「ライブ前に緊張しないんですか?」「ステージ上で不安にかられたりしませんか?」といった質問をしばしば受けます。正直に話せば、いまだにライブ前はある程度緊張するし、不安にもなります。
調子がよくない時は、ステージに出てもふわふわした状態が続き、不安を振り払って集中力を維持できるようになるまでに、時間がかかってしまいます。経験
を積み重ねて、若い頃に比べれば、ある程度自分の精神状態をコントロールできるようにはなった気はしますが、それでも完全にコントロールすることはできま
せん。特に疲れてるときはダメです。
年間130本前後のツアーを回っていて、毎回ベストコンディションでステージにのぞむことは不可能です。だから、調子が悪い時は、悪いなりに時間をかけ
てでも歌に向き合い、次第にその場とアジャストし、共鳴してゆく、そういったプロセスを見てもらうことをイメージしています。つまり、完璧な形をみせるの
ではなく、その夜のライブが1つのドキュメンタリーとして成立すればいいと考えるようにしています。
人前に立つ上で、完全に不安を取り除くことは無理なんじゃないかと思います。その日にどんなリアクションが起こり、どんな共鳴が生まれるかは、やってみ
ないとわからない。やり方の正解はその都度変わってゆきます。どんなに経験を積み重ねても、ライブはいつだって、未知をはらんだ世界です。それはワクワク
することであると同時に、やはり不安と緊張をともないます。人生と一緒です。
だから、腹を決めるべきなんです。「不安」と向き合ってやる、付き合い続けてやるんだと。そうやって毎回「不安」を乗り越えてやるんです。
いや、きばり過ぎやな。考えてみたら、解放、歓喜に至る過程には、いつも「不安」が存在するような気がします。「不安」なくして解放なし。ならば、「不
安」のことをもっと大切に思うべきなのかもしれません。「不安」と闘うのではなく、毎回「不安」を迎え入れた上で、その先へ向かう。 そんなイメージ。
不安なときは孤独です。孤独なときは不安です。人は孤独から一時逃れることはできても、ずっと逃れ続けることはできません。だから「不安」からも逃れる
ことができない。自分の書いた曲で「孤独とダンス」というタイトルの曲があるのですが、「不安」ともダンスを踊ってやるのがいいのかもしれません。しばら
くご無沙汰していても、生きている限り「不安」は折々に必ず戻ってきます。どうやっても逃れられないのなら、嫌わずに迎え入れてあげた方がよさそうです。
ただ、「不安」とどっぷり付き合い過ぎることの危険性も感じています。性急に「不安」の正体を突きつめようし過ぎると、底なし沼に足を取られて、引きず
り込まれそうな気がするのです。この世はどこまでも謎に満ちていて、生きている限り、不安に対する究極の解決策は存在しないように思います。知らなくてい
いこともあるのかもしれません。本来、「知る」という行為は、自分の足下さえ崩しかねない危険性、恐ろしさを伴っていると思います。人間関係と一緒で、
「不安」との付き合いも距離感が大切なのでしょう。
とは言え、僕たちは自らが抱える「不安」に向き合うことを避けるばかりで、あまりにもその正体を知らなすぎるのかもしれません。適度な距離で付き合え
ば、「不安」はそんなに悪い奴じゃない、きっと、さまざまな気づきを与えてくれる存在のはずです。
不安や孤独をゆっくり掘り下げてゆけば、いつか、共感や解放をもたらす豊かな水脈に通じる。そんなイメージを持ってみてはどうでしょう。「不安」とは、
生きてゆくための潤滑油になりうる大切な感情の1つです。「不安」とも、いいお付き合いをさせてもらえたらと思います。
2013年1月30日水曜日
2013年1月29日火曜日
「相互作用」の可能性ーナルシシズムを超えて【後編】
自分は、表現者としては、聖と俗、この世とあの世、ダイアローグとモノローグ、あるいは緊張と解放を「行き交う」感じが好きなんです。行きっぱなしは嫌なんです。あちらの世界にいったら、またこっちに戻ってきて、「行き交う」ことのプロセスを楽しみたいんです。
確かに、あの恍惚感、一体感は実に魅力的だけれど、こっちの世界に戻って、いろんな人の顔を見て、またバカな会話を続けたい。自分自身を笑いたい。人か ら笑われてもいい。ボケたいし、ツッコミたい。誰もが出入り自由の開かれた世界にいたい。そう思うのです。
あっちの世界で恍惚にひたりっぱなしになるのは、一種のナルシシズムだと思います。そうなると、自分がボケであること、自分がネタになって笑われることも受け入れられず、今度は逆に、どんどん排他的な世界が築かれてゆきます。
そういった行き過ぎた恍惚感、ナルシシズムと一体化し、熱狂する人は多数存在します。きっと、誰の心の中にもナルシシズムによる一体感への志向は存在す るのでしょう。けれど、そこにどれだけの人が集まり、一体感が得られようとも、他者の存在は消えてゆきます。
このように、他者と関わりナルシシズムを超えてゆくはずの「相互作用」の過程にも、「ナルシシズムの罠」「独善の罠」が存在するようです。独りよがり、 ナルシシズムとどう向き合ってゆくか、これは表現者としてだけでなく、自身の生き方を考える上でも、避けては通れない課題だと感じています。
