2026年7月1日水曜日

暮らしから育つ民主主義

『武田砂鉄 ラジオマガジン』で、ゲストの中島岳志氏が、杉並区長選で再選を果たした岸本聡子氏が掲げるミュニシパリズム(地域主権主義)について、わかりやすく具体的に解説していて、ぜひ皆におすすめしたい内容です。

ミュニシパリズム(地域主権主義)とは、行き過ぎた市場経済や、公共サービスの過度な民営化・市場化による格差の拡大を見直し、「コモン(公共財)」の奪還を目指そうとする動き。

また、選挙(間接民主主義)だけに政治参加を限定せず、日常的な対話や住民投票、住民自らが予算の使い道を提案・決定するなど、直接民主主義的な手法を重視することも大きな特徴。

一部の強い人たちに政治を任せるのではなく、多様な意見を受け止めながら、弱い立場にある人たちの視点を忘れず、互いに助け合う「ケアの倫理」を重視する。そのような考え方が、この思想の根底にあるのだと、中島岳志氏の解説を聞いた上で自分は理解した。

国政ではなく地方自治体に目を向けると、日本でもアメリカでも、高市政権やトランプ政権のような権威主義とは対照的な流れが一部の自治体で見られ始めているように思う。岸本氏の再選も、その流れの一つなのだろう。
岸本氏があえてYouTube広告を使わず、自ら街へ出向き、積極的に公開討論会へ参加する姿勢は、一国の首相とは対照的だ。

国政レベルでは難しいことでも、地方自治体から参加型デモクラシーを育て、一人ひとりの暮らしの中で民主主義を育んでいく。そんな流れが、これからさらに広がっていけばいいなと思う。

ー 2026年 7月1日(水)

2026年6月30日火曜日

一人一人が輝く星 ー テレビドラマ『銀河の一票』最終回を観て色々つながった

 テレビドラマ『銀河の一票』最終回は、想像を超える伏線回収が見事で、第1話から観続けてよかったと思える印象深い内容だった。

「私、ずっと忘れてました。自分が一つの星だってことを。
忘れようとしてました。一個一個、強く光る力を持った星たちなのに、ぼんやりとした白い銀河って、まとめられて雑に扱われることを、なんとか受け入れなきゃって。
でも、違う。違いますよね。
私たちは、一人一人が輝く星で、銀河があんなに綺麗なのは、一つ一つの星が綺麗だから。(中略)
たった一人のあなたが放つ、たった一つの尊い光。銀河の一票」

「綺麗事だと揶揄されることを恐れずに、諦めず探しましょう。
銀河が、一つ一つの星が輝き続けられる道を。世界とあなたと私の幸福のために。」

野呂佳代演じる月岡あかりと、松下洸平演じるひやま流星。二人の演説の言葉は、テレビ音楽番組『ミュージックステーション』でのキョンキョン(小泉今日子)の次のMCとも重なった。

「名前の数だけ命があって、その命は輝き、守られるべきものだと思います。世界中の戦争が早く終わりますように」

このキョンキョンの言葉を聞いて思い出した歌が、坂本九が歌った『見上げてごらん夜の星を』だった。
作詞・永六輔と作曲・いずみたくが歌に込めた思いは、「一人一人の命の輝き」なんだろうと想像する。
戦争や国家による大きな物語によって、一人一人が丁寧に紡ぐ物語が蔑ろにされる世の中は、不幸だと思う。

「綺麗事じゃないよ、きれいなことだよ」

『銀河の一票』での黒木華演じる茉莉(まつり)のこのセリフを聞いて、沖縄のコザ騒動を描いた映画『宝島』での、妻夫木聡演じるグスクの言葉を思い出した。

「綺麗事に力がないことぐらいわかってる。
でもよ、オレは諦めんよ。諦めん人もいっぱいいるさ。(中略)
そんなバカみたいなことが続いたら、人間はもうおしまいど。(中略)
(それが人間だったとしても)それでもオレは諦めん」

ドラマ『銀河の一票』は、敵対ではなく、立場の異なる者同士が補い合う関係を描いてくれたことにも勇気づけられた。

これらの言葉を、自分はイデオロギーではなく、人としての態度として受け取っている。

「夢かもしれない
でも、その夢を見てるのは君一人じゃない。
世界中にいるのさ」
――「イマジン」より(日本語詞・忌野清志郎)

こうした作品や言葉に触れることで、自分は一人ではなく、人はさまざまな形でつながっていけるのだと思える。

ー 2026年6月30日(火)



