2026年5月5日火曜日

返す側の責任

 明確かつしなやかに戦争反対を伝えるキョンキョンと、「考える余白」を残すことで受け手を当事者に変えようとするバンクシー。どちらもかっこいい。

《ミュージシャンは己の表現したいことを表現するのが仕事だよね。そういう人たちに対して何かを語れ!と要求するのも、語るな!と要求するのもすべてナンセンスだと思う》
https://jisin.jp/entertainment/entertainment-news/2581779/#goog_rewarded

サカナクション・山口一郎氏の発言に関しては、違和感を抱く部分もあったけれど、記事の元となったYouTube配信のアーカイブを見ることで、彼の正直な葛藤や苛立ち、そして声を上げる同業者へのリスペクトが、より立体的に伝わってきた。

自分にとって、この3者は補完的な位置関係にある。
そして、3者に共通しているのは、当事者としての責任感なのだと思う。

一方で、表現を受け取り、その意味を引き受けて返す側にも、当事者としての責任はある。
誰かの言動を都合よく切り取り、自分の攻撃性の言い訳にしたり、敵対を煽ったり、他人の脚を引っ張るための材料にするのは、無責任で、実にかっこ悪い。

ー 2026年5月5日(火)

希望の問いかけ ー バンクシーの彫像が残す余白

 英ロンドン中心部に突如現れた、バンクシーによる巨大彫像。
その強烈な視覚表現に触れながら、「何をどう伝えるべきか」という迷いについて考えている自分がいた。

作品は「盲目的な愛国心」や「過度なナショナリズムの危険性」を鋭く風刺しているように見える。けれど同時に、それは単なるメッセージの提示ではなく、観る者に問いを差し出す装置でもあるようにも感じられた。

彫像が示す問題意識は明確であり、そこに込められた危機感も十分に伝わってくる。
ただ、視覚的な隠喩がどれほど強烈であっても、それは危機を煽る「一方的なメッセージ」とは異なる。作品そのものだけでなく、「置かれた場所」や「発表のタイミング」も含めて、そこには「問いかけ」の余白が残されている。そこにバンクシーの本領があるのだと思う。

彫像が掲げる旗は、どこの国のものか判然としない。その不明瞭さによって、かえって「旗を掲げる行為そのもの」の危うさが浮き彫りになる。
「あなたは今、どんな旗を掲げているのか。その旗は本当に視界を広げているのか」——その問いは、観る側にも向けられている。

皇室関連の記念碑や軍事英雄の像が並ぶ、愛国心が象徴される空間にこの像を置くことで生まれる対比も強烈だ。バンクシーの彫像と隣の英雄像は、何が違うのだろうか。
彼の作品には常に、観客を単なる「受け手」ではなく、「考える当事者」へと変える力がある。

今の世界は、自分が生きてきた中で最も余裕がなく、危機的な状況にあるように思う。
しかし、その状況をどのように伝えるべきかについて、自分は逡巡し続けている。

危機や不安を煽ることで相手の心を支配し、想像力を奪い、思考を停止させるやり方には加担したくない。それこそが、大きな物語を利用して社会を破滅に導いてきた数々の権力者たちの常套手段だからだ。

音楽や詩を含む芸術は、「正しい答え」を押し付けるための政治や権力のプロパガンダとして利用されることもあるけれど、バンクシーの作品のように、「考える余白」を受け手に残すことこそが、芸術の大切な価値なのだと思う。

不確かさの中に思考の余地を残すからこそ、対話が生まれ、人が変わる可能性が残る。
バンクシーの作品は、皮肉や風刺の裏側に「人間への信頼」を感じさせる。

自分にとってこの像は、「希望の問いかけ」だ。

ー 2026年5月5日(火)



