50歳の初夢に山下達郎さんが出てきた。
夢の中で、達郎さんの自宅にご招待していただいた。
「以外と庶民的で質素な暮らしをされているんだなあ」
これがはじめて達郎さんの自宅を訪問しての感想だった(あくまでも夢の話ですよ)。奥さんが(夢の中での奥さんは竹内まりやさんではなかった)こちらの様子を見て何かを察したように、「この人(達郎さん)は音楽以外のことに対しては強いこだわりや執着がないんですよ」と自分に向かって柔らかい笑顔で話された。奥さんの話を聞いて「ああ、オレもそうかも」などと思った(繰り返しますが、あくまでの夢の中の話です)。
目が覚めてしばらくは、布団の中で不思議な夢の余韻を味わい続けた。
達郎さんと初めてお会いしたのは自分がCDデビューした直後だった。
自分が最初に契約したレコード会社エム・エム・ジー株式会社 (MMG) は、米ワーナー・ミュージック・グループ傘下として、アルファレコードの関連会社アルファ・ムーンとマザーエンタープライズ傘下のレコード会社マザーアンドチルドレンが合併し、新たにGARLANDレーベルを社内に発足させ、社名にそれぞれの頭文字を取って、’90年にスタートした(つまり、自分がデビューした年にMMGは発足した)。主な所属アーティストはTHE BLUE HEARTS、竹内まりやさん、そして山下達郎さんだった。
達郎さんはMMGの所属ミュージシャンであると同時に、アルファ・ムーンの設立から深く関わる会社の役員でもあった。自分はGARLANDの所属で、達郎さんとは所属レーベルが違っていたのだけれど、自分のデビューミニアルバムを聴いてくれた達郎さんから、一度会いたいと声をかけてもらい、MMGのオフィスでお会いすることになった。
緊張気味の自分に対して、達郎さんはとても気さくで多弁であった。ミニアルバムのことを褒めてもらえてとても嬉しかったし、勇気づけられたのを覚えている。達郎さんの話からは音楽に対する愛情があふれていた。
「君はなかなか売れないかもしれないけれど、長く続けてほしい」
そのときに達郎さんから言われたこの言葉を、今でも思い出すことがある。
達郎さんとはそのとき以来、一度も再会を果たせずにいる。オレのこと覚えてくれているかなあ。もう一度お会いする機会があればこう伝えたい。
「その節は、ありがたい言葉を色々とありがとうございました。お陰さまで50歳になっても、面白おかしく音楽活動を続けてます。これからもずっと続けていきます。達郎さんのアルバム『RAY OF HOPE』何度も繰り返し聴きました。」
2014年9月17日水曜日
2014年8月28日木曜日
「ネトウヨ」「サヨク」とレッテル貼りされる2人による議論
以下は、自分がツイッターと同期させてFACEBOOKに投稿した記事と文章に対するHさんのコメント書き込みをきっかけに始まった、Hさんと自分によるFACEBOOK上での議論です。Hさんは、自分が社会的な記事を掲載したり、社会にコミットするような発言をした時に、よくコメント欄に書き込みをしてくる音楽業界の同業者です(実際にお会いしたことはありませんが)。
自分はHさんから「サヨク」とレッテル貼りされることがあり、Hさんの方は、おそらく「ネトウヨ」とレッテル貼りされることを自覚しておられるようなので、このようなブログタイトルをつけました。ちなみにオレは自分が左翼だとは思っていません。特定のイデオロギーから発言しているという自覚もありません。おそらくHさんも自分のことを「ネトウヨ」だとは思っていないのではと想像しています。
正直、この議論が対話として成り立っているという自信はありませんが、対話の道筋に至る何かのきっかけになればとの思いがあります。FACEBOOK上でのHさんとの議論は平行線をたどることが多いのですが、ぎりぎりのところで互いを記号化しないという信頼があることで、この議論が成り立っていると思っています。
今回のHさんとの議論を通して、あたらめて気づいたことは、特に3.11以降、自分がまず大切に考えてきたのは、「理屈」や「思想」よりも、他者との「共感」を試みようとする「態度」であるということです。そして、その「態度」を常に維持することの難しさも感じています。
長くなりますが、よければお付き合い下さい。
※このブログをアップした後もコメント欄でのHさんとの議論が続いたので、そん部分を8月30日に加筆しました。
まずは、議論のきっかけになった8月26日の自分の投稿記事と、それに添えらえた文章です。
関東大震災の朝鮮人虐殺から今のレイシズム(民族・人種差別)が見えてくる<加藤直樹氏インタビュー>
http://www.asiapress.org/apn/archives/2014/04/24170846.php
広島の土砂災害でも、ツイッター上で在日の人達や中国人が空き巣狙いをしているといったひどいデマが流れてる。
以下からが、この投稿を受けてのHさんコメントから始まった2人の議論です。
●Hさん
震災発生後、混乱に乗じた一部朝鮮人による凶悪犯罪、暴動などが発生したが、こうした事件情報は混乱期にあって流言、デマなども生み出し、過度に警戒した民衆によって朝鮮人が殺害されるなど、朝鮮人側にも大きな被害をもたらしたわけです。
混乱に乗じて朝鮮人が凶悪犯罪を繰り返した戦後の「朝鮮進駐軍」もご参考下さい。
そして現代でも在日韓国朝鮮人の犯罪率が極めて高いという事実も。
いろいろな方向からの見方があることは忘れてはいけません。
それらの事実を互いに理解した上で、友好的であるべきと思います。
●リクオ
「朝鮮進駐軍」は、在特会などが随分前から拡散していたトピックですね。
終戦直後に一部の在日コリアンがアウトロー化したことは事実のようですが、4千人の日本人市民が「朝鮮進駐軍」の犠牲となり殺害されたなどという情報はひどいデマだと思われます。
いまだに信じて情報を拡散している人もいるようですが、ネット上でも多くの人達によって検証され、デマと判断されてますよ。
そもそも「朝鮮進駐軍」に関する文献など一つも存在しない。在特会が証拠としている流しているキャプション付きの「朝鮮進駐軍」の写真もねつ造。その写真は、毎日新聞社提供サービス「毎日フォトバンク」が収蔵していて、写真に写ってる腰拳銃の男達は「朝鮮進駐軍」なる武装組織ではなく朝連の本部を捜索する日本の武装警察官です。
在日特権に関するデマも含め、こういう情報は調べればネット上でも確認できますよ。ただネットですべての”事実”や”真実”がわかるとは思いませんが。
そして、念を押しますが今回の広島土砂災害で在日の人達や中国人が空き巣をしたという事実はありません。
http://mainichi.jp/fea・・・/news/20140826mog00m040012000c.html
広島土砂災害:空き巣で外国人犯罪の情報ない 広島県警ー毎日新聞
●Hさん
朝鮮進駐軍はwikiにも詳しいですよね。その「名称」についての妥当性はともかく多くの悪質な犯罪があったことは事実です。
しかし、日本では、なぜ在日韓国朝鮮人だけが差別的な対象として捉えられやすいのでしょうか?インド人やアメリカ人やフィリピン人となぜ違う印象になるのか?
それは歴史的な経験や事実が我々の深層心理に空気のようなものとして残っているからではないでしょうか。
それを差別というのか、本能的防御というのかはわかりませんが、そういう深層心理が働いていることは確かだと思います。
現代でも在日韓国朝鮮人の犯罪率の高さは事実ですので、危ない経験をしたら気を付けようと思うのは、人間として自然なことだと思います。
もちろん事実が誇大化され集団ヒステリーになるのは良くないですが、火の無いところに煙は立たないことも認識しつつ、どう付き合って行くのか、お互いに考えて行けたらなあと思います。
●Hさん
若いころ、母親が「彼女連れてきてもいいけど韓国人はダメよ!」と言ってって、ずいぶん差別的だなあと思った記憶があります(笑)。
愛し合っていたらなんでもOKと思いますが、人ひとりが背負っている家族や歴史の背景ってのは、現実社会になるととてつもなく大きいんですよね。大人になるほど感じます。
素敵な音楽の前では、みんなそんなこと忘れられるんですけどね。
●リクオ
これですね。
http://ja.wikipedia.org/wiki/朝鮮進駐軍
ウィキにも4,000人以上の日本人が殺されたとする「GHQ(連合国軍最高司令官総司令部)の資料」の出典は明らかにされておらず、在特会が証拠としている流しているキャプション付きの「朝鮮進駐軍」の写真がねつ造であることが指摘されてます。ただ、ウィキも間違いやデマだらけなので、すべてを鵜呑みにしない方がいいですよ。ここで紹介されている『マンガ 嫌韓流』『嫌韓流の真実!ザ・在日特権』からの情報も間違いやねつ造が多いと考えています。
終戦直後に一部の在日コリアンがアウトロー化して犯罪行為に走ったことが事実でも、Hさんがコメントした「朝鮮進駐軍」なるものの犯罪、4000人の日本人が在日コリアンに殺されたというのは根拠のない悪質なデマでしょう。
在日コリアンが差別的な対象にとらえられやすい理由を、在日コリアン側にばかり押し付けるのも間違いだと思います。在日コリアンの犯罪率が高いのだとしたも、彼らが置かれた境遇や歴史背景を無視して、その理由を彼らの資質や民族性に求めるのは、とても危険な思考だと思います。Hさんの言うところのそういった「深層心理」が集合し暴走することで、ファシズムが生まれ、ユダヤ人大虐殺のような歴史的悲劇が起きてしまったのではないでしょうか。当時のドイツ国民の多くが、ユダヤ人には虐殺されるべき理由があると考えていたのでしょう。
Hさんの言うように、ステキな音楽を通して、そういった偏見や差別がなくなることを切に願っています。音楽には、「差別」や「敵対」ではなく他者との「共感」をもたらす力があると信じてます。
●Hさん
私も在特会の動きは、やってる人たち自身のガス抜きに過ぎず、在日コリアンの問題解決の効果があるとは思いません。言動が品性に欠けるので伝わることも無いと思っています。
でも「朝鮮進駐軍」というのは、言い得て妙だなと個人的には思っています。勝戦国でないのに勝手にそう主張した彼の国の態度にはピッタリのネーミングと思います。いささか皮肉が効きすぎってぐらいです。
在日コリアンのほとんどが、戦後、自分の自由意思で日本に残り、または密入国したまま自国に帰ろうともせず、かといって帰化もせず日本に居座り続けて来たという歴史的背景を持っています。
敗戦した日本に対して「我々は強制連行されて嫌々ここにいるしかないんだ!」との嘘を実に巧妙に利用し、現在に至っています。慰安婦の嘘と同じ構図ですね。
「差別」さえも逆に利用してです。帰化しない方がメリットがある訳です。
大阪に住んでいた頃の在日コリアンの逆差別暴力の話はほんとうに辛いものがありました。
音楽の力で、誰かを癒すことは出来ると信じていますが、あくまでエンタテインメントを超えるものにはならないと思っています。
こんなに音楽が溢れていたって、ナチスどころかチベット人というだけで差別され殺される現代の民族浄化が隣の国で今もまさに起きています。そこに行って身一つで歌う覚悟があったとしても、残念ながら瞬殺されて終わりだと思います。若いチベット僧侶が自らの身体に火を点けて訴えても何もできないんですから我々の歌に何の力があるでしょうか?
でも、楽しいから音楽はやめられないっ!ですよね!
●リクオ
在日コリアンが日本にわたってきた要因は日本による朝鮮の植民地支配でしょう。当時の朝鮮人が日本国民であったという事実を忘れてはいけないと思います。
当時、日本側が、彼らを労働力、兵力として必要とし、日本に進行する行政計画を立てた時期もあります。それらがすべてが強制連行であったとは思いませんが、朝鮮の人達が、生きるため、喰うために、低賃金労働力として日本に流入せざる得なかった背景も考える必要があります。
多くの在日コリアンが戦後に帰国しなかった、できなかったのも、朝鮮半島の険悪な政治状況、祖国の荒廃、一家離散、生活苦等さまざな理由があげられます。在日コリアンの人達に対しては、元宗主国としての責任が日本にはあるのではないかと考えています。繰り返しますが、在日コリアンが差別的な対象にとらえられやすい理由を、在日コリアン側にばかり押し付けるのは違うと思います。
在日コリアンの歴史背景等について、ここでこれ以上Hさんと議論するつもりはありません。とても、このコメント欄では語りきれないし、そこまでの時間をつくる余裕がありません。
このコメント欄でまず伝えたいことは、「『朝鮮進駐軍』なるものは、言えて妙も何も、言葉自体がねつ造であり、4000人の日本人が殺されたという事実は確認されていない。この点においてHさんは謝った情報を流している。」ということです。
Hさんがおっしゃるとおり、自分も音楽はまずエンターテインメントであると考えていますが、それを超えた存在にもなりうると実感してます。無力さも感じますが、少なくとも自分は音楽から「娯楽」以上のものを受け取ってます。
●Hさん
一日中音楽の仕事してますと、なんだかずーっと右脳使っているのか、仕事終わった後は逆に左脳というか言語を使いたくなりませんか(笑)?
