2025年8月31日日曜日

六角精児さんの歌は業(ごう)の肯定

六角さんの歌は「業(ごう)の肯定」だと思う。
昨夜YouTubeに公開した「六角とリクオ」のライブ動画2曲もそう。

一昨日磔磔で見た六角精児バンドのライブは、メンバーの皆さん、ステージでお酒が進みつつも演奏が乱れることはなく、いいリラックス効果をもたらして、磔磔の空気にも馴染んだ楽しいパフォーマンスだった。自分もそうありたい。

楽屋で六角さんとお酒の話になった時「『呑み鉄』見てたら、六角さんずっと飲んでるね〜」とオレが言ったら、「アレは編集の力やよ」とのこと。そりゃそうやわな。
「六角さん、芝居の本番前に飲んだりすることあるの?」との問いには「芝居の舞台では本番前も本番中も飲まない」とのこと。そりゃそうやわな。

体を壊したり失敗を重ねながら、今の六角さんはお酒と良い付き合いしてる様子。自分もそうありたい。でも時々はハメを外したい。
だって、人間だもの。わ〜、相田みつをになってもうた〜。

ー 2025年8月31日(日)



2025年8月11日月曜日

函館26年をめぐる物語

函館滞在4日目、「はこだて国際民俗芸術祭」最終出演日。ブンダステージのトリで熱く盛り上がる。
新曲「晩年ロック」のサビではお客さんが大合唱。元々弾き語りではミディアムテンポで切々と歌っていたのが、お客さんのリアクションに引っ張られて、曲か変化したり成長してゆくのが面白いし、逆説を含んだ自分なりの人生賛歌が伝わっている手応えがあるのが嬉しい。

「国境で区切ったり、人種で区切ったり、人は得てして線引きをしたがるけれど、音楽はその線引きを超えてゆく。国境を超え、海を超え、人種を超え、音楽はどこへでも流れつき、各地で化学反応を起こして、その土地ならではの新しい文化、その人ならではの個性を生み出してゆく。
『はこだて国際民俗芸術祭』は世界中の街角や路上でそのようにして生まれた音楽が集い出会う場所。この芸術祭のように、音楽のあり方そのもののように生きてゆけたらと思う。」

こんなMCをしてから「イマジン」を歌ったら、この歌がまるで音楽のことを歌っているように感じられた。音楽は、それが宗教や民族や主義のコミュニティーの中から生まれたとしても、常にそれらを超えて拡りローカル性を維持しながら融合を繰り返す。音楽においては既に多文化共生の理想が実現しているようにも思える(一方で、音楽は排外主義や全体主義にも利用されることがある)。
音楽は人間の先を行っているけれど、その音楽を生み出しているのは人間でもある。自分自身は、その音楽のあり方を日常の中である程度は意識的にも無意識でも実践しているように思うし、そのような人は世界中にたくさん存在する。ジョン・レノンが歌った世界は絵空事ではないと思う。

「イマジン」を歌うときは、常に自分の中に「問いかけ」が存在する。昨夜のように歌いながら自分の中で解釈が広がったり、その時の気分や状況によって歌の響きや意味合いが変化したりもする。曲名通り想像力を刺激する歌なのだ。この歌をサヨクによるコスモポリタン的理想主義として矮小化・単純化するのは、浅はかさだし勿体無いと思う。

終演後は函館の老舗ライブ・スポット・あうん堂でKさんと待ち合わせる。Kさんは、研究者だった自分の父のゼミの元生徒さんで、卒業後も父との交流が長く続き、その縁で、父が亡くなった後も自分のライブに足を運んでくれたり、時々連絡をいただくようになった。2年前に函館に引っ越されて、今回連絡をいただいき、2日前もライブ後に杯を交わしたばかり。

