2026年10月8日木曜日

カルボナーラの値上がりに思うこと

 しょっ中、通っている京都のチェーン展開しているベーカリーカフェで、特によく注文しているランチセットのカルボナーラが、恐ろしく値上がりしている。

2年半前までは、コーヒー、サラダ、フランスパン付きで950円と格安だった(しかも、味もしっかりしている)。それが今や1400円に跳ね上がった。

自分が暮らす京都・一乗寺界隈の現在のランチセットの相場を考えれば、決して高い値段ではない。でも、短期間で約50%の値上がりというのは、さすがに異常だと思う。

食材となるパスタ、乳製品、ベーコン、卵、コーヒー豆の猛烈な値上がり、最低賃金水準の引き上げによる人件費の上昇、光熱費、店舗資材、物流コストの負担増……。素材、人、エネルギーなど、料理を一皿提供するために必要なコストのほぼすべてが跳ね上がっていることが、大きく影響しているのだろう。輸入食材の価格高騰には、円安も大きく影響している。

コーヒー豆の仕入れ価格の歴史的な高騰については、外食店を営む各地の知人からも、よく耳にするようになった。

世界的な気候変動の影響もあり、ブラジルの干ばつやベトナムの不作など、生産地での異常気象が相次いでいる。世界的にコーヒー豆の需給が逼迫し、仕入れ原価がここ数年で3〜4倍近くに跳ね上がっているという話も聞く。

お店を営業して料理を一皿提供するために必要な「材料」「光熱費」「働く人」「運ぶ手段」。そのすべてにおいてコストが同時に上昇している状況で、外食産業の値上がりにも歯止めがかかりにくくなっている。

さらに、もし食料品の消費税が1%に引き下げられるような政策が施行された場合、外食はその対象外となれば、店内飲食への買い控えや客離れがさらに進むことも心配になる。

自分のライブ活動の主な演奏場所は飲食店なので、こういうことを書いていると、各地でお世話になっているお店関係者の顔が浮かんでくる。

ホント、他人事ではないのだ。

ー 2026年10月8日(木)

2026年10月7日水曜日

SNS、AI、自己対話、そして人間の性(サガ)

SNSの使用頻度が上がるほど、承認欲求が肥大して、自己対話の機会が失われてゆくことを以前から懸念してた。
だからこそあえて、SNSを備忘録や自己対話の機会としても使うよう心掛けてきたつもり。

今度はAIが登場して、その進化と浸透ぶりには目を見張る。人間はすでに、AIとの関わりなしに暮らすことが難しくなりつつある。
否定・肯定を論じる段階ではなく、どう向き合うか、どう活用するかが問われる状況だと思う。

自分はAIとチャットする機会が多いのだけれど、AIとの会話は、自分一人ではなかなか言葉にできない悶々とした思いを整理したり、別の視点を得たりするのにも役立つ。
でも、その便利さゆえに、「自分で考え、迷い、言葉にならないまま抱えておく時間」までAIに外注してしまう可能性がある。

AIに考えを委ねるのか、AIを使って自分で考えるのか。
その違いは重要だ。

AIに答えを求めるのではなく、自分の考えを深めるためにAIを使う。そんな姿勢を維持できたらいいのだけれど、知らず知らずのうちに、AIに答えを求めようとしている自分に気づくことがある。

「答えを早く得たい」「不確実な状態から逃れたい」という欲求から、外部にわかりやすい答えを求めてしまう傾向は、もともと人間に備わった性(サガ)の一つなのだと思う。
デマや陰謀論に流されていくのも、根っこには同じ傾向があるように感じる。

AIに向き合うということは、自分の性に向き合うということなのかもしれない。
そして、それはSNSの場合も同じなのだと思う。

ー 2026年10月7日(水)

2026年9月23日水曜日

「人間性」を守るために、政治と向き合うということ ー マックルモアの声明文を読んで考えたこと

エド・シーランのツアーから外されたことを受けての、マックルモアの声明文の日本語訳を読んで、感銘を受けた。
エド・シーランを批判する側、擁護する側、どちらにも読んでもらいたい。

