2005年4月16日土曜日

4/16 (日) 高田渡さん追悼

大先輩のフォークシンガー、高田渡さんが入院先の釧路で亡くなられた。56歳。
 渡さんが北海道ツアー中に倒れて、入院したことは4月の始めにツアー先の帯広で聞いていた。心配はしたけれど、以前から入退院を繰り返していたので、しばらく療養したら、またステージに復帰するに違いないと勝手に思っていた。残念だ。
 渡さんとは色んな思い出がある。とにかく音楽と本人の間に距離のない人だった。
  渡さんのステージを始めて観たのは、大学2年生の頃だと思う。場所は京都の拾得。当時大阪で同居していた姉が、「高田渡という知り合いのミュージシャンが 京都に歌いに来るから一緒に観に行こう。」と言って誘ってくれたのだ。なんでも数年前、当時金沢に住んで大学に通っていた姉が、路上で渡さんに声をかけら れ、日中から一緒におでんを食べながら酒を飲んだのが出会いだったらしい。姉はそのとき、渡さんのことは全く知らず、後でミュージシャンだということを 知ったそうだ。
 拾得には開演よりもかなり早めについた。客席はまだまばら。渡さんは楽屋ではなく客席の奥にぽつんと一人で座っていた。仙人か、座敷童みたいだと思った。今考えれば当時の渡さんはまだ30代後半、今の自分より少し若かったはずなのだが、とても30代には見えなかった。
 渡さんは開演前から既に飲んでいて、何度かカウンターに行って、焼酎をおかわりされていた。オレは珍しいものを観るように、離れた席から渡さんを観察していた。客席の渡さんは、なんだか寂しそうに見えた。
  でも、ステージに上がった渡さんは、表情も生き生きとして、客席との会話をとても楽しんでいる様子だった。MCは落語の小咄を聞いているみたいに気が利い ていて、面白かった。ステージでも渡さんは相変わらず飲み続けていた。ぐいぐいではなく、ちょびちょびとひたすら飲み続ける感じ。
 ステージの途 中で一度、渡さんが曲間で目を閉じてうつむいた状態のまましばらくじっとしていたことがあった。酔った渡さんが時々ステージで寝てしまうという話は、後に 逸話としてよく聞くようになったけれど、あのときもやはり寝ていたのだろうか。そのときは計算された間のようにも思えたけれど。とにかくステージで酔っぱ らおうが、うとうとしようが、すべて芸にしてしまう人だった。
 始めて聴いた渡さんの演奏は、当時学生でブルースやフォークに詳しくなかった自分が聴いてもわかるぐらいに完成された職人芸だった。余計なものが一切省かれた、洗練と粋、そして素朴が同居する音楽だった。酔っても演奏はしっかりしていた。
  考えてみれば、メジャー資本には頼らない旅回りのシンガーソングライターに生で遭遇したのは、渡さんが始めてだったかもしれない。その後、西岡恭蔵さん、 友部正人さん、有山じゅんじさん等何人ものシンガーソングライターに出会い、それらの大先輩達から自分は多大な影響を受けた。
 ライブが終った 後、姉が自分を渡さんに紹介してくれた。それで、渡さんもこの日大阪泊りだということで、帰りを一緒させてもらうことになった。何を話したのかはほとんど 覚えていないけれど、渡さんは緊張気味のオレに、色々と話しかけてくれた。渡さんのそばには30代半ばと思われる女性が付き添っていたが、色っぽい関係に は見えなかった。
 大学を卒業して、自分がプロになってからは、渡さんと地方のライブ.イヴェントで一緒させてもらう機会がときどきあった。その ときに各地で、おじいちゃんの面倒をみる嫁か孫のような女性が、よく渡さんの側に付き添っていた。ある地方でのライブの打ち上げの後、泥酔して歩けなく なった渡さんを、お付きの女性二人が両脇に抱えて連れて帰って行くのを観たことがある。昔観た、発見された宇宙人(ということになっていた)が両脇を抱え られている写真みたいで、おかしかったなあ。
 そう言えば福岡のライブ.イヴェントで一緒させてもらったときの打ち上げの後、泥酔した渡さんを当 時のマネージャーと二人で、おぶって帰ったこともあったなあ。そうしたら次の日の朝早く、泊っていたホテルの部屋に渡さんから電話がかかってきた。第一声 が「ワタシ、昨日何かしましたかね?」だった。渡さんが自分の泊っている部屋に遊びに来いと言うので、まだ眠かったけれど、うかがわせてせてもらった。
  渡さんは朝からサントリーの角瓶をストレートでやっていて、上機嫌だった。大体、渡さんが話をして、自分が聞いていることが多かった。色んな話を聞かせて もらったけれど、奥さんとヨーロッパを旅した話が印象に残っている。オフステージでも、渡さんの話は面白かった。独りよがりではなく、相手が楽しめるよう にちゃんと筋立がされているのた。
