2021年6月27日日曜日

希望の始まり ー 「アメリカン・ユートピア」を観て

元トーキング・ヘッズのフロントマン、デイヴィッド・バーンと、さまざまな国籍を持つ11人の仲間たちのステージをスパイク・リーが映画化した「アメリカン・ユートピア」をやっと観れた。
既に方々での評判を耳にして、かなり期待していたのだけれど、その期待をも超えて、打ちのめされるくらいに素晴らしかった。音楽、パフォーマンス、演出、照明、撮影、すべての面で画期的な音楽映画だった。
これでもかというくらいに表現の可能性を見せつけられて、自分ももっとやらなきゃという気持ちにさせられた。この余韻を大切にしたい。

現実を見据えた上での、とても開かれた人間賛歌であることにも深い感銘を受けた。絶望やシニシズムに安住しないバーンの柔らかな信念に強い共感を覚えた。

「Everybody's Coming to My House」を披露する前に、バーンは曲に関するエピソードを語り始める。
ハイスクールの合唱部がこの曲を歌った時に、バーン本人が意図していなかった包容力が伝わったことに感銘を受け、「そっちの方がいい!」と思ったのに、自分は今も自宅に人を招き入れるのが苦手だ。そんな内容だったと記憶している。客席の笑いを誘ったこの告白は、彼の人柄を伝える印象的なシーンだった。
バーンの語りやパフォーマンスは、状況への危機感を伴ったアンチテーゼや啓蒙的要素が強かったけれど、押し付けがましさを感じなかったのは、そこに「内省」が存在したからだと思う。完璧ではない一人の人間としての自覚が伝わるのだ。

正直に言うと、デイヴィッド・バーンに対しては、もっと頭でっかちなイメージを持っていたけれど、画面から伝わったのは、知的ではあるけれど、知性への懐疑も忘れない謙虚さだった。
彼のパフォーマンスは、知性と野生がとても高いレベルで手を取り合っていた。長いキャリアを経て実践と実感を積み重ねた成果なのだろう。実感を経た思想が肉体を通して体現されている様に、頼もしい説得力を感じた。

そして、ユーモアを忘れない姿勢。何よりもバーンは最上のエンターテイナー、芸人だった。こんな風に人を楽しませて、心のバランスや風通しをよくしてくれる力こそを知性と呼びたい。

映画撮影当時のデイヴィッド・バーンは67歳。とにかく心体のコンディションが素晴らしい。アンチエイジングとはベクトルの違う67歳ならではの若さ、瑞々しさを感じた。自身の変化を受け入れる勇気と柔軟性の賜物なのだろう。その姿勢は、バーンがこれまでの体験によって培った信念として画面から伝わった。

まずは自身に向きあい、自分を変えてゆく。あらがえない自身の変化を受け入れる。そうした一人一人の変化の自覚が、他者への寛容を生み、社会をよりよく変えてゆく希望の始まりとなる。自分がこの映画から受け取った大切なメッセージの一つだ。
何が本当で、何が正義がわからない時代においても、一人一人がこうした態度を積み重ねれば、世界はほんの少しずつましになってゆくんじゃないかと思う。

映画監督のスパイク・リーのこと、多国籍の11人の演奏者のこと、曲のこと、照明のこと、カメラワークのこと、語りたいことはもっとたくさん。受け取ったものが多過ぎて、まだ消化しきれない感じ。
とにかく、もう一度観に行こうと思う。

ー 2021年6月27日(日)



2021年6月9日水曜日

プライドや嫉妬が関わる問題

若い頃は嫌なことをやられたらやり返そうとしがちだったけれど、今は腹が立っても仕返しを我慢するようになった。
不毛さが想像できて、めんどくさくなった。そういう機会自体も減った。
けれど、やられたことに対しては、どこかで根に持ち続けている。思い出すと腹が立ったり悲しくなるので、思い出さないようにしてる。
傷ついた心は傷ついたままなのだ。思い返すと、大体は、プライドや嫉妬が関わる問題だった。

ただ、相手から素直に謝られると、わりとすぐにわだかまりが解消する。こちらも、すっと素直な気持ちになれる。そういう単純さが自分の中にあってよかったと思う。

意識的に、こちらから先に相手を傷つけようとすることはないつもりだけれど、自分の振る舞いが、結果的に、相手のプライドを傷つけたことは、多々あったのだろうと想像する。いや、今もあるのかもしれない。
悪気がないのもタチが悪かろうけれど、若い頃は、それは相手側の問題として捉えることが多かった。「弱さ」を武器にされて、こっちも相当に傷つけられているんだという被害者意識が今以上に強かった。その体験をバネにもした。

言葉は、たった一言で相手を地獄に突き落とすことができる恐ろしい武器にもなり得るのだと思う。それくらい人の心は弱い(自分も含めて)。ホント、人間は皆ボチボチである。
やられたらやり返そうとする自分の暴力性は今も消えちゃいないし、いつまで経っても、人との関わりの中でプライドや嫉妬が関わる問題から抜け出すことは難しいけれど、最近は、もうちょっと労わり合いながら生きていけたらなと思っている。

ー 2021年6月9日(水)

2021年6月6日日曜日

映画「アメージング・グレイス アレサ・フランクリン」を観て

注意)この文章は少しのネタバレを含みます。

'72年1月、ロスのバプティスト教会で行われたアレサ・フランクリンのゴスペル・ライブを収めたドキュメンタリー映画「アメージング・グレイス」を観た。
画面に入り込み、自分もライブに参加した一員になって、特別な体験をしたような気分。
既に数多くの人が、興奮を押さえ切れずに、この映画のライブの凄さを語っているだろうから、自分は少し違った側面を伝えたい。

映画は、ライブの高揚や開放感を伝えるだけでなく、そこに至るまでの、アレサのナーバスな一面も映し出す。自分には、その部分こそが、このドキュメンタリーに欠かせない肝だと感じられた。

ステージに登場して歌い始める前のアレサの表情はどこか陰鬱で、明らかに緊張と不安の色が見て取れた。普段のエンターテイメントのライブとは勝手が違う、自分のコアな部分を確かめる特別な時間だったのだろう。

映画を観て、アレサの歌の凄さは、不安定な気持ちをそらしたり紛らわせるのではなく、それらに向き合い葛藤し、乗り越えることで、すべてを歌のエネルギーに変換してゆく、その集中力の賜物なんだと思った。
披露されるどの曲も、歌い出しから心を鷲掴みにされた。葛藤を経ての第一声にこそ、彼女の覚悟が凝縮されているように感じた。

ライブの中の1曲で、キャロル・キングの「You've Got A Friend」が歌われるのだけれど、アレサは歌詞の「Friend」の箇所を「Jesus」に置き換えて歌っている。
ゴスペル・ライブだから当然だけれど、映画の中のすべての曲は神に捧げられた歌ばかりだ。「Jesus」が連呼される中で、特定の宗教を持たない自分は「Jesus」を何に置き換えようかと考えた。
アレサが「Friend」を「Jesus」に置き換えたように、「Jesus」を別の何かに置き換えていいのだと思う(ちなみに、自分が書いた「友達でなくても」という曲は、「You've Got A Friend」の「Friend」を、もっと広い意味の何かに置き換えたいと思って書いた曲です)。

自分は、宗教とは、答えや安らぎを与えるだけでなく、不安に向き合う勇気や問いかけを与えてくれる存在ではないかと考えている。そう、あってほしいとも思う。
映画の中のアレサの姿を見て、自分の考えはそんなに的外れじゃないように感じた。

ー 2021年6月6日(日)