リクオさんとの対話は、言葉を使う面白さが格別ですね!
最近、朝日新聞が慰安婦問題の誤報を認めましたが、こういうことって今後も在日コリアンを語る上で必ず起きてくる問題です。
ずーっと私も、日本が侵略してすまないことをしたとだけ教えられて信じて来ましたが、最近になって決してそれだけでは済まされない問題であることがさまざまな資料の検証からわかって来ました。
はたして、日本だけが悪かったのか?永遠に我々は気を使い、謝罪し続けなければならないのか?
それは、我々を必ずしも幸せにする考え方では無いと思います。
在日コリアンや韓国、朝鮮人をも幸せにする考え方では無いと思います。
お互い、悪いところもあった。良いところもあった。それを理解した上で初めて、対等に仲良くなれるのではないでしょうか。甘やかすことなく、甘えることなく。それが人間として対等で、お互いに誇り高くあるということでしょう。
歴史を語ることは、常にフィクションになってしまいますが、どのフィクションがより多くの人にとっての幸福となるのか?平和的なのか?ということを常に考えながら、我々は歴史を作って行かなくてはなりません。
在日コリアンの歴史については、GHQが戦争についての罪悪感を日本人の心に植えつけた占領時期の洗脳政策の流れを汲んだままの解説サイトも未だいくつかありますし(これはリクオさんの考え方と近いですね)、また、それに反する検証を行っているサイトもあります。もちろん、書籍でもさまざまな視点から書かれているものがあります。
例えば、私はこちらのサイトの認識に近いわけですね。
http://www.geocities.co.jp/WallS・・・/6199/zainiti_raireki.htm
同じ歴史的事実を元にしていても、これだけ見え方が違ってくるのが歴史の面白いところです。
その判断基準は、私にとっては先に書いたように、人間として対等であるか、お互いに誇り高くあるかということです。
広島のデマも、在特会のデマも、そしてもちろん朝日新聞が行った誤報も、間違いで誰かを貶めてしまうという、我々にも韓国人にとっても、極めて無礼なことであったと思います。
どちらにも正義があり、裏には必ず悪もあります。それを認識し合うことが、対等であるということだと思っています。
●リクオ
「お互い、悪いところもあった。良いところもあった。それを理解した上で初めて、対等に仲良くなれる」「その判断基準は、私にとっては先に書いたように、人間として対等であるか、お互いに誇り高くあるかということです。」というHさんの考えに同意します。戦後の日本人の多くが「かつて日本が一方的に悪いことをした」ですまし、思考停止したことが、現在の反動や歪みをもたらす要因になっている気がします。
その後のHさんのコメントは「広島のデマも、在特会のデマも、そしてもちろん朝日新聞が行った誤報も、間違いで誰かを貶めてしまうという、我々にも韓国人にとっても、極めて無礼なことであったと思います。」と続きますが、そう考えるのなら、Hさんがこのコメント欄で『朝鮮進駐軍』というデマを流したのも「極めて無礼なこと」です。
今、身内が占領期にGHQが行った占領政策を研究していることもあり、自分もその時代に興味を持ちはじめてます。生活や言論の側かれ見れば、占領期は武装解除が済んだだけの「戦中」だったのかもしれない。そして、その「戦中」の流れが今も続いている側面があるのでは、と考えはじめています。「多様な価値観や思考を受け入れられない」「排他的である」「全体で一方に流れやすい」という点において、最近は戦中や終戦直後の空気により近づきつつあるのかもしれません。
Hさんが紹介してくれたサイトにも目を通させてもらいましたが、視点が一方に偏り過ぎていると感じました。こういった情報の流し方も「戦中」の流れにある気がします。イデオロギーから抜け出せずに、強制連行の有無の2択にばかりこだわって議論していたら、事実や本質にはたどりつけないと思います。「左」が反転して「右」になるのは態度としては同じ気がします。
Hさんが言う「人間として対等である」ためには、相手の立場を想像し、違いも含めて「共感」に至る態度が必要だと考えます。特に3.11以降、自分が「理屈」や「思想」よりもまず大切に考えているのは、こういった「態度」です。難しいですが。
Hさんは左脳ばかりでコメントを書かれているのかもしれませんが、「意見や立場の違う他者との共感の試み」には「右脳」の活動も必要と感じます。
※これ以降は8月30日に追加
●Hさん
どうもです!
そもそも私がここに書き込もうと思ったのは、シェア元の文章が我々日本人に対して「無礼」だと感じたからです。事の発端が朝鮮人の混乱に乗じた一部朝鮮人による凶悪犯罪、暴動などが発生したことにあるということが、一切書かれていない。それを書かずして、日本人のレイシズムだけを悪と書くのは誠に卑怯です。許されるものではありません。それを安易にシェアするリクオさんも同じくです。・・・もっと見る
●Hさん
もし仮に、リクオさんが「共感の試み」をされているなら、私の言うことも充分ご理解頂けると思いますが。
●Hさん
私は、共感するためにこそ、多様な視点を提示させて頂いておるわけですよ~。
●Hさん
日本は、そもそも大昔から多様な価値観や思考を受け入れてきた国民でした。
世界で初めてレイシズム、人種差別を無くそうと世界に訴えたのも、日本です。
それは、有色人種がずっと差別されて来たこととの戦いです。・・・もっと見る
●リクオ
Hさんのシェアの文章に対する受け止め方、憤りの理由を、ある程度理解しました(事の発端が一部朝鮮人による犯罪、暴動であったとして、その暴動が起きるに至った背景を考える必要があると思いますが)。オレはシェアした文章が「卑怯」だとは感じませんが、そのように受け取る人がいることもわかりました。
ただ「卑怯」だと感じたからデマを流していいことにはなりません。何度も書きますが、終戦直後の在日コリアンの一部が犯罪を犯し、日本人を恐れさせたことが事実であっても、「朝鮮進駐軍」なるものが4000人の日本人を殺したという事実は確認されていません。ねつ造はネーミングだけではありません。
Hさんがおっしゃる通り「共感するためにこそ、多様な視点を提示する」ことがとても大切だとオレも考えます。さまざまな視点を謙虚に受け止めるよう心がけたいと思います。
先のコメントにも書きましたが、因果関係を一方だけの責任にして思考停止することの危険性を感じています。多分、アメリカの戦争責任という点においてはHさんと共通する考えがあるように思います。でも、ここでは、もうその話はやめましょうね(笑い)。
これも繰り返しになりますが、「左」が反転して「右」になるのは態度としては同じ気がします(その逆もしかり)。イデオロギーありき、前提ありきの思考から自分が完全に逃れているとは思いませんが、そうありたいと思います。
このコメント欄での議論はそろそろ終わりにしましょう。言いたいことを言い合うだけでなく、互いの言葉をしばらく受け止める時間も大切だと思います。
自分はHさんから「サヨク」とレッテル貼りされることがあり、Hさんの方は、おそらく「ネトウヨ」とレッテル貼りされることを自覚しておられるようなので、このようなブログタイトルをつけました。ちなみにオレは自分が左翼だとは思っていません。特定のイデオロギーから発言しているという自覚もありません。おそらくHさんも自分のことを「ネトウヨ」だとは思っていないのではと想像しています。
正直、この議論が対話として成り立っているという自信はありませんが、対話の道筋に至る何かのきっかけになればとの思いがあります。FACEBOOK上でのHさんとの議論は平行線をたどることが多いのですが、ぎりぎりのところで互いを記号化しないという信頼があることで、この議論が成り立っていると思っています。
今回のHさんとの議論を通して、あたらめて気づいたことは、特に3.11以降、自分がまず大切に考えてきたのは、「理屈」や「思想」よりも、他者との「共感」を試みようとする「態度」であるということです。そして、その「態度」を常に維持することの難しさも感じています。
長くなりますが、よければお付き合い下さい。
※このブログをアップした後もコメント欄でのHさんとの議論が続いたので、そん部分を8月30日に加筆しました。
まずは、議論のきっかけになった8月26日の自分の投稿記事と、それに添えらえた文章です。
関東大震災の朝鮮人虐殺から今のレイシズム(民族・人種差別)が見えてくる<加藤直樹氏インタビュー>
http://www.asiapress.org/apn/archives/2014/04/24170846.php
広島の土砂災害でも、ツイッター上で在日の人達や中国人が空き巣狙いをしているといったひどいデマが流れてる。
以下からが、この投稿を受けてのHさんコメントから始まった2人の議論です。
●Hさん
震災発生後、混乱に乗じた一部朝鮮人による凶悪犯罪、暴動などが発生したが、こうした事件情報は混乱期にあって流言、デマなども生み出し、過度に警戒した民衆によって朝鮮人が殺害されるなど、朝鮮人側にも大きな被害をもたらしたわけです。
混乱に乗じて朝鮮人が凶悪犯罪を繰り返した戦後の「朝鮮進駐軍」もご参考下さい。
そして現代でも在日韓国朝鮮人の犯罪率が極めて高いという事実も。
いろいろな方向からの見方があることは忘れてはいけません。
それらの事実を互いに理解した上で、友好的であるべきと思います。
●リクオ
「朝鮮進駐軍」は、在特会などが随分前から拡散していたトピックですね。
終戦直後に一部の在日コリアンがアウトロー化したことは事実のようですが、4千人の日本人市民が「朝鮮進駐軍」の犠牲となり殺害されたなどという情報はひどいデマだと思われます。
いまだに信じて情報を拡散している人もいるようですが、ネット上でも多くの人達によって検証され、デマと判断されてますよ。
そもそも「朝鮮進駐軍」に関する文献など一つも存在しない。在特会が証拠としている流しているキャプション付きの「朝鮮進駐軍」の写真もねつ造。その写真は、毎日新聞社提供サービス「毎日フォトバンク」が収蔵していて、写真に写ってる腰拳銃の男達は「朝鮮進駐軍」なる武装組織ではなく朝連の本部を捜索する日本の武装警察官です。
在日特権に関するデマも含め、こういう情報は調べればネット上でも確認できますよ。ただネットですべての”事実”や”真実”がわかるとは思いませんが。
そして、念を押しますが今回の広島土砂災害で在日の人達や中国人が空き巣をしたという事実はありません。
http://mainichi.jp/fea・・・/news/20140826mog00m040012000c.html
広島土砂災害:空き巣で外国人犯罪の情報ない 広島県警ー毎日新聞
●Hさん
朝鮮進駐軍はwikiにも詳しいですよね。その「名称」についての妥当性はともかく多くの悪質な犯罪があったことは事実です。
しかし、日本では、なぜ在日韓国朝鮮人だけが差別的な対象として捉えられやすいのでしょうか?インド人やアメリカ人やフィリピン人となぜ違う印象になるのか?