2026年6月25日木曜日

ラベリングの向こう側へ ー ツアー先で感じる政治意識の変化

 去年あたりから、ツアー中に関係者や地元の人たちと政治や社会問題について話す機会が明らかに増えた。

こちらが積極的にそういった話題を持ち出すよう意識したわけではなく、自然にそういう会話をする機会が多くなった。

社会問題や政治について話す場合、以前はお互いがリベラルな立場であることが暗黙の了解になっていた。でも最近は、必ずしもそうではなくなってきた。中には、高市首相や自民党、参政党に一定の共感や支持を表明する人もいるし、移民反対の立場の人や、兵庫県の斉藤知事を応援する人と一緒に打ち上げで話をする機会もあった。

これまではリベラルな立場の人だと思っていたけれど、実際に話してみるとそうではなかったということもある。また、立場が右か左かではっきり分かれるわけでもなく、イシューごとに話しているうちに意見や考え方の違いが見えてくることもある。

一つの傾向として、これまであまり政治に関心がなかった人や、政治の話題を持ち出さなかった人たちが、自民党や参政党、高市首相への支持を表明することが多いように感じる。

そうした会話を重ねるなかで、時代のフェーズが変わったことを実感している。

各地で話をする人たちの多くは、SNSやブログでのこちらの発信をある程度チェックしてくれている。だから、右寄りであったり排外的な立場の人は、考え方の違いを認識したうえで会話に臨んでくれているのだろう。考えや立場が違っていても、話ができる相手だと認識してもらえているのなら、悪いことではないし、ありがたいとも思う。
こちらにも、譲れない一線があるけれど、まずは相手の話を聞くよう心がけている。

そうやって面と向かって話をすると、もちろんお互い感情的になることはあるけれど、SNS上とは違い、考え方の違いがあっても、一方的に相手をラベリングしたり、誹謗中傷したり、冷笑したりすることはほとんどない。

知らない仲ではなく、音楽を通して繋がった者同士でもあり、受け身を取り合えるギリギリの範囲内で議論しようとする信頼関係が、ある程度は成り立ちやすいのだと思う。

一方で、この数年の間に、SNSやブログを通じてこちらの政治的な発信に触れたことで、長い付き合いがあったにもかかわらず、自分と距離を置くようになった人も出てきた。これも以前にはなかった傾向だ(自分が気づいていなかった部分もあるかもしれないけれど)。
自分の側にもっと違った伝え方があったのではないかと自問自答したり、もう少し向き合って話がしたかったと残念に思ったりも するけれど、この1,2年の間で、こちらの考えや発信の仕方が別段変わったわけではないので、やはり相手の受け取り方や時代の空気の変化が大きいように感じる。

とにかく、対話の回路だけは閉ざさないように心掛け、結論を急いで互いを切り捨てるのではなく、関係性を維持する方向にプライオリティーを置きたい。
人との付き合いにおいても、ノイズだらけの面倒なプロセスを大切にしたいと思う。

ー 2026年6月25日(木)

2026年6月18日木曜日

崖っぷちのピアノマン ー 映画『ジェイムズ・ブッカー 愛すべきピアノ・ジャンキー』を観て

映画『ジェイムズ・ブッカー 愛すべきピアノ・ジャンキー』をやっと観ることができた。
見どころだらけだった。映画にしてくれて、本当にありがとうって気持ち。

ニューオーリンズのピアノマンの中でも、プロフェッサー・ロングヘアー、ドクター・ジョン、アラン・トゥーサンのピアノは、若い頃に頑張って耳コピにトライしたけれど、ジェイムズ・ブッカーのピアノは、特にボイシングが複雑かつ独創的すぎて、さじを投げた。

その複雑なピアノスタイルを、映画の中でハリー・コニック Jr. が実際に ピアノで“On the Sunny Side of the Street” を弾きながら解説していて、前のめりになって凝視したけれど、あらためてこれは無理だと思った。

あのテクニシャンのハリー・コニック Jr. でさえ、見事な分析をした上で、「難しすぎて正気とは思えない」と語るほどだ。

パンフレットに掲載されていた山岸潤史さんのインタビューの言葉が、とても印象に残った。

「酔拳ってあるでしょ? いつ落ちるかわからないけど落ちない。ずっと崖っぷちで弾いてる。ブッカーはその典型」

ギリギリで踏みとどまりながら演奏する感覚は、自分にも分かる気がする。

映画の中のジェイムズ・ブッカーの破天荒な姿を通して、自分がニューオーリンズのピアニストに惹かれる大きな要素が「ストリートのアウトロー感」であることを再認識した。「路上」ではなく、あえて「ストリート」と表するのは、その言葉が、周囲の街並みやコミュニティも含んだ空間を内包しているからだ。
自分が思い入れを抱くニューオーリンズのピアノマン達は、ストリートでの体験を経て、それぞれが独自のやり方で枠からはみ出していく愛すべき存在なのだ。

