2014年7月21日月曜日

振り返り、思い出し、考える時間 ー いわき市と水戸市を訪れて

週末は、福島県いわき市、茨城県水戸市の常磐線沿い2ヶ所の街をツアーした。どちらの街も10数年前から定期的にツアーで訪れている街で、被害の大きさに違いはあるけれど、どちらも東日本大震災と福島第1原発事故によって被災した街だ。

いわき市club SONICのライブでは、オープニング・アクトだった地元バンド、アブラスマシのステージにぐっときた。バンドのVOはSONIC店長・三ケ田君。3・11以降、あらためていわきで暮らしてゆくことを決意した彼の思いが、歌を通して伝わった。その歌には彼の思いだけじゃない、彼が回りから受け取ったさまざまな思いがつまっているとも感じた。音楽表現はその人だけのものでなく、いろんな魂が宿ってなりたつものなのだとあらためて感じた。

打ち上げでは三ケ田君やソニックのオーナーSさん、南相馬からフリーペーパー「そうまかえる新聞」を抱えて駆けつけてくれたY君(「そうまかえる新聞」最新号に寄稿させてもらいました)らと、音楽、原発のこと等いろんな話をした。自分が福島原発のことを意識するようになったのは、多分事故が起こる5、6年前のこと、ツアーでいわきを訪れた際、三ケ田君に教えられたことがきっかけだった。福島第1第2原発が東京電力のものであること、東北で暮らす人達のためではなく関東圏に送電するための発電であること、老朽化していて危険だと言われている事など、自分はそれまで何も知らなかった。

SONICのあるいわき駅周辺は福島第1原発から45キロ程の距離。11年3月15日に第1原発で2度目の爆発があったとき、市からは、外出を控え部屋の窓わくにガムテープをはるように等の指示があると同時に、市民に対してヨウ素剤の支給が行われたそうだ。街のライフラインが断たれることで、市民は情報を入手できず、大きな不安にかられていた時に、このような指示があったことで街はパニック状態に陥った。ヨウ素剤は副作用が強く、あわててそれを飲んで体調を崩した人もいたそうだ。
3.11以降、いわきには多くのミュージシャンや著名人が支援のためにやってきた。けれど、被災した地元の人達は、彼らとの間に意識、感覚の違い、溝を感じることも多かったそうだ。
たとえば、ある映画監督は、いわきに講演に来て、地元の人達に対して、すぐにもいわきから避難するように訴えた。その講演を聞いていたいわきの知人は、自分が責められている気持ちになったと同時に、こちらの状況を考慮しない強い話し振りに違和感を抱いたそうだ。信じた道を突き進み、行動力ある人間の中に存在する独善と傲慢が、3.11直後の状況の中で、地元の人達の心をかえって傷つけてしまうこともあったようだ。

これらは、11年の8月にいわき市を訪れたときに地元の人達から聞いた話だ。今回、いわきに戻ってくることで、3.11以降、何度がいわきを訪れた中で、地元の人から直接聞いたさまざまな話、さまざまなドラマを思い出した。それだけ忘れてしまっているということでもある。



club SONICのフロア入り口の壁一杯に張り付けられた写真の数々。

いわき市の翌日、茨城県水戸市Blue Moodsでのライブは、地元のイベンター集団「地元でライ部」の主催だった(集団といってもメンバーは4人)。ここ数年、水戸にツアーで訪れるときは、いつも彼らがライブを企画してくれている。
この夜のライブの盛り上がりは、これまでのイベントの積み重ねによるところが大きい。企画自体が、地元の人達に定着してきていることを感じた。継続は力なり。次回の「地元でライ部」企画は、11月Blue Moodsでの山口洋ライブ。皆さん、ぜひ。

「地元でライ部」代表の甲斐くんは、家族で居酒屋を営んでいるのだが、震災によって建物がダメージを受け、再オープンまでに時間を要した。地産地消が売りだった食材も、放射能の影響で一時期、茨城産で通すことができなくなってしまった。
震災直後は水戸市もライフラインを断たれ、食料が不足したため、甲斐くんのお店は、蓄えていた食材を地域の人達に提供し続けたそうだ。
ライブ会場のBlue Moodsのマスター・榎さんは、震災後しばらくは、ライフラインを断たれたままの近郊の街に、車で飲み水と食料を運び続けたそう。この日の打ち上げでは、榎さんから、震災後しばらくして、津波で壊滅的な打撃を受けた三陸地方の沿岸沿いの街へ、義援金を持って訪れた時の話を聞かせてもらった。