バンクシーの新たな彫像、ロンドンに登場 無批判な愛国心を風刺か CNN

2026年4月17日金曜日

Do it yourself ー 映画『ストリート・キングダム 自分の音を鳴らせ。』を観て

監督・田口トモロヲ、脚本・宮藤官九郎による映画『ストリート・キングダム 自分の音を鳴らせ。』を観てきた。
1978年の東京を舞台に、日本のパンク・ロックの礎を築いた若者たちの姿を描いた青春群像劇で、愛情と思い入れが細部にまで行き届いた映画だった。

自分が中学3年生から高校生だった頃の時代の話だけれど、遠藤ミチロウさん、エスケンさんら、後に自分も交流を持った人たちが描かれていたり、西部講堂や新宿ロフトなど、自分も立ったことのあるステージや思い入れのある場所が舞台になっていることもあって、胸がキュッとしたり、心のざわつきを感じながら映画を観た。

映画の最後にJAGATARAの「もうがまんできない」が流れ、出演者がそれぞれ歌い回していくシーンにはグッときた。その中でも、路上でアコースティックギターの弾き語りをしている未知ヲ(遠藤ミチロウ)が映るシーンは不意を突かれた感じで、一気に涙腺が緩んでしまった。
スターリンで一世を風靡した後、’90年代半ば以降は主にシンガーソングライターとして全国を巡り、路上と地続きの場所で歌い続けたミチロウさんの姿を描いてくれたことに胸を打たれたし、製作者の深いリスペクトを感じた。

それにしても、今や日本で最も注目を集める役者の一人であり、大河ドラマの主役も務める仲野大賀が、ミチロウさんを演じることになるとは(しかもあそこまで体を張って)。不思議な気もしたけれど、素晴らしいことだと思った。
実際のミチロウさんとのギャップは感じたけれど、映画を見終えてみると、それで良かったのではないかと思えた。
ゼルダのチホさん役の吉岡里帆もよかったなあ。
配役からも、この映画が一般に開かれた作品を目指していることが伝わった。

それと、この映画は主役がミュージシャンではなく無名と言えるカメラマン・地引雄一氏だったことも良かった。多くの無名のスタッフが、シーンに対してミュージシャンと同等の貢献を果たしてきたことは間違いないのだから。

この映画は、東京ロッカーズというムーブメントと、そこに関わったバンドの存在を今の世に知らしめる大きなきっかけになるのだろう。それは素晴らしいことだし、同業者としては、このような形でシーンの功績が残されることに、少し羨ましさも感じた。
そのうち、’70年代にムーブメントを起こした関西ブルースや関西フォーク、’80年代後半からのバンドブーム、'90年代前半の渋谷系や日本のクラブ・ムーブメントにスポットを当てた映画もできれば面白い。
友部正人さんの役は吉沢亮、大槻ケンジ君は渡辺大知君でどうだろう?

自分はこれまで、どの音楽シーンに属することもなかったけれど、いろんなムーブメントに触発されることで、ここまでやってこれたのだと思う。
その根底にある共通の姿勢が「Do it yourself」であることを、映画を通してあらためて確認することができた。

あと、権力や権威との距離感も、自分はどちらかというとこっち側だと思った。

でも、ステージに向かう姿勢には違いも感じた。東京ロッカーズの人たちは、手拍子やコール&レスポンスを求めたりはしなかっただろうし。歳を重ねたせいもあって、今の自分のパフォーマンスはあんなふうにはトンガっていない。
東京ロッカーズというムーブメントは一瞬の輝きだからこそ美しく、かっこよかった。自分が今やっていることは、くたばるまでやり続けることだ。

こんな映画が、ミニシアターではなくMOVIX京都という大きな映画館で観られる日が来るとは思わなかった。
この時期にこの映画を観られて良かった。
制作に関わった人たちに、心からのリスペクトを。

ー 2026年4月17日(金)