今は「一億総ツッコミ時代」だとも言われますが、それは過剰な存在や万能感、一体感への憧れの裏返しのように感じます。 それらのツッコミには、他者へ の柔らかい眼差しが欠けていることが多い。悪意を含んだツッコミや揚げ足取りが増えたなあという気がしています。そして、他人につっこみはするけれど、他 人からつっこまれることは受け入れられない人が多いようです。自意識が強くなり過ぎて、立場の違う他者を受け入れられず、自分の中でのボケとツッコミのバ ランスが悪くなっているんです。そういった余裕のない心持ちは、過剰なナルシシズムに一気に取り込まれてゆく危険性を孕んでいると思います。
「相互作用」について語ろうと思っていたら、ナルシシズムの話を避けて通れなくなってしまいました。こういう方向に話が進んでしまうのは、今の社会を取 り巻く閉塞感や穏やかならざる空気に対する自身の不安感、危機感の表れかもしれません。社会全体の余裕のなさが、多くの人を、誰かのナルシシズムや「国 家」のような大きな存在にすがった上での万能感の獲得に向かわせているように感じています。その動きは他者の排除を意味します。
ファシズム的な熱狂が多数の「無関心」を一気に飲み込んでゆく、そんな時代がやって来ないことを願っています。他人への「無関心」や虚無の増大は、ファ シズムを生み出す大きな要因になると考えています。「無関心」と「ファシズム的熱狂」の両者に共通して、いつまでも万能感に包まれていたいという幼児的願 望を感じます。そういった願望の行くつく先は破滅です。
「相互作用」とは、雑多な他者が参加してこそ成り立つ作用だと考えています。それは、他者を受け入れ、共感を生み出すことによって、他人同士に気づきと変化をもたらす態度です。
こうした態度が作用し合うことによって、新しい価値観の共有が生まれ、世の中がもう少し柔らかく寛容になることを願っています。自分が変わることなく、他者にばかり変化を求めても、歪みが起こり、より対立が深まるばかりです。
最近、時々自分が現実離れした理想主義者のように思えることがあります。ややこしいことには首をつっこまず、状況をある程度受け入れ、その中で楽しみを 見つけ、うまく泳いでゆくのが、自分のスタンスだったはずなのですが。こういう文章を書いてしまう自分自身に対して、戸惑いを感じます。自分が変わってし まったのか、世の状況が変わり過ぎてしまったのか。やはり3.11の震災と福島第1原発の事故が、自身と社会にもたらした影響は、大きかったのだと思いま す。
自分達は今、変化と反動のはざまにいるのかもしれません。どんな世の中がやってきても、自分が音楽生活の中で積み重ねた体験と実感をもとに、時にはアル コールにまみれたり、バカをやらかしながら、「相互作用」の実践を積み重ねたいと思います。(終)
確かに、あの恍惚感、一体感は実に魅力的だけれど、こっちの世界に戻って、いろんな人の顔を見て、またバカな会話を続けたい。自分自身を笑いたい。人か ら笑われてもいい。ボケたいし、ツッコミたい。誰もが出入り自由の開かれた世界にいたい。そう思うのです。
あっちの世界で恍惚にひたりっぱなしになるのは、一種のナルシシズムだと思います。そうなると、自分がボケであること、自分がネタになって笑われることも受け入れられず、今度は逆に、どんどん排他的な世界が築かれてゆきます。
そういった行き過ぎた恍惚感、ナルシシズムと一体化し、熱狂する人は多数存在します。きっと、誰の心の中にもナルシシズムによる一体感への志向は存在す るのでしょう。けれど、そこにどれだけの人が集まり、一体感が得られようとも、他者の存在は消えてゆきます。
このように、他者と関わりナルシシズムを超えてゆくはずの「相互作用」の過程にも、「ナルシシズムの罠」「独善の罠」が存在するようです。独りよがり、 ナルシシズムとどう向き合ってゆくか、これは表現者としてだけでなく、自身の生き方を考える上でも、避けては通れない課題だと感じています。
今は「一億総ツッコミ時代」だとも言われますが、それは過剰な存在や万能感、一体感への憧れの裏返しのように感じます。 それらのツッコミには、他者へ の柔らかい眼差しが欠けていることが多い。悪意を含んだツッコミや揚げ足取りが増えたなあという気がしています。そして、他人につっこみはするけれど、他 人からつっこまれることは受け入れられない人が多いようです。自意識が強くなり過ぎて、立場の違う他者を受け入れられず、自分の中でのボケとツッコミのバ ランスが悪くなっているんです。そういった余裕のない心持ちは、過剰なナルシシズムに一気に取り込まれてゆく危険性を孕んでいると思います。
「相互作用」について語ろうと思っていたら、ナルシシズムの話を避けて通れなくなってしまいました。こういう方向に話が進んでしまうのは、今の社会を取 り巻く閉塞感や穏やかならざる空気に対する自身の不安感、危機感の表れかもしれません。社会全体の余裕のなさが、多くの人を、誰かのナルシシズムや「国 家」のような大きな存在にすがった上での万能感の獲得に向かわせているように感じています。その動きは他者の排除を意味します。
ファシズム的な熱狂が多数の「無関心」を一気に飲み込んでゆく、そんな時代がやって来ないことを願っています。他人への「無関心」や虚無の増大は、ファ シズムを生み出す大きな要因になると考えています。「無関心」と「ファシズム的熱狂」の両者に共通して、いつまでも万能感に包まれていたいという幼児的願 望を感じます。そういった願望の行くつく先は破滅です。
「相互作用」とは、雑多な他者が参加してこそ成り立つ作用だと考えています。それは、他者を受け入れ、共感を生み出すことによって、他人同士に気づきと変化をもたらす態度です。
こうした態度が作用し合うことによって、新しい価値観の共有が生まれ、世の中がもう少し柔らかく寛容になることを願っています。自分が変わることなく、他者にばかり変化を求めても、歪みが起こり、より対立が深まるばかりです。
