2026年2月11日水曜日

衆院選前後の大黒摩季さんの投稿を読んで感じたこと

大黒摩季さんが衆院選への投票を呼びかけたインスタグラムへの動画と、投開票日&衆院選から一夜明けてからのXへの投稿文が話題となり、賛否を呼んでいる。

それらの一連の投稿に自分も目を通した(既に削除されているようだ)。若者への期待感と、選挙結果を受けての喜びと高揚感がストレートに伝わる、エネルギッシュで祝祭ムードに満ちた内容だった。

特に違和感を覚えたのは、「何より日本中が一つになった気がしたその熱に」という一文だ。悪意がないからこそ、余計に危うさを感じた。
この言葉は、政治的立場の異なる人々を共同体の外側へ押し出してしまいかねない(自分もその側に立つ一人だ)。

今回の投稿と、それを巡る盛り上がり(賛否を含め)を見ていると、政治が出来事というより“気持ちの共有”に近づいているように感じる。
それは特定の支持層に限らず、社会全体に広がりつつある空気のようにも思える。

政治が共感の強さで動くほど、共感の外側にいる人は敵として認識されやすくなる。
そして感情によって結びついた政治は、感情によって反転もする。熱量が高いほど、その振幅もまた大きくなるのだろう。

追記)自分自身もまた、その流れに飲み込まれ得るメンタルを持った、未熟な一人であることを自覚しておきたい。

ー 2026年2月11日(水)

2026年2月2日月曜日

「怒り」と「祈り」は両輪 ー ルシンダ・ウィリアムズとブルース・スプリングスティーンの新曲を聴いて

ルシンダ・ウィリアムズの新曲「The World's Gone Wrong」を、ここ最近毎日のように聴いている。
https://www.youtube.com/watch?v=T6c8oLWr9kI&list=FLqS_G7EkuCStsksj4quXtIA&index=4

分断された社会、フェイクと感情の氾濫を思わせる歌詞。
「気づいたら世界はこんな風になってしまった」という呆然さや徒労感が伝わる一方で、そんな世界の中でも、まともであり続けようとする静かな覚悟も感じられる。
若い声では成り立たない、成熟の過程を経たブルースだと思う。

自分にとっては、移民当局によって市民2人が射殺された事件を受けて、ブルース・スプリングスティーンが先日急遽発表した楽曲「Streets Of Minneapolis」と対をなす存在になっている。
https://youtu.be/GDaPdpwA4Iw?si=crNWYKZz2U79glnM

最近は、ブルースの歌で気持ちを奮い立たせ、ルシンダの歌で感情を鎮めている。
「怒り」と「祈り」は、きっと両輪なのだと思う。
同じ現実を見つめ、それを伝えようとする誠実さにおいて、両者は通じ合っている。

"They need each other now more than ever"

「The World's Gone Wrong」は、サビに入る前のこのフレーズがとりわけ効いている。
そう、それでも人は互いを必要としているのだ。

こういう歌を聴くと、やはり音楽には、慰めや娯楽以上の力があると感じる。
自分にできることをやろうと思う。

ー 2026年2月2日(月)

2026年1月30日金曜日

「感情の消費」について

 自分のように高市早苗首相の笑顔に「演出」や「裏」を感じ取る層もいれば、「頼もしさ」や「親しみ」「安心」を受け取る層も存在していて、どうやら多数派は後者のようだ。
なぜ、これほどまでに認識の差が生じるのか。


その明確な答えを持ち合わせているわけではないけれど、政治が「考えるもの」から「感じるもの」へと、さらにシフトしている、ファクトをも蔑ろにした「感情の消費」へ向かっているように思える。
笑顔に安心したり、敵を叩く言葉や映像に溜飲を下げたりする感覚は、自分の中にも存在する。そうした感情そのものを否定したいわけではなく、感情ばかりで完結してしまうことに危うさを感じるのだ。
政治が判断の場ではなく、応援や反発の場になってしまっているのではないか。

この気持ちよさや安心感は、いったい何と引き換えにされているのか。
入り口が感情であっても、「立ち止まって考える時間」を手放さずにいたい。
今回の衆院選は、正しい情報を得て考える時間が意図的に奪われているように感じる。

ー 2026年1月30日(金)

2026年1月29日木曜日

高市首相が笑顔の表紙

 立ち寄った書店で、『WiLL』と『Hanada』が並んで平積みされていた。

両誌の表紙はいずれも高市首相の笑顔で、かつての言論誌の佇まいとは決定的に異なるものに見えた。
この違和感の正体は、いったい何なのだろう。


最近、「政治家への支持が“推し活”のようになっている」という言葉を目にするけれど、この2誌の表紙は、そうした傾向を象徴しているようにも思える。

そこに描かれた高市首相の姿は、「ヒロイン」を想起させる。伝わってくるのは、批評ではなく共感や好感だ。高市首相の「ファン」を主なターゲットにした表紙だと考えれば、腑に落ちる部分もある。

ただ、それでいいのだろうか。
高市早苗氏個人への評価以前に、政治と言論の関係そのものが変質してしまっているのではないか―そんな感覚が拭えない。

ー 2026年1月29日(木)