被災した街の人達と話していて感じることの一つは、地元に対する思いの深まりだ。彼らは3.11以降、地元で暮らしてゆくことを選択しなおしたのだ。それと同時に、彼らは地元を超えてのネットワーク作りにも積極的だ。震災後、復興支援のため多くの民間人がボランティアで被災地に入り、地元の人達との交流を深めたこともネットワーク作りにつながった。(念のために、自分は地元に残ることが正しいとか美しいと言いたいわけではない。有事の際に、地元に残ることも、出て行くことも、それぞれの選択が尊重されるべきだと思う)。

そうした地域に根ざした視点からとらえる原発問題と中央都市からとらえる原発問題には、意識の隔たりを感じる。都市部では、放射能に対する恐れが極端に増幅される傾向が強いように思う。それによって、放射能や原発の安全性以外の、中央による地方の支配、搾取、地域コミュニティーの分断といった原発の抱える構造的な問題が見逃されがちな気がする。
原発は稼働停止になれば問題が解決するわけではない。廃炉に向かうにしても、原発との付き合いはこれからも長く続かざるえない。イデオロギーや政治的立場を超え、いくつもの世代をまたいで、ずっと向き合い続けてゆかなければいけない問題なのだ。

今回のいわき市、水戸市の2ヶ所ツアーは自分にとって、3.11以降を確認したり、振り返る機会にもなった。前を見るばかりでなく、振り返り、思い出し、考える時間の大切さも感じている。
−2014年7月21日

2014年7月17日木曜日

小学生時代の差別体験から考える

 ★小学生時代の差別体験から考える

自分が生まれ育った京都市の学区内には部落民が居住する同和地区が存在し、各クラスにその地区で暮らす生徒がいた。学校の授業では同和教育が行われ、差別問題に対する意識は高い地域だったと思う。
学内には在日コリアンや華僑の生徒も存在した。在日コリアンの生徒のほとんどは通名を使用し、在日であることを公表していないことが多かった。在日であることが学内でも噂になり、自然にそのように認知されたり、後にカミングアウトする生徒もいた。在日の生徒の中には、在学中に何度も改名する者もいた。
自分が育った街は、差別問題に対する意識が高い地域である一方で、人々の間には、社会のマイノリティーや特定の民族に対する差別意識も根強く残っていた。

幼い頃、回りの大人達から「同和地区はガラが悪いから行ってはいけない」とよく言って聞かされた。クラスには同和地区で暮らす仲の良い生徒がいたにも関わらず、自分がその場所に足を踏み入れることはなかった。怖かったのだ。同和地区で暮らす生徒も、進んでその地区に自分を誘おうとはしなかったように思う。学校では仲がよくても、互いに超えられない一線が存在していた。
同和地区の生徒の親の中には、教育を受けられなかった故に、しっかりと読み書きのできない人もいた。そういった家庭環境のせいで、その地区では学校の授業に遅れがちな生徒が目立った(一方で成績優秀な生徒も存在した)。同和地区の生徒達が学校の授業の後、地区内にある隣保館(りんぽかん)という社会福祉施設に通い、学習のサポートを受けていたのを覚えている。
隣保館に通う生徒達の話を聞いていると、そこは生徒や地区の人達が寄り集まる楽しげな場所のようにも思えた。「どうやらその地区には、自分が暮らす地域にはないコミュニティーが存在するらしい」そんなことを子供心に感じ取っていた。そして「その場所に行けば自分は『よそ者』になる」ということも、はっきりと意識していた気がする。自分は子供の頃から寄る辺無さのような感覚を抱えていたので、その場所に存在するらしい「繋がり」に対する「羨ましさ」も感じていた気がする。偏見や差別は、そういった意識の中からも生まれるのだろうと思う。