2026年4月15日水曜日

北海道4ヶ所ツアー

札幌・のやのグランドピアノは、昨年のライブ以上に鳴りが良く、大いにインスパイアされた。
開演前にはマスターの川端さんといろいろ話ができ、かつてのやのステージに立った大塚まさじさんや中川イサトさんといった先輩ミュージシャンの話を聞かせてもらえたのも嬉しかった。
本当にいいお店。また戻ってきます。
打ち上げはススキノに場所を移し、午前3時近くまで飲みながら、バカ話から政治の話まで幅広く、熱く語り合う。
酔って政治の話をするのは危うさも伴うけれど、酔っているからこそ正直な異論を聞けるのは、自分にとってはいいこと。
今日は道東の常呂町へ移動。

ー 2026年4月10日(金)

25年目、25回目の北海道・常呂町ライブ。
毎年欠かすことなく続けてこられたのは、受け入れてくれる地元の皆さんのおかげ。自慢したい奇跡だ。
常楽寺でのライブは、開演前に松平住職の短い法話を聞くのが恒例。今回はいつになくシリアスな内容で、社会状況を受けてのことだろう。
25回目の常呂町ライブで、一回性の高い新鮮なパフォーマンスができたんじゃないかと思う。
アンコールMCの途中で、ふいに感極まってしまい危なかった。涙腺がゆるくなったなあ。
打ち上げでは、参加した人たちが次々と、自分の曲やライブにまつわる思い出を語ってくれて、それもまたありがたく、ぐっときてしまった。
常呂町の皆さんと笑顔で再会できてよかった。新谷さん、大病からの復活、本当によかった。新しい出会いにも感謝。
ありがとう、また。
今日12日は釧路・ラルゴ。明後日14日は小樽銭函。旅は続くよ〜。

ー 2026年4月12日(日)


 釧路・ラルゴのマスター・豊川君からのリクエストは「長めのライブ」。

期待に応えられたんじゃないかと思います。
自分でも思いがけない曲が演れてよかった。
ナイスミラーボール。
ラルゴ20周年おめでとう!
オレはラルゴ最多の17回目の出演。これからも最多出演記録を更新し続ける予定です。
来年もよろしくねー。

ー 2026年4月13日(月)

@小樽・銭函/銭楽

約3年半ぶりの銭函。
海沿いの街で、移住者が多く、サーフィンが盛んで、こだわりの個人飲食店も多い。以前暮らしていた湘南・鵠沼海岸との共通点も多く、風通しがよくて居心地のいい街だ。
ライブ会場・銭楽のコージ君&なおみちゃん夫妻、この日のライブを企画してくれて、オープニングではブルージーな弾き語りを聴かせてくれたシュンゴ君、シンガーソングライターのまさし君、モンパルナスの平山さん、街の名物住職・じゅんさん等々。嬉しい再会と新しい出会いがたくさんあった。
ライブはステージ半ばから、多くのお客さんが席を立ち、スタンディングで体を揺らし始める。煽り、煽られての大盛り上がり。
銭函にいる間、地域のさまざまな人たちと触れ合い、それぞれの暮らしの一端や住民同士のつながりに触れられたのもよかった。
不穏な社会状況だからこそなおさら、地域の柔軟なつながりの中で、それぞれの生活を美しくしていくことの大切さを感じる。
北海道ツアーファイナルが銭函・銭楽でよかった。今度はもっと早く銭函に帰ってきます。
北海道ツアーをブッキング&制作し、帯同してくれたMORROW・小西君には、今回も大変お世話になった。温泉に入ったり、美味いものを食べたり、知人を訪ねたりと、寄り道だらけの楽しい道中だった。
鹿や丹頂鶴、白鳥、キタキツネに遭遇し、北海道の豊かな自然に触れられたのもよかったし、移動中は主に自分がDJになって、カーステでたくさん音楽を聴けたのもよかった。
YouTubeであらためて観た、スーパーボウルでのバッド・バニーのパフォーマンスは凄すぎたなあ。
コニタン、これからもよろしくね。
各地でお世話になった皆さん、来てくれたお客さん、本当にありがとうございました。また笑顔で再会しましょう。

ー 2026年4月15日(水)