それは歴史的な経験や事実が我々の深層心理に空気のようなものとして残っているからではないでしょうか。
それを差別というのか、本能的防御というのかはわかりませんが、そういう深層心理が働いていることは確かだと思います。
現代でも在日韓国朝鮮人の犯罪率の高さは事実ですので、危ない経験をしたら気を付けようと思うのは、人間として自然なことだと思います。
もちろん事実が誇大化され集団ヒステリーになるのは良くないですが、火の無いところに煙は立たないことも認識しつつ、どう付き合って行くのか、お互いに考えて行けたらなあと思います。
●Hさん
若いころ、母親が「彼女連れてきてもいいけど韓国人はダメよ!」と言ってって、ずいぶん差別的だなあと思った記憶があります(笑)。
愛し合っていたらなんでもOKと思いますが、人ひとりが背負っている家族や歴史の背景ってのは、現実社会になるととてつもなく大きいんですよね。大人になるほど感じます。
素敵な音楽の前では、みんなそんなこと忘れられるんですけどね。
●リクオ
これですね。
http://ja.wikipedia.org/wiki/朝鮮進駐軍
ウィキにも4,000人以上の日本人が殺されたとする「GHQ(連合国軍最高司令官総司令部)の資料」の出典は明らかにされておらず、在特会が証拠としている流しているキャプション付きの「朝鮮進駐軍」の写真がねつ造であることが指摘されてます。ただ、ウィキも間違いやデマだらけなので、すべてを鵜呑みにしない方がいいですよ。ここで紹介されている『マンガ 嫌韓流』『嫌韓流の真実!ザ・在日特権』からの情報も間違いやねつ造が多いと考えています。
終戦直後に一部の在日コリアンがアウトロー化して犯罪行為に走ったことが事実でも、Hさんがコメントした「朝鮮進駐軍」なるものの犯罪、4000人の日本人が在日コリアンに殺されたというのは根拠のない悪質なデマでしょう。
在日コリアンが差別的な対象にとらえられやすい理由を、在日コリアン側にばかり押し付けるのも間違いだと思います。在日コリアンの犯罪率が高いのだとしたも、彼らが置かれた境遇や歴史背景を無視して、その理由を彼らの資質や民族性に求めるのは、とても危険な思考だと思います。Hさんの言うところのそういった「深層心理」が集合し暴走することで、ファシズムが生まれ、ユダヤ人大虐殺のような歴史的悲劇が起きてしまったのではないでしょうか。当時のドイツ国民の多くが、ユダヤ人には虐殺されるべき理由があると考えていたのでしょう。
Hさんの言うように、ステキな音楽を通して、そういった偏見や差別がなくなることを切に願っています。音楽には、「差別」や「敵対」ではなく他者との「共感」をもたらす力があると信じてます。
●Hさん
私も在特会の動きは、やってる人たち自身のガス抜きに過ぎず、在日コリアンの問題解決の効果があるとは思いません。言動が品性に欠けるので伝わることも無いと思っています。
でも「朝鮮進駐軍」というのは、言い得て妙だなと個人的には思っています。勝戦国でないのに勝手にそう主張した彼の国の態度にはピッタリのネーミングと思います。いささか皮肉が効きすぎってぐらいです。
在日コリアンのほとんどが、戦後、自分の自由意思で日本に残り、または密入国したまま自国に帰ろうともせず、かといって帰化もせず日本に居座り続けて来たという歴史的背景を持っています。
敗戦した日本に対して「我々は強制連行されて嫌々ここにいるしかないんだ!」との嘘を実に巧妙に利用し、現在に至っています。慰安婦の嘘と同じ構図ですね。
「差別」さえも逆に利用してです。帰化しない方がメリットがある訳です。
大阪に住んでいた頃の在日コリアンの逆差別暴力の話はほんとうに辛いものがありました。
音楽の力で、誰かを癒すことは出来ると信じていますが、あくまでエンタテインメントを超えるものにはならないと思っています。
こんなに音楽が溢れていたって、ナチスどころかチベット人というだけで差別され殺される現代の民族浄化が隣の国で今もまさに起きています。そこに行って身一つで歌う覚悟があったとしても、残念ながら瞬殺されて終わりだと思います。若いチベット僧侶が自らの身体に火を点けて訴えても何もできないんですから我々の歌に何の力があるでしょうか?
でも、楽しいから音楽はやめられないっ!ですよね!
●リクオ
在日コリアンが日本にわたってきた要因は日本による朝鮮の植民地支配でしょう。当時の朝鮮人が日本国民であったという事実を忘れてはいけないと思います。
当時、日本側が、彼らを労働力、兵力として必要とし、日本に進行する行政計画を立てた時期もあります。それらがすべてが強制連行であったとは思いませんが、朝鮮の人達が、生きるため、喰うために、低賃金労働力として日本に流入せざる得なかった背景も考える必要があります。
多くの在日コリアンが戦後に帰国しなかった、できなかったのも、朝鮮半島の険悪な政治状況、祖国の荒廃、一家離散、生活苦等さまざな理由があげられます。在日コリアンの人達に対しては、元宗主国としての責任が日本にはあるのではないかと考えています。繰り返しますが、在日コリアンが差別的な対象にとらえられやすい理由を、在日コリアン側にばかり押し付けるのは違うと思います。
在日コリアンの歴史背景等について、ここでこれ以上Hさんと議論するつもりはありません。とても、このコメント欄では語りきれないし、そこまでの時間をつくる余裕がありません。
このコメント欄でまず伝えたいことは、「『朝鮮進駐軍』なるものは、言えて妙も何も、言葉自体がねつ造であり、4000人の日本人が殺されたという事実は確認されていない。この点においてHさんは謝った情報を流している。」ということです。
Hさんがおっしゃるとおり、自分も音楽はまずエンターテインメントであると考えていますが、それを超えた存在にもなりうると実感してます。無力さも感じますが、少なくとも自分は音楽から「娯楽」以上のものを受け取ってます。
●Hさん
一日中音楽の仕事してますと、なんだかずーっと右脳使っているのか、仕事終わった後は逆に左脳というか言語を使いたくなりませんか(笑)?
リクオさんとの対話は、言葉を使う面白さが格別ですね!
最近、朝日新聞が慰安婦問題の誤報を認めましたが、こういうことって今後も在日コリアンを語る上で必ず起きてくる問題です。
ずーっと私も、日本が侵略してすまないことをしたとだけ教えられて信じて来ましたが、最近になって決してそれだけでは済まされない問題であることがさまざまな資料の検証からわかって来ました。
はたして、日本だけが悪かったのか?永遠に我々は気を使い、謝罪し続けなければならないのか?
それは、我々を必ずしも幸せにする考え方では無いと思います。
在日コリアンや韓国、朝鮮人をも幸せにする考え方では無いと思います。
お互い、悪いところもあった。良いところもあった。それを理解した上で初めて、対等に仲良くなれるのではないでしょうか。甘やかすことなく、甘えることなく。それが人間として対等で、お互いに誇り高くあるということでしょう。
歴史を語ることは、常にフィクションになってしまいますが、どのフィクションがより多くの人にとっての幸福となるのか?平和的なのか?ということを常に考えながら、我々は歴史を作って行かなくてはなりません。
在日コリアンの歴史については、GHQが戦争についての罪悪感を日本人の心に植えつけた占領時期の洗脳政策の流れを汲んだままの解説サイトも未だいくつかありますし(これはリクオさんの考え方と近いですね)、また、それに反する検証を行っているサイトもあります。もちろん、書籍でもさまざまな視点から書かれているものがあります。
例えば、私はこちらのサイトの認識に近いわけですね。
http://www.geocities.co.jp/WallS・・・/6199/zainiti_raireki.htm
同じ歴史的事実を元にしていても、これだけ見え方が違ってくるのが歴史の面白いところです。
その判断基準は、私にとっては先に書いたように、人間として対等であるか、お互いに誇り高くあるかということです。
広島のデマも、在特会のデマも、そしてもちろん朝日新聞が行った誤報も、間違いで誰かを貶めてしまうという、我々にも韓国人にとっても、極めて無礼なことであったと思います。
どちらにも正義があり、裏には必ず悪もあります。それを認識し合うことが、対等であるということだと思っています。
●リクオ
「お互い、悪いところもあった。良いところもあった。それを理解した上で初めて、対等に仲良くなれる」「その判断基準は、私にとっては先に書いたように、人間として対等であるか、お互いに誇り高くあるかということです。」というHさんの考えに同意します。戦後の日本人の多くが「かつて日本が一方的に悪いことをした」ですまし、思考停止したことが、現在の反動や歪みをもたらす要因になっている気がします。
その後のHさんのコメントは「広島のデマも、在特会のデマも、そしてもちろん朝日新聞が行った誤報も、間違いで誰かを貶めてしまうという、我々にも韓国人にとっても、極めて無礼なことであったと思います。」と続きますが、そう考えるのなら、Hさんがこのコメント欄で『朝鮮進駐軍』というデマを流したのも「極めて無礼なこと」です。
今、身内が占領期にGHQが行った占領政策を研究していることもあり、自分もその時代に興味を持ちはじめてます。生活や言論の側かれ見れば、占領期は武装解除が済んだだけの「戦中」だったのかもしれない。そして、その「戦中」の流れが今も続いている側面があるのでは、と考えはじめています。「多様な価値観や思考を受け入れられない」「排他的である」「全体で一方に流れやすい」という点において、最近は戦中や終戦直後の空気により近づきつつあるのかもしれません。
Hさんが紹介してくれたサイトにも目を通させてもらいましたが、視点が一方に偏り過ぎていると感じました。こういった情報の流し方も「戦中」の流れにある気がします。イデオロギーから抜け出せずに、強制連行の有無の2択にばかりこだわって議論していたら、事実や本質にはたどりつけないと思います。「左」が反転して「右」になるのは態度としては同じ気がします。
Hさんが言う「人間として対等である」ためには、相手の立場を想像し、違いも含めて「共感」に至る態度が必要だと考えます。特に3.11以降、自分が「理屈」や「思想」よりもまず大切に考えているのは、こういった「態度」です。難しいですが。
Hさんは左脳ばかりでコメントを書かれているのかもしれませんが、「意見や立場の違う他者との共感の試み」には「右脳」の活動も必要と感じます。
※これ以降は8月30日に追加
●Hさん
どうもです!