パンフレットの中で、矢野顕子さんは「精神疾患も飲酒も麻薬もない、音楽のかたまりのジェイムズ・ブッカーが紡ぎ出す音は、歓びと美しさに満ちていたに違いない」とのコメントを寄せていたけれど、自分はその考えに与しきれない。
悲劇を望むわけではないけれど、その傷や危うさが彼の崖っぷちの魅力につながったのではないだろうか。

もっと長く生きて活躍する姿を見たかったと思う反面、どうしてもはみ出してしまうジャンキーの儚い輝きと哀愁こそが、ジェイムズ・ブッカーの唯一無二の魅力だったようにも思うのだ。

ー 2026年6月18日(木)



2026年6月16日火曜日

ニューヨークの友部正人さんと由美さん ー 映画『遠来』を観て

昨日、東京から京都の自宅へ帰る前に、キャリーバッグを転がしたまま京都シネマへ向かい、約10年前にニューヨークで暮らしていたシンガー・ソング・ライターで詩人の友部正人さんと、写真家であり友部さんのプロデューサーでもある奥さんの由美さんを描いたドキュメンタリー映画『遠来』を観てきた。

とても良かった。

何より良かったのは、公園や街中、部屋で、音響に頼らず生音で弾き語る友部さんの姿が実に見事に捉えられていたことだ。画面を通じて、友部さんのフォークシンガーとしての魅力、その年代ならではの瑞々しさが真っ直ぐに伝わってきた。

編集も素晴らしく、伊勢真一監督の友部さんへの深いリスペクトが十分に感じられた。

映像を担当した伊勢監督の息子さん、伊勢朋矢氏による、スタイリッシュになり過ぎない、モダンで臨場感のあるカメラワークも印象に残った。

歌い、朗読する友部さんを捉える長回しのカメラは、まるで友部さんとセッションしているかのようで、映像そのものが生き生きとしていた。カメラのアップにも動じない友部さんの表情も、その人柄をよく映し出していた。

友部さん、由美さんと長年お付き合いさせてもらっている者としては、ニューヨークまで2人を訪ねることが一度も叶わなかったので、そこで暮らす友部さんと由美さん、マラソンを走る友部さん、そしてそれを応援する由美さんの姿を初めて見ることができて嬉しかった。

映画を観ながら、「2人はニューヨークで再婚したんだなあ」と思った。

写真家であり、友部さんのプロデューサーでもある由美さんの存在が、作品の中にしっかりと刻まれていたことも嬉しかった。

上映後には、伊勢監督と、京都在住で友部さんと同世代のシンガー・ソング・ライター、豊田勇造さんによるトークショーがあった。お2人にも久しぶりにお会いし、話をすることができた。

勇造さんが弾き語ってくれた「友部君」も、とても良かった。

映画を通して、友部さんがこの時代を生きる自分達に、多くを語りかけ、問いかけているような気がした。その言葉や歌は、映画の撮影が始まった10年前よりも、さらに重みとリアリティを増しているように思えた。

映画を観て、また、友部さん、由美さんに会いたくなった。

ー 2026年6月16日(火)


2026年5月31日日曜日

那覇の夜、ピアノと基地問題

 AIは最短距離で結論へ向かう。

それに対して、ライブは過程を大切にする。

必ずしも結果のためだけに存在しているわけじゃない。
予測を外れていく過程そのものに価値がある。

沖縄を巡りながら、その言葉を実感している。
ステージ上だけでなく、オフステージも含めた体験そのものがライブだ。

昨夜の那覇市・サウンドM'sのグランドピアノは、これまで以上に鳴りが良かった。
聞けば、ライブ直前のみならず、この一か月の間に繰り返し調律を行っていたそうだ。南国の高温多湿のこの時期に、ピアノのコンディションを維持するのは大変なのだ。
ピアノの状態を通して、サウンドM'sの柴田さん夫妻の思いが伝わってきた。

昨夜は満席とはならなかったけれど、最初から客席の熱量は高かった。
この熱量や高揚感を数字で示すことはできないけれど、現場にいたすべての人には実感として記憶されたと思う。