最近、時々自分が現実離れした理想主義者のように思えることがあります。ややこしいことには首をつっこまず、状況をある程度受け入れ、その中で楽しみを 見つけ、うまく泳いでゆくのが、自分のスタンスだったはずなのですが。こういう文章を書いてしまう自分自身に対して、戸惑いを感じます。自分が変わってし まったのか、世の状況が変わり過ぎてしまったのか。やはり3.11の震災と福島第1原発の事故が、自身と社会にもたらした影響は、大きかったのだと思いま す。
自分達は今、変化と反動のはざまにいるのかもしれません。どんな世の中がやってきても、自分が音楽生活の中で積み重ねた体験と実感をもとに、時にはアル コールにまみれたり、バカをやらかしながら、「相互作用」の実践を積み重ねたいと思います。(終)
2013年1月25日金曜日
「相互作用」の可能性ーナルシシズムを超えて【前編】
最近、自分の頭の中でリフレインされている言葉の1つが「相互作用」です。同じような意味で「インタラクティブ」というカタカナが使われることが多いようですが、自分には、「相互作用」という言葉の方が、意味がストレートに伝わって、しっくりくる気がします。
ツアー暮らしを続ける自分にとって、ライブはまさに「相互作用」の現場です。「相互作用」によって生まれる何かが、自分にとっての「ライブ」だとも言え ます。それは、相手を受け入れ、共感を生み出すことによって、他者同士に気づきと変化をもたらす態度だと理解しています。音楽生活を通して、そのような態 度を試みることで、ほんの少しづつですが、確かに自分自身が変わり続けているという実感があります。
ステージに上がるときは、ライブの絵をあらかじめ描き過ぎないよう心掛けています。柔らかい心を保ち、視界をひろげることで、その場のエネルギーを循環 させて集中力を高め、すべてと響き合い、導かれるように絵を描いてゆく。そんなイメージを大切にしています。
ちょっと表現がきれい過ぎたかもしれません。実際の自分のライブの多くは、こういう文章がイメージさせるよりも猥雑でくだけた空気の中で行われています。特にソロでの弾き語りスタイルだと、そういった要素が強くなります。
ホールではないライブハウスやバー、カフェ等、飲食ありの小さなスペースのお店で演奏する場合は、あえて曲順や構成をしっかりと決めず、なるべくその場 の空気を受け入れながら、ステージを進行してゆくように心掛けています。そういう場では、演奏中にアルコールを摂取することが多くなります。おすすめでき るスタイルではありませんが、適量のアルコールは気分をリラックスさせ、視界を拡げ、自意識からの開放をうながす効果があります。ただ摂取が過ぎると著し く客観性を失い、演奏能力が低下します。
大抵の自分の弾き語りライブはリラックスした雰囲気の中で進行してゆきますが、その中でも、ぐっと空気がひきしまる瞬間がやってきます。それは前半のダ イアローグ(対話)を経て、中盤以降、モノローグ(独り語り)の時間帯に訪れることが多いです。
その瞬間をうまくつかむことができれば、集中力はさらに高まり、インスピレーションがわき起こり、どんどん未知の高みに昇ってゆくような恍惚の瞬間が訪 れます。その過程はとてもクリエイティブな時間です。その場やお客さんとの「相互作用」による共鳴、共感の過程がなければこういう体験は生まれません。
そんな瞬間を経て再び訪れるダイアローグの時間帯、あふれるような開放感、多幸感の共有。大きな拍手、手拍子、笑顔、歓声。まさにライブの醍醐味です。気持ちよくて勘違いしそうになります。
ステージ上でインスパイアされ、開放に至るあの瞬間が、自分が最も万能感にひたることのできる場だと思います。ただ、それが行き過ぎると色んな意味でやばいなという自覚があります。
仏教用語で「魔境」という言葉があるそうです。禅の修行中に経験した恍惚感、覚醒感の衝撃によって、その体験が絶対無二になり、自分が知っていること、 信じていること以外のものを受け入れられず、排他的になり、攻撃性をも伴ってしまう、そんな状態を指しています。その結果、長年の修行者や指導者の中に も、自我が肥大して、高慢、傲慢な性格を醸成してしまう人がいるようです。
自分の知る限り、多くのミュージシャン、表現者は、この「魔境」の状態に共通するような恍惚感を体験することで、「傲慢」を醸成しているように思いま す。そういった傲慢さに対して自分が過敏になりがちなのは、自分自身の中にも、そのような心持ちが存在するからです。
ファンの側からすれば、その傲慢さが、その表現者の魅力と背中合わせになっていたりする場合もあるでしょう。けれど、その傲慢さはやがて、他人を巻き込んだりしながら、最終的には自分自身を追いつめてゆくことになると思います。
中国唐の禅僧だった臨済という人は、「瞑想により仏陀や如来が現れたときは(瞑想内のイメージの)槍で突き刺せ」「仏見たなら仏を殺せ」と教えているそうです。なるほど。
「突き刺せ」とか「殺せ」とか言う言葉はちょっと物騒な気もしますが、恍惚に入り過ぎた自分自身に対して、もう1人の自分がつっこみを入れ、自身を笑い の対象にできるような心持ちでいたいなあと思います。オレもボチボチ、あんたもボチボチ、人間みなボチボチ、そんな感じでいいんじゃないかと。
なんか話がえらいところへ行ってしまってるような。でも、この話は次回に続きます。(続く)
ー2013年1月25日(金)
