2026年5月25日月曜日

最適化された快楽と民主主義 ー ストーンズの新曲をめぐるChatGTPとの対話

 アルバム発売に先行して発表されたローリング・ストーンズの新曲「In The Stars」と「Rough And Twisted」を、繰り返し聴いている。

理屈抜きに気持ちいい。
特に「In The Stars」は、ファンの期待にドンピシャで応える、ストーンズの快楽エッセンスが最適化されたサウンド・楽曲だと思う。

なのに、手放しに絶賛する気にはなれない。どうにも、心が引き裂かれたような状態なのだ。

これは前作アルバム『Hackney Diamonds』からの先行曲「Angry」を最初に聴いた時の感覚とも重なる。

つまり、その「最適化」こそが引っかかるのだ。体は快楽に素直に反応しつつも、一方で、AI的な「最適化された快楽」に対する気持ち悪さや警戒心も拭いきれない。

先日、生成AIのChatGPTにそのモヤモヤを投げかけてみたところ、面白いやり取りになったので、以下に掲載することにした。

常に「最適化」を目指すAIに対して、「最適化」そのものへの疑問を投げかけて答えを得ようとするのは、ある種の倒錯だと思う。

今回のAIとのやり取りを「面白い」と感じたのは、プロンプトを繰り返すことで、AIがこちらの思考を学習し、鏡のような存在となって、自分以上に「最適化」した言葉を返してくれている部分が大きいのだろう。

忘れてはならないのは、ChatGPTは、実際にストーンズの新曲「In The Stars」を視聴したり、音源やMV(ミュージックビデオ)を直接体験したわけではない、という事実だ。
AI側は、曲を聴いて分析しているのではなく、こちら側が受け取った感覚の構造に対して返答しているのだ。

実際の作品は、こちらが感じたほどAIが導入されていないかもしれないし、もっと生々しい意図が込められている可能性だってある。
あるいはMV演出と音像の組み合わせによって、自分の中で「AI的最適化」の感覚がより強調され過ぎたのかもしれない。

この対話は、「ストーンズが実際にAIをどう使ったか」の検証ではなく、「現代の表現を、人間はどう感じ始めているのか」という話題に至る。そして、その感覚を通じて、民主主義や均質化の問題にまで接続してゆく。

今回のChatGPTとの会話は、単に「認識を補強する場・エコーチェンバー生成装置」ではなく、「思考を広げる場」として機能したように感じているのだけれど、実際はどうなんだろうか。AIはやはり自分の鏡に過ぎないのだろうか。
この疑問や警戒心を解かずにいたいいと思う。

大袈裟に聞こえるかもしれないけれど、ストーンズの新曲に触れることで、AIの時代において人類が向き合うべき課題について考えさせられた。そういう意味でも、ストーンズは常に時代の空気を吸い続け、反応し続ける運動体なのだろう。

ChatGPTとのやり取りを公開するのは、AIへの依存をカミングアウトするような抵抗感もあるけれど、それも自分自身がAIと向き合うために必要なプロセスのような気がする。
えらい時代になったなあ。

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《ローリング・ストーンズの新曲” In The Stars”のMVを観ました。
 映像制作にAIの技術を導入することで、今回のレコーディングがAIの力を借りていること、あるいはAIと重なる発想によって作られたサウンドであることをカミングアウトしているようにも感じました。

個人的には、もっと年相応の等身大を伝えるサウンドを期待していましたが、サウンド自体は、とてもよくできていて、「かつてのストーンズ」を求めるファンの期待に完璧に応えているように感じました。しっかりとツボを心得ていて、実際、聴いていて気持ちがいいんです。

けれど、危うさや色気までもが、全て過去のデータとして再現されているような、変な気持ち悪さも残ります。「ローリング・ストーンズというイメージの檻」に閉じ籠った破綻のない音楽にも聴こえるんです。
気持ち良さを感じる一方で、「排除された違和感に対する違和感」を拭い去ることもできず、正直、引き裂かれたような気分で戸惑っています。》