小学4年生の頃、生徒の間で頻繁に使われるようになった言葉がある。「チョンコ」「チョーセン」といった差別用語だ。在日コリアンの生徒に対してだけでなく、気に食わない相手全般、あるいはいじめの対象になっている生徒に対して、さかんにそれらの言葉が投げつけられた。
同和地区の生徒もそれらの言葉を好んで使っていたのを覚えている。「差別されている側が、さらに差別する対象を見つけようとする」というやるせない構図が幼い子供の間にも存在していた。
自分は当時、クラスの番長的存在の生徒に逆らったことから、彼と回りの取り巻きからイジメの対象にされ、頻繁にそれらの言葉を投げつけられていた。今思えば、「チョンコ」「チョーセン」と呼ばれることを屈辱に感じていた自分の心の中にも、既に差別と偏見の意識が存在していたように思う。
こういった差別用語と差別意識を最初に子供達に植え付けたのは、回りの大人達だった。子供達は学校では同和教育を受け、差別はいけないことだと教えられる一方で、実生活では回りの一部の大人達の差別意識を汲み取り、それに影響された。

あれから40年近い歳月が流れ、今ネット上では、自分の考えや立場の違う相手を「在日」だと決めつけて攻撃したり、侮蔑や揶揄の意味合いを込めて、自分が小学生の頃に投げつけられたのと同じ「チョンコ」「チョーセン」といった言葉が使われるのを目にするようになった。こういった動きは、ネット上だけでなく路上にも広がり始めた。
差別意識を持った憎悪表現である「ヘイトスピーチ」や「ヘイトデモ」の存在を自分が認識するようになったのは、ここ2、3年のことだ。そういう状況に応じて、「レイシズム」「レイシスト」という言葉が浸透し始め、ヘイトスピーチやヘイトデモに抗議するカウンターの行動も盛んになった。
世の中の排外的な空気が、日本で暮らすマイノリティーや特定の民族に対する差別や偏見、憎悪を増々助長しているように感じる。近隣国の反日政策や覇権主義が、こういった動きを広めるきっかけの一つになっていることも確かだろう。

差別や憎しみの対象は、人々が抱える漠然とした不安や鬱積した思いのスケープゴードとしても存在しているように感じる。在日特権の存在をヒステリックに訴え、ヘイトスピーチを繰り返す人達の無意識の中には、寄る辺無さを抱えていた小学生時代の自分が同和地区の人達に対して抱いた「羨望」や「恐れ」と共通する感情も存在するのかもしれない。ただ、自分が小学生の頃に遭遇し体験した差別と現在のネット上やヘイトデモで見られる差別のあり方には、大きな違いも感じる。現在のヘイトスピーチで使われる侮蔑の言葉は度を超えていて、それらを列挙するのが憚れるほどだ。

小、中時代の自分は、学校生活を通して、差別されている当事者である同和地区の人達や在日コリアンの人達と毎日顔を突き合わせて生活していた。同和地区の生徒の中にも、在日の生徒の中にも仲の良い生徒が存在して、放課後も彼らと共に遊んで過ごした。自分以外の生徒達も多分、同和地区や在日の生徒達との生身の付き合いを通して、彼らも同じ血の通った人間であることはある程度実をもって感じていたと思う。
互いに超えられない一線や差別意識は存在しても、こうした関係性の中て身につけた世間感覚や、生身同士の関係性がもたらす実感が、差別意識や差別的言動に一定の歯止めをかけていた気がする。現在に比べればの話だけれど。
現在のSNS上での罵詈雑言や路上でのヘイトスピーチには、そうした「歯止め」がなくなってしまっていると感じる。それは生身の他者との関係性の少なさが一因ではないかと考える。

日常世界でのリアルな人間関係や世間感覚、現実感覚の希薄さが、他者に対する想像力と「歯止め」を奪い、憎むべき対象のイメージを固定化させ、個人の記号化をもたらしているのではないか。そうでなければ、あれほどまでに人間としての尊厳を徹底的に汚すような罵声を相手に浴びせることはできないと思う。
そうした人間同士がネット上で出会い、憎悪と差別意識によって繋がることで承認し合い、自分を保っているのだとしたら、とても不幸なことだ。