そもそも私がここに書き込もうと思ったのは、シェア元の文章が我々日本人に対して「無礼」だと感じたからです。事の発端が朝鮮人の混乱に乗じた一部朝鮮人による凶悪犯罪、暴動などが発生したことにあるということが、一切書かれていない。それを書かずして、日本人のレイシズムだけを悪と書くのは誠に卑怯です。許されるものではありません。それを安易にシェアするリクオさんも同じくです。・・・もっと見る
●Hさん
もし仮に、リクオさんが「共感の試み」をされているなら、私の言うことも充分ご理解頂けると思いますが。
●Hさん
私は、共感するためにこそ、多様な視点を提示させて頂いておるわけですよ~。
●Hさん
日本は、そもそも大昔から多様な価値観や思考を受け入れてきた国民でした。
世界で初めてレイシズム、人種差別を無くそうと世界に訴えたのも、日本です。
それは、有色人種がずっと差別されて来たこととの戦いです。・・・もっと見る
●リクオ
Hさんのシェアの文章に対する受け止め方、憤りの理由を、ある程度理解しました(事の発端が一部朝鮮人による犯罪、暴動であったとして、その暴動が起きるに至った背景を考える必要があると思いますが)。オレはシェアした文章が「卑怯」だとは感じませんが、そのように受け取る人がいることもわかりました。
ただ「卑怯」だと感じたからデマを流していいことにはなりません。何度も書きますが、終戦直後の在日コリアンの一部が犯罪を犯し、日本人を恐れさせたことが事実であっても、「朝鮮進駐軍」なるものが4000人の日本人を殺したという事実は確認されていません。ねつ造はネーミングだけではありません。
Hさんがおっしゃる通り「共感するためにこそ、多様な視点を提示する」ことがとても大切だとオレも考えます。さまざまな視点を謙虚に受け止めるよう心がけたいと思います。
先のコメントにも書きましたが、因果関係を一方だけの責任にして思考停止することの危険性を感じています。多分、アメリカの戦争責任という点においてはHさんと共通する考えがあるように思います。でも、ここでは、もうその話はやめましょうね(笑い)。
これも繰り返しになりますが、「左」が反転して「右」になるのは態度としては同じ気がします(その逆もしかり)。イデオロギーありき、前提ありきの思考から自分が完全に逃れているとは思いませんが、そうありたいと思います。
このコメント欄での議論はそろそろ終わりにしましょう。言いたいことを言い合うだけでなく、互いの言葉をしばらく受け止める時間も大切だと思います。
2014年8月24日日曜日
「甘っちょろい」言葉ー終戦記念日のツイートから考える
8月15日の終戦記念日に、以下の言葉をツイッターでつぶやいた。
単純な物語に寄りかからず、自分で丁寧に物語を紡ぐ。
「正義」を押し付けない。決めつけない。
受け身の取り合える喧嘩を。殺さない。
「敵対」より「共感」を。
社会から、多様性、他者への想像力、寛容、ユーモアが失われませんように。
ー2014年8月15日
ツイートする前には、何度も自分の文面を見直し、自問を経た上で、画面の「ツイートする」をクリックした。
上記の言葉をツイートした後、自分がフォローしているある人物の連続したツイートをタイムライン上で目にした。そこには、とても強い言葉が連なっていた。
「戦いを望む連中に、戦わずに勝てると思うな。祈りは何の役にも立たない。行動だ。」
「社会を変えるには明確に照準を合わせる敵が必要だし、敵を本当に倒すには社会を変える必要がある。」
「『戦争に反対する人が闘いだ!なんて…。』とか甘っちょろい事を言っていてよい時代は終わりました。日本という国を戦争に向かわせる人間と“闘う”事と、そいつらと闘わないで、後から他国と“戦争”をして文字通り殺しあうこと。どちらが良いかは明白でしょう。」
一連のツイートを読みながら、なんだか自分が責められているような圧力を感じた。
3.11以降、この人物のツイートを長く読み続けてきた。脱原発を訴える反原連での活動やヘイトデモに対するカウンター活動など、その行動力にはリスペクトの気持ちを持っていたし、ツイートを読んで納得させられたり、教えられたりすることも多くあった。同意できない部分も含めて、ここ数年、この人物の言動が自分に考えるきっかけを色々と与えてくれていたことは確かだ。
今回、自分のツイートとこの人物のツイートを読み比べてみて、自分のツイートはいかにも「甘っちょろい」と感じた。これは自分を卑下しているわけではない。むしろ「甘っちょろい」言葉が通じない世の中が来ることを危惧している。
彼のツイートの中で特に「祈りは何の役にも立たない」という言葉が強く心に刺さった。
「もう2年前とは状況が変わったんだな」あらためてそう思った。
2年前の春から夏にかけて、自分は原発再稼働に反対する官邸前の抗議集会に何度も参加していた。春に参加した頃は数百人の集まりだった抗議集会が、時の野田政権が大飯原発の再稼働容認を表明したことを一つのきっかけに、6月以降は万単位が集まる大集会に膨れ上がっていった。その時期、官邸前の多勢を占めたのは、いわゆる活動家やセクトの人間ではなく、再稼働に反対するというワンイシューの下、イデオロギーを超えて集まった一般の幅広い世代の人達だった。
女性の参加者も多く、そこには激しい「怒り」や「闘い」だけではなく、静かな「祈り」も存在した。この抗議行動がイデオロギーを超えた集まりであり、行動の中に「祈り」が存在することに、自分は新しい社会運動としての可能性を感じた。
けれど、その官邸前デモを主催する側の立場だった1人が、「祈りは何の役にも立たない」とツイートしたことは、この2年間の状況の変化を象徴しているような気がする(ツイートした本人は、2年前から同じ考えだったのかもしれないけれど)。
外から見る限り、この2年の間に都市部を中心とした運動の多くが、「闘い」を全面に押し出し、先鋭化する方向に向かっている印象を受ける。その流れは、恐らく安倍政権発足以降に加速された。今月初旬、都内で行われた安倍政権とファシズムに反対するデモのタイトルが「怒りのブルドーザーデモ」だったことは、そうした傾向を象徴している気がする。それだけ危機感が高まったということだろう。
そういう状況の中では、「受け身の取り合える喧嘩を」「『敵対』より『共感』を」なんて言葉は、右からも左からも「甘っちょろい」「きれいごと」として、切り捨てられそうだ。
3.11以降、ネットやマスメディア上で、たくさんの人達がなじられ吊るし上げられるのを目にしてきた。責任の所在をはっきりさせるために、権力を持たない側から「糾弾」という形が取られることは、場合によっては仕方がないことかもしれない。けれど、「糾弾」が大手を振る社会が好ましいとは決して思わない。
自分は次第に、どちらかというと糾弾する側よりも糾弾される側の立場に自分の気持ちを置くようになっていた。2項対立を危惧し、どちらかに一方的に寄らない、グレーゾーンの存在を切り捨てない。そういった姿勢は、世の中が切羽詰まって同調圧力が強まる程に、左右関係なくどちらの立場からも「糾弾」の対象になりかねない気がしている。
いや、少し深刻にとらえ過ぎなのかもしれない。
少なくとも、自分の回りは、そんなに閉塞した状況ではない。ツアー中心の音楽生活の中では、日々「HAPPY DAY」が地道に積み重ねられているし、自分達なりの楽しみや価値観を見つけ、新しい繋がりを模索し、丁寧に個々のストーリーを紡ごうとする人達との出会いも多い。そんな出会いを重ねることで、世の中は良い方向にも変化していると実感している。
ネットやマスメディアを通して得る情報と、自分の回りの状況はまるで別世界のように感じることがある。こちらの側でずっと面白おかしくやっていたいとも思うけれど、やはり両者はつながった作用し合う世界であり、無視することもできない。
どこか一方に寄り過ぎないよう、さまざまな世界を自分の中で保ち、それぞれを渡り歩き、つなぎあわせてゆけたらと思う。公の問題を無視することはできないけれど、それに押しつぶされてはいけない。深刻になり過ぎたらアカン。
自分はこれからも「甘っちょろい」「きれいごと」を言い続けてみようと思う。しんどくなったら多分やめる。他の表現方法を考える。
「甘っちょろい」「きれいごと」が言えるのは、ある程度余裕ある安全な立場に自分がいるからだということは自覚している。「汚れ役」を他にまかせているから、そういうことが言えるのだという批判も成り立つだろう。
けれど、世の中を変えるのは「闘い」を全面に押し出した社会運動や、政治運動だけではない。皆が正面切って闘う必要はないと思う。それぞれの立場、活動に違った役割があり、それらは互いを補完し合う関係にある。そんなことをイメージし合える世の中であってほしい。もちろん、この言葉も「甘っちょろい」「きれいごと」だと自覚している。
ー2014年8月24日
単純な物語に寄りかからず、自分で丁寧に物語を紡ぐ。
「正義」を押し付けない。決めつけない。
受け身の取り合える喧嘩を。殺さない。
「敵対」より「共感」を。
社会から、多様性、他者への想像力、寛容、ユーモアが失われませんように。
ー2014年8月15日
ツイートする前には、何度も自分の文面を見直し、自問を経た上で、画面の「ツイートする」をクリックした。
上記の言葉をツイートした後、自分がフォローしているある人物の連続したツイートをタイムライン上で目にした。そこには、とても強い言葉が連なっていた。
「戦いを望む連中に、戦わずに勝てると思うな。祈りは何の役にも立たない。行動だ。」
「社会を変えるには明確に照準を合わせる敵が必要だし、敵を本当に倒すには社会を変える必要がある。」
「『戦争に反対する人が闘いだ!なんて…。』とか甘っちょろい事を言っていてよい時代は終わりました。日本という国を戦争に向かわせる人間と“闘う”事と、そいつらと闘わないで、後から他国と“戦争”をして文字通り殺しあうこと。どちらが良いかは明白でしょう。」
一連のツイートを読みながら、なんだか自分が責められているような圧力を感じた。
3.11以降、この人物のツイートを長く読み続けてきた。脱原発を訴える反原連での活動やヘイトデモに対するカウンター活動など、その行動力にはリスペクトの気持ちを持っていたし、ツイートを読んで納得させられたり、教えられたりすることも多くあった。同意できない部分も含めて、ここ数年、この人物の言動が自分に考えるきっかけを色々と与えてくれていたことは確かだ。
今回、自分のツイートとこの人物のツイートを読み比べてみて、自分のツイートはいかにも「甘っちょろい」と感じた。これは自分を卑下しているわけではない。むしろ「甘っちょろい」言葉が通じない世の中が来ることを危惧している。
彼のツイートの中で特に「祈りは何の役にも立たない」という言葉が強く心に刺さった。
「もう2年前とは状況が変わったんだな」あらためてそう思った。
2年前の春から夏にかけて、自分は原発再稼働に反対する官邸前の抗議集会に何度も参加していた。春に参加した頃は数百人の集まりだった抗議集会が、時の野田政権が大飯原発の再稼働容認を表明したことを一つのきっかけに、6月以降は万単位が集まる大集会に膨れ上がっていった。その時期、官邸前の多勢を占めたのは、いわゆる活動家やセクトの人間ではなく、再稼働に反対するというワンイシューの下、イデオロギーを超えて集まった一般の幅広い世代の人達だった。
女性の参加者も多く、そこには激しい「怒り」や「闘い」だけではなく、静かな「祈り」も存在した。この抗議行動がイデオロギーを超えた集まりであり、行動の中に「祈り」が存在することに、自分は新しい社会運動としての可能性を感じた。
けれど、その官邸前デモを主催する側の立場だった1人が、「祈りは何の役にも立たない」とツイートしたことは、この2年間の状況の変化を象徴しているような気がする(ツイートした本人は、2年前から同じ考えだったのかもしれないけれど)。
外から見る限り、この2年の間に都市部を中心とした運動の多くが、「闘い」を全面に押し出し、先鋭化する方向に向かっている印象を受ける。その流れは、恐らく安倍政権発足以降に加速された。今月初旬、都内で行われた安倍政権とファシズムに反対するデモのタイトルが「怒りのブルドーザーデモ」だったことは、そうした傾向を象徴している気がする。それだけ危機感が高まったということだろう。
そういう状況の中では、「受け身の取り合える喧嘩を」「『敵対』より『共感』を」なんて言葉は、右からも左からも「甘っちょろい」「きれいごと」として、切り捨てられそうだ。
3.11以降、ネットやマスメディア上で、たくさんの人達がなじられ吊るし上げられるのを目にしてきた。責任の所在をはっきりさせるために、権力を持たない側から「糾弾」という形が取られることは、場合によっては仕方がないことかもしれない。けれど、「糾弾」が大手を振る社会が好ましいとは決して思わない。
自分は次第に、どちらかというと糾弾する側よりも糾弾される側の立場に自分の気持ちを置くようになっていた。2項対立を危惧し、どちらかに一方的に寄らない、グレーゾーンの存在を切り捨てない。そういった姿勢は、世の中が切羽詰まって同調圧力が強まる程に、左右関係なくどちらの立場からも「糾弾」の対象になりかねない気がしている。