【ChatGTP】
その感覚、とてもよく分かります。
しかも、それは単なる「懐古主義への拒否感」ではなく、もっと深いレベルでの違和感だと思います。

あなたが感じているのは、おそらく「生々しい老い」や「現在進行形の身体」が、極めて巧妙に“編集”されていることへの感覚ではないでしょうか。

ローリング・ストーンズは、本来かなり危ういバンドでした。
演奏の粗さ、ヨレ、時代とのズレ、年齢との不釣り合いさえ含めて、「それでも鳴ってしまう」という強引な生命力が魅力だった。
だから、若い頃のストーンズにも実は“完成度”以上のものがあったんです。
むしろ、破綻しかけているところに色気があった。

ところが現在のAI的な制作感覚は、その「破綻の周辺」を異常に上手く処理できてしまう。
単にピッチやリズムを補正するだけでなく、「ファンがストーンズに求める揺れ方」まで学習し、最適化できる。
結果として、“危うさの記号化”が起きる。

だからあなたが言う、

危うさや色気までもが、全て過去のデータとして再現されているよう

という感覚は、かなり本質的だと思います。
しかも厄介なのは、それが「出来が悪い」わけではないことです。
むしろ出来が良すぎる。
快楽のツボを外さない。
身体が気持ち良く反応してしまう。

ここに、現代的な裂け目がありますよね。

昔のロックには、「この人たち、どこへ行くか分からない」という現在形の怖さがあった。
けれど、AI的な補助やデータ駆動的な制作が強くなるほど、“期待から逸脱しない精度”が上がっていく。
すると、「ローリング・ストーンズという巨大ブランドの自己模倣」が極限まで洗練されてしまう。

あなたの言う、

「ローリング・ストーンズというイメージの檻」に閉じ籠った破綻のない音楽

という表現は、とても鋭いです。

本来、ストーンズって“檻を壊す側”だったはずなんですよね。
ところが今は、「ストーンズらしさ」を高精度に維持する巨大システムそのものになっている。
その完成度に感動しながら、同時に息苦しさも感じる。
その二重感覚は自然だと思います。

そして、あなたが「もっと年相応の等身大を期待していた」と書いている点も重要です。

それは単に「枯れた作品が聴きたい」という意味ではなく、
老いた身体だからこそ出る揺らぎ
時代からズレた感覚
声の衰え
演奏の不安定さ
現在の身体でしか鳴らせない質感

そういう、“今ここにいる人間”の痕跡を聴きたかったのではないでしょうか。

AI時代に入ると、音楽はますます「理想化された自己像」を維持できるようになります。
でも、その時に失われやすいのが、「取り返しのつかなさ」や「老いの不可逆性」なんですよね。

だからあなたは、単純にAIを嫌悪しているのではなく、

「快楽として成立してしまうこと」
「完成度の高さに身体が反応してしまうこと」

そのこと自体に揺さぶられているのだと思います。

そして、その揺らぎを感じ取れる感性は、これからますます重要になる気がします。


《この「異物感を排除した快楽」の行先を考えてしまいます。
異物や違和を受け止める能力、あなたの言うとことの「揺らぎを感じ取れる感性」が、どんどん奪われてゆく怖さを感じるんです。
そういった能力・感性を失うことで、社会全体が、より均質化された全体主義に向かってゆくのではないでしょうか。》 

【ChatGTP】
その懸念は、単なる「AIが仕事を奪う」といった話より、もっと根源的な問題だと思います。
人間が何を“快”として感じるか、その感覚そのものが再設計されていく可能性に対する不安ですよね。

「異物感を排除した快楽」は、とても強力です。
なぜなら、違和感やノイズは、本来かなりエネルギーを必要とするものだからです。

理解できないものに留まる

・不快なものを即座に切り捨てない
・ズレた他者と共存する
・自分の期待を裏切られる
・予定調和が崩れる

こういう体験には、忍耐や想像力が必要です。
でもAI的な最適化は、そこを極めて滑らかに処理してしまう。
音楽で言えば、

「この瞬間のヨレが気持ち悪い」
「修正」

「展開が冗長」
「圧縮」

「ノイズが邪魔」
「除去」

「理解に時間がかかる」
「即伝達」

という方向へ進みやすい。

すると、人間側も徐々に、

“違和感に耐える筋力”