ヘイトスピーチ、ヘイトデモに抗議する言動の中にも、相手に対する記号化が行き過ぎているのではないかと感じることがある。現場にいる人間からは甘っちょろいと言われるかもしれないけれど、目には目をのやり方には、自分はやはりなじめない。こういう状況を見るにつけ、社会の分断化は一層進みつつあるのではないかと感じる。
1人1人の個人が自身と向き合う作業を積み重ねてゆくと同時に、1人1人の生身の他者との出会いを丁寧に積み重ねてゆくことの大切さを増々感じている。
ー2014年7月17日(木)

2014年7月11日金曜日

BEGINのスタンスと自分のスタンス

先月、大阪のライブハウスJANUSにて開催された「大阪うたの日コンサート2014」の打ち上げの席で、その日の共演者だったBEGINのメンバー・島袋優君から聞いた言葉が、ずっと心に残り続けている。

「大阪うたの日コンサート」は、BEGINの3人が2001年から沖縄で始めたフェス「うたの日コンサート」に賛同する形で、大阪で07年から開催されるようになった。自分はホスト的な役回りで、毎回参加させてもらっているのだけれど、BEGINがこのイベントに参加するのは今回が初だった。
沖縄ではかつて、歌い踊ることが不謹慎だと言われた時代があり、それでも沖縄の人達は我慢できずに山の中や防空壕の中で、こっそり歌い踊っていたのだそうだ。そんな背景があって、沖縄での「うたの日コンサート」は、沖縄で戦争が終結したとされる「慰霊の日」の翌日6月24日を、「うた」に感謝して皆でそれを祝う「うたの日」として開催されている。BEGINの「大阪うたの日コンサート」への初参加によって、自分は例年以上に「うたの日」の意味合いを意識してステージに上がった。
この日のもう一人の共演者は憂歌団の木村充揮さん。3組は互いにさまざまな縁で繋がっていて、共通言語の多い者同士。けれど、こうやって3組が同時に集まって共演し、がっつりとセッションする機会は今回が初めてだった。
チケットは早くに完売。お客さんの期待値が高く、いいイベントになるための条件は十分に揃っていた。自分達がステージに上がった時は既に、客席が出来上がった状態。こういう環境で演奏できることを幸せに感じた。「うた」の自由さ、「うた」の楽しさを皆で共有し合う、とても素敵なイベントになったと思う。

ライブの盛り上がりのまま、打ち上げもとても楽しい宴になった。2次会では、BEGINの優くんとカウンター席で隣同士になったので、自然2人で話をする時間が多くなった。
かなり夜が更けた頃に、アホな会話がマジメな方向に移行し始めた。どういった話の流れでそうなったのかは覚えていないけれど、ミュージシャンが社会的、政治的メッセージを歌に込めたり、そういう発言をすることに関して、優くんが自分の考えやBEGINとしての立ち位置を話し始めた。
「BEGINは歌や発言で反戦や基地反対を訴えることはしないと決めている。世の中の人が、戦争をやる気がなくなるような音楽をやりたいと思っている」優くんはそんな内容の話をしてくれた。
そうしたBEGINの思いは、彼らの今までの活動を通しても感じていたけれど、メンバーの一人から直接話して聞かされることで、よりその思いを受け止め、考えさせられる機会になった。じゃあ、自分のスタンスはどうなのか?

「大阪うたの日コンサート」の前の週には、同じ大阪で「100万人のキャンドルナイト @OSAKA CITY 2014」という野外イベントに参加させてもらった。「100万人のキャンドルナイト」は、夏至と冬至の日の夜8時から10時までの間、電気を消してスローな夜を過ごそうという運動で、10年程前から始まり、今では日本各地で開催されている。自分は大阪でのキャンドルナイトの常連出演者ということもあり、イベントに対しては自分なりの思い入れを持っていた。


