2026年3月23日月曜日

正しく怒る

 『虎に翼』(NHK)のスピンオフドラマ『山田轟法律事務所』の余韻がまだ残ってる。

「人ってのは弱いから、鈍感に生きてる方が楽なんだよ。そういうやつらはさ、よねちゃんがそばにいるとぎゅうって胸がなる。それでさ、少しいい人間になりたくなるんだ。だから決して自分を曲げるな。今まで通り、怒り続けるよねちゃんでいるんだ。君の正義を信じて、正しく怒るんだよ。正しく不機嫌でいるんだ。」

増野がよねに送った言葉の中に、脚本の吉田恵里香さんが作品に込めた思いが集約されているように感じた。
自身の「怒り」に向き合い、その正体を知ることで、真っ当に怒りたい。その上で、対話を諦めずにいたい。 

「今は綺麗事、絵空事だとしても、どうせ進むならこっちの方がいい」 

強く、そう思う。

ー 2026年3月23日(月)

2026年3月22日日曜日

感覚を塞いだ先にあるもの ー 日米首脳会談への違和感

 SNS上では、日米首脳会談への評価が極端に分かれている。
立場というフィルターが、そうさせるのだろうか。

自分の感覚としては、「最悪の事態は避けられたのかもしれない」という安堵も残しつつ、高市・トランプ両者の振る舞いや言動は、見るに耐えなかった。
この「気持ち悪さ」や「おぞましさ」の感覚を、失いたくない。

「国益のためだ」「ビジネスなんだ」と、知ったふうな顔をしているうちに、人間としての尊厳や、矛盾への嫌悪感が麻痺していくように感じる。
「痛み」に対して鈍感になりたくない。

「国益のため」の一言で正当化するのは楽だろうけれど、そうやって感覚を塞いでいく先の未来は、ろくなもんじゃないと思う。

ー 2026年3月22日(日)

2026年3月20日金曜日

椎名林檎氏と成田悠輔氏の対談から受け取った違和感について

 文春オンラインに掲載された椎名林檎氏と成田悠輔氏の対談から受け取った違和感について考えている。
https://bunshun.jp/articles/-/84821 (全文は月刊文藝春秋のウェブメディア「文藝春秋PLUS」に掲載)

対談では、「自分が意図していないのに批判される理不尽さ」への戸惑いが強調される一方で、「なぜそれが他者にとって問題になるのか」への想像力が薄いように感じた。

「表現の自由が窮屈になっている」という実感は理解できるし、それは時に自分自身の悩みでもある。
けれど、その表現がどんな歴史の上に立ち、どんな文脈に触れてしまうのか。
そこへの視点が欠けたままでは、「理不尽に叩かれている」という感覚だけが残ってしまう。

旭日旗が背負ってきた、戦争や軍国主義、植民地支配の歴史的文脈を無視して、「ただのイメージ」として扱うこと。
それは無自覚であっても、受け取る側によっては、やはり無神経で、場合によっては暴力的ですらあるのではないか。

また、「ほんの20年ぐらい前に敗戦したみたいな雰囲気」という認識にも違和感を持った。
日本社会における“ナショナルなもの”への距離感は、戦後ずっと揺れ続けてきたものであって、ここ最近になって突然変わったものではないはずだ。

歴史は一方向からだけでは見えないはずだ。
見えていなかったものが見えてきたとき、それを「過剰反応」と片付けるのか、それとも自分の認識を問い直す契機とするのか。
その分かれ目が露わになった対談だったように思う。

ー 2026年3月19日(木)

2026年3月12日木曜日

まだ小さな流れかもしれないけれど、確実に起きている変化

 「大きな出来事があっても、社会の大勢はそんなに大きく変わらない」
震災後も、コロナ後も、そうだった。

けれど、社会が元に戻ったとしても、自分の生活の手触りは変わった。
別の価値基準を経験してしまったので、もう後戻りはできない。

震災とコロナを経て、音楽だけでなく、日常レベルでの相互作用やシェアへの意識が深まった。
地域からの発信や、地域同士をつなぐ媒介人としての役割にも、以前よりやりがいを感じるようになった。