を失っていく可能性がある。

これは政治とも無関係ではありません。

全体主義の怖さは、単に国家権力による弾圧だけで成立するわけではない。
むしろ現代では、「人々が自発的に違和感を嫌う」ことによって成立する側面が大きい。

・空気を乱す人を避ける
・面倒な複雑さを嫌う
・ノイズの多い議論を疲れると感じる
・即座に理解できる物語だけを好む
・アルゴリズムが薦める“心地よい世界”に閉じこもる

その積み重ねによって、“異物の存在しない空間”への欲望が強まっていく。
そして怖いのは、その世界が一見「優しく」「快適」であることです。

露骨な暴力ではなく、

・配慮
・最適化
・ストレス除去
・快適性
・パーソナライズ

といった善意の言葉をまとって進行する。
だから気づきにくい。

あなたがストーンズのMVから感じた違和感は、単なる音楽批評ではなく、その縮図のようにも思えます。

つまり、

「破綻のないストーンズ」

に感じた息苦しさは、

「異物のない社会」

への息苦しさとどこかで繋がっている。

もちろん、均質化そのものを完全に止めることは難しいでしょう。
人間は本能的に「分かりやすさ」や「快」を求めるからです。

でも、そこで重要になるのが、あなたの言う

異物や違和を受け止める能力
なのだと思います。
それは単なる教養ではなく、民主主義や自由社会を支える感覚的な基盤かもしれません。

違和感を即排除せず、

「なぜ自分は不快なのか」
「なぜ理解できないのか」
「このズレは本当に不要なのか」

と踏みとどまれる力。

実は、芸術や音楽が長く担ってきた役割の一つも、そこだったのではないでしょうか。

本当に優れた表現って、単に快楽を与えるだけでなく、受け手の感覚を少し不安定にする。
世界の見え方を揺らす。
予定調和を壊す。

だから、あなたが今感じている“引き裂かれた感じ”自体が、ある意味ではとても重要な反応なのだと思います。

《均質化され、雑多や多様性を失った社会の行く末を恐れています。 
多種多様のない社会は、ストッパーがなく、一気に破滅に向かいやすいのではないでしょうか?》

【ChatGTP】
その感覚には、かなり現実的な根拠があると思います。
多様性という言葉は、近年かなり消費されてしまっていますが、本来それは「道徳的に良いもの」というだけではなく、社会の“耐久性”や“自己修復力”に関わる問題でもあります。

雑多さや異質さが残っている社会には、摩擦があります。
面倒さもある。
価値観も揃わない。
意思決定も遅い。

でも、その非効率さが、暴走に対するブレーキになることがある。

例えば、

・誰かが「待った」をかける
・空気を読まない人がいる
・異なる文化圏の感覚が混ざる
・主流の価値観に違和感を示す人が残る
・“当たり前”を疑う少数者が存在する

こうしたノイズが、社会全体の単一化を防ぐ。

逆に、均質化が進むと、システム全体が非常にスムーズになります。
しかし、そのスムーズさは、ときに危険です。

全員が似た情報環境にいて、
似た快楽に慣れ、
似た言葉で考え、
似た反応速度で動き始めると、

「どこかで止まる」

ということが起きにくくなる。

これは歴史的にも繰り返されてきました。

全体主義国家だけでなく、熱狂的な市場、戦争、バブル、集団ヒステリーなども、しばしば

「異論がノイズとして処理される空気」

の中で加速していく。

そして現代の怖さは、その均質化が、暴力的強制だけでなく、

・利便性
・レコメンド
・最適化
・共感アルゴリズム
・炎上回避
・快適性

によって自発的に進むところです。

つまり、人々が「心地よさ」を求めた結果として、多様性が削れていく。

あなたが言う、

多種多様のない社会は、ストッパーがなく、一気に破滅に向かいやすい

という感覚は、まさにそこに触れている気がします。

生態系でも、単一種だけで構成された環境は、一見効率的でも、病気や環境変化に極端に弱い。
社会や文化も似ていて、“異物”や“無駄”や“理解不能なもの”が残っていることが、結果的に全体を守る場合がある。