この日のステージでは、あえてメッセージ色の強い「アリガトウ サヨナラ 原子力発電所」という曲を歌った。元々この歌は「原発は自分自身でもあった」という思いから生まれていて、いわゆる「反原発」とは一線を画する態度で曲を書いたつもりだったけれど、自分の思いとは違うとらえ方をされることも多かった。ライブでこの曲を歌う時には、他の曲にはないプレッシャーを毎回感じた。
今回のキャンドルナイトでは、ライブで頻繁には歌うことのない「アリガトウ サヨナラ 原子力発電所」を、あえて選曲に入れることにしたのは、無数のロウソクに囲まれ、都会のノイズと静けさが同居する空間の中で、この曲を「反対」するための歌ではなく、「願いと問いかけの歌」としてやわらかく響かせたいと思ったからだ。
この日のお客さんにこの曲がどう伝わったのか、正確にはわからない。ただ、この曲を歌ったときにはやはり、それまでとは違う緊張感を客席から感じ取った。選曲に対する後悔は全くなかったけれど、「こういう歌を歌ったら来年はもうこのイベントに呼んでもらえないかもしれないなあ」との思いはよぎった。
この曲を舞台袖で聴いていたイベントプロデューサー的立場のスタッフから後で聞いた話だけれど、自分がこの曲を歌っていた時、彼は隣で一緒に聴いていた広告代理店の企画代表者に「スポンサー関係は大丈夫ですか?」と確かめたそうだ。その答は「大丈夫です」だったとのこと。

翌週に参加した「大阪うたの日コンサート」では「アリガトウ サヨナラ 原子力発電所」は歌わなかった。歌おうという気が起こらなかった。
ステージ上でBEGINと木村さんが生み出す、あたたかく自由でオープンな空気感は素晴しかった。自分もその空気に乗っかって、実にハッピーな夜を過ごさせてもらった。会場中の誰もが笑顔だった。こんな空気の中で戦争を起こそうなんて気持ちは起きようもない。


社会にコミットする発言をしたり、何かに異議をとなえると、ネガティブな空気も呼び寄せてしまうジレンマを感じることがある。自分はそれほどでもないけれど、3・11以降、もっと知名度のある他のミュージシャンや表現者がそういう発言をすることで、レッテルをはられ、敵視され、ののしられている様をSNS上などでよく見かけるようになった。そういう状況の中に身を置きすぎると、視野が狭くなり、偏狭な相手の方に本人のメンタリティーが近づいてゆくように感じられることもあった。気が滅入るし、めんどくさいし、自分ももうそういう発言はやめて、構わずこちらで好き勝手に楽しくやっていればいいんじゃないかとも思う。
けれど、世の中のやな空気、不穏な動きに対して黙していることは、結果的にそれらを受け入れることになってしまうんじゃないかとの思いもある。このままほっておくと、排外的な空気がひろがり続け、自由を奪われる世の中になってしまうのではとの危機感がある。社会的、政治的な発言、表現はしないというBEGINのスタンスも理解しつつ、自分はやはりこれからも時々は社会に異議をとなえたりするだろう。その際は伝え方に気を使いたい。「正義と真実は我にこそあり」という押しつけや決めつけの態度はさけようと思う。正否だけで物事をとらえるのでなく、起きている事象の本質を見据え、問いかける姿勢を忘れないようにしたい。

BEGINの3人は随分前に、自分達の役割とスタンスを見つけたのだろうと思う。その役割にたいして忠実であり続ける姿には誠実さを感じる。オンステージでもオフステージでも彼らと一緒にいると、とても心地良い。その人柄がそのまま音楽に反映されているように感じる。これからも何度も共演させてもらいたいと思う。機会があれば、酒を交わしながら彼らの思うところをさらに深く聞かせてもらい、意見を交換しあってみたい。

当然ながら、自分には自分のやり方がある。大抵はハッピーにやるけれど、時には問題提起し、場の空気を壊し、他者とぶつかり合うことも辞さない、そういう態度も保ち続けようと思う。そう言ってしまうと、めんどくさくも感じるなあ。まあ逡巡もしながら、しなやかさを失わずにやってゆくつもりです。
2014年7月11日

