2026年2月24日火曜日

揺れながら橋の上に立つ ー トーンポリシングについて

内容(WHAT)よりも伝え方(HOW)ばかりを意識していると、結果的に、自分がトーンポリシングに加担してしまうのではないかと不安になることがある。

トーンポリシングとは、議論の内容(本質)ではなく、その伝え方や感情のあり方を問題にすることで、相手の主張を封じ込めたり、論点を逸らしたりする行為を指す。日本語では「話し方警察」と呼ばれることもある。

怒りや悲しみといった強い感情を伴う発言に対し、その感情そのものを理由に議論を退けるのが典型的なかたちだ。とりわけ、社会的弱者や抑圧されている立場の人が声を上げたときに、より強い立場の側がその声を抑え込む手段として機能することが多い。主張の内容が正しくても、口調や表現を「不適切」として退けることで、被害の訴え自体を無効化してしまうのだ。

「自分は冷静だ」という意識が精神的な優位に変わり、怒りを未熟な感情とみなしたとき、その態度は「話し方警察」に近づいていくのだろう。

けれども、議論の本質から目を逸らさず、理不尽に対する怒りの背景に心を寄せ、当事者性を引き受け続ける限り、その姿勢はトーンポリシングとは別の回路にあるはずだ。

怒りを守ることと、怒りの表現を問い直すことは、きっと両立できるはずだ。
その両立を手放さずにいたい。

自分は、揺れながら橋の上に立ち続けたい。
怒りの背景を見過ごさず、その本質を可視化し、翻訳しようとする側でありたい。

ー 2026年2月24日(火)

2026年2月22日日曜日

スローガン化された言葉と冷笑 ー 「#ママ戦争止めてくるわ」の反響に思うこと

 衆院選の直前、タイムラインに流れてくる「#ママ戦争止めてくるわ」という言葉を何度も目にした。

自民党の圧勝に伴って、防衛費の大幅増額、非核三原則の見直し、殺傷能力のある武器の輸出、スパイ防止法の制定、そして憲法九条の改正など、防衛・安保政策の大転換が行われ、日本が戦争に巻き込まれる可能性が高まるのではないか──そんな危機感から生まれた言葉であることは明白だ。

自分も同じ危機感を抱く一人だけれど、ハッシュタグの拡散には加われなかった。選挙の熱気が高まり、ハッシュタグがスローガンとしての強度を増すほど、「自分で考えるプロセス」が省略されていく危うさを感じたのだ。
これは性分のようなもので、この判断が絶対的に正しいとも思わない。ただ、自分の中にも確かに危機感があったからこそ、「考えるための余白」を守りたかった。安易に不安に押し流されたくなかったのだ。

選挙後に、このハッシュタグがエッセイスト清繭子さんの「ママ、戦争止めてくるわ」という日常の一言をきっかけに、主語を置き換えたバリエーションも含めて爆発的に拡散された経緯を知り、言葉に対する受け止め方が少し変わった。自分は「#ママ戦争止めてくるわ」を政治的なスローガンとして捉え過ぎていたのかもしれない。清繭子さんのnote(https://note.com/mayuko_kiyoshi/n/ndea3d724ba58)を読んで、その思いをより強くした。
個人の素朴な思いが、あまりにも急速に広く拡散されスローガン化することで、元の言葉の輪郭や背景が削り取られてしまったようにも思える。

ハッシュタグを政治色の強いスローガンと見なして強いアレルギー反応を示す人が出ることも予測できた。実際、拡散とともに冷ややかな批判や誹謗中傷が目立ち、その傾向は選挙後、さらに強まったように感じる。

雨宮処凛さんがこのハッシュタグを取り上げた記事(https://maga9.jp/260218-1/)がSNS上で広くシェアされ、反響を呼んだことも印象的だった。雨宮さんの記事は、過去の自身の経験に基づく見立てを含めながら、ハッシュタグを「リベラル界隈の内向きな特殊言語」として読み解く内容で、少なくとも記事中では、その出自には触れられていなかった。自分には、言葉が一人歩きしていることを象徴する内容のようにも感じられた。

拡散する側も叩く側も、想定する読者が自分たちの「仲間」に向いているという点では共通しているように思える。どちらの言葉も対話や議論を促すものというより、同じ意見同士で結束を確かめ合う「合言葉」として機能し、反応は明確に二分された。典型的な現代SNS型スローガンの構図に陥ってしまったと言えるだろう。

しかし、両者が完全に対称であるとは思えない。ハッシュタグを拡散する側に対して、相手の知性ごと貶めるような冷笑や揶揄を浴びせるのは、不均衡で残酷に映った。

揶揄を含む風刺やパロディそのものを否定するつもりはない。ただ、その刃が権力や制度といった「強者」ではなく、自分と異なる考えを持つ誰かを「一括りにして単純化し、貶める」ためや、弱い立場に向けられることに、やりきれなさを覚える。