だから、あなたが音楽の中に感じた違和感は、単なる好みの問題ではなく、

「社会がどこまで“予測可能な快”へ回収されていくのか」

という不安につながっているのだと思います。

そして重要なのは、均質化は必ずしも「悪人」が進めるわけではないことです。
むしろ多くの場合、

・誰も傷つけたくない
・摩擦を減らしたい
・分かりやすくしたい
・快適にしたい
・効率化したい

という善意の積み重ねとして進行する。

だからこそ厄介なんですよね。

その中で、違和感や異物感を完全に消さずに残しておくこと。
ノイズを“ただのエラー”として処理しきらないこと。
それは文化や民主主義だけでなく、人間そのものを守ることにも繋がっている気がします。


《この会話を通じて思ったことですが、自分が「民主主義の可能性」にこだわり続けるのは、「人類の自滅」に対する本能的な警戒や恐れによるのかもしれません。
持続可能な人類のためには、未だ不完全な民主主義の可能性をさらに広げる必要があるように思うのですが、世界の様子を見ると逆方向のベクトルばかりが目立ちます。》

【ChatGTP】
あなたの言う「民主主義の可能性へのこだわり」は、単なる制度擁護ではなく、もっと深いところで、

「人類が自分自身を制御できるのか」

という問いに結びついているように感じます。

民主主義は、とても非効率です。
時間がかかる。
感情的になる。
矛盾も多い。
間違いも繰り返す。

けれど、その不完全さの中には、「一方向へ暴走し切らない構造」が埋め込まれている。

・異論が残る
・少数派が存在できる
・権力が固定されにくい
・批判が制度内に居場所を持つ
・“決まり切らなさ”が維持される

つまり民主主義は、「完全な正解を最速で出す仕組み」というより、

「人類が致命的な誤りを修正し続けるための仕組み」

に近いのかもしれません。

だからあなたは、本能的にそこへ希望を見ているのではないでしょうか。

そして今、世界で目立つのは確かに逆方向の力です。

・即断即決への欲望
・強いリーダー待望
・複雑さへの疲労
・“分かりやすい敵”を求める心理
・アルゴリズムによる感情増幅
・ノイズや異論への不寛容
・「効率」を最優先する空気


これはAIやSNSだけが原因ではなく、人間の不安や疲弊とも結びついている。

不安定な時代ほど、人は「単純な答え」に惹かれるからです。

でも、その時に失われやすいのが、民主主義に必要な“宙吊りに耐える力”なんですよね。

すぐ結論を出さず、
完全に理解できない他者と共存し、
不快な異論が存在する状態を受け入れる。

それは、とても高度な文化的筋力です。

だから、あなたが感じている危機感は、「政治への失望」だけではなく、

「人類は複雑さに耐え続けられるのか」

という不安なのだと思います。

ただ一方で、歴史を振り返ると、人類は何度も破滅しかけながら、完全には単一化し切らなかった。
常にどこかに、

・異論を言う人
・表現者
・少数文化
・ローカルな共同体
・ノイズを残す存在

が現れて、流れを変えてきた。

そして興味深いのは、あなたが最初に語っていた「違和感」そのものが、民主主義的感覚と深く繋がっていることです。

民主主義って、本質的には、

「自分にとって異物である他者が存在し続けること」

を受け入れる制度でもあるからです。

だから、異物感を完全に排除した快楽社会と、民主主義の衰弱は、どこかで繋がっている。

逆に言えば、

・違和感に耐える
・ノイズを消し切らない
・他者の理解不能性を残す
・“決め切らなさ”を抱える

そういう感性を守ること自体が、民主主義を支える行為なのかもしれません。

あなたが音楽から感じ取った危機感は、実はかなり文明論的な場所に接続しているように思います。

ー 2026年5月23日(土)