ツアー暮らしを続ける自分にとって、ライブはまさに「相互作用」の現場です。「相互作用」によって生まれる何かが、自分にとっての「ライブ」だとも言え ます。それは、相手を受け入れ、共感を生み出すことによって、他者同士に気づきと変化をもたらす態度だと理解しています。音楽生活を通して、そのような態 度を試みることで、ほんの少しづつですが、確かに自分自身が変わり続けているという実感があります。
ステージに上がるときは、ライブの絵をあらかじめ描き過ぎないよう心掛けています。柔らかい心を保ち、視界をひろげることで、その場のエネルギーを循環 させて集中力を高め、すべてと響き合い、導かれるように絵を描いてゆく。そんなイメージを大切にしています。
ちょっと表現がきれい過ぎたかもしれません。実際の自分のライブの多くは、こういう文章がイメージさせるよりも猥雑でくだけた空気の中で行われています。特にソロでの弾き語りスタイルだと、そういった要素が強くなります。
ホールではないライブハウスやバー、カフェ等、飲食ありの小さなスペースのお店で演奏する場合は、あえて曲順や構成をしっかりと決めず、なるべくその場 の空気を受け入れながら、ステージを進行してゆくように心掛けています。そういう場では、演奏中にアルコールを摂取することが多くなります。おすすめでき るスタイルではありませんが、適量のアルコールは気分をリラックスさせ、視界を拡げ、自意識からの開放をうながす効果があります。ただ摂取が過ぎると著し く客観性を失い、演奏能力が低下します。
大抵の自分の弾き語りライブはリラックスした雰囲気の中で進行してゆきますが、その中でも、ぐっと空気がひきしまる瞬間がやってきます。それは前半のダ イアローグ(対話)を経て、中盤以降、モノローグ(独り語り)の時間帯に訪れることが多いです。
その瞬間をうまくつかむことができれば、集中力はさらに高まり、インスピレーションがわき起こり、どんどん未知の高みに昇ってゆくような恍惚の瞬間が訪 れます。その過程はとてもクリエイティブな時間です。その場やお客さんとの「相互作用」による共鳴、共感の過程がなければこういう体験は生まれません。
そんな瞬間を経て再び訪れるダイアローグの時間帯、あふれるような開放感、多幸感の共有。大きな拍手、手拍子、笑顔、歓声。まさにライブの醍醐味です。気持ちよくて勘違いしそうになります。
ステージ上でインスパイアされ、開放に至るあの瞬間が、自分が最も万能感にひたることのできる場だと思います。ただ、それが行き過ぎると色んな意味でやばいなという自覚があります。
仏教用語で「魔境」という言葉があるそうです。禅の修行中に経験した恍惚感、覚醒感の衝撃によって、その体験が絶対無二になり、自分が知っていること、 信じていること以外のものを受け入れられず、排他的になり、攻撃性をも伴ってしまう、そんな状態を指しています。その結果、長年の修行者や指導者の中に も、自我が肥大して、高慢、傲慢な性格を醸成してしまう人がいるようです。
自分の知る限り、多くのミュージシャン、表現者は、この「魔境」の状態に共通するような恍惚感を体験することで、「傲慢」を醸成しているように思いま す。そういった傲慢さに対して自分が過敏になりがちなのは、自分自身の中にも、そのような心持ちが存在するからです。
ファンの側からすれば、その傲慢さが、その表現者の魅力と背中合わせになっていたりする場合もあるでしょう。けれど、その傲慢さはやがて、他人を巻き込んだりしながら、最終的には自分自身を追いつめてゆくことになると思います。
中国唐の禅僧だった臨済という人は、「瞑想により仏陀や如来が現れたときは(瞑想内のイメージの)槍で突き刺せ」「仏見たなら仏を殺せ」と教えているそうです。なるほど。
「突き刺せ」とか「殺せ」とか言う言葉はちょっと物騒な気もしますが、恍惚に入り過ぎた自分自身に対して、もう1人の自分がつっこみを入れ、自身を笑い の対象にできるような心持ちでいたいなあと思います。オレもボチボチ、あんたもボチボチ、人間みなボチボチ、そんな感じでいいんじゃないかと。
なんか話がえらいところへ行ってしまってるような。でも、この話は次回に続きます。(続く)
ー2013年1月25日(金)
2013年1月2日水曜日
新年のご挨拶 明けましておめでとうございます。
オレは京都の実家で静かに正月を迎えました。年末年始は、少し落ち着いて、体験した出来事を反芻したり、さまざまに思いを巡らず時間を持つことができました。 考えれば考える程よくわからなくなったり、次第にいろんなものが結びつきはじめて、ぼんやりと形が見えてくるような気がしたり。もっとスムーズに思考が 進んでくれないものかと自身にじれったくなる一方で、急いで答や結論を出すべきではないとも考えています。ジェットコースターに乗ってばかりでは、視界が 狭くて気づかないことがたくさんあります。焦らずゆっくりと。 こういった時間の中で、また新しい曲が生まれそうな予感がしています。割り切れない思いの中から紡いだ言葉を、リズムとメロディーに乗せてゆく作業を今年も続けてゆこうと思います。 6日(日)水戸市での藤井一彦(グルーヴァーズ)とのジョイントが今年のライブ始めです。一彦とは20年をこえる付き合いですが、2人きりでライブをや るのは今回が始めて。楽しみやなあ。今月は、MAGICAL CHAIN CLUB BANDと伊藤ミキオTRIOの東名阪ジョントツアーも控えてます。このツアーでは新曲もお届けできると思います。 また弾ける日々が始まります。今年も、皆さんといい時間を共有できることを楽しみにしています。 ー2013年1月2日 |