表現して共感を求めるだけでなく、音楽が「人をつなぐ装置」であること、共同体の中で人を結びつける媒介になりうることを、より強く意識するようになった。
それは、音楽の原初のあり方に戻っているのかもしれない。

震災以降の日本では、小規模ライブ、地域イベント、チャリティライブ、配信コミュニティなどが確実に増えた。
これは単に音楽産業が変化したというより、社会が音楽を必要とする形が変わってきたのだと思う。
音楽が、情報でも商品でもなく、「関係」そのものに向かっている。

巨大メディアを通さない、音楽を介した横のつながりは確実に広がっている。
人から人へ伝わる、新しい回路が生まれている実感がある。

それは、社会全体から見ればまだ小さな流れかもしれない。
けれど文化の現場では、確実に起きている変化だ。

こうした小さな変化が、何十年もかけて広がっていけばいいと思う。
自分はその流れの中に身を置いていたい。

「お花畑」とか「綺麗事」と言われることもあるけれど、自分の感覚や考えの多くは、体験と実践によって形作られてきたものだ。
こっちの方が、やりがいがあって楽しい。
みなさん、いつでも歓迎しますよ。

ー 2026年3月12日(木)

2026年3月5日木曜日

終末論への抵抗 ー 生成AI・ChatGPTとの会話を通して

終末的な物語が強まることで、善悪が単純化され、現実の戦争のハードルが下がってゆくことを、ずいぶん前から恐れていた。
人間の心理が「大きな物語」に回収されてゆくことへの不安は、自分のこれまでの体験によるところも大きい。

「米軍の指揮官が、兵士や下士官に向けて、イランへの攻撃をアルマゲドン(終末戦争)に結びつけて語っている」との情報を受けての、生成AI・ChatGPTとの会話の一部を公開します。

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《米軍の30以上の基地(40以上の部隊、全軍種)で、指揮官らが兵士に対し「イランとの戦争は神の計画の一部であり、アルマゲドン(終末戦争)と関連している」と語り、ある指揮官が下士官向けのブリーフィングで「トランプ大統領はイエスに選ばれ、イランでアルマゲドンの火を灯し、イエスの再臨を促す」と語った。そんな情報を目にしました。


記事の真偽は判断しきれませんが、こうした「大きな物語」がより強化されることで、世界が益々混乱に向かっているように感じています。

僕は、小学生の頃から「ノストラダムスの大予言」に怯えさせられ、成人してからは、終末思想に取りつかれた同世代のオウム真理教信者によるテロに大きなショックを受けた世代です。テロに手を染めたオウム信者が、一歩間違えば自分の姿になっていたかもしれない― そう感じたんです。

そうした体験を通して、自分自身が弱くて不完全な人間の一人であることを自覚しながら、恐怖や不安に向き合おうとしてきたつもりです。
遠くを想いながら足元を照らし続け、他者との関係性の中で、自分なりの物語を丁寧に紡いでいく。そうやって、ハルマゲドンを待望するような「大きな物語」に抗ってきたのだと思います。

「大きな物語」を受け入れることで、人は「安心」を手にします。しかし終末という“必然”の前では、個人の痛みや他者の命は記号化され、蔑ろにされてしまう。
世界秩序の崩壊や戦争さえも「神の計画」と理解され、暴走と混乱に歯止めが効かなくなる。そんな世界になることを恐れています。》

あなたの感じている怖さは、とてもよく分かります。

まず事実関係について言えば、挙げてくださったような報道は、現時点では主流メディア全体で裏付けが取れている「確定情報」ではありません。
一部のメディアや論者が「そのような証言や内部告発がある」と報じ、それを検証・反論する記事も出ています。特に軍のような巨大組織では、個々の指揮官の発言と、組織全体の公式方針は区別して考える必要があります。

