詞を探ることで、「曲や詞の正しい解釈を求め過ぎる必要はない」という結論をあらためて確認した気がします。その訳が誤りだったとしても、その誤りが もたらすオリジナリティーに充分な魅力が感じられることもあります。解釈に正解というものはなく、どんな曲も発表された時点で作者の手を離れ、聴き手の解 釈に委ねられるものだと思います。大切なのは、「どういう意味なのか」ということではなく、「聴き手がどう受け取り、解釈し、イメージしたか」だと思いま す。聴き手の想像力をひろげ、さまざまな解釈を可能にさせることが、きっと「名曲」の条件の1つなのでしょう。
そういえば、自分は曲の歌詞やタイトルを聴き間違えられることが、結構よくあるのですが、その間違い方に毎回笑わされたり、関心させられたりしています。
例えば「グレイハウンドバス」というタイトルを「京阪バス」と聴き間違えた関西人がいました。グレイハウンドバスはアメリカ大陸を東西に横断する今も実 存する長距離バスです。それくらいのスケール感で聴いてもらいたかった旅の歌が、隣街の京都大阪を行き来するスケールで聴かれていたとは。唖然としつつ も、笑えました。
「孤独とダンス」という曲タイトルを「コルクとダンス」だと思い込んでいた人もいました。聴き間違いにしても、想像力を掻き立てるいいタイトルだなと関 心させられました。こうした間違いは、人間の想像力の面白さ、豊かさ、音楽が持つ自由さを伝えてくれるエピソードだと思います。
「We're All Alone」 の歌詞を探る作業の中で、この曲に対する新たなイメージ、自分なりの解釈がどんどんひろがってゆきました。それは誰に頼まれたわけでもないたった1人の、 自分のためだけの楽しい作業です。そういった試みの中からも新しい曲は生まれてくると思います。多分。そろそろ、生まれてこないかなあ。
2013年2月22日
歌詞全体の内容を、駆け落ちや不倫の歌と解釈する人もいれば、「死んだ主人公を目の前にして悲しんでいる恋人に向かって、その“死んだ主人公”が語りか けている」という解釈にそって訳している人もいました。シンプルな歌詞のようでいて、これだけ解釈に幅が生まれるのは、この曲がそれだけ聴き手の想像力を 掻き立てる魅力を持っているという証拠かもしれません。
その違いが最も顕著に表れていたのは、サビのフレーズにも出てくる曲タイトル「We're All Alone」 の解釈でした。この曲は、後にRita Coolidgeがカヴァーしてヒットさせていますが、そもそもボズとリタのヴァージョンでは邦題が違っています。ボズが歌ったヴァージョンには「二人だ け」という邦題がつけられていましたが、リタがカヴァーしたときは「みんなひとりぼっち」に変更され、タイトルの意味がまるで変わってしまっているので す。
自分はと言えば、長年の間「みんなひとりぼっち」の解釈で、この曲を聴いていました。けれども今回、曲を聴いて、あらためて英詞を読み直し、さまざまな 訳詞を見た上で、どうも「二人だけ」寄りの解釈の方が、歌詞全体を通してしっくりくるように感じました。
最近ではアンジェラ・アキさんが、この曲を日本語でカヴァーしていて、「人間は皆ひとりだから~」と歌っています。全体を通して、曲を自分の側に強引 に引き寄せたような、オリジナルな意訳で、新鮮な違和感を持ちました。違和感を持ったということは、ひっかかる何かがあったということでもあります。それ で、もう1度聴き直してみたら、1度目とは自分の感じ方、聴こえ方に変化がありました。曲のあらたなイメージに、自分の感覚が慣れてきたのだと思います。 聴き直してみることで「カヴァーだけれど本人のオリジナルな歌になっているんだな」と勝手に納得がいきました。こういう体験が自分にはとても面白く感じら れました。
「We're All Alone」 の歌詞を探ることで、「曲や詞の正しい解釈を求め過ぎる必要はない」という結論をあらためて確認した気がします。その訳が誤りだったとしても、その誤りが もたらすオリジナリティーに充分な魅力が感じられることもあります。解釈に正解というものはなく、どんな曲も発表された時点で作者の手を離れ、聴き手の解 釈に委ねられるものだと思います。大切なのは、「どういう意味なのか」ということではなく、「聴き手がどう受け取り、解釈し、イメージしたか」だと思いま す。聴き手の想像力をひろげ、さまざまな解釈を可能にさせることが、きっと「名曲」の条件の1つなのでしょう。
