2025年7月2日水曜日

映画「罪人たち」を観ての備忘録

 1930年代のアメリカ南部ミシシッピを舞台に、ブルースミュージックをふんだんにフィーチャーしたヴァンパイア映画「罪人たち」を観てきた。
娯楽作品として楽しめるだけでなく、文化や歴史を伝え、哲学的、根源的な問いに満ちた映画だった。

黒人居住区に存在した音楽酒場・ジュークジョイントの様子がここまで本格的に描かれた映画を観るのは初めてかもしれない。どこまで忠実に再現されているのかはわからないけれど、映画の中のその場所は、猥雑で野生味に溢れ、聖から俗に振り切れて、危険を伴うけれど、実に魅力的な開放空間だった。

自分がブギのリズムに影響を受けた鍵盤奏者ということもあって、若き天才ブルースマン・サミーをサポートする酔いどれブルースマン・デルタ・スリムの演奏するブルースピアノで、お客が体を揺らす光景が印象に残った。ジュークジョイントでのピアノ演奏が、ダンスミュージックとして機能している様が再現されていることにテンションが上がった。
若い頃から戦前のブギウギピアノニストのレコードを聴き、彼らの演奏場所とされたジュークジョイントやバレルハウスに関する文献を読んで想像を巡らせ、理想とするライブ空間のイメージをそれらと重ね合わせてきたので、この映画を観て、あらためて自分のルーツの一つがこの場所にあるように感じた。

映画を通して、当時のアメリカ南部におけるブルースのあり方や、黒人、アイルランド移民、先住民、中国系移民、混血など、多様で複雑なマイノリティの関わり合い、階層、文化への興味がさらに湧いた。

ストーリーに仕掛けられた様々な隠喩は、自分の知識や理解では考察が及ばない部分もあり、ここで分かったようなことは語らないよう心がけたい。パンフレットが売り切れていたのが残念だったけれど、ネットに上がっていたライアン・クーグラー監督へのインタビューを中心に据えた記事を読むことで、映画への理解が深まった(高橋健太郎さんのFacebookへの投稿で記事の存在を知りました)。
この記事を読んで、文化盗用や同化、抑圧者と被抑圧者の搾取の構図を単純化して理解することを、クーグラー監督が良しとしていないことが伝わった。善悪や二元論で語れない内容が、この映画に深みを与えている。

その才能によってヴァインパイアを呼び寄せ、人を巻き込み、多くを失いながらもギターを手放さなかったサミーの姿や、葛藤や混沌、矛盾の中でこそ生まれる音楽のダイナミズムに触れることで、ミュージシャンとしても刺激を受けた。近年、自分が再びブルーズに近づこうとしていた訳が、映画を通じて少し理解できた気がした。

自分のこれまでの生き方は破滅型ではなかったけれど、ツアー暮らしを続ける中で、ギリギリのところでバランスを取って生き残ってきたという感覚は持っている。そのギリギリの中で、映画で描かれたような音楽のダイナミズムをさらに追求したい欲は今も持ち続けている。聖と俗に引き裂かれた感覚に向き合いながら、これからも音楽の旅を続けようと思う。

昨夜、帰宅後は映画の余韻が長引いた。自身に向き合うきっかけを与えられた感じで、また寝つきが悪くなってしまった。
明後日からのツアーに映画の影響が出そうな気がする(多分、いい形で)。

ー 2025年7月2日(水)


2025年6月27日金曜日

世界は多分 他者の総和 ー 法然院にて

 昨日は法然院で毎月開催されている「第339回 善気山念佛会」にお呼びいただき、梶田住職の念仏とおはなしの後に1時間強の弾き語りステージ。

ライブ前に住職のおはなしを会場の入り口横で立ち聞きさせてもらって、少し心が軽くなった気がした。
「何をしたかで自身を評価するのではなく、何をしなかったかで評価する。」
この言葉を覚えておこうと思う。