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アメリカのコミュニティーFMに出演しました! facebookより
★アメリカのコミュニティーFMに出演しました!
アメリカ、イリノイ州のUrbanaという街にあるコミュニティFMの日本語ラジオ番組「ハルカなショー(HARUKANA SHOW)」に出演して、 MAGICAL CHAIN CLUB BANDのこと、ツアー生活のこと、被災地のこと、原発のこと、多様性と対話の可能性について等いろんな
話をしました。その内容がPodcastにて公開されています。
http://harukanashow.org/archives/996
実は「ハルカなショー」のパーソナリティーはオレの姉なのです。収録は京都の実家で行われました。いつもより低いテンションでまったりと、しかし、じっくりと語っております。よかったら聴いて下さい。
Podcastに添えられたオレの文章を以下に掲載します。
★リクオからのメッセージ
ツアーを続ければ続けるほど、日本は広いなあと感じます。時間の流れも、価値感も、景色も、風土も、言葉遣いも、場所によってさまざま。それが素晴らしいことなんだと思うようになりました。
僕はステージに上がる前に、ライブの完璧な絵をあらかじめ描かないようにしています。その場所でのライブが、双方向性であることを常に意識しています。1 人で演奏するときは、曲順もしっかり決めないし、曲のテンポ、アレンジ、歌い方、MC等が、その場の空気、お客さんのリアクション、その日の自分の心持ち 等によって、毎回変化することをよしとしています。その方が、場のエネルギーが循環して共鳴が生まれやすいし、毎回が新鮮で、飽きなくて楽しいんです。
音楽生活、特にツアー暮らしの中で、たくさんの人達と出会って、直接の会話を重ねる中で、以前より人の話を聞くのが楽しくなりました。皆それぞれに違った ストーリーがあるのが面白くて話のネタが増えるし、そのストーリーの中に、自分が少しでも参加していたりすると、やっぱり嬉しいものです。
「対話」「相互作用」「多様性」、この3つは、自分がツアー暮らしの中で学んだ重要なキーワードです。不寛容な空気が支配的になりはじめた今の日本に暮ら していて、この3つのキーワードの大切さを増々痛感しています。対話の姿勢を失わず、多様性を受け入れ、独りよがりならず、相互作用によって生まれる価値 を共有できる世の中であってほしいと願っています。
アメリカ、イリノイ州のUrbanaという街にあるコミュニティFMの日本語ラジオ番組「ハルカなショー(HARUKANA SHOW)」に出演して、 MAGICAL CHAIN CLUB BANDのこと、ツアー生活のこと、被災地のこと、原発のこと、多様性と対話の可能性について等いろんな
話をしました。その内容がPodcastにて公開されています。
http://harukanashow.org/archives/996
実は「ハルカなショー」のパーソナリティーはオレの姉なのです。収録は京都の実家で行われました。いつもより低いテンションでまったりと、しかし、じっくりと語っております。よかったら聴いて下さい。
Podcastに添えられたオレの文章を以下に掲載します。
★リクオからのメッセージ
ツアーを続ければ続けるほど、日本は広いなあと感じます。時間の流れも、価値感も、景色も、風土も、言葉遣いも、場所によってさまざま。それが素晴らしいことなんだと思うようになりました。
僕はステージに上がる前に、ライブの完璧な絵をあらかじめ描かないようにしています。その場所でのライブが、双方向性であることを常に意識しています。1 人で演奏するときは、曲順もしっかり決めないし、曲のテンポ、アレンジ、歌い方、MC等が、その場の空気、お客さんのリアクション、その日の自分の心持ち 等によって、毎回変化することをよしとしています。その方が、場のエネルギーが循環して共鳴が生まれやすいし、毎回が新鮮で、飽きなくて楽しいんです。
音楽生活、特にツアー暮らしの中で、たくさんの人達と出会って、直接の会話を重ねる中で、以前より人の話を聞くのが楽しくなりました。皆それぞれに違った ストーリーがあるのが面白くて話のネタが増えるし、そのストーリーの中に、自分が少しでも参加していたりすると、やっぱり嬉しいものです。
「対話」「相互作用」「多様性」、この3つは、自分がツアー暮らしの中で学んだ重要なキーワードです。不寛容な空気が支配的になりはじめた今の日本に暮ら していて、この3つのキーワードの大切さを増々痛感しています。対話の姿勢を失わず、多様性を受け入れ、独りよがりならず、相互作用によって生まれる価値 を共有できる世の中であってほしいと願っています。
2012年12月29日土曜日
2012年12月29日(土)「マーサの10周年だよ、全員集合!!」 facebookより
今年もマーサ年末恒例の周年祭イベントのトリをつとめさせてもらいました。最後は、イベント出演者の佐藤良成(ハンバートハンバート)、高木まひことシェ キナベイビーズ、キム・ウリョン、ムーンライトケニア、ふちがみじゅんこ(ふちがみとふなと)等が参加しての賑やかなセッションで大円団を迎えました。そ うそう、自分のステージが始まる時に、手回しのミラーボールがステージ前に設置され、エンディングまでの盛り上がりに一役買ってくれました。ナイスボー ル!!
