2019年12月21日土曜日

寺さん(寺岡信芳)とのこと ー 寺さん還暦に寄せて

'95年、BO GUMBOSの解散が決まった直後に、BO GUMBOSのメンバーだったキョンさん(Dr.kyOn)に連絡して、都内の茶店で落ち合い、バンド編成でライブをやる時のバンマスになってもらいたい旨をお願いしたことがある。
その場で、すぐに了承してもらって、キョンさんからの提案で、メンバー選びを兼ねて、キョンさんが推薦する演奏者を集めたセッションライブを、高円寺のjirokichiで2日間ブッキングしようという話になった。
その際のベース奏者は寺さんに声がけをお願いしたいというのが、こちらからのキョンさんへの唯一のリクエストだった。

当時、寺さんが春日博文さんらと一緒にやっていたバンド、東京ビビンパクラブのライブを初めて観たのは'、その前年の94年だったと思う。絡み合うポリリズムから生まれるグルーヴと、メンバーそれぞれが「間」を共有することで構成される立体的なサウンドに身を委ねながら、こんなバンドが日本に存在したのかと驚いたのを覚えている。
そのライブを観た時は、寺さんが、自分がティーンエージャーの頃にテレビでも観ていたパンクバンド・アナーキーのベーシストだったことには全く気づかず、ただ、そのベースプレイの素晴らしさに聴き入っていた。

石川県小松で開催された野外イベントに東京ビビンパクラブと一緒に出演したのは、多分、そのしばらく後だったと思う。そのイベントの打ち上げの席で、寺さんの方から自分に話しかけてくれたのが、寺さんとの最初の面談だった。
当時の自分は、まだ人見知りのところが残っていて、せっかくこちらの席まで来てもらったのに、あまり話が弾むことなくその場は終わってしまった記憶がある。

前述の、キョンさんがコーディネイトしてくれたjirokichiでのセッションが寺さんとの初音合わせとなった。当日リハーサルのみで本番に臨む無謀なセッションだったけれど、驚いたことに寺さんは10数曲の演奏曲を全て暗譜してきていて、コード譜すら一切必要としなかった。後で聞いたら「譜面が読めないから覚えてくるしかないんだよ」とのこと。
寺さんとの共演は最初からしっくりときた記憶がある。単なるベーステクニックだけでなく、歌に寄り添う姿勢、音楽に対する謙虚さ、飾らない振る舞いに触れて、一層信頼が増した。

BO GUMBOS解散後のキョンさんは、セッションマンとして方々から引く手数多となり、スケジュールを押さえるのが困難になってしまった。結局、キョンさんのスケジュールがオリジナル・ラブの長期ツアーで数ヶ月間押さえられたことが決定打となり、バンマスをやってもらおうとの目論見は脆くも崩れ去ってしまった(その翌年には、オリジナル・ラブがキョンさんのスケジュールを押さえられなくなり、自分がキョンさんの後釜としてオリジナル・ラブのサポートを2年間やらせてもらうことになる)。

Jirokichiでのセッションがきっかけとなり、その年の自分のメジャー時代最後のアルバム「太陽をさがせ」リリースツアーのベーシストを、寺さんにお願いした。そこから寺さんとの長い付き合いが本格的に始まった。
翌'96年からは、寺さんを誘って、ピアノ・トリオバンド、リクオ&The Herzでの活動を始めた。ソロアーティストとして、いろんな面で煮詰まっていた自分の現状打破を期しての活動だった。
寺さんには、それまでやったことのないコーラスを担当してもらったり、とにかく、いろんなことにチャレンジしてもらった。今思うと、相当無理をさせていたんじゃないかと思う。

翌年にはドラムの氏やん(氏永仁)がバンドから離れることになり、寺さんとの紹介で学くん(坂田学)を新ドラマーに迎え、バンド名をThe Herzに変更。ソロ・アーティストとしての活動の一環だったバンドを、ソロとは別枠のバンドとして活動展開することにした。