いや、少し深刻にとらえ過ぎなのかもしれない。
少なくとも、自分の回りは、そんなに閉塞した状況ではない。ツアー中心の音楽生活の中では、日々「HAPPY DAY」が地道に積み重ねられているし、自分達なりの楽しみや価値観を見つけ、新しい繋がりを模索し、丁寧に個々のストーリーを紡ごうとする人達との出会いも多い。そんな出会いを重ねることで、世の中は良い方向にも変化していると実感している。
ネットやマスメディアを通して得る情報と、自分の回りの状況はまるで別世界のように感じることがある。こちらの側でずっと面白おかしくやっていたいとも思うけれど、やはり両者はつながった作用し合う世界であり、無視することもできない。
どこか一方に寄り過ぎないよう、さまざまな世界を自分の中で保ち、それぞれを渡り歩き、つなぎあわせてゆけたらと思う。公の問題を無視することはできないけれど、それに押しつぶされてはいけない。深刻になり過ぎたらアカン。
自分はこれからも「甘っちょろい」「きれいごと」を言い続けてみようと思う。しんどくなったら多分やめる。他の表現方法を考える。
「甘っちょろい」「きれいごと」が言えるのは、ある程度余裕ある安全な立場に自分がいるからだということは自覚している。「汚れ役」を他にまかせているから、そういうことが言えるのだという批判も成り立つだろう。
けれど、世の中を変えるのは「闘い」を全面に押し出した社会運動や、政治運動だけではない。皆が正面切って闘う必要はないと思う。それぞれの立場、活動に違った役割があり、それらは互いを補完し合う関係にある。そんなことをイメージし合える世の中であってほしい。もちろん、この言葉も「甘っちょろい」「きれいごと」だと自覚している。
ー2014年8月24日
2014年8月5日火曜日
相馬のMさんからのメール
福島県相馬市・南相馬市発信のフリーペーパー「そうま・かえる新聞」最新号に寄稿させてもらった文章を、許可を得てブログに転載させてもらいます。
10月12日(日)には南相馬市・朝日座において、そうま・かえる新聞主催によるライブ・イベント「うたのありか2014〜そうま・かえる新聞presents リクオ&中川敬(ソウルフラワーユニオン)LIVE IN 朝日座〜」の開催が決定しました。
http://somakaeru.jugem.jp
2011年3月11日に東日本大震災が起きた時、自分は湘南の自宅でテレビを観ていました。湘南でも自分がかつて経験したことのない激しい揺れを感じました。
ほどなくしてテレビが、津波に飲み込まれてゆく東北各地の街の映像を流し始めました。その光景に強いショックを受けると同時に、東北で暮らす多くの知人の顔が想い浮かびました。被災したいくつもの街に、自分はツアーで何度も訪れていました。地震と津波によって多くの犠牲者を出した上に、原発事故によって大量の放射能が降り注いだ相馬市と南相馬市も、自分にとっては縁の深い街でした。
相馬市には、カルメン・マキさんのツアーのサポート・キーボーディストとして、1998年に初めて訪れました。その後は主にソロでのピアノ弾き語りのスタイルで、定期的に相馬市と南相馬市を訪れるようになりました。お寺、小ホール、喫茶店、バー、イタリアン・レストラン、スーパーetc. 相馬ではホントさまざまな場所で演奏させてもらいました。
毎回地元の人たちと楽しく打ち上がり、ツアーで訪れるたびに相馬の知人が増えていきました。こういった繋がりがなければ、自分にとって震災や原発事故は、もっと他人事になっていたのかもしれません。
震災直後は、とにかく東北の知人の安否確認を急ぎました。まず相馬で最も付き合いの古いMさんと連絡を取ることができました。
彼は、津波に飲み込まれた相馬市海沿いの街の様子を写メで送ってくれました。その写真を見て言葉を失いました。どう返事を返してよいのか、わかりませんでした。Mさんの自宅も津波に飲まれたのです。
被災地の知人たちとの安否確認が一通り終わった後も、彼らとの連絡を取り続けるよう心がけました。被災した何人もの人が、ライフラインを断たれた避難生活の中で、夜空の明るさ、美しさを語ってくれていたのが印象に残っています。自分も震災から2カ月後に初めて被災地を回り、街の灯が消えた中で、輝く夜空に見とれました。夜空は輝き続けていたけれど、僕たちはそのことに気づく事なく、前ばかり見続けていたのかもしれません。
3・11以降の体験を経て、「手に入れることによって失った大切な何か」について考えるようになりました。
震災、原発事故直後からしばらくは、被災地以外の場所でも、大半の音楽ライブ・イベントが自粛され中止になりました。自分は、震災直後から多くのライブ・ツアースケジュールが入っていました。震災翌日の12日、小田原市でのライブでは、リハーサル中に、福島第一原発の事故が起きたことを知りました。激しく動揺する気持ちを押さえて、ライブを強行したのですが、大半のお客さんが来場をキャンセルしました。
翌13日の大和市、19日の藤沢市でのライブ・イベントは中止になりました。こういう状況下での音楽のあり方について、自分のなすべきことについて、深く悩みました。相馬のMさんから再びメールが届いたのは、そんな悩みと不安の最中でした。以下のような内容です。
リクオくん
駄目だよ、LIVEを中止しちゃ。
皆が元気になるパフォーマンスを全国に届けてあげないと。
この状況で音楽まで奪われたら人間だめになるよ。
やりなよ。
ミラクルマン唄いなよ。
リクオくんの使命だよ。
相馬にとどまり、降り注ぐ放射能の恐怖と不安を抱えながらの避難生活を続ける中で、Mさんはこのメールを送ってくれたのです。
震災直後、被災した何人かの知人が自分に託した言葉は「歌い続けてくれ」でした。彼らの言葉に背中を押されて、迷いや葛藤を抱えながらも、その後の音楽活動を続けました。先行き不安の中、不謹慎と言われようと、無理をしてでも皆で音楽を楽しもうと心がけました。
震災後、多くの被災地を回りました。相馬にも何度も訪れました。現地に足を運ぶたびに初めて知ること、感じることが多く、自分の想像力の限界を思い知らされました。情報化社会の中、我々は何でも知ったつもりになり、自覚無く多くを無視し、切り捨てているのだろうと思います。
被災地でショッキングな光景を目の当たりにしたときは、自分の心にリミッターがかかったような気がしました。あまりにも大きな哀しみや絶望を受けとめるだけの心の容量が、自分にはなかったのだと思います。
でもこの哀しみや絶望から目を背けることが、再び過ちを犯すことにつながるのでしょう。当事者として、過去を背負いながら、希望を失わず、そして楽しむことも忘れずに音楽活動を続けたいと思います。
そこに街があり人の営みがある限り、これからも相馬に何度も戻ってくるつもりです。
10月12日(日)には南相馬市・朝日座において、そうま・かえる新聞主催によるライブ・イベント「うたのありか2014〜そうま・かえる新聞presents リクオ&中川敬(ソウルフラワーユニオン)LIVE IN 朝日座〜」の開催が決定しました。
http://somakaeru.jugem.jp
2011年3月11日に東日本大震災が起きた時、自分は湘南の自宅でテレビを観ていました。湘南でも自分がかつて経験したことのない激しい揺れを感じました。
ほどなくしてテレビが、津波に飲み込まれてゆく東北各地の街の映像を流し始めました。その光景に強いショックを受けると同時に、東北で暮らす多くの知人の顔が想い浮かびました。被災したいくつもの街に、自分はツアーで何度も訪れていました。地震と津波によって多くの犠牲者を出した上に、原発事故によって大量の放射能が降り注いだ相馬市と南相馬市も、自分にとっては縁の深い街でした。
相馬市には、カルメン・マキさんのツアーのサポート・キーボーディストとして、1998年に初めて訪れました。その後は主にソロでのピアノ弾き語りのスタイルで、定期的に相馬市と南相馬市を訪れるようになりました。お寺、小ホール、喫茶店、バー、イタリアン・レストラン、スーパーetc. 相馬ではホントさまざまな場所で演奏させてもらいました。
毎回地元の人たちと楽しく打ち上がり、ツアーで訪れるたびに相馬の知人が増えていきました。こういった繋がりがなければ、自分にとって震災や原発事故は、もっと他人事になっていたのかもしれません。
震災直後は、とにかく東北の知人の安否確認を急ぎました。まず相馬で最も付き合いの古いMさんと連絡を取ることができました。
彼は、津波に飲み込まれた相馬市海沿いの街の様子を写メで送ってくれました。その写真を見て言葉を失いました。どう返事を返してよいのか、わかりませんでした。Mさんの自宅も津波に飲まれたのです。
被災地の知人たちとの安否確認が一通り終わった後も、彼らとの連絡を取り続けるよう心がけました。被災した何人もの人が、ライフラインを断たれた避難生活の中で、夜空の明るさ、美しさを語ってくれていたのが印象に残っています。自分も震災から2カ月後に初めて被災地を回り、街の灯が消えた中で、輝く夜空に見とれました。夜空は輝き続けていたけれど、僕たちはそのことに気づく事なく、前ばかり見続けていたのかもしれません。
3・11以降の体験を経て、「手に入れることによって失った大切な何か」について考えるようになりました。
震災、原発事故直後からしばらくは、被災地以外の場所でも、大半の音楽ライブ・イベントが自粛され中止になりました。自分は、震災直後から多くのライブ・ツアースケジュールが入っていました。震災翌日の12日、小田原市でのライブでは、リハーサル中に、福島第一原発の事故が起きたことを知りました。激しく動揺する気持ちを押さえて、ライブを強行したのですが、大半のお客さんが来場をキャンセルしました。
翌13日の大和市、19日の藤沢市でのライブ・イベントは中止になりました。こういう状況下での音楽のあり方について、自分のなすべきことについて、深く悩みました。相馬のMさんから再びメールが届いたのは、そんな悩みと不安の最中でした。以下のような内容です。
リクオくん
駄目だよ、LIVEを中止しちゃ。
皆が元気になるパフォーマンスを全国に届けてあげないと。
この状況で音楽まで奪われたら人間だめになるよ。
やりなよ。
ミラクルマン唄いなよ。
リクオくんの使命だよ。
相馬にとどまり、降り注ぐ放射能の恐怖と不安を抱えながらの避難生活を続ける中で、Mさんはこのメールを送ってくれたのです。
震災直後、被災した何人かの知人が自分に託した言葉は「歌い続けてくれ」でした。彼らの言葉に背中を押されて、迷いや葛藤を抱えながらも、その後の音楽活動を続けました。先行き不安の中、不謹慎と言われようと、無理をしてでも皆で音楽を楽しもうと心がけました。
震災後、多くの被災地を回りました。相馬にも何度も訪れました。現地に足を運ぶたびに初めて知ること、感じることが多く、自分の想像力の限界を思い知らされました。情報化社会の中、我々は何でも知ったつもりになり、自覚無く多くを無視し、切り捨てているのだろうと思います。
被災地でショッキングな光景を目の当たりにしたときは、自分の心にリミッターがかかったような気がしました。あまりにも大きな哀しみや絶望を受けとめるだけの心の容量が、自分にはなかったのだと思います。
でもこの哀しみや絶望から目を背けることが、再び過ちを犯すことにつながるのでしょう。当事者として、過去を背負いながら、希望を失わず、そして楽しむことも忘れずに音楽活動を続けたいと思います。
そこに街があり人の営みがある限り、これからも相馬に何度も戻ってくるつもりです。
2014年7月25日金曜日
ブログ「大型店のせいで商店街が潰れたというくだらない同情論はやめにしたい」と「未だにCDを買ってと嘆く音楽業界の末期症状」を読んで
以下のブログを読んで、異議を唱えたくなってしまった。
http://kasakoblog.exblog.jp/22226966/
この人のブログ、何度かFBでシェアされているのを見かけたことがあって、いずれも興味深いテーマだったので、読ませてもらっていたのだが、同意できる部分もありつつ、その語り口と内容に対して、常に違和感が残った。今回のブログも、さっきFBでシェアされていたのを見て、読ませてもらったのだが、正直に言うと、読んだ後に少し腹立たしい気持ちになった。
「もういい加減、商店街というビジネスモデルが崩壊していることを、きちんと理解したらどうか。」
「商店街同情論者は、CDが売れないのにCDを買ってと嘆くミュージシャンや、1000円理髪店を不衛生だとナンクセつける旧理髪店とか、いりもしないのに作ってしまったがために、なんとしてでも再稼働したい原発推進派とまったく同じ」
「潰れるものは潰す。衰退するものを無理に助けない。」
まず、以上のような尊大で切り捨てるような物言いに、いらっときた(ちなみにオレは原発推進論者ではありません)。けれど、こういう明快な物言いにこそ納得して喝采を送る人が多いのだろう。