藤沢「サウサリート」20周年パーティーにて

7月7日FaceBookに投稿
一昨日は、6年前に藤沢に越してからずっとお世話になっているミュージックバー「サウサリート」の20周年パーティーに参加。地元の15人のDJが深夜までお皿を回し続け、宴は深夜まで続きました。
そして、昨日はこれまた地元のバー「ロケット・デリ」にてサウサリートの「20周年シークレット・パーティー」が開催されました。これはマスターのジョージさんには内緒で企画された、お客さん&ジョージさんの奥さんからのサプライズ・プレゼントでした。

倉慎介&羊毛(羊毛とおはな)、羊毛と玲子(マスターの奥さん)、キム・ウリョン&オカザキエミのライブでパーティーは多いに盛り上がりました。オレもウリョンとエミちゃんのライブに飛び入りして1曲歌わせてもらいました。
鎌倉のお菓子屋・小川軒のチュウソンくんからの思い入れがたっぷり込められた20周年ケーキが会場に運ばれ、ジョージさんが20本のローソクの灯を消すところで、場内は最高の盛り上がり。皆の感謝の思いがつまった最高にハッピーなパーティーでした。

自分とサウサリートとの出会いは、藤沢に越してきたばかりの6年前に遡ります。羊毛君からの誘いで、羊毛とお花のライブをサウサリートに観に行ったのが最初です。
サウサリートは、他のお店や地元の音楽人との横の繋がりを大切にしていて、マスターのジョージさんからは、湘南のいろんなお店や人を紹介してもらいました。その繋がりは自分の財産になっています。
藤沢に越して以来、サウサリートでは年に一度くらいの割合でライブをやらせてもらっています。藤沢の他の場所でもジョージさんがライブを企画してくれたり、こちらの企画にジョージさんにDJとして参加してもらったりと、この街に来て以来、ほんと色々とお世話になってきました。

昨日、一昨日のパーティーに参加した大半の人達が顔見知しり同士。恐らく集まった多くの人達にとって、この2日間のパーティーは知人との再会の場でもあったんじゃないかと思います。このパーティーに参加することで、僕らもありがたい贈り物を受け取りました。みんな、いい顔してたなあ。

この6年間、サウサリートを通して、たくさんの人達と出会い、この街での暮らしがより楽しくなりました。ホントに感謝してます。
あらためて20周年おめでとうございます。これからもよろしくお願いします。


2014年7月8日火曜日

「まだまだ日本はよふけー後藤田正晴と小田実の遺言」を観て

7月5日FaceBook投稿に編集加筆

YouTubeで見つけたテレビ番組の編集映像です。
https://www.youtube.com/watch?v=Zs5aXXkiGcA&feature=youtu.be
後藤田正晴は元々、内務省官僚出身、戦後は警察予備隊設立当時の警備課長を勤め、その後、警察権力のトップとして70年安保の大衆運動を鎮圧、田中派の政治家になってからは金権政治家とレッテル貼りされた時期もあります。中曽根政権では官房長官、宮沢内閣で副総理などを歴任。とにかく長く権力の中枢を歩き続けた人で、作家、市民運動家として活動してきた小田実とは対照的な立場にあります。けれど、過去の大戦の反省からナショナリズムの横行を抑え、平和主義に寄って立とうとする姿勢において、二人は共通しています。
以下、番組内の2人の言葉を取り上げます。

小田実は15年前の番組の中で、世界を「平和主義」と「戦争主義」に分けて語ります。
「『平和主義』とは、一切の問題解決は非暴力で行い、時間をかけても平和的解決を目指す。それが日本国憲法が目指す方向性。それに対して、普通の国、世界のほとんどの国は『戦争主義』。『戦争主義』とは『好戦主義』ではない。率先して戦争するわけでも侵略しようというわけでもなく、平和的な手段は行うけれど、最後の手段として戦争がある。」そう小田は定義し、
「国家のために市民が戦わなければならないとなれば、否応無しに徴兵制になる。そういうやり方を繰り返す限り、戦争が起こって民間人が殺される。このやり方にNOと言うなら、今こそ『平和主義』の大切さを考えなければならない時期だ。」と訴えます。