そういえば、自分は曲の歌詞やタイトルを聴き間違えられることが、結構よくあるのですが、その間違い方に毎回笑わされたり、関心させられたりしています。
例えば「グレイハウンドバス」というタイトルを「京阪バス」と聴き間違えた関西人がいました。グレイハウンドバスはアメリカ大陸を東西に横断する今も実 存する長距離バスです。それくらいのスケール感で聴いてもらいたかった旅の歌が、隣街の京都大阪を行き来するスケールで聴かれていたとは。唖然としつつ も、笑えました。
「孤独とダンス」という曲タイトルを「コルクとダンス」だと思い込んでいた人もいました。聴き間違いにしても、想像力を掻き立てるいいタイトルだなと関 心させられました。こうした間違いは、人間の想像力の面白さ、豊かさ、音楽が持つ自由さを伝えてくれるエピソードだと思います。
「We're All Alone」 の歌詞を探る作業の中で、この曲に対する新たなイメージ、自分なりの解釈がどんどんひろがってゆきました。それは誰に頼まれたわけでもないたった1人の、 自分のためだけの楽しい作業です。そういった試みの中からも新しい曲は生まれてくると思います。多分。そろそろ、生まれてこないかなあ。
2013年2月22日
2013年1月30日水曜日
「不安」とのお付き合い
「ライブ前に緊張しないんですか?」「ステージ上で不安にかられたりしませんか?」といった質問をしばしば受けます。正直に話せば、いまだにライブ前はある程度緊張するし、不安にもなります。
調子がよくない時は、ステージに出てもふわふわした状態が続き、不安を振り払って集中力を維持できるようになるまでに、時間がかかってしまいます。経験 を積み重ねて、若い頃に比べれば、ある程度自分の精神状態をコントロールできるようにはなった気はしますが、それでも完全にコントロールすることはできま せん。特に疲れてるときはダメです。
年間130本前後のツアーを回っていて、毎回ベストコンディションでステージにのぞむことは不可能です。だから、調子が悪い時は、悪いなりに時間をかけ てでも歌に向き合い、次第にその場とアジャストし、共鳴してゆく、そういったプロセスを見てもらうことをイメージしています。つまり、完璧な形をみせるの ではなく、その夜のライブが1つのドキュメンタリーとして成立すればいいと考えるようにしています。
人前に立つ上で、完全に不安を取り除くことは無理なんじゃないかと思います。その日にどんなリアクションが起こり、どんな共鳴が生まれるかは、やってみ ないとわからない。やり方の正解はその都度変わってゆきます。どんなに経験を積み重ねても、ライブはいつだって、未知をはらんだ世界です。それはワクワク することであると同時に、やはり不安と緊張をともないます。人生と一緒です。
だから、腹を決めるべきなんです。「不安」と向き合ってやる、付き合い続けてやるんだと。そうやって毎回「不安」を乗り越えてやるんです。
いや、きばり過ぎやな。考えてみたら、解放、歓喜に至る過程には、いつも「不安」が存在するような気がします。「不安」なくして解放なし。ならば、「不 安」のことをもっと大切に思うべきなのかもしれません。「不安」と闘うのではなく、毎回「不安」を迎え入れた上で、その先へ向かう。 そんなイメージ。
不安なときは孤独です。孤独なときは不安です。人は孤独から一時逃れることはできても、ずっと逃れ続けることはできません。だから「不安」からも逃れる ことができない。自分の書いた曲で「孤独とダンス」というタイトルの曲があるのですが、「不安」ともダンスを踊ってやるのがいいのかもしれません。しばら くご無沙汰していても、生きている限り「不安」は折々に必ず戻ってきます。どうやっても逃れられないのなら、嫌わずに迎え入れてあげた方がよさそうです。
ただ、「不安」とどっぷり付き合い過ぎることの危険性も感じています。性急に「不安」の正体を突きつめようし過ぎると、底なし沼に足を取られて、引きず り込まれそうな気がするのです。この世はどこまでも謎に満ちていて、生きている限り、不安に対する究極の解決策は存在しないように思います。知らなくてい いこともあるのかもしれません。本来、「知る」という行為は、自分の足下さえ崩しかねない危険性、恐ろしさを伴っていると思います。人間関係と一緒で、 「不安」との付き合いも距離感が大切なのでしょう。
とは言え、僕たちは自らが抱える「不安」に向き合うことを避けるばかりで、あまりにもその正体を知らなすぎるのかもしれません。適度な距離で付き合え ば、「不安」はそんなに悪い奴じゃない、きっと、さまざまな気づきを与えてくれる存在のはずです。