自分は、商店街や個人商店には、これからも大切な役割があると考えている(もちろん、時代に対応してゆく必要はあるけれど)。自分のような、草の根のネットワークを頼りにフェイス・トゥ・フェイスで活動しているツアー・ミュージシャンにとっても、地方の商店街が廃れ、街が空洞化してゆて行くことは、決していいことではない。
ブログを読んで、個人の利害を超えて、街の活性化や人のつながりを大切に考えながら、地方の街で個人商店を続ける知人達の顔が思い浮かんだ。自分の音楽活動は、そんな人達によっても支えられているのだ。
2000年に、大型店の出店調整が可能だった大規模小売店舗法(略称「大店法」)が廃止され、出店規模の審査をほとんど受けない大規模小売店舗立地法(略称「大店立地法」)が、あらたに立法化されたことで、大型店の出店は事実上自由化された。
大店立地法が立法化されるにあたっては、米国からの圧力にかなり影響されたようだ。商店街が廃れてゆく背景には、こうしたグローバリズムの影響も存在する。かっての大店法が、結果として商店街の競争力を奪っていたとはいえ、商店街の衰退を、商店を営む個人だけに責任を押し付けるのは違うと思う。
大店立地法施行後は、シャッター街に歯止めが利かなくなる地域が続出した。自分は、ツアー暮らしの中で、各地でその状況が進行してゆく様を目の当たりにしてきた。10年以内の間に一気に商店街が廃れていったという印象がある。
商店街が廃れるということは、街が死んで行くということだ。つまり、人々が集い、繋がる路上がなくなってゆくということだ。面と向かっての偶然の出会いの場所が奪われてゆくということだ。
自分が愛した多くの音楽は、街から生まれたストリート・ミュージックだった(都会だけでなく地方の街も含む)。自分は今、その連なりの中で音楽活動を続けているという自覚がある。街と音楽は繋がっているのだ。
街があって、バーやカフェ、ライブハウス、CDショップが存在し、そこに人々が集い、出会い、情報を交換し、その中で自分のようなツアー・ミュージシャンに演奏の「場」が与えられるのだ。1店舗だけでは厳しい。いろんなお店が集うストリートが必要なのだ。その横の繋がりの中で猥雑な「場」が生まれる。
個人商店が元気で、街が活性化していると、草の根のネットワークや、口コミが生まれやすい。今の時代でも、自分のようなツアー・ミュージシャンの活動に、口コミは重要なのだ。
人口が数万人以下をきる市や町に、ライブハウスがないのは仕方がないとしても、商店街は必要だと思う。商店街が廃れると、地域の人々の繋がり、コミュニティー、地域の特質が失われて行くことを実感している。これは、グローバリズムの進行が、むしろ多様性や選択肢を奪ってゆく一例のようにも思う(念のために、グローバリズムが一方的に悪だと言いたいわけではない。善悪ではなく、それを受け入れざるえない状況も存在するかと思う)。
このブロガー氏が語るように、確かに時代の変化への対応は必要だろう。けれど、新しいものばかりが善であるはずがない。
過疎地に商店街が成り立たないのは理解できるけれど、そもそも地方が過疎化してゆく状況や街のドーナツ化減少を、そのまま仕方がないと受け入れてよいのだろうか。筆者の「潰れるものは潰す。」という物言いはあまりにも強引で、浅はか過ぎる。
このブロガー氏は以前にも、「未だにCDを買ってと嘆く音楽業界の末期症状」( http://kasakoblog.exblog.jp/22057487/ )というタイトルのブログで、同じような調子で「CDなんてもはや死語に近い」と切り捨てていて、寂しい違和感を持ったのを覚えている。
永遠に続くビジネスモデルは存在しないし、今後’90年代の頃ようにCDが売れることもありえないだろう。けれど、そんな簡単に新しいビジネスモデルに舵を振り切ってしまってよいのだろうか。
ダウンロードにはないパッケージとしての良さや、MP3とは違う音質がCDやアナログレコードに存在していることも確かだ。音楽からアナログ文化が消えてゆくことのダメージも大きいと感じる。切り捨てようとしている部分に、これまで積み重ねられた音楽文化の大切な要素が含まれている事も知るべきだ。ただ時代の流れを受け入れるだけでなく、受け継がれたものを自覚的に守ることによって、未来に向けて育まれてゆくものも存在する。
ブログの筆者がそのことを全面的に否定しているとは思わない。けれど、そういった音楽の豊かさを、「実感としては」知らないのではないかという疑問が残る。新しい時代の中で、選択肢の幅がひろがったつもりでいても、実際には、若い世代の音楽好きやミュージシャンの中には、普段はMP3音源しか聴いていない、レコードの音をじっくりと味わったことがない、真空管の機材や楽器を使ったことがない、という者が相当数存在しているようだ。聴いたり弾いたりした体験がないから、その必要性すら特に感じない。それは、選択肢を失っているのと同じことではないだろうか。
自分は、CD、レコード、ダウンロード配信、YouTubeそれぞれが共存できる状況が望ましいと思う。話を戻せば、同様に商店街とショッピングモール、個人店と大型店が共存する方向へ向かうべきだと思う。時代に対応できない個人商店が出てくるのは、ある程度は仕方がないことかもしれないけれど、やはりシャッター街は、その街で暮らす人達にとっても望ましくないと思う。同時に、地方の商店街に大きなダメージを与えた「大店立地法」が本当に望ましい立法であったかも検証する必要があるのではないだろうか。これはTPPにもつながる問題だと思う。
つまり、選択肢の幅と多様性を維持するべきだというのが自分の考えだ。このブログの筆者には、利便性と引き換えに失うものや、多様性に対する認識が欠けていると感じる。
「何を手にして、何を失おうとしているのか」そういう自覚を持って、新しい時代に望みたいと思う。
このブロガー氏の意見にはうなづける部分もある。一面の事実を語っていると思う。けれども、それはあくまでも一方から見た、一面の事実に過ぎない。そのことに対する自覚のなさからくる傲慢、尊大な語り口こそが、最も自分が反発を感じた部分だと思う。
ネット上には、他者を慮ることのない一方的な意見や情報があふれている。その単純さ、明快さ、浅はかさこそが、読み手を引きつけるのだろう。より強く、偏った物言いをした方がアクセス数が増えることで、どんどん表現がエスカレートしてゆくという傾向も感じる。そういった送り手と受け手の共犯関係が、フラットな思考を奪い、「事実」や「真実」をどんどん遠ざけているのだと思う。これは、自分自身への戒めの言葉でもある。
ー2014年7月25日(金)
http://kasakoblog.exblog.jp/22226966/
この人のブログ、何度かFBでシェアされているのを見かけたことがあって、いずれも興味深いテーマだったので、読ませてもらっていたのだが、同意できる部分もありつつ、その語り口と内容に対して、常に違和感が残った。今回のブログも、さっきFBでシェアされていたのを見て、読ませてもらったのだが、正直に言うと、読んだ後に少し腹立たしい気持ちになった。
「もういい加減、商店街というビジネスモデルが崩壊していることを、きちんと理解したらどうか。」
「商店街同情論者は、CDが売れないのにCDを買ってと嘆くミュージシャンや、1000円理髪店を不衛生だとナンクセつける旧理髪店とか、いりもしないのに作ってしまったがために、なんとしてでも再稼働したい原発推進派とまったく同じ」
「潰れるものは潰す。衰退するものを無理に助けない。」
まず、以上のような尊大で切り捨てるような物言いに、いらっときた(ちなみにオレは原発推進論者ではありません)。けれど、こういう明快な物言いにこそ納得して喝采を送る人が多いのだろう。
自分は、商店街や個人商店には、これからも大切な役割があると考えている(もちろん、時代に対応してゆく必要はあるけれど)。自分のような、草の根のネットワークを頼りにフェイス・トゥ・フェイスで活動しているツアー・ミュージシャンにとっても、地方の商店街が廃れ、街が空洞化してゆて行くことは、決していいことではない。
ブログを読んで、個人の利害を超えて、街の活性化や人のつながりを大切に考えながら、地方の街で個人商店を続ける知人達の顔が思い浮かんだ。自分の音楽活動は、そんな人達によっても支えられているのだ。
2000年に、大型店の出店調整が可能だった大規模小売店舗法(略称「大店法」)が廃止され、出店規模の審査をほとんど受けない大規模小売店舗立地法(略称「大店立地法」)が、あらたに立法化されたことで、大型店の出店は事実上自由化された。
大店立地法が立法化されるにあたっては、米国からの圧力にかなり影響されたようだ。商店街が廃れてゆく背景には、こうしたグローバリズムの影響も存在する。かっての大店法が、結果として商店街の競争力を奪っていたとはいえ、商店街の衰退を、商店を営む個人だけに責任を押し付けるのは違うと思う。
大店立地法施行後は、シャッター街に歯止めが利かなくなる地域が続出した。自分は、ツアー暮らしの中で、各地でその状況が進行してゆく様を目の当たりにしてきた。10年以内の間に一気に商店街が廃れていったという印象がある。
商店街が廃れるということは、街が死んで行くということだ。つまり、人々が集い、繋がる路上がなくなってゆくということだ。面と向かっての偶然の出会いの場所が奪われてゆくということだ。
自分が愛した多くの音楽は、街から生まれたストリート・ミュージックだった(都会だけでなく地方の街も含む)。自分は今、その連なりの中で音楽活動を続けているという自覚がある。街と音楽は繋がっているのだ。
街があって、バーやカフェ、ライブハウス、CDショップが存在し、そこに人々が集い、出会い、情報を交換し、その中で自分のようなツアー・ミュージシャンに演奏の「場」が与えられるのだ。1店舗だけでは厳しい。いろんなお店が集うストリートが必要なのだ。その横の繋がりの中で猥雑な「場」が生まれる。
個人商店が元気で、街が活性化していると、草の根のネットワークや、口コミが生まれやすい。今の時代でも、自分のようなツアー・ミュージシャンの活動に、口コミは重要なのだ。
人口が数万人以下をきる市や町に、ライブハウスがないのは仕方がないとしても、商店街は必要だと思う。商店街が廃れると、地域の人々の繋がり、コミュニティー、地域の特質が失われて行くことを実感している。これは、グローバリズムの進行が、むしろ多様性や選択肢を奪ってゆく一例のようにも思う(念のために、グローバリズムが一方的に悪だと言いたいわけではない。善悪ではなく、それを受け入れざるえない状況も存在するかと思う)。
このブロガー氏が語るように、確かに時代の変化への対応は必要だろう。けれど、新しいものばかりが善であるはずがない。
過疎地に商店街が成り立たないのは理解できるけれど、そもそも地方が過疎化してゆく状況や街のドーナツ化減少を、そのまま仕方がないと受け入れてよいのだろうか。筆者の「潰れるものは潰す。」という物言いはあまりにも強引で、浅はか過ぎる。
このブロガー氏は以前にも、「未だにCDを買ってと嘆く音楽業界の末期症状」( http://kasakoblog.exblog.jp/22057487/ )というタイトルのブログで、同じような調子で「CDなんてもはや死語に近い」と切り捨てていて、寂しい違和感を持ったのを覚えている。
永遠に続くビジネスモデルは存在しないし、今後’90年代の頃ようにCDが売れることもありえないだろう。けれど、そんな簡単に新しいビジネスモデルに舵を振り切ってしまってよいのだろうか。
ダウンロードにはないパッケージとしての良さや、MP3とは違う音質がCDやアナログレコードに存在していることも確かだ。音楽からアナログ文化が消えてゆくことのダメージも大きいと感じる。切り捨てようとしている部分に、これまで積み重ねられた音楽文化の大切な要素が含まれている事も知るべきだ。ただ時代の流れを受け入れるだけでなく、受け継がれたものを自覚的に守ることによって、未来に向けて育まれてゆくものも存在する。
ブログの筆者がそのことを全面的に否定しているとは思わない。けれど、そういった音楽の豊かさを、「実感としては」知らないのではないかという疑問が残る。新しい時代の中で、選択肢の幅がひろがったつもりでいても、実際には、若い世代の音楽好きやミュージシャンの中には、普段はMP3音源しか聴いていない、レコードの音をじっくりと味わったことがない、真空管の機材や楽器を使ったことがない、という者が相当数存在しているようだ。聴いたり弾いたりした体験がないから、その必要性すら特に感じない。それは、選択肢を失っているのと同じことではないだろうか。
自分は、CD、レコード、ダウンロード配信、YouTubeそれぞれが共存できる状況が望ましいと思う。話を戻せば、同様に商店街とショッピングモール、個人店と大型店が共存する方向へ向かうべきだと思う。時代に対応できない個人商店が出てくるのは、ある程度は仕方がないことかもしれないけれど、やはりシャッター街は、その街で暮らす人達にとっても望ましくないと思う。同時に、地方の商店街に大きなダメージを与えた「大店立地法」が本当に望ましい立法であったかも検証する必要があるのではないだろうか。これはTPPにもつながる問題だと思う。
