2021年5月31日月曜日

分解と合成の日々 ー ワクチンについて考える

夜の10時に寝て、夜中1時半には目が覚め、それ以降、眠れなくなくなってしまった。
何かをやろうとする気力もなく、ぼんやりと後ろめたいような心持ちで夜明けを待ち続けた。

そんな中、朝日新聞の連載『コロナ下で読み解く 風の谷のナウシカ』に掲載された分子生物学者・福岡伸一氏へのインタビューを読み直してみた。 https://www.asahi.com/articles/ASP353K7GP2SUCVL00Y.html

福岡氏が提唱する『動的平衡』の生命論(生命は自らの身体の合成と分解を絶えず繰り返すことによって存在を保っているとする考え)は、今の自分にタイムリーな考えだと思う。

《人間は『ロゴス(論理や言葉)』と『ピュシス(コントロールできないありのままの自然)』という二つの面を持つ矛盾した存在。ピュシスとしての生命を、技術というロゴスで扱おうとすると、必ずピュシスの側はロゴスでは制御しきれない反応をしてくる。

人間の免疫力も新型コロナの感染力も、ピュシスの領域に属する。これら二つのピュシスの間で『動的平衡』が達成されてはじめて、人間とウイルスとの共生関係が成立する。それには時間がかかる。

ワクチンは、ピュシス間の動的平衡をより速く達成するための『ロゴスによる限定的なピュシスへの介入』という使い方ならばよいけれど、ワクチンによって新型コロナを完全に駆逐しようとすれば、社会全体に思わぬ副作用をもたらしかねない。

制御しきれないピュシスをロゴスの力で何とかなだめつつ、最終的にはピュシスの定めた『死』『滅び』という運命を受け入れていく。そのあたりが落としどころ。》

コロナ禍における大切な提言だと思う。

自分は、順番がまわってくればワクチン接種するつもりでいるけれど、最近、周りの人達と話をしていて、自分が思っていた以上にワクチンへの拒否感が強い人が多いと感じている。陰謀論に依るとおぼしき反ワクチン論の高まりには危惧を抱く一方で、ワクチンを拒否する直感は尊重すべきじゃないかとも思う。
ワクチン接種が進まないことで、コロナ収束により時間がかかったとしても、それはもう仕方がないこととして受け入れ、その間、皆で支え合いながら生きてゆくことを考えるべきなのかもしれない。

福岡氏の語るように、ワクチンによって新型コロナを完全に駆逐しようとすれば、また大きなしっぺ返しが起こりそうな気がする。そもそも、ロゴスでピュシスを完全にコントロールしようとする人間の傲慢さが、この状況をもたらしたのだと思う。
コロナを乗り越えるということは、コロナを駆逐するのではなく、コロナとの共生を成り立たせることなのだろう。
覚悟を決めて腰を据え、分解と合成の日々を堪能しようと思う。

夜が明けて、部屋に朝日が差し込み始めた。思考を経て、前向きな気持ちが戻ってきた。

ー 2021年5月31日(月)







2021年5月11日火曜日

他者の欠如 ー 高橋洋一氏の発言に思うこと

菅首相の側近である高橋洋一内閣官房参与の発言に批判が集まっている。
ここ数年、この人の言動を時々チェックし続けてきたので、今回の発言には驚きを感じない。

もし自分の身内の誰かがコロナで亡くなっていたら、「さざ波」や「笑笑」という表現は出てこなかっただろう。他者への想像力や共感力が決定的に欠如しているのだと思う。

氏のツイッター上でのこれまでの発言から、独善と傲慢、冷笑を感じ取ることは容易い。間違いを認めないし、そもそも間違いに気づけない人との印象。

ネットの世界では、高橋氏のような態度や発言に喝采を送る人が多数存在する。氏も、批判以上に多くの支持が集まることを受けて、発言をエスカレートさせたのではないかと想像する。
支持者はそういった態度に同化して、自らも独善的、冷笑的発言を繰り返すことで、インフルエンサーと同じような万能感を共有する。そういう共犯関係のようなものが成り立っていたのだと思う。

高橋氏が内閣官房参与として官邸に招かれた時にも驚きはなかった。菅首相にとって高橋氏は、自分の考えを都合よく補完してくれる身内に近い存在なのだろうと思う。まわりに身内を固めるのは、安倍政権から続く流れだ。

身内以外の他者や市井の暮らしに対する想像力、共感力の乏しさは、この1年数ヶ月のコロナに対する国の対応にも反映されていると思う。「他者の欠如」という病は、ネット上だけではなく政治をも蝕んでいる。
高橋氏の発言は、そういった流れの中で起きた象徴的な出来事としてとらえている。

ー 2021年5月11日(火)