不安や孤独をゆっくり掘り下げてゆけば、いつか、共感や解放をもたらす豊かな水脈に通じる。そんなイメージを持ってみてはどうでしょう。「不安」とは、 生きてゆくための潤滑油になりうる大切な感情の1つです。「不安」とも、いいお付き合いをさせてもらえたらと思います。
調子がよくない時は、ステージに出てもふわふわした状態が続き、不安を振り払って集中力を維持できるようになるまでに、時間がかかってしまいます。経験 を積み重ねて、若い頃に比べれば、ある程度自分の精神状態をコントロールできるようにはなった気はしますが、それでも完全にコントロールすることはできま せん。特に疲れてるときはダメです。
年間130本前後のツアーを回っていて、毎回ベストコンディションでステージにのぞむことは不可能です。だから、調子が悪い時は、悪いなりに時間をかけ てでも歌に向き合い、次第にその場とアジャストし、共鳴してゆく、そういったプロセスを見てもらうことをイメージしています。つまり、完璧な形をみせるの ではなく、その夜のライブが1つのドキュメンタリーとして成立すればいいと考えるようにしています。
人前に立つ上で、完全に不安を取り除くことは無理なんじゃないかと思います。その日にどんなリアクションが起こり、どんな共鳴が生まれるかは、やってみ ないとわからない。やり方の正解はその都度変わってゆきます。どんなに経験を積み重ねても、ライブはいつだって、未知をはらんだ世界です。それはワクワク することであると同時に、やはり不安と緊張をともないます。人生と一緒です。
だから、腹を決めるべきなんです。「不安」と向き合ってやる、付き合い続けてやるんだと。そうやって毎回「不安」を乗り越えてやるんです。
いや、きばり過ぎやな。考えてみたら、解放、歓喜に至る過程には、いつも「不安」が存在するような気がします。「不安」なくして解放なし。ならば、「不 安」のことをもっと大切に思うべきなのかもしれません。「不安」と闘うのではなく、毎回「不安」を迎え入れた上で、その先へ向かう。 そんなイメージ。
不安なときは孤独です。孤独なときは不安です。人は孤独から一時逃れることはできても、ずっと逃れ続けることはできません。だから「不安」からも逃れる ことができない。自分の書いた曲で「孤独とダンス」というタイトルの曲があるのですが、「不安」ともダンスを踊ってやるのがいいのかもしれません。しばら くご無沙汰していても、生きている限り「不安」は折々に必ず戻ってきます。どうやっても逃れられないのなら、嫌わずに迎え入れてあげた方がよさそうです。
ただ、「不安」とどっぷり付き合い過ぎることの危険性も感じています。性急に「不安」の正体を突きつめようし過ぎると、底なし沼に足を取られて、引きず り込まれそうな気がするのです。この世はどこまでも謎に満ちていて、生きている限り、不安に対する究極の解決策は存在しないように思います。知らなくてい いこともあるのかもしれません。本来、「知る」という行為は、自分の足下さえ崩しかねない危険性、恐ろしさを伴っていると思います。人間関係と一緒で、 「不安」との付き合いも距離感が大切なのでしょう。
とは言え、僕たちは自らが抱える「不安」に向き合うことを避けるばかりで、あまりにもその正体を知らなすぎるのかもしれません。適度な距離で付き合え ば、「不安」はそんなに悪い奴じゃない、きっと、さまざまな気づきを与えてくれる存在のはずです。
不安や孤独をゆっくり掘り下げてゆけば、いつか、共感や解放をもたらす豊かな水脈に通じる。そんなイメージを持ってみてはどうでしょう。「不安」とは、 生きてゆくための潤滑油になりうる大切な感情の1つです。「不安」とも、いいお付き合いをさせてもらえたらと思います。
2013年1月29日火曜日
「相互作用」の可能性ーナルシシズムを超えて【後編】
自分は、表現者としては、聖と俗、この世とあの世、ダイアローグとモノローグ、あるいは緊張と解放を「行き交う」感じが好きなんです。行きっぱなしは嫌なんです。あちらの世界にいったら、またこっちに戻ってきて、「行き交う」ことのプロセスを楽しみたいんです。
確かに、あの恍惚感、一体感は実に魅力的だけれど、こっちの世界に戻って、いろんな人の顔を見て、またバカな会話を続けたい。自分自身を笑いたい。人か ら笑われてもいい。ボケたいし、ツッコミたい。誰もが出入り自由の開かれた世界にいたい。そう思うのです。