打ち上げは、今回のライブを制作してくれた野田くんを含め、少人数の4人で。
ひとつの話題についてじっくり話せるのが、少人数の打ち上げの良さのひとつだ。

沖縄の基地問題や、9月に行われる知事選の話など、昨夜は真面目な話の割合が多かった。

沖縄県の離島で自衛隊基地の増設やミサイル部隊の配備が進んでいること、それに伴い、有事を想定した住民の島外避難計画の策定が進められていることなどは記事で読んでいた。
けれど、現地の人から直接話を聞くと、やはり受け止め方が変わってくる。

そうした状況を受けて、9月に行われる沖縄県知事選挙は、現職の玉城デニー氏と新人の古謝玄太氏による事実上の一騎打ちとなる。国の安全保障政策への対応や基地問題が最大の争点だ。

打ち上げに参加したHさんの「沖縄に基地を望んでいる人なんていない」という言葉が印象に残った。
12年前、辺野古の社交街で地元の基地移設容認派の方と一緒に飲ませてもらった時にも、同じような言葉を聞いたのを思い出した。

「マスコミが報道するように、辺野古住民が基地移設の賛成・反対で分断されているわけではない。本当は地元の誰も積極的には基地移設に賛成していない」

辺野古で暮らす人たちにとって、基地移設問題はイエスかノーかで解決できる問題ではないのだ。詳しくは、当時書き残したブログを読んでもらいたい。
https://rikuonet.blogspot.com/2015/10/blog-post.html (ブログより)

沖縄のリアルな現実の一端に触れて、自分も含め、本土の人間は、自分たちが沖縄に何を押し付けてきたのかをもっと自覚する必要があると、あらためて思った。

感じ、考える機会の多い旅になっている。

今日は沖縄市・コピ・ルアックにて、沖縄ツアー最終公演。

今夜も一期一会を味わい尽くそうと思う。

■リクオ・ライブ・スケジュール

#リクオ

ー 2026年5月31日(日)

2026年5月30日土曜日

酔客とフリースタイル ー 宮古島・ビッグチーフの夜

 石垣島から早朝の便に搭乗し、朝9時には宮古島に到着。
宿泊先で電動自転車を借り、午前中から島をぶらつく。

街なかのあちこちで、今夜のビッグチーフでの自分のライブを告知するポスターを見かけた。離島の小さなコミュニティーだからこそ、有効な告知方法なんだと思う。

ビッグチーフの渡邊夫妻が各店舗にポスター掲示をお願いしている姿が思い浮かんだ。自分が島に受け入れられているような気分にもなった。

地域コミュニティーを介した、こうした地道な告知活動によって、昨夜のライブが成り立っていたのだ。

自分の弾き語りソロライブでは、お客さんのリアクションによって曲のアレンジが大幅に変わることがある。特に、ステージと客席の段差や隔たりを感じない50人キャパ以下の小規模な飲食店では、そうした状態が起こりやすい。昨夜のライブが、まさにそんな感じだった。

ライブ後半は、歌い手と聴き手という関係が崩れ、曲によっては客席の歌声の方が大きくなるほどで、まるで歌声喫茶状態(例えが古くてスンマセン)。

こういう酒場ライブでは、さまざまなハプニングが起こりやすい。それをどこまで受け入れるかは、自分次第だったりする。

2部の中盤で「はかめき」という曲を演奏し始めた時のこと。ずっと盛り上がり続けていた酔客が、客席最前列のさらに前、至近距離まで移動してきて、体育座りでこちらの演奏を食い入るように見つめ始めた。

その時点で「なんかやらかしそうやな」という予感がしていて、案の定、彼は動いた。

長いループが続く曲の後奏が始まると、その酔客は立ち上がり、いきなりフリースタイルラップを始めた。

出だしはイケてる感じだった。一瞬、面白いセッションになるかと期待したけれど、だんだんグダグダになり、一緒に来ていたのであろう連れ合いに手を引かれて客席奥へと退場していった。

そんなことがありつつも、曲は無事にエンディングへと着地。

曲を壊されたような気持ちにはまったくならなかった。むしろワクワクした。

彼の高揚や一瞬の輝きはこちらにも伝わってきたし、恐らくほとんどのお客さんも、このハプニングを受け入れてくれていたように思う。そういう場であり、そういう関係性のライブだったのだ。

相互作用に至るプロセスと、ハプニングというドキュメンタリーを共有するという意味で、最上の夜だったと思う。

ありがとう、また。

ー 2026年5月30日(土)