自分のSNSの投稿を読んだ音楽業界の先輩Aさんから連絡をいただき、長話しさせてもらった。Aさんの語り口からは、誰かに伝えずにはおれない、やりきれなさのようなものが伝わってきた。
問題となっている某事務所との関わりが深かったAさんの知る過去の実情を色々と教えてもらったのだけれど、それは聞きしに勝る内容だった。
話を受けて、「そんなひどい構造的な問題が何十年と続いていたんですね」と自分が言うと、Aさんから「すべて保身なんだよ」との言葉が返ってきた。
電話を切った後も「保身」という言葉がずっと心に引っかかり続けた。自分は、その言葉を、単に誰かを非難するためだけの言葉としては受け取れなかった。「保身」は、自分も含め大抵の人が行いがちなふるまいだ。Aさんも、そのことを自覚しての発言だったように思う。
この件に関しては、これからも自身の「保身」に向き合った上での「告発」が続くのかもしれない。一方では、表立たないところで、そういった「告発」に反発する流れも存在している。
少し前にSNSで、この問題に関して、加害者ではなく被害者である告発者の側を、「何を今更」といった調子で、自己責任をふりかざして強く非難する投稿を見かけた。そういった考えを持つ人が一定数いることはわかっていたけれど、その投稿の内容以上にショックだったのは、「よくぞ言ってくれた」とばかりに、投稿に賛同するコメントが多数寄せられていたことだった。
「弱い者たちが夕暮れ さらに弱い者を叩く」 ー ブルーハーツ / TRAIN TRAIN
このやりきれない一節を僕らは、なかなか乗り越えてゆくことができない。
「もしかしたら、告発者を非難するその投稿は、それぞれが無意識に抱えていた『保身』や『後ろめたさ』を掻き消してくれる内容だったのかもしれない」
Aさんからの電話を受けた後に、そんなことを思った。そう考えるのは、自分自身の過去の言動にも思い当たる節があるからだ。
「『沈黙』は共犯だ」と声高に叫ぶことを躊躇してしまうのは、自分も「共犯者」だった過去があり、今も「共犯者」かもしれないと考えてしまうからだ。
かと言って、「共犯者」たる自分を正当化することにも躊躇を覚える。声高には叫ばずとも、自分自身の問題と捉えながら言葉を探し、時には発言し、行動したいとも思う。
こういった煮えきれない思いを言葉にするには、いつも時間がかかる。でも、それでいいのかもしれない。
条件反射を控えて、これからも乗り遅れてゆこうと思う。
Aさんとの話に戻れば、「構造的な問題」と「保身」はつながっているのだと思う。
隠し持った「保身」や「後ろめたさ」に向き合うことなしに、構造的な問題を乗り越えることはできないのだろう。
ー 2023年7月5日(水)
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