2021年9月28日火曜日

「問いかけ」としての存在 ー 映画『太陽の塔』を観て

 アマゾンプライムビデオでドミュメンタリー映画『太陽の塔』を観た。
『太陽の塔』は1970年に開催された大阪万博のシンボルとして岡本太郎が制作した建造物で、万博終了後50年以上を経て今も万博公園に残され続けている。

2011年の東日本大震災から3週間後、自分は太陽の塔を観るために万博公園にまで足を運んでいる。震災と原発事故のショックで心揺れる日々の中、太陽の塔に何か答えを求めていたのかもしれない。
離れた場所からは寂しげに見えたその姿が、近くで見上げた時には突き抜けるようなエネルギーを感じたことを覚えている。


その時、特に印象に残ったのが、塔が背後に背負う「黒い太陽の顔」だった。
映画によれば、それは人間によって分析しつくされた太陽であり、核エネルギーの象徴とのことだった。
「原子力発電は、人類が人工の太陽を手に入れたことだ。」と太郎は語っている。




太陽の塔が、大阪万博のテーマであった「人類の進歩と調和」に対するアンチテーゼが込められた作品であることは明白だけれど、その表現は、糾弾に走らず、明確な答えや選択を提示することもなく両義的だ。
なんだかよくわからないけれど、とにかくスケールがでかい。過去、現在、未来、絶望、希望、矛盾、生と死、etc.全体的なものが表現されている感じ。そこには、人類が切り捨ててきた何かが含まれている。

自分たちは今、進歩と調和からはかけ離れた場所にいるのかもしれない。太郎が言うように、全体性を失った人間が他者や地球と調和をはかれるとは思えない。
万博から50年以上を経たこの時期を、「進歩と調和」の欺瞞に向き合う何度目かのチャンスと捉えたい。自分が生きている間に、既にいくつかのチャンスを逃してしまった気がする。

太陽の塔が今も存在し続けることは、一つの救いのように思える。取り壊すことのできない畏れや良心が働いたのかもしれない。
太陽の塔は、これからも時代を超えて「問いかけ」として存在し続けるのだろう。選択や答えを導き出すのは自分自身なのだ。

ー2021年9月27日(火)

2021年8月12日木曜日

時代の変化と自身の変化 ー 張本勲氏の発言から考える

先日のツアー先での出来事。
ある宿泊先の書棚に大量の漫画が並べられていたので、小学生の頃から思い入れの深かった作品を手に取り、深夜に読み耽けった。

数十年ぶりに読み返してみて、やはり魅力的な作品だと確認できた一方で、ある戸惑いが残った。今の時代にはNGの差別用語、差別表現が想定以上に散見されたからだ。
用語使用の問題だけでなく、明らかな女性蔑視や人権意識の低さからくる表現も見受けられ、こういう表現を当時の自分が問題意識なく受け入れていたことにある種の感慨を抱いた。時代の変化と自身の意識の変化を大いに感じさせられる出来事だった。

ツアーから戻ってきたら、女子フェザー級で金メダル獲得した入江聖奈さん対する野球評論家の張本勲氏の発言が問題になっていた。

「女性でも殴り合い好きな人がいるんだね。どうするのかな、嫁入り前のお嬢ちゃんが顔を殴り合って、こんな競技好きな人がいるんだ。それにしても金だから、あっぱれあげてください」

ジェンダーフリーが浸透した社会の中では相当に時代錯誤だし、ジェンダーの平等を掲げるオリンピック精神にもそぐわない発言だと思う。
10年前ならスルーされた発言かもしれないけれど、10年前であってもこの発言に傷つき違和感を抱く人は多数存在しただろう。

日本においても人権意識の高まりが加速していることは、歓迎すべき変化だと思う。その変化に自分も適応していきたい。そして、人権意識が変化する以前から、差別や抑圧そのものは存在し続け、見過ごされてきた事実も忘れちゃいけないと思う。

諦観的な態度で、差別や抑圧が消えることはないと発言する人は多い。そうかもしれないけれど、それらを可視化し、多くの人が問題を共有することで、状況は少しずつよくなるんじゃないかと思う。