あうん堂を訪れるのは、この場所でライブをやらせてもらった26年前以来。あうん堂は「はこだて国際民俗芸術祭」を立ち上げたソガ夫妻が自分をフェスに呼んでくれるきっかけになった場所でもあった。
26年前のあうん堂でのライブに集まったお客さんは10人にも満たなかったと記憶しているけれど、その中の2人が当時大学生だったソガ夫妻だったのだ。その時に物販で購入してくれたインディーズになってからの初ソロアルバム「Heaven's Blue」を2人が長く愛聴してくれていたそうで(その影響で息子さんもアルバムを聴いてくれるようになったそう)、そんな縁が昨年からの芸術祭出演に繋がった。
あの時は、あまりの動員の少なさに、もう函館にはしばらく戻ってこれないだろうと落ち込んだけれど(実際に次の函館ライブまで8年くらいの期間が空いた)、四半世紀を経てその時の縁が繋がってゆくなんて、長く続けていて良かったと思う。

そうした縁にプラスして、Kさんがあうん堂の常連さんであり、前夜に訪れたワインバー・魚販のマスター・ノトヤ君がササイさん夫妻と懇意にしていたこともきっかけとなり、26年振りにあうん堂訪れる機会を得たのだ。

あうん堂の現在のマスター・ササイさんはお店の3代目のマスターで、自分がライブをやらせてもらった26年前はアルバイトでPAをやってくれていたそうで(覚えてなくてすいません)、その時以来の再会。
入店が閉店時間近くになったにも関わらず笑顔で迎え入れてもらい、ササイさんの奥さんも加わって4人でテーブルを囲み楽しく飲ませてもらう(魚販でも飲ませてもらった函館産のウイスキー・デイトリッパーが最高の美味しさでした)。
来年にはあうん堂での27年振りのライブが実現するんじゃないかと思う。

函館滞在の4日間は、多くの再会と出会いに恵まれた。自分がツアー暮らしを続ける意味を確認できた気がする。
今日は弘前へ。

ー 2025年8月11日(月祝)


2025年8月6日水曜日

映画『KNEECAP/ニーキャップ』を観た

 北アイルランド出身のヒップホップ・トリオ・ニーキャップのメンバー自らが演じる半自伝的映画『KNEECAP/ニーキャップ』を観てきた。まずはムチャ面白かった。
音楽・言葉・映像が躍動していて、終始ワクワクしながら観た。アイルランド語によるパンクなラップと物議を醸し続ける3人の言動については、ぜひネットやSNSで検索して確認してもらいたい。

パレスチナへの連帯を公言するニーキャップは、その過激な言動によって、特に北アイルランドの宗主国であるイギリスにおいて激しいバッシングを受けている。最近では、イギリス首相から名指しで非難されたり、フェスから彼らを外そうとする動きがあったり、演奏中に検閲を求める声があがったり、と話題に事欠かない。

映画のパンフレットの中で北アイルランド研究者の尹 慧瑛(ユン ヘヨン)氏が語っていたように、ニーキャップの表現に含まれる暴力性と悪意・享楽性に対して安易に共感を示すことには自分も躊躇を覚えるけれど(映画に痛快さを感じつつも)、そのラップや言動の背景や歴史を無視して彼らを批判することは、問題の本質に蓋をする愚かで抑圧的な行為だと思う。
生々しい怒りややり切れなさの表明なしに社会問題が注目を集めることは難しい。その怒りに対する拒絶や無視が、差別や抑圧の構造の温存につながることを忘れずにいたい。

自分は、彼らとは育ちや背負っている歴史も違うので、目指すところが同じでも、同じ表現方法は取れない。
時と場合によって表現に悪意や暴力性が込められることもありだと思っているけれど、自分自身はその快感や万能感から距離を置くように心掛けている。結局、映画を観て自分のことを考えさせられたり確認した感じ。

自分が知らないだけかもしれないけれど、この映画もニーキャップも、日本ではあんまり話題になっていないようだ。日本でニーキャップを知らない人達がこの映画を観てどんな感想を持つのか気になった。




ー 2025年8月6日(水)

