2012年6月27日水曜日

新曲「アリガトウ サヨウナラ 原子力発電所」を歌う〈2〉ーコミュニケーションの回路  

今月9日に大阪で「大阪うたの日コンサート」に参加した翌日10日には、東京へ向かい、「東京うたの日コンサート」のイベントシリーズの一環として開催さ れた渋谷BYGでのライブイベントに参加した。共演者は同じピアノ弾き語りの矢野絢子ちゃん。絢子ちゃんのサポートには、黄啓傑(tp)、富永寛之 (g,b,etc)、平井ペタシ陽一(dr)が参加。
 前日に続いて、この日も自分のステージの本編ラスト曲で、新曲「アリガトウ サヨウナラ 原子力発電所」を歌った。演奏には、トミヤン(富永寛之)とコーチャン(黄啓傑)が参加してくれた。
 前日と同じように、アンコールでは出演者全員でセッション。この日のライブも素晴らしい共鳴空間が生まれた。BYGではいつも、現在進行形の旬な自分を表現できる気がする。

 BYGでそのまま行われた打ち上げの席で、ちょっとしたハプニングが起こった。宴が半ばにさしかかった頃、既に酔いの回っていた知人の一人が、オレに対してこんな疑問を投げかけてきたのだ。
 「リクオさん、何でああいう歌を歌う必要があるんですか?」
 その場にいた皆の注目がその知人とオレに集まった。ああいう歌とは、新曲「アリガトウ サヨウナラ 原子力発電所」にことだった。
 「自分は、音楽に、ああいう具体的な主張や、現実に戻されるような表現を持ち込んでほしくない。今は、反原発という主張が1つのファッションになってい て、多くの人はその流れに乗っかっているだけではないか。自分には正直、原発の問題を自分のこととして感じることができない。はっきりとしたリアリティー を持てない。何が正しいのか、よくわからない。反原発の空気を感じる程、自分の中で反感が大きくなって、原発推進派に回りたい気分にさえなってしまう。た だ、リクオさんの曲の歌詞を聴いて、自分が抱いていた反原発のイメージとは違うようには感じた。けれど、リクオさんの歌が何か答を示してくれているわけで はない。反原発の人達には、もっと納得できる原発停止後のビジョンを見せてほしい。」
 このような言葉を、その知人から投げかけられることは、予測していなかったので、不意をつかれ、戸惑いはしたけれど、感情的にはならなかった。彼の言葉 のすべてを、そのまま鵜呑みにすることはなかった。その言葉のトーン、彼がかもしだす雰囲気、表情の中に、何か切実さを感じた。
 彼の問いに対しては、結構冷静に、丁寧に応じられたように思う。けれど、彼が期待するような明確な答を提示することはできなかった。自分も問いかけ、探し続けているさ中なのだ。
 彼は、何かに傷つけられ、疎外感を抱いているようだった。ただ、自分を傷つけ疎外するものの正体が、自分でもはっきりとわからず、いら立っているようにも見えた。普段は、穏やかでマイペースに見える彼の、このような内面を始めて知った気がした。
 知人の言葉には同意できない部分も多かったけれど、話を聞く程に、彼が抱く疎外感が、3.11以降自分が抱き続けた違和感と通じる部分があるように思え てきた。例えば、自分は、あの高揚をともなった正義感が持つ傲慢さ、圧力に、疲れ、どこかで傷ついてもいた(自分自身の中にもそのような傲慢さがあるのだ が)。彼も似たような感覚を持ったのかれしれないと思った。
 ただ、自分と彼の違いは、「用意された答などない、問い続けながら動くしかない」ことに対する自覚の違いかもしれない。
 その知人とは朝迄飲み明かした。2件目のお店では、知人が自分の生い立ちを話して聞かせてくれた。10数年の付き合いの中で、始めて聞く話ばかりだった。
 その夜を通して、彼との距離が以前より、縮まったような気がした。考え、意識の違いの溝が、そんな簡単に埋まるわけではないけれど、コミュニケーション の回路を探し続けた者同士としての共感のようなものが、互いの中に生まれた気がした。顔をつきあわして会話しなければ、このような共感は生まれなかっただ ろう。
 ー2012年6月27日(水)

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