マックルモアは今回のことで、エド・シーランと「意見の相違を認め合う敬意ある話し合い」を行い、「彼の人格攻撃のために悪意を持ってこれを書いている訳では無い」と語る。

続けて、エドがひどい板挟みの状況に陥り、「いつものノンポリ姿勢」を保てなくなった状況を伝えている。
「なぜ人々がこの件で支持・不支持を表明しないのかは分かる。」
としつつも、
「しかし、抑圧者と被抑圧者の間に“中立”は存在しない。」
「反ユダヤ主義は実在する。だからこそ、“反ユダヤ主義”という言葉は非常に重要で、イスラエル国家への批判に対する盾として使われるべきものでは無い。イスラエルを批判すること、シオニズムに反対すること、あるいは『Free Palestine』と言うことを、ユダヤ人への憎悪と同一視することは、ユダヤ人を守ることにはならない。ただ、イスラエルを説明責任から守るだけだ。」
というマックルモアの考えに、自分も同意する。
さらに、強い言い方をすれば、虐殺に対して中立という選択肢はないと思う。

マックルモアは、考えの相違があってもエドとの関係が続くことを望み、エドが「『中立とは何か』を思い悩み続けることを願う」と語る。

エド・シーランは、マックルモアがツアーから外された後のステージ上で、
「政治ではなく人間性を大切にしてほしいけれど、これは人道上の問題だ」
と語り、マックルモアは「義務。勇気でも無い。人間であること。」という言葉を使って、今回の行動を説明した。

「これはイデオロギーの問題ではなく、人道上、人間性の問題である」という点において、今の2人の考えは重なっているように思える。
エド・シーランは、今回の出来事を通じて、「人間性」を守ろうとした結果、政治から距離を置くことができなくなったんだと理解している。世界的アーティストとしての責任ある立場と今の社会状況が、彼を追い詰めたようにも見える。

今回の件で、「エド・シーランは人道に背いた」という単純な人物評価によって、彼を敵視する人も多いように感じる。けれど、少なくともマックルモアの声明は、そこには向かっていない。
むしろ彼は、エド・シーランとの関係を維持したまま、譲れないことについては厳しく異議を唱えている。

相手を批判することと、相手を敵にすることは同じではないはずだ。

今回の件を受けて、エド・シーランの人間性までも否定しようとする人たちにも、マックルモアの思いが届くことを願っている。

ー 2026年9月23日(水)

2026年9月14日月曜日

沖縄県知事選挙の結果を受けて、辺野古で聞いた声を思い出す

 今回の沖縄県知事選挙の結果を受けて、色々考えさせられている。

2年前の兵庫県知事選、昨年の宮城県知事選でも問題となった、ネット空間でのデマや誹謗(ひぼう)中傷が、今回はさらに激しく横行したことに、民主主義の土台が崩れてゆくような強い危機感を覚えている。

ただ、今回の古謝氏の当選という選挙結果を、ネット空間でのデマや誹謗中傷の影響も含めて、どう受け止め、どう読み解けばいいのかについては、慎重でありたいと思う。選挙によって示された民意であることは間違いないとしても、それを単純な一つの意思として捉えることは、沖縄で暮らす人達の複雑な思いを切り捨ててしまいかねない気がするのだ。

抽象的な政治言語だけに閉じることなく、ツアーで毎年訪れる沖縄での体験や、そこで出会った人たちのことを思い出しながら考えたい。

沖縄のことを考える時に、忘れられない思い出がある。
今から12年前、米軍普天間飛行場の移設予定地となっている辺野古を訪れて、アップルタウンと呼ばれる社交街で、地元の方々と交流した体験だ。その時の出来事をまとめてブログに投稿するまで1年を要した。それでも、体験したすべてを具体的に書き記すことには躊躇を覚えて、思い留まった。

《気まぐれダイアリー「辺野古の埋め立て承認取り消しで考えたことー1年前に辺野古を訪れたときのこと」》

今回の選挙では「基地問題」よりも「暮らし・経済」が大きな争点になったとされているけれど、両者の問題は地続きなんだということを、その時に痛感した。
選挙結果を受けて「基地移設を容認する人が増えた」とだけ理解するのは、おそらく地域の感情を単純化しすぎている。
沖縄において、基地問題は賛成・反対の二元論で語れる単純な問題ではない。

