2011年5月19日木曜日

5/19(木)忘れずにいよう

この日はまず、宿泊先の松島から南三陸町志津川へ向かう。この辺りの津波の被害も凄まじかった。こういう光景を受けとめて、想像力を働かせるには、自身の心の容量に限界があるようで、自動的に感情にリミッターがかかったような状態になった。

 志津川でもいくつもの出会い、再会が待っていた。この日のライブ会場で避難所になっている志津川高校では、ボランティアで南三陸町に入っていた西村茂樹 君と再会した。彼がグルーヴァーズに在籍していた頃、自分は彼と同じ事務所に所属していたのだ。もう20年くらい前の話。彼は今、バンド活動を休業して看 護士の仕事に就きながら、ボランティア活動をしているそう。まさか、志津川で再会することになるとは。
 西村君の眼差しは昔に比べて随分柔らかく感じた。こんな風にお互い、気構えることなく話ができたのは、始めてのように思えた。嬉しい再会だった。
 避難所で出会った内田兄弟からもいいヴァイブを受け取った。2人は、志津川でバーを営んでいたのだけれど、お店は4千枚のCDと共に、津波に飲まれてしまったそう。3・11以降しばらくは、遺体を見つけては、避難場所まで運ぶ毎日だったそう。
 お店のほとんどの物が流された中で、調理師免許だけが見つかったことをきっかけに、彼らはボランティアで避難所の調理を担当することを決める。とにかくキャラ立ちがよく、明くて、バイタリティーのある兄弟。
 仙台のサウンドエンジニアの佐藤ヒロさんとも思いがけず再会。こちらに来てから、思っていた以上にいろんな人達が、被災地に集まっていることを知った。
 志津川高校でのライブは、PA機材、マイクなし、電子ピアノ以外は生音、生声で行われた。その場にいた皆が、よく歌い、よく笑い、多いに拍手喝采して、場は素晴らしい盛り上がりになった。音楽、歌の本来の有り様、役割を感じた。
 いくつもの避難所を回ってみて、それぞれの避難所で状況に違いがあるようだった。その中でも、特に志津川高校は、物資、食料が不足しているようだった。
 本当はこの志津川でのライブが今回のツアーのラストになるはずだったのだけれど、隣町の避難所になっている南三陸歌津中学校の先生からの希望で、急遽追加公演が決定した。
 避難所になっている歌津高校体育館でのライブは、ライブ前にトラブルがあったり、告知が行き届いていなかったりして、今回のツアーの中で最も難しいライブだった。
 ライブ中は、MCも歌も、とにかく大きな声を出すことを心掛けた。ステージを離れて、場内を回りながらアコーディオンを弾いたりもした。途中から、踊り 出すおばさんが登場したり、ご当地ソング「おいらの船は300トン」で盛り上がったり、ライブは予想以上に形になり、暖かい拍手をいただいた。人間力、芸 人力が試されるようなリアルなライブだった。
 歌津高校では演奏中に余震を体験した。揺れとともに不気味が地鳴りが響き渡り、演奏は途中中断された。このような大きな地鳴りを聞くは始めての体験だっ た。けれど、避難所の人達は、全くあわてた様子がなかった。このような余震は日常で、慣れっこなのだそう。

 歌津中でのライブの後、今回のツアーに同行したメンバー全員で、海沿いにある防災対策庁舎後に立ち寄った。この場所で職員の遠藤未希さんが津波に襲われ るまで無線放送で非難を呼びかけ続けたそうだ。夕暮れ時に、少し離れた場所から、庁舎後をながめ続けた。
 
 今回のツアーを通して、本当にたくさんのものを受け取った。被災地で見たこと、感じたことは、まだ自分の中で整理がついていない部分があり、この日記では書ききれていないこともたくさんある。
 忘れずにいようと思う。

 今回のツアーは、ピースボードさん、ロフト・プロジェクトさん、仙台のフライング・スタジオさん、蒲鉾本舗鵜高政さん等の尽力によって実現した。この縁を大切に繋いでゆきたいと思う。このツアーに関わってくれたすべてに人達に心から感謝します。

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