スローガン化された言葉と冷笑がぶつかり合い、双方が過激さを増していけば、対話の余地はさらに削り取られていく。ハッシュタグをめぐる騒動も、そうした負のループに飲み込まれてしまったように思えた。
拡散されたハッシュタグが、元は一市民の子どもにかけた日常と地続きの言葉だったことを忘れずにいたい。自分も、「戦争はいやだ」という思いを共有する一人だ。

スローガン的な「強い言葉」が短期間で大きな波を起こすものであるならば、自分は、そうした言葉が振り落としていくものにも目を向けつつ、少しずつ水位を変えていくような言葉を紡ぎたい。

両者は必ずしも反目し合うものではなく、補い合う関係にもなり得るはずだ。
強い言葉で提起された問題の輪郭を、丁寧に確かめていきたい。
感情を否定することなく、モヤモヤを繰り返しながら、それでも思考を手放さずにいたい。

ー 2026年2月22日(日)

旅の効用 ー 奄美大島にて

昨夜は古仁屋・JUICE(ジュース)にて、奄美諸島ツアー最終公演。

名瀬から古仁屋までは、ASIVIスタッフの中池君が車で送ってくれた。道中いろんな話をする中で、彼の出身地である住用町が16年前の「奄美豪雨」で甚大な被害を受けたことを教えてもらう。街の機能は停止し、彼の自宅も床上浸水で住めなくなり、中学生だった彼は家族とともに名瀬へ越してきたのだそうだ。

当時、開局したばかりのコミュニティFM「あまみエフエム ディ!ウェイヴ」は、寸断された情報網をつなぎ、島民の「命綱」として重要な役割を果たした。FM開局の発起人であり、今も代表を務める麓憲吾君は、前日にライブをやらせてもらったASIVIの代表でもあり、中池君の上司にあたる。

道中、亜熱帯の森の景色の中に、満開の緋寒桜が何度も目に入った。日本の桜前線は、もう始まっているのだ。

古仁屋に到着し、ホテルにチェックインして仮眠をとった後、街をぶらつく。
古仁屋は『男はつらいよ』シリーズ事実上の最終作『寅次郎紅の花』の舞台となった町。古仁屋港に佇み、「ここで寅さんとリリーが再会したんだな」と感慨に耽る。

JUICEでのライブは昨年に続き2度目。
オープニングで演奏してくれたアコースティックデュオ・ふやよみ、ロックバンド・E21B。どちらも印象に残るステージだった。

ふやよみの2人の歌と演奏は、奄美の風土に自然と共鳴しているように感じられた。E21Bのきんじょう君とは、4年ほど前、コロナ禍に磔磔で共演して以来の再会。楽屋で話す中で、ギターパンダがレパートリーにしている「中庭のヘビイチゴ」が彼の詞曲であることを初めて知る。昨夜のライブでも披露され、そのヒリヒリするリアリティーにグッときた。

自分のライブ中、店のスタッフのカポちゃんがカウンター内で終始体を揺らしてくれていて、それがとてもいいグルーヴだった。途中から、彼女とコラボしているような気分になった。
PAのハヤセ君、いい音をありがとう。

今回のツアーで初めて、打ち上げの席で政治の話を皆とした。こういう場では、これまで以上に、政治信条の異なる人とも話せる言葉を選ぶよう心がけている。

二次会では、JUICEのマスター・圭太君と2人でいろんな話をした。
嘉徳(かとく)海岸の護岸工事への反対運動が起きており、地元住民の間でも賛否が分かれているという話は、聞いていて複雑な気持ちになった。'14年の大型台風による甚大な侵食被害により、集落を海から守っていた砂丘やアダンの林が消失し、その背後にあった民有地の畑や小屋などが流失。浸食は集落の共有財産である墓地に数メートルの距離まで迫り、さらなる台風や時化(しけ)が来れば墓地そのものが崩落しかねない切実な不安が住民の間に広がったことがきっかけで、町議会が鹿児島県に対して対策工事を要望し、県はコンクリート製の護岸を建設する事業を決定。
「先祖代々の墓地と集落の安全を守りたい」とする推進側の切実な願いと、「世界自然遺産の緩衝地帯である手つかずの自然を壊したくない」とする反対側の主張が、真っ向からぶつかっているのが現状なのだそう(AIからの情報も参考にしました)。

古仁屋を含む奄美大島各地で採取された土砂が、沖縄・辺野古新基地建設の埋め立てに使用されていることも、圭太君からの話で初めて知る。

4泊5日の奄美の旅。感じたこと、受け取った情報がたくさんで、振り返り、まとめる時間がほしくなる。
奄美を訪れる前から考え続けていたことも、自然や空気に触れ、人と交流することで、視点や受け止め方が少しずつ変わっていく感覚があった。
旅は、心の風通しをよくしてくれるのだと思う。

いいツアーでした。
出会いと再会に感謝。
また、笑顔で再会しましょう。

ー 2026年2月22日(日)