12年前に辺野古を訪れ、そこで暮らす人たちと酒を酌み交わし、時には感情的になりながら語り合って感じたのは、基地に賛成か反対かという2択では捉えきれない、地域で暮らす人たちの複雑な思いや、積み重なった疲労・絶望だった。

「本当は地元の誰も積極的には基地移設に賛成していない」
これは地元の基地移設容認派のリーダー的存在の方から聞いた言葉だ。
辺野古で暮らす人達にとって、基地移設はイエスかノーで解決できる問題ではなく、自分達の暮らしと町の将来にからめた条件闘争として考えざるを得ないのだ。

もう一つ、両親が米軍嘉手納基地で働いていた沖縄民謡歌手・古謝美佐子さんの話も忘れられない。
《気まぐれダイアリー「古謝美佐子さんのこと」》

古謝さんは幼い頃に父親を、基地内でアメリカ軍の車両にひかれる事故で亡くされている。
当時、うかがった話では、「自分には基地に育てられたという思いもある。日本に存在する米軍基地の70%が沖縄に集中しているのはおかしいことだと思うし、辺野古への基地移設も反対だけれど、基地で働いていた地元の人達とのつながりもあり、そういった人達の気持ちを気遣うと、自分が声を上げて辺野古移設に反対することには躊躇がある」とのことだった。

けれど、その後、古謝さんは辺野古基地移設反対の意志を公に表明し、行動されるようになる。そこに至るまでには、自分が声を上げることで繋がりのある誰かを傷つけるかもしれないという葛藤も含め、さまざまな思いがあったのだろうと思う。

今回の選挙結果を受けて、そんな過去の体験をあらためて思い返している。

基地移設反対運動が、その地域で暮らす人達一人ひとりの思いや立場・暮らしを無視するものであってはならないし、「国」や「国益」といった大きな言葉が、そこに暮らす一人ひとりを蔑ろにすることがあってはならないと思う。
今回の選挙結果を受けて、もう一度そこに立ち返って考えたい。

ー 2026年9月14日(月)

2026年9月3日木曜日

現実世界のノイズへ――AIに取り込まれないために

 ある人の投稿を通じて、AIへの過度な依存について、あらためて考えさせられた。

AIには、ユーザー自身がすでに抱いている解釈や感情に寄り添い、それを文章として補強することで、万能感を抱かせてしまう危険性がある。
結果として、最初の誤読や偏った前提を、AIがより精巧な論理と美しい文章によって補強してしまうことも起こり得る。

自分が読んだその文章も、「前提の誤り」よりも「文章の整合性」のほうが、読者に強く印象づけられる内容になっていた。AIの力を借りたとは断言できないけれど、AIと親和性の高い文章だと感じたのだ。

AIを「寄り道」の相手ではなく、自分の物語を補強する「優秀な共同脚本家」として使っているような印象を受けた。
自分自身もそういう使い方をしてしまっている自覚があるからこそ、余計にそう感じたのだろう。
これは、AIを使った文章で起こり得る問題の一つだと思う。

AIを、自分の物語から外へ出るための補助として使うのか。
それとも、自分の物語をより強固にする存在として使うのか。
この違いは大きいと思う。

ただ、前者として使うには、かなりの自覚が必要だろう。
AIとの対話によって自己を相対化できるとは限らない。むしろ、自分の考えを補強しているだけなのに、それに気づかないことだってあるだろう。

AIの世界にこもるばかりでは、AIに取り込まれてしまうんじゃないだろうか。
だからこそ、現実世界のノイズの中で、しっかり揉まれ続けたいと思う。

2026年8月25日火曜日

AIとの「寄り道」――「鏡」の向こう側へ

 「生命は複合体であり、全体性の中にしか宿らない」という言葉について、ChatGPTと話し合った。

《生命=さまざまな要素が関係し合い、循環し、全体として動いている状態。〜
一つ一つの音符やコードだけを調べても、その場で演奏者や聴衆との間に生まれている音楽そのものは説明しきれません。〜
生命とは「もの」ではなく、「関係が動き続けている全体」なのではないか。》