つまり、選択肢の幅と多様性を維持するべきだというのが自分の考えだ。このブログの筆者には、利便性と引き換えに失うものや、多様性に対する認識が欠けていると感じる。
「何を手にして、何を失おうとしているのか」そういう自覚を持って、新しい時代に望みたいと思う。
このブロガー氏の意見にはうなづける部分もある。一面の事実を語っていると思う。けれども、それはあくまでも一方から見た、一面の事実に過ぎない。そのことに対する自覚のなさからくる傲慢、尊大な語り口こそが、最も自分が反発を感じた部分だと思う。
ネット上には、他者を慮ることのない一方的な意見や情報があふれている。その単純さ、明快さ、浅はかさこそが、読み手を引きつけるのだろう。より強く、偏った物言いをした方がアクセス数が増えることで、どんどん表現がエスカレートしてゆくという傾向も感じる。そういった送り手と受け手の共犯関係が、フラットな思考を奪い、「事実」や「真実」をどんどん遠ざけているのだと思う。これは、自分自身への戒めの言葉でもある。
ー2014年7月25日(金)
2014年7月21日月曜日
振り返り、思い出し、考える時間 ー いわき市と水戸市を訪れて
週末は、福島県いわき市、茨城県水戸市の常磐線沿い2ヶ所の街をツアーした。どちらの街も10数年前から定期的にツアーで訪れている街で、被害の大きさに違いはあるけれど、どちらも東日本大震災と福島第1原発事故によって被災した街だ。
いわき市club SONICのライブでは、オープニング・アクトだった地元バンド、アブラスマシのステージにぐっときた。バンドのVOはSONIC店長・三ケ田君。3・11以降、あらためていわきで暮らしてゆくことを決意した彼の思いが、歌を通して伝わった。その歌には彼の思いだけじゃない、彼が回りから受け取ったさまざまな思いがつまっているとも感じた。音楽表現はその人だけのものでなく、いろんな魂が宿ってなりたつものなのだとあらためて感じた。
打ち上げでは三ケ田君やソニックのオーナーSさん、南相馬からフリーペーパー「そうまかえる新聞」を抱えて駆けつけてくれたY君(「そうまかえる新聞」最新号に寄稿させてもらいました)らと、音楽、原発のこと等いろんな話をした。自分が福島原発のことを意識するようになったのは、多分事故が起こる5、6年前のこと、ツアーでいわきを訪れた際、三ケ田君に教えられたことがきっかけだった。福島第1第2原発が東京電力のものであること、東北で暮らす人達のためではなく関東圏に送電するための発電であること、老朽化していて危険だと言われている事など、自分はそれまで何も知らなかった。
SONICのあるいわき駅周辺は福島第1原発から45キロ程の距離。11年3月15日に第1原発で2度目の爆発があったとき、市からは、外出を控え部屋の窓わくにガムテープをはるように等の指示があると同時に、市民に対してヨウ素剤の支給が行われたそうだ。街のライフラインが断たれることで、市民は情報を入手できず、大きな不安にかられていた時に、このような指示があったことで街はパニック状態に陥った。ヨウ素剤は副作用が強く、あわててそれを飲んで体調を崩した人もいたそうだ。
3.11以降、いわきには多くのミュージシャンや著名人が支援のためにやってきた。けれど、被災した地元の人達は、彼らとの間に意識、感覚の違い、溝を感じることも多かったそうだ。
たとえば、ある映画監督は、いわきに講演に来て、地元の人達に対して、すぐにもいわきから避難するように訴えた。その講演を聞いていたいわきの知人は、自分が責められている気持ちになったと同時に、こちらの状況を考慮しない強い話し振りに違和感を抱いたそうだ。信じた道を突き進み、行動力ある人間の中に存在する独善と傲慢が、3.11直後の状況の中で、地元の人達の心をかえって傷つけてしまうこともあったようだ。
これらは、11年の8月にいわき市を訪れたときに地元の人達から聞いた話だ。今回、いわきに戻ってくることで、3.11以降、何度がいわきを訪れた中で、地元の人から直接聞いたさまざまな話、さまざまなドラマを思い出した。それだけ忘れてしまっているということでもある。
club SONICのフロア入り口の壁一杯に張り付けられた写真の数々。
いわき市の翌日、茨城県水戸市Blue Moodsでのライブは、地元のイベンター集団「地元でライ部」の主催だった(集団といってもメンバーは4人)。ここ数年、水戸にツアーで訪れるときは、いつも彼らがライブを企画してくれている。
この夜のライブの盛り上がりは、これまでのイベントの積み重ねによるところが大きい。企画自体が、地元の人達に定着してきていることを感じた。継続は力なり。次回の「地元でライ部」企画は、11月Blue Moodsでの山口洋ライブ。皆さん、ぜひ。
「地元でライ部」代表の甲斐くんは、家族で居酒屋を営んでいるのだが、震災によって建物がダメージを受け、再オープンまでに時間を要した。地産地消が売りだった食材も、放射能の影響で一時期、茨城産で通すことができなくなってしまった。
震災直後は水戸市もライフラインを断たれ、食料が不足したため、甲斐くんのお店は、蓄えていた食材を地域の人達に提供し続けたそうだ。
ライブ会場のBlue Moodsのマスター・榎さんは、震災後しばらくは、ライフラインを断たれたままの近郊の街に、車で飲み水と食料を運び続けたそう。この日の打ち上げでは、榎さんから、震災後しばらくして、津波で壊滅的な打撃を受けた三陸地方の沿岸沿いの街へ、義援金を持って訪れた時の話を聞かせてもらった。
被災した街の人達と話していて感じることの一つは、地元に対する思いの深まりだ。彼らは3.11以降、地元で暮らしてゆくことを選択しなおしたのだ。それと同時に、彼らは地元を超えてのネットワーク作りにも積極的だ。震災後、復興支援のため多くの民間人がボランティアで被災地に入り、地元の人達との交流を深めたこともネットワーク作りにつながった。(念のために、自分は地元に残ることが正しいとか美しいと言いたいわけではない。有事の際に、地元に残ることも、出て行くことも、それぞれの選択が尊重されるべきだと思う)。
そうした地域に根ざした視点からとらえる原発問題と中央都市からとらえる原発問題には、意識の隔たりを感じる。都市部では、放射能に対する恐れが極端に増幅される傾向が強いように思う。それによって、放射能や原発の安全性以外の、中央による地方の支配、搾取、地域コミュニティーの分断といった原発の抱える構造的な問題が見逃されがちな気がする。
原発は稼働停止になれば問題が解決するわけではない。廃炉に向かうにしても、原発との付き合いはこれからも長く続かざるえない。イデオロギーや政治的立場を超え、いくつもの世代をまたいで、ずっと向き合い続けてゆかなければいけない問題なのだ。
今回のいわき市、水戸市の2ヶ所ツアーは自分にとって、3.11以降を確認したり、振り返る機会にもなった。前を見るばかりでなく、振り返り、思い出し、考える時間の大切さも感じている。
−2014年7月21日
いわき市club SONICのライブでは、オープニング・アクトだった地元バンド、アブラスマシのステージにぐっときた。バンドのVOはSONIC店長・三ケ田君。3・11以降、あらためていわきで暮らしてゆくことを決意した彼の思いが、歌を通して伝わった。その歌には彼の思いだけじゃない、彼が回りから受け取ったさまざまな思いがつまっているとも感じた。音楽表現はその人だけのものでなく、いろんな魂が宿ってなりたつものなのだとあらためて感じた。
打ち上げでは三ケ田君やソニックのオーナーSさん、南相馬からフリーペーパー「そうまかえる新聞」を抱えて駆けつけてくれたY君(「そうまかえる新聞」最新号に寄稿させてもらいました)らと、音楽、原発のこと等いろんな話をした。自分が福島原発のことを意識するようになったのは、多分事故が起こる5、6年前のこと、ツアーでいわきを訪れた際、三ケ田君に教えられたことがきっかけだった。福島第1第2原発が東京電力のものであること、東北で暮らす人達のためではなく関東圏に送電するための発電であること、老朽化していて危険だと言われている事など、自分はそれまで何も知らなかった。
SONICのあるいわき駅周辺は福島第1原発から45キロ程の距離。11年3月15日に第1原発で2度目の爆発があったとき、市からは、外出を控え部屋の窓わくにガムテープをはるように等の指示があると同時に、市民に対してヨウ素剤の支給が行われたそうだ。街のライフラインが断たれることで、市民は情報を入手できず、大きな不安にかられていた時に、このような指示があったことで街はパニック状態に陥った。ヨウ素剤は副作用が強く、あわててそれを飲んで体調を崩した人もいたそうだ。
3.11以降、いわきには多くのミュージシャンや著名人が支援のためにやってきた。けれど、被災した地元の人達は、彼らとの間に意識、感覚の違い、溝を感じることも多かったそうだ。
たとえば、ある映画監督は、いわきに講演に来て、地元の人達に対して、すぐにもいわきから避難するように訴えた。その講演を聞いていたいわきの知人は、自分が責められている気持ちになったと同時に、こちらの状況を考慮しない強い話し振りに違和感を抱いたそうだ。信じた道を突き進み、行動力ある人間の中に存在する独善と傲慢が、3.11直後の状況の中で、地元の人達の心をかえって傷つけてしまうこともあったようだ。
これらは、11年の8月にいわき市を訪れたときに地元の人達から聞いた話だ。今回、いわきに戻ってくることで、3.11以降、何度がいわきを訪れた中で、地元の人から直接聞いたさまざまな話、さまざまなドラマを思い出した。それだけ忘れてしまっているということでもある。
club SONICのフロア入り口の壁一杯に張り付けられた写真の数々。
いわき市の翌日、茨城県水戸市Blue Moodsでのライブは、地元のイベンター集団「地元でライ部」の主催だった(集団といってもメンバーは4人)。ここ数年、水戸にツアーで訪れるときは、いつも彼らがライブを企画してくれている。
この夜のライブの盛り上がりは、これまでのイベントの積み重ねによるところが大きい。企画自体が、地元の人達に定着してきていることを感じた。継続は力なり。次回の「地元でライ部」企画は、11月Blue Moodsでの山口洋ライブ。皆さん、ぜひ。
「地元でライ部」代表の甲斐くんは、家族で居酒屋を営んでいるのだが、震災によって建物がダメージを受け、再オープンまでに時間を要した。地産地消が売りだった食材も、放射能の影響で一時期、茨城産で通すことができなくなってしまった。
震災直後は水戸市もライフラインを断たれ、食料が不足したため、甲斐くんのお店は、蓄えていた食材を地域の人達に提供し続けたそうだ。
ライブ会場のBlue Moodsのマスター・榎さんは、震災後しばらくは、ライフラインを断たれたままの近郊の街に、車で飲み水と食料を運び続けたそう。この日の打ち上げでは、榎さんから、震災後しばらくして、津波で壊滅的な打撃を受けた三陸地方の沿岸沿いの街へ、義援金を持って訪れた時の話を聞かせてもらった。
被災した街の人達と話していて感じることの一つは、地元に対する思いの深まりだ。彼らは3.11以降、地元で暮らしてゆくことを選択しなおしたのだ。それと同時に、彼らは地元を超えてのネットワーク作りにも積極的だ。震災後、復興支援のため多くの民間人がボランティアで被災地に入り、地元の人達との交流を深めたこともネットワーク作りにつながった。(念のために、自分は地元に残ることが正しいとか美しいと言いたいわけではない。有事の際に、地元に残ることも、出て行くことも、それぞれの選択が尊重されるべきだと思う)。
そうした地域に根ざした視点からとらえる原発問題と中央都市からとらえる原発問題には、意識の隔たりを感じる。都市部では、放射能に対する恐れが極端に増幅される傾向が強いように思う。それによって、放射能や原発の安全性以外の、中央による地方の支配、搾取、地域コミュニティーの分断といった原発の抱える構造的な問題が見逃されがちな気がする。
原発は稼働停止になれば問題が解決するわけではない。廃炉に向かうにしても、原発との付き合いはこれからも長く続かざるえない。イデオロギーや政治的立場を超え、いくつもの世代をまたいで、ずっと向き合い続けてゆかなければいけない問題なのだ。
今回のいわき市、水戸市の2ヶ所ツアーは自分にとって、3.11以降を確認したり、振り返る機会にもなった。前を見るばかりでなく、振り返り、思い出し、考える時間の大切さも感じている。
−2014年7月21日
2014年7月17日木曜日
小学生時代の差別体験から考える
★小学生時代の差別体験から考える
自分が生まれ育った京都市の学区内には部落民が居住する同和地区が存在し、各クラスにその地区で暮らす生徒がいた。学校の授業では同和教育が行われ、差別問題に対する意識は高い地域だったと思う。
学内には在日コリアンや華僑の生徒も存在した。在日コリアンの生徒のほとんどは通名を使用し、在日であることを公表していないことが多かった。在日であることが学内でも噂になり、自然にそのように認知されたり、後にカミングアウトする生徒もいた。在日の生徒の中には、在学中に何度も改名する者もいた。