2026年1月27日火曜日

モヤモヤを経て

 アジアン・カンフー・ジェネレーション・後藤正文氏のこの寄稿文、彼の徒労感が伝わって、今の自分の気分にも近いと思った。

《様々な法案について、市民の代わりに国会で話し合う議員を選ぶための選挙を、個人的な信任投票のように考えて行うのは、権力の乱用ではないか》と思うし、《選挙に圧勝したとしても、国会で首相にフリーハンドが与えられるわけではない。今回の衆議院の解散は、国会を軽視している。》とも思う。

《しかし、いつも通り開票日の夜にうなだれている自分を想像して悲しい。生業の音楽は、世の中のどのような仕事とも同じく、政治や社会と切り離せるものではないと考えているが、政治に熱狂する面倒くさい音楽家だと思われて徒労感が増すくらいなら、無言のまま、成り行きを傍観しようかと考えてしまう。》
自分もまさに今、そんな気分。

「日本は単一民族国家」と発言した候補者が「全国最年少知事」になったり、陰謀論・排外主義者が集まった団体が国政政党に認定されたり、トランプ政権下での移民関税執行局(ICE)による暴力行為が一般市民への殺害にまでエスカレートしたり──この数日のニュースに触れるだけで、社会のフェーズがさらに変化したことを痛感している。
先に挙げた出来事を肯定的に捉える人も少なくなく、そうした状況の中で、分断を避けながらどのような言葉を紡げばよいのか、悩むことがさらに多くなった。

傍観者に留まるつもりはないけれど、誰かや何かを切り捨てるような言葉は、できるだけ避けたい。内省を重ねながら自分事として言葉を紡ぎ、それを音楽表現へとつなげていけたらと思う今日のこの頃。
考え始めると、よりモヤモヤが広がる一方で、でも少しずつ何かが見えてくるような感覚もあって、その積み重ねをこれからも続けたい。

そろそろメロディーと言葉、リズムがつながってくれるかな。

ー 2026年1月27日(火)

2026年1月22日木曜日

世界は相互補完によって成り立っている ー カナダのマーク・カーニー首相の演説文を読んで

 カナダのマーク・カーニー首相によるダボス会議での演説の訳文を繰り返し読んでいる。

その言葉からは、国際秩序の衰退への強い危機感が伝わると同時に、「第三の道」を切り拓こうとする気概も感じ取れた。
カーニー首相の主張全てに同意するわけではないけれど、日本にとっても重要な提言が多々含まれた内容だと思う。

「多くの国は、食料、重要鉱物、金融、サプライチェーンにおいて、より大きな戦略的自律性を確保しなければならないけれど、要塞化した世界は、より貧しく、より脆弱で、より持続不可能なものになる」との提言は、国家としての話だけでなく、一人一人の生き方の比喩のようにも受け取れた。
「自立か依存か」という二択では個人も国家も救われない。世界は相互補完によって成り立っているのだ。

「自立」を「自給自足」や「ブロック化経済」と同一視すれば、コストは跳ね上がり、技術も人も分断され、危機対応能力はむしろ落ちてしまう。依存は危険だけれど、孤立は破滅をもたらす。
「覇権国への依存でも孤立主義でもない『第三の道』、日本を含むミドルパワー国の連携こそが新たな国際秩序を主体的に築き得る」とのカーニー首相の主張が実現に向かうことを願う。

彼の言葉から、理性や倫理を手放さないまま、現実の重さと選択のしんどさを引き受けようとする覚悟を受け取った。
後々語り継がれる価値のある、この時代を象徴する演説だと思う。

ー 2026年1月22日(木)

2026年1月8日木曜日

「綺麗事」かもしれないけれど

 2025年は、生成AIの進化に驚きと戸惑いを感じ、デマを伴う排外主義の浸透に危機感を深めた年だった。
以前とは異なり、悪意や自覚のない穏健な排外主義が社会に広く浸透したように思う。その傾向に伴ってナショナリズムの高まりも感じる。

去年の参院選あたりから、ナショナリズムを強く打ち出し、特定の政党や政権を支持するAI使用のミュージックビデオをYouTube上でいくつも目にするようになった(https://youtu.be/HC8ZZ2dDEa8?si=cLbDssXKJX6-PCfN)。今後はさらに、AIを活用した政治による音楽利用が活発化してゆくのだろう。

コロナ禍以降、政治信条や事実とデマに対する認識の違いが明確になることで、相手との関係性に亀裂が入る経験を何度か重ねた。自分のSNSやブログへの投稿が、読み手である知人の大切にしていたナラティブ(物語・語り)を、結果的に否定していたことも自覚している。

正直に言えば、最近は社会や政治に関わる投稿を躊躇する機会が増えていた。自分が臆病になったというよりも、言葉が一瞬で「立場」や「陣営」に回収されてしまう空気が、さらに強まったように感じるからだ。
「結果的に自分自身も社会の分断に加担しているのではないか」と、自問することもある。


だからこそ、他者への想像力を失いたくないし、つながりのある相手とは特に、考えが異なっていても、議論や対話が成り立つ関係性でありたい。もし、その願いが相手にとっての圧になるのなら、対話にならなくても相手の話に耳を傾けることのできる自身のキャパを保ちたい。
「綺麗事」と受け取られるのかもしれないけれど、本心だ。

ー 2026年1月18日(木)