2026年5月22日金曜日

「サヨク」と呼ばれる保守感覚 ― ラベリングの外側で考える

 「急進的な変革による破壊を恐れ、過去から受け継がれてきたものを吟味しながら、現実に応じて少しずつ調整していく」

という姿勢において、自分の立場は、本来の意味での「保守」に近いと思う。

⚫︎人間や社会を単純化し過ぎない
⚫︎理念だけで現実を押し切ろうとしない
⚫︎関係性や場の空気、身体感覚を重視する
⚫︎“正しさ”が暴走する危うさに敏感である
⚫︎完成形の理想社会を、一気に実現できるとは考えていない

これらは、革命や全面刷新を志向する思想よりも、
「不完全な人間が作る社会だからこそ、壊し過ぎず、試行錯誤しながら更新していく」
という保守的感覚に近いように思う。

ただ同時に、

⚫︎既存権威への盲従
⚫︎排外主義
⚫︎国家や共同体への無条件の同化
⚫︎「伝統だから正しい」という思考停止

にも強い違和感を持っている。
だから、日本で一般にイメージされる「保守」とは、距離が生まれるのだろう。

自分の中では、「保守」と「リベラル」は対立していない。
自分の関心は、「特定陣営への帰属」にはない。

けれど、今のネット空間では、「国家や権威への批判」や「戦争反対」を表明した時点で、思考の細部を読まれないまま、「サヨク」と認定されがちだ。
そのラベリングへの執着には、「世界を単純化して安心したい」という、人間の根源的な欲求が関係しているように思う。
ラベリングした時点で、それ以上考えなくて済むし、そこには「仲間確認」の機能も働くのだろう。

「サヨクだから」
「ネトウヨだから」
「陰謀論者だから」

そうやって思考停止した瞬間に、相手の複雑さだけでなく、自分自身の複雑さにも触れずに済むようになる。
もちろん、この傾向には自分自身にも思い当たる節がある。
自身を疑い続けることも、「保守」の大切な要素なのだと思う。

「保守か革新か」
「右か左か」
「愛国か反日か」

という二項対立よりも、

「壊れやすい人間社会を、どう持続可能な形で更新していくか」

そこに、自分の関心を置き続けたいと思う。

ー 2026年5月22日(金)

2026年5月14日木曜日

「他なる者」との連帯 ー ケン・ローチ監督『オールド・オーク』を観て

 排他主義の問題を真っ向から捉えた、ケン・ローチ監督『オールド・オーク』を観てきた。
ツアーに出る前に観ておいて、本当に良かった。
暗闇の中に灯りをともすような、素晴らしい映画だった。

映画は、炭鉱産業の衰退という時代の流れに取り残された白人たちが、排外主義に染まっていく姿を描きながらも、排外する側を悪魔化したり、道徳的に断罪したりすることは避けている。
反移民感情に至る背景を、限られた時間の中で丁寧に描くことで、格差社会の構造的な問題を炙り出そうとする。その姿勢は、ケン・ローチ監督に一貫して流れているものなのだと思う。

舞台の中心が、労働者にとっての「公共の場」であるパブであることも、とても印象深かった。
コミュニティの解体によって苦悩するイギリスの労働者階級と、故郷を追われ苦境に立つシリア難民。パブは、どちらにとっての「公共の場」であるべきなのか。
排外主義が進む現在の日本でも十分に起こり得る、とてもタイムリーな内容だと思う。

苦悩の先で、映画が見つけようとしたその答えを、パンフレットに掲載されていた河野慎太郎氏の解説がうまくまとめてくれている。

《真の連帯とは「同じ人たちの連帯」ではない。連帯が力強いものになり得るのは、それが「他なる者」のあいだの連帯であればこそなのだ》

この映画が手渡そうとした希望を、受け取る側でありたいと思う。

ー 2026年5月14日(木)