午後4時から開演して終演したのが午後11時。これだけで、とても長丁場のイベントだったのですが、今年の周年祭はこれで終わりませんでした。真夜中から 始まった打ち上げでも、再びセッション大会が始まり、丑三つ時を過ぎても、延々と演奏が続けられました。独りよがりな人間はその場に1人としておらず、皆 がオープンマインドで響き合い、一期一会を共有しました。
最高に楽しい歌い納め、弾き納めになりました。
皆さん1年間お疲れさまでした。
そして、1年間ありがとうございました。
今年も色々あったなあ。
たまには自分を褒めてあげよう。
生きてるだけであんたは偉い!オレも偉い!
来年もいい時間をたくさん共有しましょう。
2012年12月20日木曜日
かすかな光ー原発について、「原子力発電所」について
ネット新聞「THE FUTURE
TIMES」4号に掲載された、被災地支援活動を行った自衛隊員、大宮善直さん(仮名)へのインタビュー「被災地に寄せる自衛隊員の想い」を何度も読み返
しています。実際に現場を体験した人だからこそ語ることのできるリアリティーの伝わる貴重な内容だと思います。インタビューを受けた大宮さんの素直で真摯
な言葉に、何度も心を動かされました。
http://www.thefuturetimes.jp/archive/no04/connecting_the_dots_04/
インタビューの中で大宮さんは、昨年5月、活動区域の高台から、水素爆発を起こした福島第1原発4号機を眺めた時の感想を述べています。それは自分に とって、実に印象深い内容でした。その部分を以下に抜粋しました。インタビュアーは、このネット新聞の主催者、ロックバンド、アジアン・カンフー・ジェネ レーションの後藤正文さんです。
後藤「この4号機の写真を撮影されたのは何月くらいなんですか?」
大宮「5月ですね」
後藤「ここまで行ったときには、恐ろしいというような気持ちはありましたか?」
大宮「いや…、ここに来たとき…、今までの感情が、変わったというか…。とにかく、その当時は、原発は悪みたいな感じで、みんなそういう風潮にあったじゃないですか?」
後藤「そうですね…」
大宮「僕自身も、“原発なんて”とか“原発のせいで”とか思いながら、憎きモノとして、この地域に入っていって…。ここ(4号機)は活動区域から見えない んですよね。展望所っていう公園があるんですけど、そこに行ってはじめて見えるんですよ。高台から見ていると、変な話ですけど、僕と原発だけみたいな世界 になったような感覚があって…。不謹慎ですけど…、この世の立ち入ってはいけない区域で、神々しいような感覚があったんです…」
後藤「はい」
大宮「真ん中がボカっと空いているじゃないですか?はじめて見たとき、これが口に見えたんですよ。湯気も見えたんですよね、当時。なんかナウシカの巨神兵 のようにも見えて…。今までは安全だと言われていたから、人のために稼働していたっていう…。地震が起こって制御できなくなって爆発したら、自分たちが 造ったものなのに、原発のせいでとか…。でもよく考えたら、要はコイツ(4号機を指して)を制御できなかった人間がいけないだけじゃないかっていう感じ で、何か(様々な感情の)対象としているものを僕は間違っているなって…。なんていうか、エゴっていうか…。自分たちがいけなかったのに、原発を悪の象徴 にしているっていうのは、人間の悪い…、凄く汚い部分をそのときは感じてしまって…」
後藤「なるほど…」
大宮「もの凄く涙が出て来て…。とにかくコイツ自身が生き物のように見えて、凄い悲壮感だったというか…」
こんなふうに「原子力発電所」を語ってくれる人がいたことに、随分と救われる思いがしました。脱原発を目指す側にも、原発を善悪だけで語るのではない、こういった感性や想像力が必要だと感じました。
誰かにとっての「悪の象徴たる原発」は、実は、1部の人間だけでなく、ほとんどの人間のエゴや欲望によって支えられ、祭り上げられたものであるという認識が、自分達には欠 けているように思います。自分達が善で、原発を作り出した人間が悪であるという構図は間違いです。自分達は騙された側かもしれないけれど、実は無意識に、 だまされることを受け入れてきたのではないか、つまりは共犯関係にあったのではないか、という問いかけが必要だと思います。
エゴや欲望だけではなく、希望、夢、好奇心、野望、傲慢etc.人間の中にあるさまざまな感情と因果が複合的に絡み合い生まれたものが、核であり、原発 である。福島第1原発の事故以降、時を経てそんな考えに至るようになりました。そして、原発に変わる代替エネルギー、自然エネルギーを推進してゆく力の中 にも、エゴや欲望は含まれており、それらが定着してゆく過程の中で、いや定着した後も、さまざまな問題が生じてゆくのだろうと考えています。