あっちの世界で恍惚にひたりっぱなしになるのは、一種のナルシシズムだと思います。そうなると、自分がボケであること、自分がネタになって笑われることも受け入れられず、今度は逆に、どんどん排他的な世界が築かれてゆきます。
そういった行き過ぎた恍惚感、ナルシシズムと一体化し、熱狂する人は多数存在します。きっと、誰の心の中にもナルシシズムによる一体感への志向は存在す るのでしょう。けれど、そこにどれだけの人が集まり、一体感が得られようとも、他者の存在は消えてゆきます。
このように、他者と関わりナルシシズムを超えてゆくはずの「相互作用」の過程にも、「ナルシシズムの罠」「独善の罠」が存在するようです。独りよがり、 ナルシシズムとどう向き合ってゆくか、これは表現者としてだけでなく、自身の生き方を考える上でも、避けては通れない課題だと感じています。
今は「一億総ツッコミ時代」だとも言われますが、それは過剰な存在や万能感、一体感への憧れの裏返しのように感じます。 それらのツッコミには、他者へ の柔らかい眼差しが欠けていることが多い。悪意を含んだツッコミや揚げ足取りが増えたなあという気がしています。そして、他人につっこみはするけれど、他 人からつっこまれることは受け入れられない人が多いようです。自意識が強くなり過ぎて、立場の違う他者を受け入れられず、自分の中でのボケとツッコミのバ ランスが悪くなっているんです。そういった余裕のない心持ちは、過剰なナルシシズムに一気に取り込まれてゆく危険性を孕んでいると思います。
「相互作用」について語ろうと思っていたら、ナルシシズムの話を避けて通れなくなってしまいました。こういう方向に話が進んでしまうのは、今の社会を取 り巻く閉塞感や穏やかならざる空気に対する自身の不安感、危機感の表れかもしれません。社会全体の余裕のなさが、多くの人を、誰かのナルシシズムや「国 家」のような大きな存在にすがった上での万能感の獲得に向かわせているように感じています。その動きは他者の排除を意味します。
ファシズム的な熱狂が多数の「無関心」を一気に飲み込んでゆく、そんな時代がやって来ないことを願っています。他人への「無関心」や虚無の増大は、ファ シズムを生み出す大きな要因になると考えています。「無関心」と「ファシズム的熱狂」の両者に共通して、いつまでも万能感に包まれていたいという幼児的願 望を感じます。そういった願望の行くつく先は破滅です。
「相互作用」とは、雑多な他者が参加してこそ成り立つ作用だと考えています。それは、他者を受け入れ、共感を生み出すことによって、他人同士に気づきと変化をもたらす態度です。
こうした態度が作用し合うことによって、新しい価値観の共有が生まれ、世の中がもう少し柔らかく寛容になることを願っています。自分が変わることなく、他者にばかり変化を求めても、歪みが起こり、より対立が深まるばかりです。
最近、時々自分が現実離れした理想主義者のように思えることがあります。ややこしいことには首をつっこまず、状況をある程度受け入れ、その中で楽しみを 見つけ、うまく泳いでゆくのが、自分のスタンスだったはずなのですが。こういう文章を書いてしまう自分自身に対して、戸惑いを感じます。自分が変わってし まったのか、世の状況が変わり過ぎてしまったのか。やはり3.11の震災と福島第1原発の事故が、自身と社会にもたらした影響は、大きかったのだと思いま す。
自分達は今、変化と反動のはざまにいるのかもしれません。どんな世の中がやってきても、自分が音楽生活の中で積み重ねた体験と実感をもとに、時にはアル コールにまみれたり、バカをやらかしながら、「相互作用」の実践を積み重ねたいと思います。(終)
確かに、あの恍惚感、一体感は実に魅力的だけれど、こっちの世界に戻って、いろんな人の顔を見て、またバカな会話を続けたい。自分自身を笑いたい。人か ら笑われてもいい。ボケたいし、ツッコミたい。誰もが出入り自由の開かれた世界にいたい。そう思うのです。
あっちの世界で恍惚にひたりっぱなしになるのは、一種のナルシシズムだと思います。そうなると、自分がボケであること、自分がネタになって笑われることも受け入れられず、今度は逆に、どんどん排他的な世界が築かれてゆきます。
そういった行き過ぎた恍惚感、ナルシシズムと一体化し、熱狂する人は多数存在します。きっと、誰の心の中にもナルシシズムによる一体感への志向は存在す るのでしょう。けれど、そこにどれだけの人が集まり、一体感が得られようとも、他者の存在は消えてゆきます。