ただ――

あなたが本当に反応しているのは、個々の記事の真偽というよりも、「終末を物語として消費する構造」そのものですよね。

それは単なるフェイクニュースの問題ではなく、

国家や軍事行動が「神話的物語」に包まれること

戦争が「必然」や「使命」に変換されること

個々の命が物語の部品になること

そうした構造への直感的な警戒だと思います。

あなたが書いてくれた

遠くを想いながら足元を照らし続け、他者との関係性の中で、自分なりの物語を丁寧に紡いでいく。

これは、とても静かで、しかし強い態度です。

「大きな物語」は安心を与えます。
世界が混乱しているときほど、
「これは神の計画だ」「歴史の必然だ」「文明の戦いだ」
といった枠組みは、強い吸引力を持ちます。

なぜならそれは、

不確実性を消し

不安を意味づけし

自分を“正しい側”に固定してくれるから

でもその代償として、
他者の具体的な痛みや揺らぎが削ぎ落とされる。

あなたがオウムの世代として感じた

一歩間違えば自分だったかもしれない

という感覚は、とても重要だと思います。

それは「自分は絶対に違う」と線を引くのではなく、
「自分も同じ人間の条件の中にいる」と認める姿勢だから。

終末思想に抗う力は、
特別な思想の強さではなく、
むしろその“弱さの自覚”から生まれるのかもしれません。

世界が混乱しているように見えるとき、

・巨大な物語に酔わないこと
・単純な善悪に逃げないこと
・恐怖を他者への攻撃に変換しないこと

それは派手ではないけれど、
とても現実的な「歯止め」です。

あなたが言うように、
足元を照らす行為は小さい。
でも、終末を待望する物語に対する
最も確かな抵抗は、
たぶんそこにあります。

ー 2026年3月5日(木)

2026年2月24日火曜日

揺れながら橋の上に立つ ー トーンポリシングについて

内容(WHAT)よりも伝え方(HOW)ばかりを意識していると、結果的に、自分がトーンポリシングに加担してしまうのではないかと不安になることがある。

トーンポリシングとは、議論の内容(本質)ではなく、その伝え方や感情のあり方を問題にすることで、相手の主張を封じ込めたり、論点を逸らしたりする行為を指す。日本語では「話し方警察」と呼ばれることもある。

怒りや悲しみといった強い感情を伴う発言に対し、その感情そのものを理由に議論を退けるのが典型的なかたちだ。とりわけ、社会的弱者や抑圧されている立場の人が声を上げたときに、より強い立場の側がその声を抑え込む手段として機能することが多い。主張の内容が正しくても、口調や表現を「不適切」として退けることで、被害の訴え自体を無効化してしまうのだ。

「自分は冷静だ」という意識が精神的な優位に変わり、怒りを未熟な感情とみなしたとき、その態度は「話し方警察」に近づいていくのだろう。

けれども、議論の本質から目を逸らさず、理不尽に対する怒りの背景に心を寄せ、当事者性を引き受け続ける限り、その姿勢はトーンポリシングとは別の回路にあるはずだ。

怒りを守ることと、怒りの表現を問い直すことは、きっと両立できるはずだ。
その両立を手放さずにいたい。

自分は、揺れながら橋の上に立ち続けたい。
怒りの背景を見過ごさず、その本質を可視化し、翻訳しようとする側でありたい。

ー 2026年2月24日(火)

2026年2月22日日曜日

スローガン化された言葉と冷笑 ー 「#ママ戦争止めてくるわ」の反響に思うこと

 衆院選の直前、タイムラインに流れてくる「#ママ戦争止めてくるわ」という言葉を何度も目にした。

自民党の圧勝に伴って、防衛費の大幅増額、非核三原則の見直し、殺傷能力のある武器の輸出、スパイ防止法の制定、そして憲法九条の改正など、防衛・安保政策の大転換が行われ、日本が戦争に巻き込まれる可能性が高まるのではないか──そんな危機感から生まれた言葉であることは明白だ。