エゴや欲望を一概に否定しているわけではありません。むしろ、そういった感情がなければ、今迄の文明の発達や人類の進化はありえなかったでしょう。けれ ど、加速する文明の発達や人類の進化をこのまま野放しに進めてもよいのでしょうか?発達の加速とともに、人類も破滅へ向かい加速していることを、多くの人 が感じ、漠然とした不安を抱きながら暮らしているように思います。
だとしたら、進化や発達のスピードを調整することが、人類には可能なのでしょうか?そもそも人類の進化とはどんな状態を意味するのでしょうか?
原発の問題を考えるにあたっては、今直面しているさまざまな現実問題や矛盾の解決と並行して、このような哲学に至る本質的な問いかけも必要だと考えています。
あまりにも多くの理不尽、隠ぺい、差別の上に原発産業は成り立ってきました。それらに対する怒りは当然だと思います。けれど、自らの怒りの中にも、エゴ や傲慢が含まれているのではないかという問いかけも必要だと感じています。強い怒りは、時に物事の本質を覆い隠し、誰かが唱える都合のよい「正義」にたや すく取り込まれてしまう恐れを含んでいます。
原発を廃炉にし、核を廃絶させるためには、他者の意識を変えるだけでなく、自分自身の意識や生き方を変え、人類の進化と文明のあり方を問い直すというプ ロセスが必要だと感じています。問題に対する本質的な問いかけが気付きや謙虚を生み、エゴや欲望を抑制することにもつながるのだと思います。
人間を人間たらしめてきたさまざまな感情の複合体として生まれてきたものが原発である。福島第1原発の事故以降、歳月を経て、徐々にそんなイメージを 抱くようになりました。そして、そうして生まれてきた原発を維持し続ける人間の主な感情は、やはりエゴや欲望だと言えるのかもしれません。
そうしたエゴや欲望の象徴として見られる「原子力発電所」と呼ばれる施設そのものには、罪はありません。そして、「放射能」そのものにも罪はありませ ん。しかし、それらは多くの人間から悪の象徴として見られてしまうのです。人間は自分達自身が犯した罪を、それらになすりつけようとしているようにも見え ます。共犯関係はまだ続いているのでしょう。
水素爆発を起こした後の4号機を見て、生き物のように感じ涙し、人間のエゴを感じながら4号機とナウシカの巨神兵の姿を重ね合わせた大宮さんの感性、そこにある気づき、畏怖の念、謙虚さに、かすかな光を感じています。
今も続く共犯関係から逃れ、変化を選択し、新たな価値観を見い出すための旅は、まだ始まってもいないのかもしれません。けれど、旅立ちの準備は既に方々 で進められています。自分のような考えを持った人間は1人だけじゃない、世界中にいるのだと想像しながら、この文を終えたいと思います。
「アリガトウ サヨナラ 原子力発電所」MAGICAL CHAIN CLUB BAND
http://www.youtube.com/watch?v=mmX6z_V4wLM&feature=youtu.be
http://www.thefuturetimes.jp/archive/no04/connecting_the_dots_04/
インタビューの中で大宮さんは、昨年5月、活動区域の高台から、水素爆発を起こした福島第1原発4号機を眺めた時の感想を述べています。それは自分に とって、実に印象深い内容でした。その部分を以下に抜粋しました。インタビュアーは、このネット新聞の主催者、ロックバンド、アジアン・カンフー・ジェネ レーションの後藤正文さんです。
後藤「この4号機の写真を撮影されたのは何月くらいなんですか?」
大宮「5月ですね」
後藤「ここまで行ったときには、恐ろしいというような気持ちはありましたか?」
大宮「いや…、ここに来たとき…、今までの感情が、変わったというか…。とにかく、その当時は、原発は悪みたいな感じで、みんなそういう風潮にあったじゃないですか?」
後藤「そうですね…」
大宮「僕自身も、“原発なんて”とか“原発のせいで”とか思いながら、憎きモノとして、この地域に入っていって…。ここ(4号機)は活動区域から見えない んですよね。展望所っていう公園があるんですけど、そこに行ってはじめて見えるんですよ。高台から見ていると、変な話ですけど、僕と原発だけみたいな世界 になったような感覚があって…。不謹慎ですけど…、この世の立ち入ってはいけない区域で、神々しいような感覚があったんです…」
後藤「はい」
大宮「真ん中がボカっと空いているじゃないですか?はじめて見たとき、これが口に見えたんですよ。湯気も見えたんですよね、当時。なんかナウシカの巨神兵 のようにも見えて…。今までは安全だと言われていたから、人のために稼働していたっていう…。地震が起こって制御できなくなって爆発したら、自分たちが 造ったものなのに、原発のせいでとか…。でもよく考えたら、要はコイツ(4号機を指して)を制御できなかった人間がいけないだけじゃないかっていう感じ で、何か(様々な感情の)対象としているものを僕は間違っているなって…。なんていうか、エゴっていうか…。自分たちがいけなかったのに、原発を悪の象徴 にしているっていうのは、人間の悪い…、凄く汚い部分をそのときは感じてしまって…」