「銃を取らない変わりに、自分達は別のやり方で社会の為に奉仕する『良心的兵役拒否』という制度が、第2次世界大戦後に先進国で根付き始めたけれど、日本は平和憲法によって国家として『良心的兵役拒否』している。我々は、他の国とは違った形で世界に貢献することを示すべきだ。」
そう語る小田実の思いとは逆方向に、今の日本は舵を切ったようです。

「やりたいことは一人でもやる、一人でもやめる。『君が代』を歌いたければ、一人でも歌う。歌いたくなければ、一人でもやめる。制服を着たければ一人でも着る。着たくなければ一人でも着ない。日本人は、あまりにも右見て左見て、結局は何もしない。一人でもやる、一人でもやめるということを、今の若者にぜひやってほしい。」ー小田実 


最近、自民党政権の中枢にいて、平和主義の思いを貫いた後藤田正晴に興味を持つようになり、彼の言動をたどっています。こういう人が現在の自民党の中にいてくれたら、もう少し政権の暴走に歯止めがかけられたのかもしれません。
以下、番組内での後藤田正晴の言葉です。

’86年のイラン・イラク戦争時、中曽根政権の官房長官だった後藤田正晴は、海上自衛隊の掃海艇のペルシャ湾派遣と海上保安庁の巡視船派遣に対して断固反対、体を張ってこれを阻止します。「今ペルシャ湾はイラン・イラク戦争によって好戦海域になっている。そのときに日本のタンカーを守ると言って、海上自衛艦が行くなり、海上保安庁の船が行って、そのときに自国の船を守るための自衛だと言って攻撃することがあれば、相手は自国への武力攻撃と理解して戦争になる。」番組内で後藤田はこう語っています。彼は、輸送と通信が近代戦争の中心であると考えていて、他の場でも当時の政府の認識の甘さを指摘しています。

アメリカがイラクに武力行使を行う直前(’03年)の番組出演で後藤田は、他出演者からの「戦争が始まればアメリカかイラクのどちらかにつくことを選ばなければならない」という意見に対して異議を唱え、「日本は、アメリカかイラクのどちらかを選ぶのではなく、国連を選ぶべき。アメリカ一辺倒に走って行くのはおかしい。」と主張します。後藤田は当時、自民党OBの立場から、自衛隊の海外派遣に対して、はっきりとNOの立場を表明していました。
「日本は一様、戦後、他国の人間を日本の武器で殺すことなく来れたけれど、国際情勢の変化で先行きがわからなくなる中、国民に説明のつかないようなことを政府がやり出した」として、後藤田は番組の中で当時の小泉政権に対する危惧を表明しています。「今度のイラクの場合も、日本は国連の決議に従うべきだ」というのが、後藤田の一環した考えでした。

ここからは番組内以外の言葉ですが、後藤田は、政治が「総理主導」「総理専制」に傾くことに対しても警告を発していました。小泉首相の郵政改革の手法に対しても「民主主義は手続きが一番大事。(首相のやり方は)粗暴過ぎる」と批判しています。’05年に亡くなる直前のインタビューではこのようにも語っています。
「『自衛』とか、『防衛』とかいう言葉は、時の政権の運用次第で、非常に乱暴な使い方になるんです。だからこそ私は、領域外ではあかんよ、と言うので、これが私の絶対条件なんです。」
後藤田は既に’96年のインタビューで、内外情勢が急激に代わり、先が不透明な状況で、集団的自衛権の容認に踏み出すべきではないと語っています。対米追従、自衛隊の領外派遣、武力行使に対して、一貫して反対の姿勢を取り続けた後藤田の危惧は、現実のものになりつつあります。

かつての自民党には、後藤田と共通する立場を取る政治家がある程度存在し、こういった考えが政権に一定の影響を与えていたと思うのですが、今の自民党はそういう歯止めとなる存在が力をなくしてしまったようです。安倍政権によって集団的自衛権が閣議決定されるまでの流れは、立憲主義に反する権力の暴走だと感じています。