 話しているうちにどんどん調子に乗ってきた渡さんは、ギターケースからギターを取り出して、オレにレッドベリーの奏法を教えてくれた。といってもオレはギターが弾けないから、説明されてもよくわからず、少し困りながら、渡さんの話にうなづき続けた。
  もう7、8年前になると思うが、下北沢のラ.カーニャで、渡さん、早川義夫さん、中川五郎さんと同席して、一緒に飲ませてもらったことがある。皆いい年の 親父なのに、旧友3人が揃うと、やんちゃ盛りの学生が集まって会話しているような感じで、微笑ましくもあり、羨ましくも思えた記憶がある。そのときに何か のきっかけで、女性にもてるとかもてないとかいうことが話題になった。早川さんが、「五郎ちゃんは、もてていいなあ」と本当にうらやましそうに何度も口に していたのが、おかしかった。オレは、姉が渡さんに路上で声をかけられた話を思い出して、その席で披露したら、早川さんも、五郎さんも「おっ、渡もやる じゃない」という話になった。しかし当の本人は「オレはそんなことはしない」といってむきになって否定するのだ。大先輩に向かって失礼かもしれないが、そ のむきになっている渡さんの様子がおかしくて、実にかわいらしかったのを覚えている。渡さんは下心の全然感じられない人だった。だから姉も安心して声をか けてきた渡さんについていったのだろう。渡さんも姉のことはよく覚えていて、印象に残っていたらしく、会う度に「姉ちゃんは元気か?」と聞かれた。
  イヴェントなどでご一緒させてもらうと渡さんは、オレの演奏を結構よく聴いてくれていて、演奏の後に、いつも少しにやにやしながら、わざわざオレに感想を 言いに来てくれた。褒められたことは、ほとんどなかった。「アンタ、相変わらず元気が良すぎるね。その指、何本が切ってやろうか」ってなことを言ってくる のだ。つまり、間を埋め過ぎる、ピアノの音数が多過ぎると言いたいのだ。そう言われると、次に渡さんと一緒させてもらうときは意識して、さらに元気よく弾 きまくり、歌いまくったりした。そうするとまた渡さんが、にやにやしながらオレのところにやってきて一言二言何か言い残してゆくのだ。渡さんとの一癖ある キャッチボールは楽しかった。本当に人とのコミュニケーションが好きな人だった。
 去年の8月、山形のイヴェントで渡さんとご一緒させてもらった ときのこと。ステージを終えて楽屋に戻って来たオレに渡さんが、またにやにやしながら話しかけて来た。「相変わらず元気だね。でもちょっと味が出てきた ね。」渡さんはそんな言葉をオレにかけてくれた。少し褒められた気がして嬉しかった。
 今から5、6年前かな。北海道の野外イヴェトで一緒させて もらったときの事。退院直後の渡さんは、めずらしく禁酒を続けていて、体調がよく、楽屋にいても、あっちこっちに話しかけ、ちょっかいを出したりして、 じっとしていられない感じで、まさに絶好調の様子だった。イヴェントが終って、会場で別れ際に、渡さんと何か言葉を交わした後に、握手をした。渡さんはい たずらっぽい顔をしながらオレの手を思いっきり握ってきて、なかなか離してくれなかった。握力が強くてびっくりした。そのときは「ああ、この人はなかなか 死なんな。結構長生きするんちゃうか。」と思ったのだが。
 ツアーをしていると各地で渡さんの話が持ち上がる。渡さんのネタになると皆実に楽しそ うに話しする。今月北海道ツアーをしていたときも、札幌で渡さんのCDを聴きながら、渡さんをネタに皆で飲んだばかりだった。ツアー中、移動の電車の中に ギターを置き忘れて来ただの、歌詞ノートを忘れて、ステージに少し上がっただけで帰ってしまっただの(どこまでが本当がわからないけれど)、本当に話題に 事欠かない人だった。自分の存在を徹底的にネタにしながら、日本中でたくさんの人の思い出をつくって来た渡さん。その後を、自分も追いかけているような気 がする。
 でも、やっぱりあんな風にはなられへんな。無理。自分は自分で素直に生きればいいのだ。あんな変な面白い人に会えてよかった、ラッキーだった。
 渡さんは自らの著書の中で、「『死ぬまで生きる』という、当然といえば当然の結論に至った」と述べている。その言葉通りの人生だったのだと思う。
 感謝。合掌。
★去年8月山形のイヴェントで一緒させてもらったときに撮影。

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