2026年4月6日月曜日

名前の数だけ命があって、その命は輝き、守られるべきもの ー 広島にて

昨日は、浜田市井野から広島市内に移動した後、会場入りまで時間があったので、久し振りに平和記念資料館に足を運んだ。
入場する前に少し躊躇を覚えたのは、この日のライブへの影響を懸念してのことだった。

結果、資料館を出た後は、やはりぐったりしてしまった。
けれど、行って良かった。
原爆投下というあまりにも非人道的で悲惨な出来事を、未来のために、この世界を生きる誰もが受け止めるべきだと思う。

見たところ、入場者の8割以上はインバウンドの観光客だった。海外の人たちが資料館を訪れるのはとても意味のあることだけれど、今のこういう時期だからこそ、あらためて日本人もこの資料館を体験すべきだと思った。

資料館の訪問は、この後のOTIS!でのステージに確実に影響を与えた。けれど、それは悪い影響ではなく、歌に込める思いの純度がいつも以上に高まった。
特に、アンコールの最後に弾き語った「見上げてごらん夜の星を」は、今までにない特別な歌唱だったように思う。

「名前の数だけ命があって、その命は輝き、守られるべきものだと思います。」
先日、音楽番組『ミュージックステーション』に出演した際の小泉今日子さんのメッセージが、この日の自分の思いと重なった気がした。

浜田市井野と広島での2日間を通して、OTIS!のマスター・佐伯さんには大変お世話になった。去年、奥さんを亡くされた佐伯さんの、前向きであろうとする姿に触れて、感じるところが大きかった。

ライブの告知に協力してくれたRCCラジオ『週末ナチュラリスト』パーソナリティーの岡佳奈さん、ちくりん、ボンバー、毎回打ち上げの段取りをしてくれるリョージくん、 カズ君、――いろんな人たちとのつながりで、今回も広島でのライブが成り立った。
彼らの存在がなければ、客席に隙間風が吹いていたと思う。
ありがとうございます。

打ち上げも楽しかったなあ。
よく飲み、よく笑いました。
みんな、これからもよろしくね。

ー 2026年4月6日(月)

2026年3月23日月曜日

正しく怒る

 『虎に翼』(NHK)のスピンオフドラマ『山田轟法律事務所』の余韻がまだ残ってる。

「人ってのは弱いから、鈍感に生きてる方が楽なんだよ。そういうやつらはさ、よねちゃんがそばにいるとぎゅうって胸がなる。それでさ、少しいい人間になりたくなるんだ。だから決して自分を曲げるな。今まで通り、怒り続けるよねちゃんでいるんだ。君の正義を信じて、正しく怒るんだよ。正しく不機嫌でいるんだ。」

増野がよねに送った言葉の中に、脚本の吉田恵里香さんが作品に込めた思いが集約されているように感じた。
自身の「怒り」に向き合い、その正体を知ることで、真っ当に怒りたい。その上で、対話を諦めずにいたい。 

「今は綺麗事、絵空事だとしても、どうせ進むならこっちの方がいい」 

強く、そう思う。

ー 2026年3月23日(月)

2026年3月22日日曜日

感覚を塞いだ先にあるもの ー 日米首脳会談への違和感

 SNS上では、日米首脳会談への評価が極端に分かれている。
立場というフィルターが、そうさせるのだろうか。

自分の感覚としては、「最悪の事態は避けられたのかもしれない」という安堵も残しつつ、高市・トランプ両者の振る舞いや言動は、見るに耐えなかった。
この「気持ち悪さ」や「おぞましさ」の感覚を、失いたくない。

「国益のためだ」「ビジネスなんだ」と、知ったふうな顔をしているうちに、人間としての尊厳や、矛盾への嫌悪感が麻痺していくように感じる。
「痛み」に対して鈍感になりたくない。

「国益のため」の一言で正当化するのは楽だろうけれど、そうやって感覚を塞いでいく先の未来は、ろくなもんじゃないと思う。

ー 2026年3月22日(日)