ー 2021年8月12日(木)

2021年8月11日水曜日

久し振りに公で「陰謀論」という言葉を解禁して、思うことをつらつらと

AERAの連載「鴻上尚史のほがらか人生相談」は毎回読み応えがあるのだけれど、今回の、陰謀論を信じる母に悩む28歳女性の相談への鴻上氏の対応は、特に考えさせられるというか、身につまされる内容だった。

陰謀論に関しては、自分もSNSで何度も取り上げてきたし、その広がりに対する危惧を昨年7月17日のブログにもまとめている。  https://rikuonet.blogspot.com/2020/07/blog-post.html 今回読み返してみて、当時から陰謀論に対する自分の基本的な考えは今と変わっていないと思った。

このコロナ禍、自分の周囲にも陰謀論にハマる人が出始め、何人もの知人から陰謀論に関する相談も受けるようになった。もうこれは特別な傾向ではなく時代の空気なのだと実感している。誰もがコロナに感染する可能性があるように、誰もが陰謀論にハマる可能性を有しているのだ。

陰謀論やインフォデミックのひろがりの先に待っているのが全体主義であることは、歴史が証明していると思う。きっと、先の戦争中は、国民の多くが大本営発表というデマを率先して信じ、国を挙げての陰謀論に熱狂したのだろう。

カルト宗教にハマった友人の洗脳を解いた自らの体験を交えてながら相談に応じる鴻上氏の文面からは、言葉選びに慎重な跡が窺える。そもそも、こういった相談に対する単純な答など存在しないはずで、その慎重ぶりこそが氏の誠実さのあらわれなのだと思う。

実は自分も浪人時代に、高校時代からの数少ない友人をカルト宗教に奪われた体験がある。それは苦さの残る記憶だ。
カルト宗教にハマった友人から執拗に勧誘を受けるようになり、彼に連れられて団体の施設を訪れた結果、自分は施設の一室に軟禁された。
狭い部屋に閉じ込められて信者に周りを囲まれ、入会をすすめる説得が続いた後、今度は長時間延々とビデオを観せられ続けた。それは、人類滅亡の恐怖を煽るおどろおどろしい内容だった。
信者から今日は帰らないようにと言われ、さすがに危険を感じて、なんとか部屋を抜け出して深夜に帰宅したのだけれど、今思えば、あれは洗脳作業の一環だったのだろう。

その後も友人は何度か自宅を尋ねてきたけれど、自分はまた施設に連れて行かれる怖さもあって、彼と面会することを拒絶した。門前払いされて、寂しげに帰ってゆく友人の背中を、自宅の窓のカーテンの隙間から見送り続けていたのを覚えている。
鴻上氏とは違って、自分は友人を取り戻すどころか、突き放してしまった。

鴻上氏が語るように、カルト宗教にハマる根本の原因は淋しさや不安で、それは陰謀論にハマる場合も同じなのだろう。
そして、さらにのめり込む理由が、「使命感」と「充実感」という指摘もその通りなんだろうと思う。

《自分だけが知っている「世界の真実」を他人に語る時、「使命感」と「充実感」を感じ、ずっと苦しめられていた淋しさや不安、空しさは消えていきます。
 ですから、冷静な論理的説得は意味がないのです。》 

この一文には心が痛んだ。
自分は、コロナ禍に陰謀論にハマった知人に対して、ある席で論理的説得を試みたことがあり、後になってその言動をずっと後悔し続けていたのだ。論理的と言いつつも、その時の自分の心持ちは、かなり感情的だったことを否定できない。話をせずにいられなかった知人の思いを受け止めるキャパが、その時の自分にはなかったのだ。
後日、別の知人がその知人と会食したときに「もうリクオとは話ができない」といった内容の話をしていたと聞いて、より後悔が深まった。