2026年2月11日水曜日

衆院選前後の大黒摩季さんの投稿を読んで感じたこと

大黒摩季さんが衆院選への投票を呼びかけたインスタグラムへの動画と、投開票日&衆院選から一夜明けてからのXへの投稿文が話題となり、賛否を呼んでいる。

それらの一連の投稿に自分も目を通した(既に削除されているようだ)。若者への期待感と、選挙結果を受けての喜びと高揚感がストレートに伝わる、エネルギッシュで祝祭ムードに満ちた内容だった。

特に違和感を覚えたのは、「何より日本中が一つになった気がしたその熱に」という一文だ。悪意がないからこそ、余計に危うさを感じた。
この言葉は、政治的立場の異なる人々を共同体の外側へ押し出してしまいかねない(自分もその側に立つ一人だ)。

今回の投稿と、それを巡る盛り上がり(賛否を含め)を見ていると、政治が出来事というより“気持ちの共有”に近づいているように感じる。
それは特定の支持層に限らず、社会全体に広がりつつある空気のようにも思える。

政治が共感の強さで動くほど、共感の外側にいる人は敵として認識されやすくなる。
そして感情によって結びついた政治は、感情によって反転もする。熱量が高いほど、その振幅もまた大きくなるのだろう。

追記)自分自身もまた、その流れに飲み込まれ得るメンタルを持った、未熟な一人であることを自覚しておきたい。

ー 2026年2月11日(水)

2026年2月2日月曜日

「怒り」と「祈り」は両輪 ー ルシンダ・ウィリアムズとブルース・スプリングスティーンの新曲を聴いて

ルシンダ・ウィリアムズの新曲「The World's Gone Wrong」を、ここ最近毎日のように聴いている。
https://www.youtube.com/watch?v=T6c8oLWr9kI&list=FLqS_G7EkuCStsksj4quXtIA&index=4

分断された社会、フェイクと感情の氾濫を思わせる歌詞。
「気づいたら世界はこんな風になってしまった」という呆然さや徒労感が伝わる一方で、そんな世界の中でも、まともであり続けようとする静かな覚悟も感じられる。
若い声では成り立たない、成熟の過程を経たブルースだと思う。

自分にとっては、移民当局によって市民2人が射殺された事件を受けて、ブルース・スプリングスティーンが先日急遽発表した楽曲「Streets Of Minneapolis」と対をなす存在になっている。
https://youtu.be/GDaPdpwA4Iw?si=crNWYKZz2U79glnM

最近は、ブルースの歌で気持ちを奮い立たせ、ルシンダの歌で感情を鎮めている。
「怒り」と「祈り」は、きっと両輪なのだと思う。
同じ現実を見つめ、それを伝えようとする誠実さにおいて、両者は通じ合っている。

"They need each other now more than ever"

「The World's Gone Wrong」は、サビに入る前のこのフレーズがとりわけ効いている。
そう、それでも人は互いを必要としているのだ。

こういう歌を聴くと、やはり音楽には、慰めや娯楽以上の力があると感じる。
自分にできることをやろうと思う。

ー 2026年2月2日(月)

2026年1月30日金曜日

「感情の消費」について

 自分のように高市早苗首相の笑顔に「演出」や「裏」を感じ取る層もいれば、「頼もしさ」や「親しみ」「安心」を受け取る層も存在していて、どうやら多数派は後者のようだ。
なぜ、これほどまでに認識の差が生じるのか。


その明確な答えを持ち合わせているわけではないけれど、政治が「考えるもの」から「感じるもの」へと、さらにシフトしている、ファクトをも蔑ろにした「感情の消費」へ向かっているように思える。
笑顔に安心したり、敵を叩く言葉や映像に溜飲を下げたりする感覚は、自分の中にも存在する。そうした感情そのものを否定したいわけではなく、感情ばかりで完結してしまうことに危うさを感じるのだ。
政治が判断の場ではなく、応援や反発の場になってしまっているのではないか。

この気持ちよさや安心感は、いったい何と引き換えにされているのか。
入り口が感情であっても、「立ち止まって考える時間」を手放さずにいたい。
今回の衆院選は、正しい情報を得て考える時間が意図的に奪われているように感じる。

ー 2026年1月30日(金)

2026年1月29日木曜日

高市首相が笑顔の表紙

 立ち寄った書店で、『WiLL』と『Hanada』が並んで平積みされていた。

両誌の表紙はいずれも高市首相の笑顔で、かつての言論誌の佇まいとは決定的に異なるものに見えた。
この違和感の正体は、いったい何なのだろう。


最近、「政治家への支持が“推し活”のようになっている」という言葉を目にするけれど、この2誌の表紙は、そうした傾向を象徴しているようにも思える。

そこに描かれた高市首相の姿は、「ヒロイン」を想起させる。伝わってくるのは、批評ではなく共感や好感だ。高市首相の「ファン」を主なターゲットにした表紙だと考えれば、腑に落ちる部分もある。

ただ、それでいいのだろうか。
高市早苗氏個人への評価以前に、政治と言論の関係そのものが変質してしまっているのではないか―そんな感覚が拭えない。

ー 2026年1月29日(木)