後藤「なるほど…」
大宮「もの凄く涙が出て来て…。とにかくコイツ自身が生き物のように見えて、凄い悲壮感だったというか…」
こんなふうに「原子力発電所」を語ってくれる人がいたことに、随分と救われる思いがしました。脱原発を目指す側にも、原発を善悪だけで語るのではない、こういった感性や想像力が必要だと感じました。
誰かにとっての「悪の象徴たる原発」は、実は、1部の人間だけでなく、ほとんどの人間のエゴや欲望によって支えられ、祭り上げられたものであるという認識が、自分達には欠 けているように思います。自分達が善で、原発を作り出した人間が悪であるという構図は間違いです。自分達は騙された側かもしれないけれど、実は無意識に、 だまされることを受け入れてきたのではないか、つまりは共犯関係にあったのではないか、という問いかけが必要だと思います。
エゴや欲望だけではなく、希望、夢、好奇心、野望、傲慢etc.人間の中にあるさまざまな感情と因果が複合的に絡み合い生まれたものが、核であり、原発 である。福島第1原発の事故以降、時を経てそんな考えに至るようになりました。そして、原発に変わる代替エネルギー、自然エネルギーを推進してゆく力の中 にも、エゴや欲望は含まれており、それらが定着してゆく過程の中で、いや定着した後も、さまざまな問題が生じてゆくのだろうと考えています。
エゴや欲望を一概に否定しているわけではありません。むしろ、そういった感情がなければ、今迄の文明の発達や人類の進化はありえなかったでしょう。けれ ど、加速する文明の発達や人類の進化をこのまま野放しに進めてもよいのでしょうか?発達の加速とともに、人類も破滅へ向かい加速していることを、多くの人 が感じ、漠然とした不安を抱きながら暮らしているように思います。
だとしたら、進化や発達のスピードを調整することが、人類には可能なのでしょうか?そもそも人類の進化とはどんな状態を意味するのでしょうか?
原発の問題を考えるにあたっては、今直面しているさまざまな現実問題や矛盾の解決と並行して、このような哲学に至る本質的な問いかけも必要だと考えています。
あまりにも多くの理不尽、隠ぺい、差別の上に原発産業は成り立ってきました。それらに対する怒りは当然だと思います。けれど、自らの怒りの中にも、エゴ や傲慢が含まれているのではないかという問いかけも必要だと感じています。強い怒りは、時に物事の本質を覆い隠し、誰かが唱える都合のよい「正義」にたや すく取り込まれてしまう恐れを含んでいます。
原発を廃炉にし、核を廃絶させるためには、他者の意識を変えるだけでなく、自分自身の意識や生き方を変え、人類の進化と文明のあり方を問い直すというプ ロセスが必要だと感じています。問題に対する本質的な問いかけが気付きや謙虚を生み、エゴや欲望を抑制することにもつながるのだと思います。
人間を人間たらしめてきたさまざまな感情の複合体として生まれてきたものが原発である。福島第1原発の事故以降、歳月を経て、徐々にそんなイメージを 抱くようになりました。そして、そうして生まれてきた原発を維持し続ける人間の主な感情は、やはりエゴや欲望だと言えるのかもしれません。
そうしたエゴや欲望の象徴として見られる「原子力発電所」と呼ばれる施設そのものには、罪はありません。そして、「放射能」そのものにも罪はありませ ん。しかし、それらは多くの人間から悪の象徴として見られてしまうのです。人間は自分達自身が犯した罪を、それらになすりつけようとしているようにも見え ます。共犯関係はまだ続いているのでしょう。
水素爆発を起こした後の4号機を見て、生き物のように感じ涙し、人間のエゴを感じながら4号機とナウシカの巨神兵の姿を重ね合わせた大宮さんの感性、そこにある気づき、畏怖の念、謙虚さに、かすかな光を感じています。
今も続く共犯関係から逃れ、変化を選択し、新たな価値観を見い出すための旅は、まだ始まってもいないのかもしれません。けれど、旅立ちの準備は既に方々 で進められています。自分のような考えを持った人間は1人だけじゃない、世界中にいるのだと想像しながら、この文を終えたいと思います。
「アリガトウ サヨナラ 原子力発電所」MAGICAL CHAIN CLUB BAND
http://www.youtube.com/watch?v=mmX6z_V4wLM&feature=youtu.be
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