自分も同じ危機感を抱く一人だけれど、ハッシュタグの拡散には加われなかった。選挙の熱気が高まり、ハッシュタグがスローガンとしての強度を増すほど、「自分で考えるプロセス」が省略されていく危うさを感じたのだ。
これは性分のようなもので、この判断が絶対的に正しいとも思わない。ただ、自分の中にも確かに危機感があったからこそ、「考えるための余白」を守りたかった。安易に不安に押し流されたくなかったのだ。

選挙後に、このハッシュタグがエッセイスト清繭子さんの「ママ、戦争止めてくるわ」という日常の一言をきっかけに、主語を置き換えたバリエーションも含めて爆発的に拡散された経緯を知り、言葉に対する受け止め方が少し変わった。自分は「#ママ戦争止めてくるわ」を政治的なスローガンとして捉え過ぎていたのかもしれない。清繭子さんのnote(https://note.com/mayuko_kiyoshi/n/ndea3d724ba58)を読んで、その思いをより強くした。
個人の素朴な思いが、あまりにも急速に広く拡散されスローガン化することで、元の言葉の輪郭や背景が削り取られてしまったようにも思える。

ハッシュタグを政治色の強いスローガンと見なして強いアレルギー反応を示す人が出ることも予測できた。実際、拡散とともに冷ややかな批判や誹謗中傷が目立ち、その傾向は選挙後、さらに強まったように感じる。

雨宮処凛さんがこのハッシュタグを取り上げた記事(https://maga9.jp/260218-1/)がSNS上で広くシェアされ、反響を呼んだことも印象的だった。雨宮さんの記事は、過去の自身の経験に基づく見立てを含めながら、ハッシュタグを「リベラル界隈の内向きな特殊言語」として読み解く内容で、少なくとも記事中では、その出自には触れられていなかった。自分には、言葉が一人歩きしていることを象徴する内容のようにも感じられた。

拡散する側も叩く側も、想定する読者が自分たちの「仲間」に向いているという点では共通しているように思える。どちらの言葉も対話や議論を促すものというより、同じ意見同士で結束を確かめ合う「合言葉」として機能し、反応は明確に二分された。典型的な現代SNS型スローガンの構図に陥ってしまったと言えるだろう。

しかし、両者が完全に対称であるとは思えない。ハッシュタグを拡散する側に対して、相手の知性ごと貶めるような冷笑や揶揄を浴びせるのは、不均衡で残酷に映った。

揶揄を含む風刺やパロディそのものを否定するつもりはない。ただ、その刃が権力や制度といった「強者」ではなく、自分と異なる考えを持つ誰かを「一括りにして単純化し、貶める」ためや、弱い立場に向けられることに、やりきれなさを覚える。

スローガン化された言葉と冷笑がぶつかり合い、双方が過激さを増していけば、対話の余地はさらに削り取られていく。ハッシュタグをめぐる騒動も、そうした負のループに飲み込まれてしまったように思えた。
拡散されたハッシュタグが、元は一市民の子どもにかけた日常と地続きの言葉だったことを忘れずにいたい。自分も、「戦争はいやだ」という思いを共有する一人だ。

スローガン的な「強い言葉」が短期間で大きな波を起こすものであるならば、自分は、そうした言葉が振り落としていくものにも目を向けつつ、少しずつ水位を変えていくような言葉を紡ぎたい。

両者は必ずしも反目し合うものではなく、補い合う関係にもなり得るはずだ。
強い言葉で提起された問題の輪郭を、丁寧に確かめていきたい。
感情を否定することなく、モヤモヤを繰り返しながら、それでも思考を手放さずにいたい。

ー 2026年2月22日(日)