この期間の3人での取り組みが自分に残した音楽財産は実に大きかった。自分の音楽性やキャラの枠組みを外して、3人で様々な音楽情報を交換し合いながら、面白いと思うことは何でも試してみた。
寺さんは、自分の新しい提案に対しては常に受け入れ体勢で、多分、的外れだと感じる提案であっても、何でも一度は試してみてくれた。寺さんの柔軟性と好奇心、懐の深さがあったからこそ、自分は様々な実験をバンドの中で気兼ねなく試みることができたのだと思う。

'02年にThe Herzが活動休止した後しばらくは、ベースを入れたバンド形態で演奏すること自体がなくなってしまい、寺さんとも3年ほど疎遠な時期が続いたけれど、'06年にバンド形態でライブを復活させて以降は、途切れることなく寺さんとの関わりが続き、今に至っている。
'12年に、ケーヤン(ウルフルケイスケ)とMAGICAL CHAIN BANDを始める際も、寺さんに参加してもらった。MCCBでの活動は、今のリクオ with HOBO HOUSE BANDの活動の流れにつながった。
現在の活動に至るまで、ライブにレコーディングに、これほど長く頻繁に自分と活動を共にしてくれているミュージシャンは寺さん以外に存在しない。

音楽活動において、一番相談に乗ってもらった相手も寺さんからもしれない。先日も、少し感情的になってしまう出来事があって、寺さんに電話して相談に乗ってもらった。話を聞いてもらった上で、寺さんのアドヴァイスを受けて電話を切ったら、随分と心が落ち着いて、あらためて自身の至らなさに気づいたりもした。

寺さんの言葉には、含みや企みが感じられず、人に対する姿勢が常にフラットなので、時に耳の痛い言葉も、寺さんに言われると素直に受け入れざるを得なくなるのだ。
自分の繊細と鈍感を最も理解してくれている一人が寺さんなんだと思う。そして、その鈍感さを、何度も「仕方がない」と許してもらっているのだと思う。甘え過ぎず、気をつけよう。

人は、互いの距離間を見誤って、イザコザを起こす場合が多い。寺さんは、人との距離の取り方が絶妙なんだと思う。相手を決めつけたり、勝手に期待し過ぎたりすることがない。自分はその距離間に救われてきた一人なのかもしれない。
思い返すと、長い付き合いの中で、寺さんとは、口論になった記憶すらない。活動を共にしながら、ずっと見守ってもらってる感じがする。

かといって、寺さんが、人や物事に対して冷めているわけでは決してない。とにかく打てば響くというか、日常でもステージでもリアクションが豊かなのだ。
寺さんのベースを聴いてもらえば、その音にときめきが宿っていることが伝わると思う。そのステージでの振る舞いは、音楽をやる喜びに満ち溢れている。還暦を迎えるにあたって、その傾向はますます顕著になりつつあるように見える。
そう、寺さんは素直なのだ。カッコつけることがないカッコ良さが、寺さんの魅力の一つだと思う。自分もそうありたい。

自分は元々バンドマン出身なので、ソロでデビューした時は、バンドでデビューできなかったという挫折が残った。でも、今、寺さん達とステージで音を奏でる時、自分の気持ちは学生時代にバンドでみんなと演奏してた頃と同じときめきに戻ることができる。違う形で夢は実現しているし、続いているのだと思う。

気づけば、寺さんとは25年の長きに渡って活動を共にしていることになる。自分の軸足はソロミュージシャンだとしても、そんな肩書きに関係なく、形は様々であっても、寺さんとはずっと一緒にバンドをやってきた気がする。かけがえのない存在だし、これからも一緒にいい夢を見たいと思う。

寺さん、少し早いですが、還暦おめでとうございます。
長年のお付き合い、ありがとうございます。感謝してます。
まだまだ、これからもよろしくお願いします。
ー2019 12月21日(土)