鴻上氏が指摘するように、自分の世界観を熱心に相手に説こうとするのは、心のどこかに「一抹の不安」があるからなのだろう。あのとき、知人の言葉をもう少し柔らかく受け止めることができたらと今になって思うけれど、自分がそこまでの人格者でないことも確かだ。
それでも今は、「今度その知人と会う機会があり、またそういった話が始まったときは、説得を試みるのではなく、もっと話を聞いてみよう」と思っている。

今年に入ってからは、公の場で「陰謀論」という言葉を多用することを控えるようになった。
「陰謀論」にハマった知人たちが、その言葉をレッテル貼りと感じ、そう呼ばれることを嫌い、そう呼ばれることで余計に心を頑なにしていると実感するようになったからだ。
それでもあえて、今回は久しぶりに公で「陰謀論」という言葉を使うことにしたのは、やはり今の時代に避けて通れないキーワードだと感じるからだ。ただ、今後も多用は避けようとは思うし、使用するときはその副作用を自覚しておこうと思う。

「陰謀論」という言葉で断罪するのではなく、そこに含まれる「物語の単純化」「大きな物語への依存」「排外思想」「分断志向」「独善性」「偏見」「全体主義的傾向」といった問題の本質や、陰謀論を生み出す「不安」や「寄る辺なさ」といった心性や社会状況に目を向け、一刀両断することなく丁寧に言葉を綴るよう心がけたいと思う。
つまり「陰謀論」とは他人事ではなく、自身と地続きの問題なのだ。
自らの胸に手を当てて考えることを忘れずにいたい。

ー 2021年8月11日(水)

2021年7月14日水曜日

ちょっと、ぶっちゃけます ー オンライン配信ライブの投げ銭制について

 ちょっと、ぶっちゃけます。

7月9日(土)&10日(日)高円寺・JIROKICHI 2days公演の配信アーカイブ期限を、今週末18日(日)まで延長した件についての本音です。

配信期間延期の告知で述べられていたように、ライブと配信が好評で、配信の視聴回数が伸び続けていることが配信期間を延長した理由の一つではあります。
けれど、もう一つの大きな理由があります。それは、配信収益の少なさです。

今回の2daysの視聴回数は、コロナ禍での前回2回のJIROKICHI公演を超える勢いで、足を運んで下さったお客さん、視聴者の皆さんからSNSやチャットを通じて多くの反響をいただきました。
にもかかわらず、その配信収益は現状、前回の4分の1程度にとどまっています。

ライブを企画する側としては完全に状況を見誤りました。前回までは、支援の気持ちで「後売りチケット(投げ銭)」を購入してくださった視聴者の方も多かったのだろうと思います。
コロナ禍が長く続く中、配信ライブも供給過多の飽和状態であることを理解しつつ、それでも正直、「これだけの視聴回数があるのに」というもやもやした思いが残っています。

東京では今週から4度目の緊急事態宣言が施行されています。ライブスポットはどこも、長期間、営業時間を制限された上に、限定人数でのライブ開催を強いられ続けています。そして、昨日からまた、アルコールの提供ができなくなりました。
そういった影響で、老舗のJIROKICHIでさえブッキングが埋まらなくなり、お店を開けることすらできない日が多くなっています。こういったあまりにも厳しい状況において、配信の収益は、お店とミュージシャンにとっての命綱なんです。

JIROKICHIがYouTube配信で採用しているフリー視聴可能な投げ銭(「後売りチケット」)システムは、視聴者の皆さんの善意に信頼を寄せることで成り立っています。
今回の2days公演はお陰様で両日ソールドアウトとなりましたが、限定人数での開催ということもあり、元々、配信の収益なしには興行として成り立たない企画でした。前回のJIROKICHIライブでの配信収益をもとに、採算が取れると踏んでの企画でしたが、甘かったです。

長く続くコロナ禍において、フリー視聴可能な投げ銭のオンライン配信というやり方自体が状況にそぐわなくなりつつあるという考えも可能だと思います。けれど、このオープンなやり方が、配信の一つの選択肢として今後も成り立つのであれば、それは、コロナ後においても、ライブシーンの裾野を広げてゆく一つの可能性になり得るだろうと自分は考えています。