後藤田は平和主義を唱えながらも、いわゆる護憲論者とは一線を画する発言もしていて、専守防衛の武装部隊として自衛隊の存在を憲法上認めること(そのかわり九条三項に「領域外における武力行使はこれを行わず」を明記することが絶対条件)や、九条二項、十三条の条文変更などを提案したりしています。
僕自身も、憲法を「再選択」する機会があっていいのではないか、その際は平和主義にのっとって現状の憲法の条文の一部を変えることを選択肢に入れ、矛盾を孕んだ自衛隊の存在を憲法で定義する必要があるのではとも考えるようになりました。
もちろん、現状の憲法に定められた手続きにのっとって行うことが大前提です。集団的自衛権の問題によって、皆が憲法について考える一つの機会になればよいと思います。結論を急ぎすぎず、考え続けようと思います。

後藤田正晴、小田実の2人の言論や政治活動のすべてが常に正しかったと言いたいわけではありません。自分が2人に共感するのは、過去の大戦の反省からナショナリズムの横行を抑え、平和主義と民主主義に寄って立とうとする姿勢です。
一方に流されず、事を急がず、今一度立ち止まり、振り返り、先人の言葉にも耳を傾けるべきだと思います。
長文へのお付き合い、ありがとうございました。


 芦別ディランにて

6月30日FaceBookに投稿

昨夜は芦別・ディランにて、店内の壁画のディランに見守られながら、8日間の北海道ツアーのツアー楽日を迎えました。

芦別市は、60年代までは炭坑の街として多いに賑わっていましたが、炭坑の閉山にともない、人口も最盛期の6万人台から1万人台に減少。今は祭りの後のような静けさが街を包んでいます。





そんなひっそりとした街で、ディランはロックバーとして31年間営業を続けています。オレはもう16年間この店に通い続けていますが、マスターの忠さんとママの美香子さんがディランを続ける限り、これからも芦別に通い続けるつもりです。ディランがツアー最終日でよかった。いい夜でした。

芦別では、去年に続いて今年も8月3日(日)に、忠さんが立ち上げた野外フェス「MUSIC HARVEST 2014」が開催されます。ロケーション最高で、ステキなイベントになること間違いなし。北海道の皆さんぜひ。芦別には今も風が吹いています。

ティーニー・ホッジス、ボビー・ウーマック、小川文明さん、今回のツアー中に偉大な音楽人の訃報に接しました。ツアー直前にはジェリー・ゴフィンも旅立ちました。続けさまに先人の訃報を知る中で、北海道ツアー中に倒れて亡くなられた高田渡さんの言葉を思い出しました。
「死ぬまで生きる」
オレもこれでいっとこうと思います。
旅は続きます。

旭川アーリータイムズにて15年前の自分に出会う

6月27日FaceBookに投稿

旭川アーリータイムズでの初ライブは98年の9月だったと記憶してます。メジャーデビュー当時から8年間お世話になっていた事務所を離れ、フリーになって本格的にツアー暮らしを始めたばかりの頃です。
この時の北海道ツアーは、精神的にきつかった記憶があります。頑張り過ぎて自分のキャパを超えていることに気づかずにいたらしく、ツアー中・帯広あたりで、ひどく消耗して落ち込み、すっかり気力が失せている自分に気づいて、これはやばいぞと感じたのを覚えてます。ホント余裕がなかったんです。

昨夜の打ち上げでアーリータイムズのマスター・野澤さんが、その頃のオレのライブ映像ビデオを店内のテレビで流してくれました。今よりも声が尖っていて、動きが機敏でした。集中力、覚悟が伝わるパフォーマンスで、皆で見入ってしまいました。この夜もいいライブをやったつもりでいたけれど、当時のパフォーマンスにも今にない魅力を感じました。


15年前のライブの「ミラクルマン」が流れた後、オレからのリクエストで、この日のライブの「ミラクルマン」の映像を流してもらって、観比べ、聴き比べしてみました。今の「ミラクルマン」の方がテンポが安定していてノリが大きく、演奏のクオリティーは高いけれど、15年前の性急な疾走感も魅力に感じました。15年前の方が全体的にシャープ。カッコつけてるところは恥ずかしく感じましたが。
思いがけず15年前の自分に出会って、新鮮な刺激を受けました。奴に負けないだけの「気合い」を胸に、想いを束ね、力まず明日の札幌ライブに望もうと思います。