2025年8月1日金曜日

政治家が「非国民」や「差別ではなく区別」という言葉を公言する時代

この10数年の間、政権に批判的だったり多文化共生を唱えるような人達を「非国民」という侮蔑語でレッテル貼りしたり、人種や民族に基づいた差別や偏見を「差別ではなく区別」であるとして肯定する常套句をネット上で見続けてきた。当初、そうした言説を使うのは極端な排外思想に取り憑かれたほんの一部の人達という印象だったけれど、最近はそうではなくなってきたようで怖い。

今回の参院選に当選した参政党の議員2人が、街頭演説中と当選直後に出演したテレビ番組でこの2つの言葉を使用しているのを見て、ついに政治家までもがそんな言葉を公言する時代になったのかと暗澹たる気持ちになった。
この党の党首も街頭演説中に、朝鮮人に対する侮蔑的差別用語である「チ○ン」という言葉を使用して批判を浴びている。すぐに訂正したとしても、その言葉が口をついて出た事実は変わらない。党の代表者が差別意識や排外意識を持った人物であることは明白だろう。

「日本人ファースト」はそういったレイシズムや排外主義を肯定する空気に後押しされた言葉であり、その内実は日本人全体の優先でさえなく、“正しい日本人像”に合わない人、自分とは異なる価値観や行動を排除する作用を持った言葉だと思う。

自分が愛する全ての音楽は、人種や国籍を越えて世界を巡り、互いに響き合い混じり合ってゆくことで成り立ってきた。その歴史を知れば 知るほど排外主義などありえない。自分が尊敬するミュージシャンの多くは、レイシズムや排外主義、権威主義に背を向け、時には意義を唱え続けてきた。その歴史の流れに自分も身を置き続けたいと思う。

ー 2025年8月1日(金)

2025年7月20日日曜日

参院選投票日に考えたこと

 今回の参議院選挙の期間中、公平性を盾にして、排外的・差別的・虚偽・悪意を含む主張が「一方の意見」としてさまざまなメディアで垂れ流しされ続けた。こんな状況の中、在日の幼馴染みや知人たちがどんな思いで日々を過ごしているだろうと想像して胸が痛んだ。

一方で、自分が危惧する傾向を持つ政党や候補者への投票を公言していたり、普段の言動から多分そういった政党や候補者へ投票するであろう知人達の顔も思い浮かんだ。
SNSで政治に関わる投稿をする際は、自分とは主義主張の違う彼らが目にすることも想像しながら言葉を選んでいるつもりだけれど、それでもイラつかせたり嫌な気持ちにさせているんだろうなと思う。甘いと言われようが、彼らとの対話や議論の余地は保ちたい。

考えや立場の違う人達を揶揄、誹謗中傷、見下して冷笑するような知人の投稿を目にすると悲しくなる。自分の前ではそんな奴じゃなかったのに。
「今の時代においては他者への『思いやり』や『優しさ』こそがパンクである」
先日みた映画『スーパーマン』のテーマがリアルに感じられる今日この頃。
今日は投票日。

ー 2025年7月20日(日)

2025年7月18日金曜日

『スーパーマン』における「パンク」の定義

 映画『スーパーマン』を観てきた。
デヴィッド・コレンスウェット演じる『スーパーマン』は素直なムチャいい奴だった。誰であれ「殺さない」という態度が徹底していて全くダーク色がないのが、この時代においてはむしろ新鮮で頼もしくも感じられた(でも、騙されやすそうなところはちょっと心配かな)。

映画の中の重要なキーワードは「パンク」だった。スーパーマンであるクラーク・ケントが目の前から遠くの他者にまで幅広く向ける善意と信頼、そのあまりにもいい奴ぶりこそが今の社会においてはパンクであることをこの映画は示唆する。つまり、今回の『スーパーマン』は、立場や属性の違う相手への思いやりや優しさを失いつつあるこの世界へのアンチテーゼとして描かれている。そう断言していいと思う。