フリー視聴も可能なこの配信方法は、あらかじめチケットを購入しなければ視聴できない課金制に比べて、開かれたやり方だと思うんです。視聴者が今まで知らなかった音楽を知る窓口になりやすく、送り手側にとっても、新しい視聴者に自分達の存在を知ってもらえる機会が広がる良さがあります。経済的に余裕のない人が等しく音楽を楽しめるのも、このシステムの良さだと思います。
自分は、どちらの配信システムも成り立つことで、受け手の選択の幅が確保され、送り手がそれらを臨機応変に活用できることが理想だと考えています。

コロナ禍においては、多くのミュージシャンが、自分達のこれまでのファンだけを対象にした、コアなファンを囲い込むような発信方法や活動に向かわざるを得ない状況が続いていると感じています。それが、限られてしまった選択肢だと理解しつつも、コロナ後を考えれば、もう少し外に向かうベクトルも必要だと思うんです。

自分がこのコロナ禍において、ソロライブだけでなく、あえて共演者の多いコラボイベントを企画したり、複数スタッフとチームを組んでの配信ライブを重ねるのは、こういう状況だからこそ、開かれた場を作りたい、微力ながら小さな経済を回したい、という思いの反映でもあります。
皆にギャラが支払えるだろうかと毎回ひやひやするけれど、こういった共同作業はホント楽しいんです。目先の利益や効率を優先することでは得られない充実感があります。この楽しみと充実感を忘れたくないんです。
こういった試みが、コロナ禍でもそれなりに成り立ってきたのは、多くの人達の支援と理解があってのことです。とても感謝していますし、世の中捨てたもんじゃないなと思ってます。

当座をしのぐだけでは未来は開かれない、持続可能な希望が必要です。厳しい状況が長びくほどに、その思いを強くしています。
JIROKICHIスタッフのさまざまな奮闘と試みは、自分のとってのコロナ禍における希望の一つです。この希望灯をともし続けることができるかどうかは、お店側だけでなく音楽を愛する僕ら一人一人の自覚にもかかっている、と言えば言い過ぎでしょうか。
地べたから繋がるライブ文化を愛するすべての人が、このシーンを支えてくれている一人一人であることは間違いありません。

無理な「支援」をお願いするつもりはありません。「支援」ではなく「対価」として成り立つべきだと考えています。ライブや配信への対価がなければ、自分たちの活動は成り立たないし、JIROKICHIのこのオープンな配信システムも続かないんです。
視聴者の善意によって対価を受け取るこのオープンなやり方が続かないのであれば、コロナ禍に生まれた一つの可能性が失なわれることになります。

今回のライブ配信を楽しんでもらえたなら、余裕のある方は「後売りチケット」の購入をお願いします。
チケットは千円から用意されています。動画とライブ音源の特典も付いてます。
余裕のない方は、フリー視聴で楽しんでもらって結構です。もし、ライブを気に入ってもらえたら、誰かに教えてあげて下さい。余裕のあるときにまた「後売りチケット」を購入してください。
そして、JIROKICHIのYouTubeチャンネルにぜひ登録して下さい。 https://www.youtube.com/channel/UCAwGg0pRLhSLzhy3kIWvTng きっと新しい出会いが待っていると思います。

今回の2days公演は、会場全体が多幸感に満たされた最高の一期一会でした。その空気感、ライブ感、化学反応の瞬間をJIROKICHIのYouTube配信が十分に伝えてくれています。オンラインであってもライブの臨場感と熱量を「体験」してもらえると思います。
アーカイブ視聴は7月18日(日)23時まで可能です。自信を持っておすすめします。

もしよかったら、あなたも音楽文化を共に守り育む一員になってください。また一緒に楽しみましょう。

《リクオ JIROKICHI スペシャル2days 》 ※配信アーカイブは7/18(日)まで視聴可能
●7/9(金)〜 リクオ with ストリングス 〜 
出演:リクオ / 橋下歩(チェロ) / 阿部美緒(ヴァイオリン) 
【Youtubeチャンネル】https://youtu.be/jvuCDpQX978
●7/10(土) 〜 リクオ・トリオ Live goes on Tour vol.2 〜 
出演:リクオ・トリオ(ボーカル&ピアノ:リクオ/ベース:寺岡信芳/ドラム:小宮山純平) with 森俊之(キーボード)
飛び入りゲスト:ウルフルケイスケ(ギター)
【Youtubeチャンネル】https://youtu.be/16BTDDekuh8

