復活したミチロウさんを暖かく迎え入れようとする会場の柔らかい空気は、THE ENDの演奏が始まると一定の緊張感に支配されるようになった。自分は、ステージ上で「終わりの始まりだ」と歌い叫ぶミチロウさんの姿に圧倒されながら、その剥き出しの表現にどこか懐かしさのようなものも感じていた。
ミチロウさんの空気を切り裂く雄叫びは、3・11以降も知らないふりを決め込み、絶望に目を背け続ける社会に対する孤独な抵抗のように感じた。
「自分はどちらの側なのだろうか?」と考えた。多分、どちらの側でもある。
今のフクイチの状況のヤバさを感じながらも、ずっとそのこを考え続けることには耐えられない自分がいる。公の出来事と個人の暮らしはつながっているけれど、どこかで線引きをしないとやっていけないとも思う。世の中の嫌な空気には染まりたくないのだ。
絶望をキャッチし、受け止めて歌にするミチロウさんは、だからこそ強く希望を探し求めている。自分にとってミチロウさんの歌は、「希望のための絶望の歌」だ。
自分は流行歌や軽薄の衣装を着た音楽も好きだけれど、ミチロウさんのむき出しの歌の中に自分の表現の原点の1つがあると感じる。軽さや洗練を目指す一方で、その原点を忘れてはいけないと思う。そして、そのような歌や表現が今の世の中には足りないと感じる。自分も含め、多くの人間が時代の空気に流され過ぎなのかもしれない。流されてゆく中で、無自覚な自主規制が始まり、思考が停止してゆく。流されていいこともあるけれど、流されちゃいけないこともあるはずだ。
ミチロウさんの姿が「美しい」のはドロドロの醜さや絶望を吐き出す事を厭わないからだ。それは「きれい」とは別のものだ。たぶん「きれい」過ぎるものには本質が抜け落ちているのだろう。
こういうことを書いていると、自分の言葉に自身が突きつけられることになる。自分の表現は「きれい」過ぎはしないかと自問する。一見「きれい」に見えて、その実「美しい」表現ができたらなと思う。
言葉が抽象に走り過ぎかもしれない。
ステージ上のミチロウさんは何かヤバいこと、歌ってはいけないことを歌っているように感じた。それは、自分の中の自主規制やその場の空気を優先するセンサーがそう感じさせたのかもしれない。「本当のこと」はヤバいのだ。ミチロウさんは、「空気を読む」ことよりも「空気を切り裂く」ことを優先しているように感じた。
世の中にはそんなミチロウさんの歌に「違和感」を持つ人もいるだろう。自分も先日のミチロウさんのステージに、共感と同時にある種の「違和感」を持ったけれど、それは懐かしさや親しみを覚える「違和感」だった。そして、その感覚は今も尾を引いてる。きっと、その「違和感」の中にこそ「本当のこと」は隠されている。ただ気持ちがいい、心地良いだけが音楽ではないのだ。
「終わりの始まりだ」と叫ぶミチロウさんの姿を見て、3・11直後に自分が最もリアリティーをもって受け止めたメッセージを思い出した。
「終わりを始めなければ、新しい未来は始まらない。絶望の暗闇に向き合わなければ、希望の光は見えない。」
自分は3・11以前もそのようなことを思い、歌にもしてきたはずだけれど、3・11直後、それらの言葉の意味やリアリティーが明らかに変わった。言葉に強い実感がともなったのだ。その時の記憶を大切にしたいと思う。
あれから自分達はどれほどの絶望に向き合えたのだろう。
ミチロウさんのことを考えながら、社会のことを考え、最終的に自分のことを考えていた。自分が「ロック」だと感じる音楽には、娯楽をこえて、そのような作用がある。
ー2015年5月23日(土)