このように、他者と関わりナルシシズムを超えてゆくはずの「相互作用」の過程にも、「ナルシシズムの罠」「独善の罠」が存在するようです。独りよがり、 ナルシシズムとどう向き合ってゆくか、これは表現者としてだけでなく、自身の生き方を考える上でも、避けては通れない課題だと感じています。
今は「一億総ツッコミ時代」だとも言われますが、それは過剰な存在や万能感、一体感への憧れの裏返しのように感じます。 それらのツッコミには、他者へ の柔らかい眼差しが欠けていることが多い。悪意を含んだツッコミや揚げ足取りが増えたなあという気がしています。そして、他人につっこみはするけれど、他 人からつっこまれることは受け入れられない人が多いようです。自意識が強くなり過ぎて、立場の違う他者を受け入れられず、自分の中でのボケとツッコミのバ ランスが悪くなっているんです。そういった余裕のない心持ちは、過剰なナルシシズムに一気に取り込まれてゆく危険性を孕んでいると思います。
「相互作用」について語ろうと思っていたら、ナルシシズムの話を避けて通れなくなってしまいました。こういう方向に話が進んでしまうのは、今の社会を取 り巻く閉塞感や穏やかならざる空気に対する自身の不安感、危機感の表れかもしれません。社会全体の余裕のなさが、多くの人を、誰かのナルシシズムや「国 家」のような大きな存在にすがった上での万能感の獲得に向かわせているように感じています。その動きは他者の排除を意味します。
ファシズム的な熱狂が多数の「無関心」を一気に飲み込んでゆく、そんな時代がやって来ないことを願っています。他人への「無関心」や虚無の増大は、ファ シズムを生み出す大きな要因になると考えています。「無関心」と「ファシズム的熱狂」の両者に共通して、いつまでも万能感に包まれていたいという幼児的願 望を感じます。そういった願望の行くつく先は破滅です。
「相互作用」とは、雑多な他者が参加してこそ成り立つ作用だと考えています。それは、他者を受け入れ、共感を生み出すことによって、他人同士に気づきと変化をもたらす態度です。
こうした態度が作用し合うことによって、新しい価値観の共有が生まれ、世の中がもう少し柔らかく寛容になることを願っています。自分が変わることなく、他者にばかり変化を求めても、歪みが起こり、より対立が深まるばかりです。
最近、時々自分が現実離れした理想主義者のように思えることがあります。ややこしいことには首をつっこまず、状況をある程度受け入れ、その中で楽しみを 見つけ、うまく泳いでゆくのが、自分のスタンスだったはずなのですが。こういう文章を書いてしまう自分自身に対して、戸惑いを感じます。自分が変わってし まったのか、世の状況が変わり過ぎてしまったのか。やはり3.11の震災と福島第1原発の事故が、自身と社会にもたらした影響は、大きかったのだと思いま す。
自分達は今、変化と反動のはざまにいるのかもしれません。どんな世の中がやってきても、自分が音楽生活の中で積み重ねた体験と実感をもとに、時にはアル コールにまみれたり、バカをやらかしながら、「相互作用」の実践を積み重ねたいと思います。(終)
2013年1月25日金曜日
「相互作用」の可能性ーナルシシズムを超えて【前編】
最近、自分の頭の中でリフレインされている言葉の1つが「相互作用」です。同じような意味で「インタラクティブ」というカタカナが使われることが多いようですが、自分には、「相互作用」という言葉の方が、意味がストレートに伝わって、しっくりくる気がします。
ツアー暮らしを続ける自分にとって、ライブはまさに「相互作用」の現場です。「相互作用」によって生まれる何かが、自分にとっての「ライブ」だとも言え ます。それは、相手を受け入れ、共感を生み出すことによって、他者同士に気づきと変化をもたらす態度だと理解しています。音楽生活を通して、そのような態 度を試みることで、ほんの少しづつですが、確かに自分自身が変わり続けているという実感があります。
ステージに上がるときは、ライブの絵をあらかじめ描き過ぎないよう心掛けています。柔らかい心を保ち、視界をひろげることで、その場のエネルギーを循環 させて集中力を高め、すべてと響き合い、導かれるように絵を描いてゆく。そんなイメージを大切にしています。
ちょっと表現がきれい過ぎたかもしれません。実際の自分のライブの多くは、こういう文章がイメージさせるよりも猥雑でくだけた空気の中で行われています。特にソロでの弾き語りスタイルだと、そういった要素が強くなります。