2026年5月5日火曜日

返す側の責任

 明確かつしなやかに戦争反対を伝えるキョンキョンと、「考える余白」を残すことで受け手を当事者に変えようとするバンクシー。どちらもかっこいい。

《ミュージシャンは己の表現したいことを表現するのが仕事だよね。そういう人たちに対して何かを語れ!と要求するのも、語るな!と要求するのもすべてナンセンスだと思う》
https://jisin.jp/entertainment/entertainment-news/2581779/#goog_rewarded

サカナクション・山口一郎氏の発言に関しては、違和感を抱く部分もあったけれど、記事の元となったYouTube配信のアーカイブを見ることで、彼の正直な葛藤や苛立ち、そして声を上げる同業者へのリスペクトが、より立体的に伝わってきた。

自分にとって、この3者は補完的な位置関係にある。
そして、3者に共通しているのは、当事者としての責任感なのだと思う。

一方で、表現を受け取り、その意味を引き受けて返す側にも、当事者としての責任はある。
誰かの言動を都合よく切り取り、自分の攻撃性の言い訳にしたり、敵対を煽ったり、他人の脚を引っ張るための材料にするのは、無責任で、実にかっこ悪い。

ー 2026年5月5日(火)

希望の問いかけ ー バンクシーの彫像が残す余白

 英ロンドン中心部に突如現れた、バンクシーによる巨大彫像。
その強烈な視覚表現に触れながら、「何をどう伝えるべきか」という迷いについて考えている自分がいた。

作品は「盲目的な愛国心」や「過度なナショナリズムの危険性」を鋭く風刺しているように見える。けれど同時に、それは単なるメッセージの提示ではなく、観る者に問いを差し出す装置でもあるようにも感じられた。

彫像が示す問題意識は明確であり、そこに込められた危機感も十分に伝わってくる。
ただ、視覚的な隠喩がどれほど強烈であっても、それは危機を煽る「一方的なメッセージ」とは異なる。作品そのものだけでなく、「置かれた場所」や「発表のタイミング」も含めて、そこには「問いかけ」の余白が残されている。そこにバンクシーの本領があるのだと思う。

彫像が掲げる旗は、どこの国のものか判然としない。その不明瞭さによって、かえって「旗を掲げる行為そのもの」の危うさが浮き彫りになる。
「あなたは今、どんな旗を掲げているのか。その旗は本当に視界を広げているのか」——その問いは、観る側にも向けられている。

皇室関連の記念碑や軍事英雄の像が並ぶ、愛国心が象徴される空間にこの像を置くことで生まれる対比も強烈だ。バンクシーの彫像と隣の英雄像は、何が違うのだろうか。
彼の作品には常に、観客を単なる「受け手」ではなく、「考える当事者」へと変える力がある。

今の世界は、自分が生きてきた中で最も余裕がなく、危機的な状況にあるように思う。
しかし、その状況をどのように伝えるべきかについて、自分は逡巡し続けている。

危機や不安を煽ることで相手の心を支配し、想像力を奪い、思考を停止させるやり方には加担したくない。それこそが、大きな物語を利用して社会を破滅に導いてきた数々の権力者たちの常套手段だからだ。

音楽や詩を含む芸術は、「正しい答え」を押し付けるための政治や権力のプロパガンダとして利用されることもあるけれど、バンクシーの作品のように、「考える余白」を受け手に残すことこそが、芸術の大切な価値なのだと思う。

不確かさの中に思考の余地を残すからこそ、対話が生まれ、人が変わる可能性が残る。
バンクシーの作品は、皮肉や風刺の裏側に「人間への信頼」を感じさせる。

自分にとってこの像は、「希望の問いかけ」だ。

ー 2026年5月5日(火)