2019年12月19日木曜日

集団の中の「個」 ー 映画「i - 新聞記者ドキュメント - 」を観て

東京新聞の望月衣塑子記者を追ったドキュメンタリー映画「i - 新聞記者ドキュメント - 」を観た。
監督・森達也氏の前作「FAKE」が、観る者の価値観を揺さぶるような印象に残るドキュメンタリーだったので、楽しみにしていたのだけれど、今回も期待を裏切らない内容だった。実は、映画を観てからもう1週間以上が経過しているのだけれど、まだ余韻を引きずってる感じ。

答ありきではなく、森監督自身が撮影を通じて体験し、考え、問いかけ続ける基本姿勢は変わらないにしても、今回は、望月衣塑子という「揺るぎ」を感じさせない存在が主人公に据えられている点が、前作とは違っていた。

画面を通して、各地を駆けずり回り、声を上げ行動を続ける望月記者のバイタリティーには圧倒された。
今回の映画に連動する形で、夏に公開された、望月記者を主人公のモチーフとした映画「新聞記者」を先に観ていたのだけれど、モチーフとなった本人の方が、「新聞記者」の主人公を凌ぐ強烈な存在感を放っていた。

画面の中で、猪突猛進の望月記者と、声を張り上げることなく少し陰気な佇まいの森監督は、同じリベラルな立場でありながら、対照的な存在として映った。意図された描写なのかどうか分からないけれど、そのコントラストがこの映画の重要な要素の一つだと思えた。自分には、2人が補い合う関係のように感じられた。

映画を通じて印象に残った一つは、それぞれの登場人物の言動や所作、表情からあぶり出される情報量の多さだった。
菅官房長官が望月記者の質問を受けた時の素っ気ない返答や、苦々しそうだったたり、苛立ったりする表情。彼女の質問を遮り妨害しようとする上村報道官の感情を押し殺した言葉のトーン。森友学園問題で注目を集めた籠池夫妻の漫才のようなやり取りが続く中、森監督から本質的な質問を受けた時の2人の語調や表情の変化。
それらから何を受け取るかは、人それぞれだろうけれど、こういった多角的、立体的な情報をSNSの世界で短時間で受け取ることは難しいと思う。
時に、それらの表情や言動はユーモラスにも映り、ドキュメンタリーのかた苦しさを緩和する効果も上げていた。映像の効力と同時に怖さも感じた。

映画を通じて、現政権が続く7年の間に、この国が失い続けた良識や言葉への信頼、他者への想像力、思いやり等についてあらためて考えさせられた。
けれど、この映画は単に政権批判を目的としたものではなく、メディアへの問題提起や、この国で暮らす全ての人達への問いかけを含んでいると感じた。

映画は後半からエンディングにかけて、路上での集団の高揚と、この国で深まり続けるクラスタ同士の対立、分断を映し出す。その現場に佇む望月記者はどこか所在無さげだった。あの現場で彼女は何を感じとっていたのだろうか。

リベラルな立場で社会運動に身を置く人達が、この映画のエンディングを観たら、どう感じるのだろうと想像した。中には、違和感や反感を抱く人もいるのではないかと思った。
例えば、排外や差別を煽る集団と、それらに抗議し、阻止しようとする集団が対立すれば、自分は、その考えにおいて100パーセント後者を支持するし、自分も排外や差別に対して意義を唱え続けたいと思う。そういった対立場面において、抗議の方法に賛否があったとしても、両者を単純に相対化するべきではないし、「どっちもどっち」とする考えは違うと思う。
けれど、どんな立場の集団にも同調圧力と暴走は起こりうる。その中で「個」を保つことの大切さを、森監督は映画の最後に、敢えて?ナレーションをつけて訴える。