ホールではないライブハウスやバー、カフェ等、飲食ありの小さなスペースのお店で演奏する場合は、あえて曲順や構成をしっかりと決めず、なるべくその場 の空気を受け入れながら、ステージを進行してゆくように心掛けています。そういう場では、演奏中にアルコールを摂取することが多くなります。おすすめでき るスタイルではありませんが、適量のアルコールは気分をリラックスさせ、視界を拡げ、自意識からの開放をうながす効果があります。ただ摂取が過ぎると著し く客観性を失い、演奏能力が低下します。
大抵の自分の弾き語りライブはリラックスした雰囲気の中で進行してゆきますが、その中でも、ぐっと空気がひきしまる瞬間がやってきます。それは前半のダ イアローグ(対話)を経て、中盤以降、モノローグ(独り語り)の時間帯に訪れることが多いです。
その瞬間をうまくつかむことができれば、集中力はさらに高まり、インスピレーションがわき起こり、どんどん未知の高みに昇ってゆくような恍惚の瞬間が訪 れます。その過程はとてもクリエイティブな時間です。その場やお客さんとの「相互作用」による共鳴、共感の過程がなければこういう体験は生まれません。
そんな瞬間を経て再び訪れるダイアローグの時間帯、あふれるような開放感、多幸感の共有。大きな拍手、手拍子、笑顔、歓声。まさにライブの醍醐味です。気持ちよくて勘違いしそうになります。
ステージ上でインスパイアされ、開放に至るあの瞬間が、自分が最も万能感にひたることのできる場だと思います。ただ、それが行き過ぎると色んな意味でやばいなという自覚があります。
仏教用語で「魔境」という言葉があるそうです。禅の修行中に経験した恍惚感、覚醒感の衝撃によって、その体験が絶対無二になり、自分が知っていること、 信じていること以外のものを受け入れられず、排他的になり、攻撃性をも伴ってしまう、そんな状態を指しています。その結果、長年の修行者や指導者の中に も、自我が肥大して、高慢、傲慢な性格を醸成してしまう人がいるようです。
自分の知る限り、多くのミュージシャン、表現者は、この「魔境」の状態に共通するような恍惚感を体験することで、「傲慢」を醸成しているように思いま す。そういった傲慢さに対して自分が過敏になりがちなのは、自分自身の中にも、そのような心持ちが存在するからです。
ファンの側からすれば、その傲慢さが、その表現者の魅力と背中合わせになっていたりする場合もあるでしょう。けれど、その傲慢さはやがて、他人を巻き込んだりしながら、最終的には自分自身を追いつめてゆくことになると思います。
中国唐の禅僧だった臨済という人は、「瞑想により仏陀や如来が現れたときは(瞑想内のイメージの)槍で突き刺せ」「仏見たなら仏を殺せ」と教えているそうです。なるほど。
「突き刺せ」とか「殺せ」とか言う言葉はちょっと物騒な気もしますが、恍惚に入り過ぎた自分自身に対して、もう1人の自分がつっこみを入れ、自身を笑い の対象にできるような心持ちでいたいなあと思います。オレもボチボチ、あんたもボチボチ、人間みなボチボチ、そんな感じでいいんじゃないかと。
なんか話がえらいところへ行ってしまってるような。でも、この話は次回に続きます。(続く)
ー2013年1月25日(金)
ツアー暮らしを続ける自分にとって、ライブはまさに「相互作用」の現場です。「相互作用」によって生まれる何かが、自分にとっての「ライブ」だとも言え ます。それは、相手を受け入れ、共感を生み出すことによって、他者同士に気づきと変化をもたらす態度だと理解しています。音楽生活を通して、そのような態 度を試みることで、ほんの少しづつですが、確かに自分自身が変わり続けているという実感があります。
ステージに上がるときは、ライブの絵をあらかじめ描き過ぎないよう心掛けています。柔らかい心を保ち、視界をひろげることで、その場のエネルギーを循環 させて集中力を高め、すべてと響き合い、導かれるように絵を描いてゆく。そんなイメージを大切にしています。
ちょっと表現がきれい過ぎたかもしれません。実際の自分のライブの多くは、こういう文章がイメージさせるよりも猥雑でくだけた空気の中で行われています。特にソロでの弾き語りスタイルだと、そういった要素が強くなります。
ホールではないライブハウスやバー、カフェ等、飲食ありの小さなスペースのお店で演奏する場合は、あえて曲順や構成をしっかりと決めず、なるべくその場 の空気を受け入れながら、ステージを進行してゆくように心掛けています。そういう場では、演奏中にアルコールを摂取することが多くなります。おすすめでき るスタイルではありませんが、適量のアルコールは気分をリラックスさせ、視界を拡げ、自意識からの開放をうながす効果があります。ただ摂取が過ぎると著し く客観性を失い、演奏能力が低下します。