【オンラインショップ(投げ銭)】https://jirokichi.official.ec



2021年6月27日日曜日

希望の始まり ー 「アメリカン・ユートピア」を観て

元トーキング・ヘッズのフロントマン、デイヴィッド・バーンと、さまざまな国籍を持つ11人の仲間たちのステージをスパイク・リーが映画化した「アメリカン・ユートピア」をやっと観れた。
既に方々での評判を耳にして、かなり期待していたのだけれど、その期待をも超えて、打ちのめされるくらいに素晴らしかった。音楽、パフォーマンス、演出、照明、撮影、すべての面で画期的な音楽映画だった。
これでもかというくらいに表現の可能性を見せつけられて、自分ももっとやらなきゃという気持ちにさせられた。この余韻を大切にしたい。

現実を見据えた上での、とても開かれた人間賛歌であることにも深い感銘を受けた。絶望やシニシズムに安住しないバーンの柔らかな信念に強い共感を覚えた。

「Everybody's Coming to My House」を披露する前に、バーンは曲に関するエピソードを語り始める。
ハイスクールの合唱部がこの曲を歌った時に、バーン本人が意図していなかった包容力が伝わったことに感銘を受け、「そっちの方がいい!」と思ったのに、自分は今も自宅に人を招き入れるのが苦手だ。そんな内容だったと記憶している。客席の笑いを誘ったこの告白は、彼の人柄を伝える印象的なシーンだった。
バーンの語りやパフォーマンスは、状況への危機感を伴ったアンチテーゼや啓蒙的要素が強かったけれど、押し付けがましさを感じなかったのは、そこに「内省」が存在したからだと思う。完璧ではない一人の人間としての自覚が伝わるのだ。

正直に言うと、デイヴィッド・バーンに対しては、もっと頭でっかちなイメージを持っていたけれど、画面から伝わったのは、知的ではあるけれど、知性への懐疑も忘れない謙虚さだった。
彼のパフォーマンスは、知性と野生がとても高いレベルで手を取り合っていた。長いキャリアを経て実践と実感を積み重ねた成果なのだろう。実感を経た思想が肉体を通して体現されている様に、頼もしい説得力を感じた。

そして、ユーモアを忘れない姿勢。何よりもバーンは最上のエンターテイナー、芸人だった。こんな風に人を楽しませて、心のバランスや風通しをよくしてくれる力こそを知性と呼びたい。

映画撮影当時のデイヴィッド・バーンは67歳。とにかく心体のコンディションが素晴らしい。アンチエイジングとはベクトルの違う67歳ならではの若さ、瑞々しさを感じた。自身の変化を受け入れる勇気と柔軟性の賜物なのだろう。その姿勢は、バーンがこれまでの体験によって培った信念として画面から伝わった。

まずは自身に向きあい、自分を変えてゆく。あらがえない自身の変化を受け入れる。そうした一人一人の変化の自覚が、他者への寛容を生み、社会をよりよく変えてゆく希望の始まりとなる。自分がこの映画から受け取った大切なメッセージの一つだ。
何が本当で、何が正義がわからない時代においても、一人一人がこうした態度を積み重ねれば、世界はほんの少しずつましになってゆくんじゃないかと思う。

映画監督のスパイク・リーのこと、多国籍の11人の演奏者のこと、曲のこと、照明のこと、カメラワークのこと、語りたいことはもっとたくさん。受け取ったものが多過ぎて、まだ消化しきれない感じ。
とにかく、もう一度観に行こうと思う。

ー 2021年6月27日(日)