おはなしを聞いた後、楽屋に戻る廊下の障子に星野道夫と吉野弘の詩が貼り付けてあるのに気づき、足を止める。
星野道夫の「人の心は深く、そして不思議なほど浅い。きっと、その浅さで、人は生きてゆける。」、吉野弘の「世界は多分 他者の総和」というフレーズも、この日のステージに影響を与えたかもしれない。
法然院の静寂と自然美が、それらの言葉に実感を与えてくれたように思う。些細な日常や自然に左右される自分の「浅さ」によってもたらされた心の静けさが、昨日のステージに少なからず影響を与えた。

方丈庭園をバックに、ししおどしの音、鳥のさえずり、風のざわめきに耳を傾け、自然とのアンサンブルを意識しながらのステージは法然院ならではの特別な時間だった。

客席に姉がいて、数年前、晩年の母と姉と一緒に法然院を散歩したことなどが不意に思い出され、少し心が揺れた。

ありがとうございます。いい時間を過ごさせてもらいました。
ぜひまた。



2025年6月27日(金)



2025年6月25日水曜日

マーサ社長夫妻の還暦祭

先日、大阪阿波座のカフェマーサにて開催されたマーサ片平社長夫妻の還暦をお祝いする演奏会パーティーに参加した。社長とは学生時代に同じ軽音学部に所属し、4年間一緒にバンドをやっていた仲(社長はドラム担当)。
当時のバンドメンバーや軽音の先輩や後輩、主に学生時代に出会った音楽仲間が多数集まってのステージが、午後1時半から10時近くまで長時間に渡って続いた。

ステージに上がった誰もが、音楽にときめいている様が伝わった。40年の歳月が流れても音楽の魔法は有効なんだと思った。
一度音楽に出会ったら、一時音楽を手放したとしても、音楽は待ち続けてくれているのだ。またこうやって音楽を通じて皆と楽しい時間を過ごせたことを心から嬉しく思った。

楽しさの中には、なんとも言えないビタースイートな味わいも含まれていて、その感覚を誰も言葉にはしないけれど、だからこそ愛おしくて貴重な1日だったのだ。

還暦という機会を生かして、みんなの再会と確認の場をつくろうとした社長の企みを、その場にいた誰もが汲み取って、その思いに共感し、感謝していたと思う。

おめでとう、ありがとう。

ー 2025年6月25日(水)

2025年6月9日月曜日

あれから40年

 7年振りの伊勢・カップジュビー、感慨深い夜だった。

お店のマスターでもある共演者の外ちゃん(外村伸二)とは、学生時代にLittle T&Aというロックンロールバンドを一緒にやっていた仲。当時は彼がボーカル&ギターで自分がキーボード担当。外ちゃんと当時のバンドメンバー達との出会いが自分の音楽人生に与えたは影響は大きい。
昨夜の外ちゃんのステージのバックで演奏した片平(ドラム)と浅川(ベース)は、当時のバンドメンバー。アンコールでは、外ちゃん、片平、浅川、そして地元メンバーの岡野君(ギター)、横山君(ベース)も加わってのバンドセッション。Little T&A時代の曲も2曲演奏。どの曲も当時よりも演奏のテンポが落ちていて、年齢を感じたけれど、演奏しながらこれでいいんだと思った。
お互いがさまざまな思いを抱えながら歳を重ね続けて、40年後にまたこうやって素直な気持ちで一緒に音を交わし合うことができて、ホント良かった。歳を重ねて、それぞれが前より少し優しくなれた気がした。
「やっぱり音楽は最高やな」としみじみ実感した夜でした。
ありがとう、また。









2025年6月6日金曜日

傷つけた記憶

人を傷つけた記憶が蘇ってきて辛く感じることが多くなった。
相手の痛みや経験に対して鈍感であったことを後悔しているし、また繰り返してしまうことを恐れてもいる。
ただ、「自分が悪かった」と単純に片付けるのは違う気がしていて、何を伝えようとして、伝え方をどう間違えたのか、言葉の影響力やリスク、コミュニケーション、関係性のあり方等々、自問し続けている。

2025年3月26日水曜日

How does it feel? ー ディランの映画「名もなき者(A Complete Unknown)」を観た

方々で評判になっている若き日のディランを描いた映画「名もなき者(A Complete Unknown)」を観た。
まず映画として面白かった。2時間20分があっちゅうま。