アメリカでは、この映画の監督と脚本を担当したジェームズ・ガンが「スーパーマンは移民だ」と発言したことに端を発して大きな論争が巻き起こり、トランプ大統領の支持者から激しい批判が噴出しているそうだ(『スーパーマン』の原作はもともと「異星からの移民」という設定なのに)。
ジェームズ・ガンは、痛快に思えるほど娯楽映画に政治を持ち込んでみせた。この映画を観て、真っ当であることが政治的であったりパンクになる時代なんだと思った。
参議院選挙を前に実にタイムリーな映画だった。

ー 2025年7月18日(金)



2025年7月2日水曜日

映画「罪人たち」を観ての備忘録

 1930年代のアメリカ南部ミシシッピを舞台に、ブルースミュージックをふんだんにフィーチャーしたヴァンパイア映画「罪人たち」を観てきた。
娯楽作品として楽しめるだけでなく、文化や歴史を伝え、哲学的、根源的な問いに満ちた映画だった。

黒人居住区に存在した音楽酒場・ジュークジョイントの様子がここまで本格的に描かれた映画を観るのは初めてかもしれない。どこまで忠実に再現されているのかはわからないけれど、映画の中のその場所は、猥雑で野生味に溢れ、聖から俗に振り切れて、危険を伴うけれど、実に魅力的な開放空間だった。

自分がブギのリズムに影響を受けた鍵盤奏者ということもあって、若き天才ブルースマン・サミーをサポートする酔いどれブルースマン・デルタ・スリムの演奏するブルースピアノで、お客が体を揺らす光景が印象に残った。ジュークジョイントでのピアノ演奏が、ダンスミュージックとして機能している様が再現されていることにテンションが上がった。
若い頃から戦前のブギウギピアノニストのレコードを聴き、彼らの演奏場所とされたジュークジョイントやバレルハウスに関する文献を読んで想像を巡らせ、理想とするライブ空間のイメージをそれらと重ね合わせてきたので、この映画を観て、あらためて自分のルーツの一つがこの場所にあるように感じた。

映画を通して、当時のアメリカ南部におけるブルースのあり方や、黒人、アイルランド移民、先住民、中国系移民、混血など、多様で複雑なマイノリティの関わり合い、階層、文化への興味がさらに湧いた。

ストーリーに仕掛けられた様々な隠喩は、自分の知識や理解では考察が及ばない部分もあり、ここで分かったようなことは語らないよう心がけたい。パンフレットが売り切れていたのが残念だったけれど、ネットに上がっていたライアン・クーグラー監督へのインタビューを中心に据えた記事を読むことで、映画への理解が深まった(高橋健太郎さんのFacebookへの投稿で記事の存在を知りました)。
この記事を読んで、文化盗用や同化、抑圧者と被抑圧者の搾取の構図を単純化して理解することを、クーグラー監督が良しとしていないことが伝わった。善悪や二元論で語れない内容が、この映画に深みを与えている。

その才能によってヴァインパイアを呼び寄せ、人を巻き込み、多くを失いながらもギターを手放さなかったサミーの姿や、葛藤や混沌、矛盾の中でこそ生まれる音楽のダイナミズムに触れることで、ミュージシャンとしても刺激を受けた。近年、自分が再びブルーズに近づこうとしていた訳が、映画を通じて少し理解できた気がした。

自分のこれまでの生き方は破滅型ではなかったけれど、ツアー暮らしを続ける中で、ギリギリのところでバランスを取って生き残ってきたという感覚は持っている。そのギリギリの中で、映画で描かれたような音楽のダイナミズムをさらに追求したい欲は今も持ち続けている。聖と俗に引き裂かれた感覚に向き合いながら、これからも音楽の旅を続けようと思う。

昨夜、帰宅後は映画の余韻が長引いた。自身に向き合うきっかけを与えられた感じで、また寝つきが悪くなってしまった。
明後日からのツアーに映画の影響が出そうな気がする(多分、いい形で)。

ー 2025年7月2日(水)