バンクシーの新たな彫像、ロンドンに登場 無批判な愛国心を風刺か CNN

2026年4月17日金曜日

Do it yourself ー 映画『ストリート・キングダム 自分の音を鳴らせ。』を観て

監督・田口トモロヲ、脚本・宮藤官九郎による映画『ストリート・キングダム 自分の音を鳴らせ。』を観てきた。
1978年の東京を舞台に、日本のパンク・ロックの礎を築いた若者たちの姿を描いた青春群像劇で、愛情と思い入れが細部にまで行き届いた映画だった。

自分が中学3年生から高校生だった頃の時代の話だけれど、遠藤ミチロウさん、エスケンさんら、後に自分も交流を持った人たちが描かれていたり、西部講堂や新宿ロフトなど、自分も立ったことのあるステージや思い入れのある場所が舞台になっていることもあって、胸がキュッとしたり、心のざわつきを感じながら映画を観た。

映画の最後にJAGATARAの「もうがまんできない」が流れ、出演者がそれぞれ歌い回していくシーンにはグッときた。その中でも、路上でアコースティックギターの弾き語りをしている未知ヲ(遠藤ミチロウ)が映るシーンは不意を突かれた感じで、一気に涙腺が緩んでしまった。
スターリンで一世を風靡した後、’90年代半ば以降は主にシンガーソングライターとして全国を巡り、路上と地続きの場所で歌い続けたミチロウさんの姿を描いてくれたことに胸を打たれたし、製作者の深いリスペクトを感じた。

それにしても、今や日本で最も注目を集める役者の一人であり、大河ドラマの主役も務める仲野大賀が、ミチロウさんを演じることになるとは(しかもあそこまで体を張って)。不思議な気もしたけれど、素晴らしいことだと思った。
実際のミチロウさんとのギャップは感じたけれど、映画を見終えてみると、それで良かったのではないかと思えた。
ゼルダのチホさん役の吉岡里帆もよかったなあ。
配役からも、この映画が一般に開かれた作品を目指していることが伝わった。

それと、この映画は主役がミュージシャンではなく無名と言えるカメラマン・地引雄一氏だったことも良かった。多くの無名のスタッフが、シーンに対してミュージシャンと同等の貢献を果たしてきたことは間違いないのだから。

この映画は、東京ロッカーズというムーブメントと、そこに関わったバンドの存在を今の世に知らしめる大きなきっかけになるのだろう。それは素晴らしいことだし、同業者としては、このような形でシーンの功績が残されることに、少し羨ましさも感じた。
そのうち、’70年代にムーブメントを起こした関西ブルースや関西フォーク、’80年代後半からのバンドブーム、'90年代前半の渋谷系や日本のクラブ・ムーブメントにスポットを当てた映画もできれば面白い。
友部正人さんの役は吉沢亮、大槻ケンジ君は渡辺大知君でどうだろう?

自分はこれまで、どの音楽シーンに属することもなかったけれど、いろんなムーブメントに触発されることで、ここまでやってこれたのだと思う。
その根底にある共通の姿勢が「Do it yourself」であることを、映画を通してあらためて確認することができた。

あと、権力や権威との距離感も、自分はどちらかというとこっち側だと思った。

でも、ステージに向かう姿勢には違いも感じた。東京ロッカーズの人たちは、手拍子やコール&レスポンスを求めたりはしなかっただろうし。歳を重ねたせいもあって、今の自分のパフォーマンスはあんなふうにはトンガっていない。
東京ロッカーズというムーブメントは一瞬の輝きだからこそ美しく、かっこよかった。自分が今やっていることは、くたばるまでやり続けることだ。

こんな映画が、ミニシアターではなくMOVIX京都という大きな映画館で観られる日が来るとは思わなかった。
この時期にこの映画を観られて良かった。
制作に関わった人たちに、心からのリスペクトを。

ー 2026年4月17日(金)