大抵の自分の弾き語りライブはリラックスした雰囲気の中で進行してゆきますが、その中でも、ぐっと空気がひきしまる瞬間がやってきます。それは前半のダ イアローグ(対話)を経て、中盤以降、モノローグ(独り語り)の時間帯に訪れることが多いです。
その瞬間をうまくつかむことができれば、集中力はさらに高まり、インスピレーションがわき起こり、どんどん未知の高みに昇ってゆくような恍惚の瞬間が訪 れます。その過程はとてもクリエイティブな時間です。その場やお客さんとの「相互作用」による共鳴、共感の過程がなければこういう体験は生まれません。
そんな瞬間を経て再び訪れるダイアローグの時間帯、あふれるような開放感、多幸感の共有。大きな拍手、手拍子、笑顔、歓声。まさにライブの醍醐味です。気持ちよくて勘違いしそうになります。
ステージ上でインスパイアされ、開放に至るあの瞬間が、自分が最も万能感にひたることのできる場だと思います。ただ、それが行き過ぎると色んな意味でやばいなという自覚があります。
仏教用語で「魔境」という言葉があるそうです。禅の修行中に経験した恍惚感、覚醒感の衝撃によって、その体験が絶対無二になり、自分が知っていること、 信じていること以外のものを受け入れられず、排他的になり、攻撃性をも伴ってしまう、そんな状態を指しています。その結果、長年の修行者や指導者の中に も、自我が肥大して、高慢、傲慢な性格を醸成してしまう人がいるようです。
自分の知る限り、多くのミュージシャン、表現者は、この「魔境」の状態に共通するような恍惚感を体験することで、「傲慢」を醸成しているように思いま す。そういった傲慢さに対して自分が過敏になりがちなのは、自分自身の中にも、そのような心持ちが存在するからです。
ファンの側からすれば、その傲慢さが、その表現者の魅力と背中合わせになっていたりする場合もあるでしょう。けれど、その傲慢さはやがて、他人を巻き込んだりしながら、最終的には自分自身を追いつめてゆくことになると思います。
中国唐の禅僧だった臨済という人は、「瞑想により仏陀や如来が現れたときは(瞑想内のイメージの)槍で突き刺せ」「仏見たなら仏を殺せ」と教えているそうです。なるほど。
「突き刺せ」とか「殺せ」とか言う言葉はちょっと物騒な気もしますが、恍惚に入り過ぎた自分自身に対して、もう1人の自分がつっこみを入れ、自身を笑い の対象にできるような心持ちでいたいなあと思います。オレもボチボチ、あんたもボチボチ、人間みなボチボチ、そんな感じでいいんじゃないかと。
なんか話がえらいところへ行ってしまってるような。でも、この話は次回に続きます。(続く)
ー2013年1月25日(金)
2013年1月2日水曜日
新年のご挨拶 明けましておめでとうございます。
オレは京都の実家で静かに正月を迎えました。年末年始は、少し落ち着いて、体験した出来事を反芻したり、さまざまに思いを巡らず時間を持つことができました。 考えれば考える程よくわからなくなったり、次第にいろんなものが結びつきはじめて、ぼんやりと形が見えてくるような気がしたり。もっとスムーズに思考が 進んでくれないものかと自身にじれったくなる一方で、急いで答や結論を出すべきではないとも考えています。ジェットコースターに乗ってばかりでは、視界が 狭くて気づかないことがたくさんあります。焦らずゆっくりと。 こういった時間の中で、また新しい曲が生まれそうな予感がしています。割り切れない思いの中から紡いだ言葉を、リズムとメロディーに乗せてゆく作業を今年も続けてゆこうと思います。 6日(日)水戸市での藤井一彦(グルーヴァーズ)とのジョイントが今年のライブ始めです。一彦とは20年をこえる付き合いですが、2人きりでライブをや るのは今回が始めて。楽しみやなあ。今月は、MAGICAL CHAIN CLUB BANDと伊藤ミキオTRIOの東名阪ジョントツアーも控えてます。このツアーでは新曲もお届けできると思います。 また弾ける日々が始まります。今年も、皆さんといい時間を共有できることを楽しみにしています。 ー2013年1月2日 |
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アメリカのコミュニティーFMに出演しました! facebookより
★アメリカのコミュニティーFMに出演しました!