映画を通して伝わるディランの人柄や振る舞いに憧れたり影響を受けるようなことはもうないけれど、あらためてディランの楽曲の素晴らしさを再認識した。大いに触発され、映画を観ながら創作意欲が湧いてくるのを感じた。
ディラン演じるティモシー・シャラメの、ディランに寄せつつもメロディーに忠実で本人よりもクセを抑え気味の歌唱が、曲の魅力をよりわかりやすく伝えてくれたと思う。

映画のクライマックスは、ニューポート・フォーク・フェスティバルにディランがトリで出演する際、主催側の意向であるアコースティックギターでの演奏に従わず、エレキギターを手にバンドを率いてステージに上がる、あの伝説のシーンだった。
映画でそのシーンを観て、ディランに喝采を送る気持ちにはなれなかった。どちらかに一方的に肩入れするわけではないけれど、無粋に振る舞うディランに振り回されるピート・シーガーやフェス関係者が不憫に思えた。

当時のディランは既に「名もなき者」ではなく、時代を味方につけ(一部から批判も受けつつ)、アメリカのフォークシーン全体よりも影響力を持つ強者だったはずた。フェスでのディランの行為は最上のインパクトと効果をもたらし、時代の変化を早めたのかもしれないけれど、それによって多くの人達が大切に育んできた文化が蔑ろにされ切り捨てられたことも事実だろう。

ピート・シーガーやフェス関係者の頑なとも思えるこだわりは、アメリカンのフォークミュージックのリバイバル運動の歴史や背景を知らなければ理解できない部分があると思う。
映画の中でピートがディランに対して、人々がスプーンで砂を掬っているところに、大きなシャベルを持ち込むことへの暴力性を訴える場面が印象に残った。

フェスが終わった翌日に会場の後片付けに勤しむピート・シーガーの背中を見て、ディランは何を感じたのだろう。
どちらかと言うと自分も、一つのシーンに殉じることができないタイプではあるけれど、自分がこれまで手にし続けてきたのはシャベルではなくスプーンの方だ。人として身近に感じたのは、ディランよりもピートの方だった。

映画を通して、ディランに関わるまわりの人間の苦悩は十分伝わってきたけれど、本人の心の機微はそれほど伝わってこなかった。そのミステリアスさがディランらしく魅力的であると同時に、その割り切り具合に残酷さも感じた。
この映画はディランを描くことで、革命に伴う犠牲の存在にもスポットが当てられている。観終えた後には、映画タイトルの「名もなき者」はディランを指す言葉ではないように思えた。

20代の頃にこの映画を観ていれば、間違いなくもっとディランに肩入れしただろう。見解の変化は、自分の数十年の生き方の反映だ。
若い頃にディランの音楽と言動に心躍らせた同世代や年配の人達は、今この映画をどんな心持ちで観たのだろうか。
How does it feel?

ー 2025年3月26日(水)

2025年3月25日火曜日

「御上先生」最終回を観て

ツアー戻りで TBSドラマ「御上先生」の最終回をU-NEXTで観た。
名作に相応しいエンディングだった。

「頭の中に答えの出ない質問がたくさんあることは未来そのもの。苦しみの中選び取る答えは、きっと弱者に寄り添うものになる。」
御上先生が卒業してゆく生徒達に送った言葉の中に、この物語の主張と願いが凝縮されているように感じた。

ドラマの中で生徒の神崎君が言っていたように、安易な答えにすがることなく悶々と考え続ける作業は、「自分にやさしくない」し非効率でもある。けれど、その面倒なプロセスを経てゆくことが、多様や雑多に基づく破滅回避の継続社会を切り拓いてゆくのだと思う。

物語を単純化することなく、知性を全面に押し出し、受け手の感性に委ねるようなドラマだった。
知性に欠かせない要素の一つは、弱者に寄り添う想像力であることを作品を通じて再認識させてもらった。
続編希望します。

ー 2025年3月25日(火)