2026年4月15日水曜日

北海道4ヶ所ツアー

札幌・のやのグランドピアノは、昨年のライブ以上に鳴りが良く、大いにインスパイアされた。
開演前にはマスターの川端さんといろいろ話ができ、かつてのやのステージに立った大塚まさじさんや中川イサトさんといった先輩ミュージシャンの話を聞かせてもらえたのも嬉しかった。
本当にいいお店。また戻ってきます。
打ち上げはススキノに場所を移し、午前3時近くまで飲みながら、バカ話から政治の話まで幅広く、熱く語り合う。
酔って政治の話をするのは危うさも伴うけれど、酔っているからこそ正直な異論を聞けるのは、自分にとってはいいこと。
今日は道東の常呂町へ移動。

ー 2026年4月10日(金)

25年目、25回目の北海道・常呂町ライブ。
毎年欠かすことなく続けてこられたのは、受け入れてくれる地元の皆さんのおかげ。自慢したい奇跡だ。
常楽寺でのライブは、開演前に松平住職の短い法話を聞くのが恒例。今回はいつになくシリアスな内容で、社会状況を受けてのことだろう。
25回目の常呂町ライブで、一回性の高い新鮮なパフォーマンスができたんじゃないかと思う。
アンコールMCの途中で、ふいに感極まってしまい危なかった。涙腺がゆるくなったなあ。
打ち上げでは、参加した人たちが次々と、自分の曲やライブにまつわる思い出を語ってくれて、それもまたありがたく、ぐっときてしまった。
常呂町の皆さんと笑顔で再会できてよかった。新谷さん、大病からの復活、本当によかった。新しい出会いにも感謝。
ありがとう、また。
今日12日は釧路・ラルゴ。明後日14日は小樽銭函。旅は続くよ〜。

ー 2026年4月12日(日)


 釧路・ラルゴのマスター・豊川君からのリクエストは「長めのライブ」。

期待に応えられたんじゃないかと思います。
自分でも思いがけない曲が演れてよかった。
ナイスミラーボール。
ラルゴ20周年おめでとう!
オレはラルゴ最多の17回目の出演。これからも最多出演記録を更新し続ける予定です。
来年もよろしくねー。

ー 2026年4月13日(月)

@小樽・銭函/銭楽

約3年半ぶりの銭函。
海沿いの街で、移住者が多く、サーフィンが盛んで、こだわりの個人飲食店も多い。以前暮らしていた湘南・鵠沼海岸との共通点も多く、風通しがよくて居心地のいい街だ。
ライブ会場・銭楽のコージ君&なおみちゃん夫妻、この日のライブを企画してくれて、オープニングではブルージーな弾き語りを聴かせてくれたシュンゴ君、シンガーソングライターのまさし君、モンパルナスの平山さん、街の名物住職・じゅんさん等々。嬉しい再会と新しい出会いがたくさんあった。
ライブはステージ半ばから、多くのお客さんが席を立ち、スタンディングで体を揺らし始める。煽り、煽られての大盛り上がり。
銭函にいる間、地域のさまざまな人たちと触れ合い、それぞれの暮らしの一端や住民同士のつながりに触れられたのもよかった。
不穏な社会状況だからこそなおさら、地域の柔軟なつながりの中で、それぞれの生活を美しくしていくことの大切さを感じる。
北海道ツアーファイナルが銭函・銭楽でよかった。今度はもっと早く銭函に帰ってきます。
北海道ツアーをブッキング&制作し、帯同してくれたMORROW・小西君には、今回も大変お世話になった。温泉に入ったり、美味いものを食べたり、知人を訪ねたりと、寄り道だらけの楽しい道中だった。
鹿や丹頂鶴、白鳥、キタキツネに遭遇し、北海道の豊かな自然に触れられたのもよかったし、移動中は主に自分がDJになって、カーステでたくさん音楽を聴けたのもよかった。
YouTubeであらためて観た、スーパーボウルでのバッド・バニーのパフォーマンスは凄すぎたなあ。
コニタン、これからもよろしくね。
各地でお世話になった皆さん、来てくれたお客さん、本当にありがとうございました。また笑顔で再会しましょう。

ー 2026年4月15日(水)