自分が育った街は、差別問題に対する意識が高い地域である一方で、人々の間には、社会のマイノリティーや特定の民族に対する差別意識も根強く残っていた。
幼い頃、回りの大人達から「同和地区はガラが悪いから行ってはいけない」とよく言って聞かされた。クラスには同和地区で暮らす仲の良い生徒がいたにも関わらず、自分がその場所に足を踏み入れることはなかった。怖かったのだ。同和地区で暮らす生徒も、進んでその地区に自分を誘おうとはしなかったように思う。学校では仲がよくても、互いに超えられない一線が存在していた。
同和地区の生徒の親の中には、教育を受けられなかった故に、しっかりと読み書きのできない人もいた。そういった家庭環境のせいで、その地区では学校の授業に遅れがちな生徒が目立った(一方で成績優秀な生徒も存在した)。同和地区の生徒達が学校の授業の後、地区内にある隣保館(りんぽかん)という社会福祉施設に通い、学習のサポートを受けていたのを覚えている。
隣保館に通う生徒達の話を聞いていると、そこは生徒や地区の人達が寄り集まる楽しげな場所のようにも思えた。「どうやらその地区には、自分が暮らす地域にはないコミュニティーが存在するらしい」そんなことを子供心に感じ取っていた。そして「その場所に行けば自分は『よそ者』になる」ということも、はっきりと意識していた気がする。自分は子供の頃から寄る辺無さのような感覚を抱えていたので、その場所に存在するらしい「繋がり」に対する「羨ましさ」も感じていた気がする。偏見や差別は、そういった意識の中からも生まれるのだろうと思う。
小学4年生の頃、生徒の間で頻繁に使われるようになった言葉がある。「チョンコ」「チョーセン」といった差別用語だ。在日コリアンの生徒に対してだけでなく、気に食わない相手全般、あるいはいじめの対象になっている生徒に対して、さかんにそれらの言葉が投げつけられた。
同和地区の生徒もそれらの言葉を好んで使っていたのを覚えている。「差別されている側が、さらに差別する対象を見つけようとする」というやるせない構図が幼い子供の間にも存在していた。
自分は当時、クラスの番長的存在の生徒に逆らったことから、彼と回りの取り巻きからイジメの対象にされ、頻繁にそれらの言葉を投げつけられていた。今思えば、「チョンコ」「チョーセン」と呼ばれることを屈辱に感じていた自分の心の中にも、既に差別と偏見の意識が存在していたように思う。
こういった差別用語と差別意識を最初に子供達に植え付けたのは、回りの大人達だった。子供達は学校では同和教育を受け、差別はいけないことだと教えられる一方で、実生活では回りの一部の大人達の差別意識を汲み取り、それに影響された。
あれから40年近い歳月が流れ、今ネット上では、自分の考えや立場の違う相手を「在日」だと決めつけて攻撃したり、侮蔑や揶揄の意味合いを込めて、自分が小学生の頃に投げつけられたのと同じ「チョンコ」「チョーセン」といった言葉が使われるのを目にするようになった。こういった動きは、ネット上だけでなく路上にも広がり始めた。
差別意識を持った憎悪表現である「ヘイトスピーチ」や「ヘイトデモ」の存在を自分が認識するようになったのは、ここ2、3年のことだ。そういう状況に応じて、「レイシズム」「レイシスト」という言葉が浸透し始め、ヘイトスピーチやヘイトデモに抗議するカウンターの行動も盛んになった。
世の中の排外的な空気が、日本で暮らすマイノリティーや特定の民族に対する差別や偏見、憎悪を増々助長しているように感じる。近隣国の反日政策や覇権主義が、こういった動きを広めるきっかけの一つになっていることも確かだろう。
差別や憎しみの対象は、人々が抱える漠然とした不安や鬱積した思いのスケープゴードとしても存在しているように感じる。在日特権の存在をヒステリックに訴え、ヘイトスピーチを繰り返す人達の無意識の中には、寄る辺無さを抱えていた小学生時代の自分が同和地区の人達に対して抱いた「羨望」や「恐れ」と共通する感情も存在するのかもしれない。ただ、自分が小学生の頃に遭遇し体験した差別と現在のネット上やヘイトデモで見られる差別のあり方には、大きな違いも感じる。現在のヘイトスピーチで使われる侮蔑の言葉は度を超えていて、それらを列挙するのが憚れるほどだ。
小、中時代の自分は、学校生活を通して、差別されている当事者である同和地区の人達や在日コリアンの人達と毎日顔を突き合わせて生活していた。同和地区の生徒の中にも、在日の生徒の中にも仲の良い生徒が存在して、放課後も彼らと共に遊んで過ごした。自分以外の生徒達も多分、同和地区や在日の生徒達との生身の付き合いを通して、彼らも同じ血の通った人間であることはある程度実をもって感じていたと思う。
互いに超えられない一線や差別意識は存在しても、こうした関係性の中て身につけた世間感覚や、生身同士の関係性がもたらす実感が、差別意識や差別的言動に一定の歯止めをかけていた気がする。現在に比べればの話だけれど。
現在のSNS上での罵詈雑言や路上でのヘイトスピーチには、そうした「歯止め」がなくなってしまっていると感じる。それは生身の他者との関係性の少なさが一因ではないかと考える。
日常世界でのリアルな人間関係や世間感覚、現実感覚の希薄さが、他者に対する想像力と「歯止め」を奪い、憎むべき対象のイメージを固定化させ、個人の記号化をもたらしているのではないか。そうでなければ、あれほどまでに人間としての尊厳を徹底的に汚すような罵声を相手に浴びせることはできないと思う。
そうした人間同士がネット上で出会い、憎悪と差別意識によって繋がることで承認し合い、自分を保っているのだとしたら、とても不幸なことだ。
ヘイトスピーチ、ヘイトデモに抗議する言動の中にも、相手に対する記号化が行き過ぎているのではないかと感じることがある。現場にいる人間からは甘っちょろいと言われるかもしれないけれど、目には目をのやり方には、自分はやはりなじめない。こういう状況を見るにつけ、社会の分断化は一層進みつつあるのではないかと感じる。
1人1人の個人が自身と向き合う作業を積み重ねてゆくと同時に、1人1人の生身の他者との出会いを丁寧に積み重ねてゆくことの大切さを増々感じている。
ー2014年7月17日(木)
自分が生まれ育った京都市の学区内には部落民が居住する同和地区が存在し、各クラスにその地区で暮らす生徒がいた。学校の授業では同和教育が行われ、差別問題に対する意識は高い地域だったと思う。
学内には在日コリアンや華僑の生徒も存在した。在日コリアンの生徒のほとんどは通名を使用し、在日であることを公表していないことが多かった。在日であることが学内でも噂になり、自然にそのように認知されたり、後にカミングアウトする生徒もいた。在日の生徒の中には、在学中に何度も改名する者もいた。
自分が育った街は、差別問題に対する意識が高い地域である一方で、人々の間には、社会のマイノリティーや特定の民族に対する差別意識も根強く残っていた。
幼い頃、回りの大人達から「同和地区はガラが悪いから行ってはいけない」とよく言って聞かされた。クラスには同和地区で暮らす仲の良い生徒がいたにも関わらず、自分がその場所に足を踏み入れることはなかった。怖かったのだ。同和地区で暮らす生徒も、進んでその地区に自分を誘おうとはしなかったように思う。学校では仲がよくても、互いに超えられない一線が存在していた。
同和地区の生徒の親の中には、教育を受けられなかった故に、しっかりと読み書きのできない人もいた。そういった家庭環境のせいで、その地区では学校の授業に遅れがちな生徒が目立った(一方で成績優秀な生徒も存在した)。同和地区の生徒達が学校の授業の後、地区内にある隣保館(りんぽかん)という社会福祉施設に通い、学習のサポートを受けていたのを覚えている。
隣保館に通う生徒達の話を聞いていると、そこは生徒や地区の人達が寄り集まる楽しげな場所のようにも思えた。「どうやらその地区には、自分が暮らす地域にはないコミュニティーが存在するらしい」そんなことを子供心に感じ取っていた。そして「その場所に行けば自分は『よそ者』になる」ということも、はっきりと意識していた気がする。自分は子供の頃から寄る辺無さのような感覚を抱えていたので、その場所に存在するらしい「繋がり」に対する「羨ましさ」も感じていた気がする。偏見や差別は、そういった意識の中からも生まれるのだろうと思う。
小学4年生の頃、生徒の間で頻繁に使われるようになった言葉がある。「チョンコ」「チョーセン」といった差別用語だ。在日コリアンの生徒に対してだけでなく、気に食わない相手全般、あるいはいじめの対象になっている生徒に対して、さかんにそれらの言葉が投げつけられた。
同和地区の生徒もそれらの言葉を好んで使っていたのを覚えている。「差別されている側が、さらに差別する対象を見つけようとする」というやるせない構図が幼い子供の間にも存在していた。
自分は当時、クラスの番長的存在の生徒に逆らったことから、彼と回りの取り巻きからイジメの対象にされ、頻繁にそれらの言葉を投げつけられていた。今思えば、「チョンコ」「チョーセン」と呼ばれることを屈辱に感じていた自分の心の中にも、既に差別と偏見の意識が存在していたように思う。
こういった差別用語と差別意識を最初に子供達に植え付けたのは、回りの大人達だった。子供達は学校では同和教育を受け、差別はいけないことだと教えられる一方で、実生活では回りの一部の大人達の差別意識を汲み取り、それに影響された。
あれから40年近い歳月が流れ、今ネット上では、自分の考えや立場の違う相手を「在日」だと決めつけて攻撃したり、侮蔑や揶揄の意味合いを込めて、自分が小学生の頃に投げつけられたのと同じ「チョンコ」「チョーセン」といった言葉が使われるのを目にするようになった。こういった動きは、ネット上だけでなく路上にも広がり始めた。
差別意識を持った憎悪表現である「ヘイトスピーチ」や「ヘイトデモ」の存在を自分が認識するようになったのは、ここ2、3年のことだ。そういう状況に応じて、「レイシズム」「レイシスト」という言葉が浸透し始め、ヘイトスピーチやヘイトデモに抗議するカウンターの行動も盛んになった。
世の中の排外的な空気が、日本で暮らすマイノリティーや特定の民族に対する差別や偏見、憎悪を増々助長しているように感じる。近隣国の反日政策や覇権主義が、こういった動きを広めるきっかけの一つになっていることも確かだろう。
差別や憎しみの対象は、人々が抱える漠然とした不安や鬱積した思いのスケープゴードとしても存在しているように感じる。在日特権の存在をヒステリックに訴え、ヘイトスピーチを繰り返す人達の無意識の中には、寄る辺無さを抱えていた小学生時代の自分が同和地区の人達に対して抱いた「羨望」や「恐れ」と共通する感情も存在するのかもしれない。ただ、自分が小学生の頃に遭遇し体験した差別と現在のネット上やヘイトデモで見られる差別のあり方には、大きな違いも感じる。現在のヘイトスピーチで使われる侮蔑の言葉は度を超えていて、それらを列挙するのが憚れるほどだ。
小、中時代の自分は、学校生活を通して、差別されている当事者である同和地区の人達や在日コリアンの人達と毎日顔を突き合わせて生活していた。同和地区の生徒の中にも、在日の生徒の中にも仲の良い生徒が存在して、放課後も彼らと共に遊んで過ごした。自分以外の生徒達も多分、同和地区や在日の生徒達との生身の付き合いを通して、彼らも同じ血の通った人間であることはある程度実をもって感じていたと思う。
互いに超えられない一線や差別意識は存在しても、こうした関係性の中て身につけた世間感覚や、生身同士の関係性がもたらす実感が、差別意識や差別的言動に一定の歯止めをかけていた気がする。現在に比べればの話だけれど。
現在のSNS上での罵詈雑言や路上でのヘイトスピーチには、そうした「歯止め」がなくなってしまっていると感じる。それは生身の他者との関係性の少なさが一因ではないかと考える。
日常世界でのリアルな人間関係や世間感覚、現実感覚の希薄さが、他者に対する想像力と「歯止め」を奪い、憎むべき対象のイメージを固定化させ、個人の記号化をもたらしているのではないか。そうでなければ、あれほどまでに人間としての尊厳を徹底的に汚すような罵声を相手に浴びせることはできないと思う。
そうした人間同士がネット上で出会い、憎悪と差別意識によって繋がることで承認し合い、自分を保っているのだとしたら、とても不幸なことだ。
ヘイトスピーチ、ヘイトデモに抗議する言動の中にも、相手に対する記号化が行き過ぎているのではないかと感じることがある。現場にいる人間からは甘っちょろいと言われるかもしれないけれど、目には目をのやり方には、自分はやはりなじめない。こういう状況を見るにつけ、社会の分断化は一層進みつつあるのではないかと感じる。
1人1人の個人が自身と向き合う作業を積み重ねてゆくと同時に、1人1人の生身の他者との出会いを丁寧に積み重ねてゆくことの大切さを増々感じている。
ー2014年7月17日(木)
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