このAIからの返事に対して、こう答えた。

「つまり、多種とのアンサンブルによって成り立っていると考えればいいですか?」

するとAIはこう返した。

《はい、とても近い捉え方だと思います。
ただ、「多種とのアンサンブル」より少し広く、「多様なものとの相互作用によるアンサンブル」と考えると、さらにこの言葉の意味に近づきます。〜》

その後、会話は「ナショナリズムと民族主義の違い」に発展していき、「多様、雑多な世界でアンサンブルが成り立つことが、人類存続の鍵」という観点から、物語や神話に依存する過度なナショナリズムの危うさについて考えていった。

《問題は、「神話を事実だと思わせる」ことであり、検証可能な歴史的事実と区別できなくなって、神話が接着剤から排除の装置へ変わってしまうこと。
国家もまた、単一の本質によって成立するものではなく、多様な人々の関係によって成立している。》

このChatGPTの答えは、基本的には、こちらの考えをうまくまとめたものとも言える。

AIは、自分を映す「鏡」のような存在なのだと思う。けれど、その鏡は、ときに自分では見落としていた輪郭を見せてくれる。

今回も、最初は「生命」という言葉について話していた流れから、「アンサンブル」という言葉を手がかりに、国家やナショナリズム、民主主義、そして人類の持続可能性について考えるところまで話が広がっていった。

AIとの対話を、答えを効率よく得るためだけのものには使いたくない。

忘れていたものを思い出したり、考えが思わぬ方向へ寄り道したり、自分の中にまだうまく言葉にできていなかったものを見つけたりする。
そんなふうに、思いがけない何かに出会う「寄り道」の場にもなり得るんじゃないかと考えている。

ー 2026年8月25日(火)

2026年8月18日火曜日

戦争に言葉と心を奪われないために ー 歴史学者・藤原辰史氏の提言

 《日本は武器を生産し輸出できる国になり、実質的に、常時戦争に参加する国になった。だから「戦争がまた始まるのではないか」ではなく、残念ながら「戦争はもう始まっている」。戦争に言葉も心も奪われないための理念を、語り続けなければならない。》

歴史学者・藤原辰史氏のこの寄稿文における指摘を、重く受け止めている。
昨日は、「楽天グループがドイツの防衛スタートアップ企業Helsing(ヘルシング)と提携。同社の攻撃型ドローンを日本に導入するのを支援し、陸上自衛隊向けに提案するほか、将来的な日本国内での国産化(量産)も視野に入れている」とのニュースを目にしたばかりだった。こうした動きは、藤原氏が指摘する「戦争へ向かう社会の変化」が、すでに現実の問題になっていることを感じさせる。

寄稿文の中の、「戦争があったから再軍備した」のではなく、「再軍備を進めたことが戦争へ向かう社会の流れを加速させた」という指摘は核心を突いているように思う。戦争を「開戦の日」から捉えるのではなく、軍事・経済・言葉・記憶・メディアなど、社会全体の変化が積み重なっていく過程として捉えるところに説得力を感じる。

また、戦後日本の反戦思想が「自分たちは戦争の被害者にならない」という意識に偏り、植民地支配や朝鮮人被爆者、コンゴのウラン採掘など、戦争や核兵器をめぐる加害と被害の世界的なつながりを十分に見つめてこなかったという批判も、真摯に受け止めたい。

さらに重要なのは、「言葉が失われること」と「戦争へ向かうこと」を結びつけている点だと思う。

「コメントを差し控える」のような、一見すると中立的で無難に見える言葉が、現実に起きている暴力や被害を見えなくしてしまうことがある。だからこそ、「戦争に対抗するための土台となるのは、理念に裏打ちされた言葉である」という指摘は重い。

言葉は単なる情報伝達の手段ではなく、何を大切にし、何を許さないのかを考えるための基盤でもある。言葉を失えば、現実を見つめ、疑い、対話する力も失われてしまう。

「戦争はもう始まっている」という言葉を、諦めや無力感として受け取るべきではない。

「もう始まっている。だから仕方がない」のではなく、始まりつつあるからこそ、歯止めをかけると同時に、別の方向へ進む社会を、共に想像し、築きなおしてゆきたいと思う。

ー 2026年8月18日(火)