2021年6月9日水曜日

プライドや嫉妬が関わる問題

若い頃は嫌なことをやられたらやり返そうとしがちだったけれど、今は腹が立っても仕返しを我慢するようになった。
不毛さが想像できて、めんどくさくなった。そういう機会自体も減った。
けれど、やられたことに対しては、どこかで根に持ち続けている。思い出すと腹が立ったり悲しくなるので、思い出さないようにしてる。
傷ついた心は傷ついたままなのだ。思い返すと、大体は、プライドや嫉妬が関わる問題だった。

ただ、相手から素直に謝られると、わりとすぐにわだかまりが解消する。こちらも、すっと素直な気持ちになれる。そういう単純さが自分の中にあってよかったと思う。

意識的に、こちらから先に相手を傷つけようとすることはないつもりだけれど、自分の振る舞いが、結果的に、相手のプライドを傷つけたことは、多々あったのだろうと想像する。いや、今もあるのかもしれない。
悪気がないのもタチが悪かろうけれど、若い頃は、それは相手側の問題として捉えることが多かった。「弱さ」を武器にされて、こっちも相当に傷つけられているんだという被害者意識が今以上に強かった。その体験をバネにもした。

言葉は、たった一言で相手を地獄に突き落とすことができる恐ろしい武器にもなり得るのだと思う。それくらい人の心は弱い(自分も含めて)。ホント、人間は皆ボチボチである。
やられたらやり返そうとする自分の暴力性は今も消えちゃいないし、いつまで経っても、人との関わりの中でプライドや嫉妬が関わる問題から抜け出すことは難しいけれど、最近は、もうちょっと労わり合いながら生きていけたらなと思っている。

ー 2021年6月9日(水)

2021年6月6日日曜日

映画「アメージング・グレイス アレサ・フランクリン」を観て

注意)この文章は少しのネタバレを含みます。

'72年1月、ロスのバプティスト教会で行われたアレサ・フランクリンのゴスペル・ライブを収めたドキュメンタリー映画「アメージング・グレイス」を観た。
画面に入り込み、自分もライブに参加した一員になって、特別な体験をしたような気分。
既に数多くの人が、興奮を押さえ切れずに、この映画のライブの凄さを語っているだろうから、自分は少し違った側面を伝えたい。

映画は、ライブの高揚や開放感を伝えるだけでなく、そこに至るまでの、アレサのナーバスな一面も映し出す。自分には、その部分こそが、このドキュメンタリーに欠かせない肝だと感じられた。

ステージに登場して歌い始める前のアレサの表情はどこか陰鬱で、明らかに緊張と不安の色が見て取れた。普段のエンターテイメントのライブとは勝手が違う、自分のコアな部分を確かめる特別な時間だったのだろう。

映画を観て、アレサの歌の凄さは、不安定な気持ちをそらしたり紛らわせるのではなく、それらに向き合い葛藤し、乗り越えることで、すべてを歌のエネルギーに変換してゆく、その集中力の賜物なんだと思った。
披露されるどの曲も、歌い出しから心を鷲掴みにされた。葛藤を経ての第一声にこそ、彼女の覚悟が凝縮されているように感じた。

ライブの中の1曲で、キャロル・キングの「You've Got A Friend」が歌われるのだけれど、アレサは歌詞の「Friend」の箇所を「Jesus」に置き換えて歌っている。
ゴスペル・ライブだから当然だけれど、映画の中のすべての曲は神に捧げられた歌ばかりだ。「Jesus」が連呼される中で、特定の宗教を持たない自分は「Jesus」を何に置き換えようかと考えた。
アレサが「Friend」を「Jesus」に置き換えたように、「Jesus」を別の何かに置き換えていいのだと思う(ちなみに、自分が書いた「友達でなくても」という曲は、「You've Got A Friend」の「Friend」を、もっと広い意味の何かに置き換えたいと思って書いた曲です)。

自分は、宗教とは、答えや安らぎを与えるだけでなく、不安に向き合う勇気や問いかけを与えてくれる存在ではないかと考えている。そう、あってほしいとも思う。
映画の中のアレサの姿を見て、自分の考えはそんなに的外れじゃないように感じた。

ー 2021年6月6日(日)