アメリカ、イリノイ州のUrbanaという街にあるコミュニティFMの日本語ラジオ番組「ハルカなショー(HARUKANA SHOW)」に出演して、 MAGICAL CHAIN CLUB BANDのこと、ツアー生活のこと、被災地のこと、原発のこと、多様性と対話の可能性について等いろんな
話をしました。その内容がPodcastにて公開されています。
http://harukanashow.org/archives/996
実は「ハルカなショー」のパーソナリティーはオレの姉なのです。収録は京都の実家で行われました。いつもより低いテンションでまったりと、しかし、じっくりと語っております。よかったら聴いて下さい。
Podcastに添えられたオレの文章を以下に掲載します。
★リクオからのメッセージ
ツアーを続ければ続けるほど、日本は広いなあと感じます。時間の流れも、価値感も、景色も、風土も、言葉遣いも、場所によってさまざま。それが素晴らしいことなんだと思うようになりました。
僕はステージに上がる前に、ライブの完璧な絵をあらかじめ描かないようにしています。その場所でのライブが、双方向性であることを常に意識しています。1 人で演奏するときは、曲順もしっかり決めないし、曲のテンポ、アレンジ、歌い方、MC等が、その場の空気、お客さんのリアクション、その日の自分の心持ち 等によって、毎回変化することをよしとしています。その方が、場のエネルギーが循環して共鳴が生まれやすいし、毎回が新鮮で、飽きなくて楽しいんです。
音楽生活、特にツアー暮らしの中で、たくさんの人達と出会って、直接の会話を重ねる中で、以前より人の話を聞くのが楽しくなりました。皆それぞれに違った ストーリーがあるのが面白くて話のネタが増えるし、そのストーリーの中に、自分が少しでも参加していたりすると、やっぱり嬉しいものです。
「対話」「相互作用」「多様性」、この3つは、自分がツアー暮らしの中で学んだ重要なキーワードです。不寛容な空気が支配的になりはじめた今の日本に暮ら していて、この3つのキーワードの大切さを増々痛感しています。対話の姿勢を失わず、多様性を受け入れ、独りよがりならず、相互作用によって生まれる価値 を共有できる世の中であってほしいと願っています。
アメリカ、イリノイ州のUrbanaという街にあるコミュニティFMの日本語ラジオ番組「ハルカなショー(HARUKANA SHOW)」に出演して、 MAGICAL CHAIN CLUB BANDのこと、ツアー生活のこと、被災地のこと、原発のこと、多様性と対話の可能性について等いろんな
話をしました。その内容がPodcastにて公開されています。
http://harukanashow.org/archives/996
実は「ハルカなショー」のパーソナリティーはオレの姉なのです。収録は京都の実家で行われました。いつもより低いテンションでまったりと、しかし、じっくりと語っております。よかったら聴いて下さい。
Podcastに添えられたオレの文章を以下に掲載します。
★リクオからのメッセージ
ツアーを続ければ続けるほど、日本は広いなあと感じます。時間の流れも、価値感も、景色も、風土も、言葉遣いも、場所によってさまざま。それが素晴らしいことなんだと思うようになりました。
僕はステージに上がる前に、ライブの完璧な絵をあらかじめ描かないようにしています。その場所でのライブが、双方向性であることを常に意識しています。1 人で演奏するときは、曲順もしっかり決めないし、曲のテンポ、アレンジ、歌い方、MC等が、その場の空気、お客さんのリアクション、その日の自分の心持ち 等によって、毎回変化することをよしとしています。その方が、場のエネルギーが循環して共鳴が生まれやすいし、毎回が新鮮で、飽きなくて楽しいんです。
音楽生活、特にツアー暮らしの中で、たくさんの人達と出会って、直接の会話を重ねる中で、以前より人の話を聞くのが楽しくなりました。皆それぞれに違った ストーリーがあるのが面白くて話のネタが増えるし、そのストーリーの中に、自分が少しでも参加していたりすると、やっぱり嬉しいものです。
「対話」「相互作用」「多様性」、この3つは、自分がツアー暮らしの中で学んだ重要なキーワードです。不寛容な空気が支配的になりはじめた今の日本に暮ら していて、この3つのキーワードの大切さを増々痛感しています。対話の姿勢を失わず、多様性を受け入れ、独りよがりならず、相互作用によって生まれる価値 を共有できる世の中であってほしいと願っています。
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