集団に飲み込まれることなく、僕やあなたは、「i」=「一人称、個」を、本当に保ち続けることができているのだろうか?
すっかり馴染みとなった「忖度」という言葉は、集団の中で「個」を放棄することで別の「個」を排除する行為の象徴になってしまった気がする。権力の中にも、メディアの中にも、会社の中にも、日々の暮らしの中にも、いたるところに「忖度」は存在する。
明らかな「忖度」も厄介だけれど、この国においては、「空気」のような「忖度」も厄介だと感じる。そういった「空気」が切り捨ててゆくものに対する自覚が、自分達には欠けている。その行き着く先は、いつか来た道だろう。

「i - 新聞記者ドキュメント - 」が最終的にたどり着いたテーマは、「新聞記者」のテーマとも重なった。この時代に最も必要とされる問いかけの一つだと思う。
ー 2019年12月19日(木)

2019年12月6日金曜日

在日コリアンの同級生と後輩ミュージシャンとの話

在特会のメンバーによる京都朝鮮第一初級学校襲撃事件から昨日で10年が経過したことを知り、7年前に自分のためだけに残していた日記の文章を元に、在日コリアンである同級生と後輩ミュージシャンとのそれぞれの体験を、ブログに残しておくことにしました。

自分には、故郷の京都で中学、高校、浪人時代を共に過ごした在日コリアンの同級生の友人Aがいる。彼とは今も、正月に地元で行われる同級生による恒例の新年会で1、2年に1度は再会し、楽しい酒を酌み交わす。Aは学生時代からやんちゃで明るく、飾らない性格で、誰からも愛されるクラスの人気者だった。今も彼が宴に加わると場が一気に盛り上がる。最高のムードメイカーなのだ。

今から7年前の正月の新年会のこと。皆でしこたま飲んで2次会もお開きになり、自分とAともう一人の同級生Bの帰り道が同じだったので、3人で一緒に徒歩で帰ることになった。
自分とBにとっては、心地良い余韻を残しながらの帰り道のつもりだった。ところがその道すがら、何かをきっかけに、Aが感情を爆発させるように思いを吐露し始めたのだ。自分とBにとっては唐突な展開に驚きながら、とにかくそこで足を止め、Aの話を聞くことになった。

彼が訴えはじめたのは、日本人の朝鮮人に対する偏見と悪意、現在の日本における在日コリアンとしての生きづらさだった。北朝鮮、韓国に対する悪感情が国内で高まり、ネット上で在日特権などのデマが拡散され、ネットだけでなく路上でも在日コリアンに対して人間の尊厳を著しく汚す聞くに耐えないヘイトスピーチ、ヘイトデモが盛んになり始めた頃だった。その数年前には、京都朝鮮第一初級学校に極右団体「在特会」のメンバーが押しかけ、激しいヘイトスピーチを繰り返す街宣行為を行う事件も起きていた。

「自分はさまざまな差別や理不尽を感じても、今まで我慢を続けてきた。被害者意識に取り込まれないようにも心がけてきたつもりだ。そしてこれからも、この国で暮らす限りは我慢を続けるしかないと思っている。もし在日の人間が声を上げれば、日本人の自分達への圧力は増々強くなるに違いないから。自分は日本で生まれ育ち、日本を愛そうともしてきた。なのに、朝鮮に帰れと罵声を浴びせらる。その風潮はさらに強まっている。なぜ、ここまで理不尽な思いをしなければならないのか。」
酒に酔った勢いもあったのだろうけれど、中学生からの付き合いのAが、自分の前でここまで感情を爆発させ、思いを吐露するのは初めてのことだった。寒空の下、彼の訴えに対して、自分とBは立ち止まり、ただ話を聞くことしかできなかった。

Aがここまでの怒りや哀しみ、やり切れなを抱えながら生き続けてきたことを、出会ってからその日まで、自分は想像したことがなかった。在日コリアンの知人は彼以外にも複数いたけれど、それまで、彼らが在日としての生きづらさや理不尽について語るのを直接耳にしたことがほとんどなかった。

自分は今もAの名前を通名でしか知らない。小、中、高の在日の同級生のほとんどは通名を使っていて、自ら在日コリアンであることを積極的にカミングアウトする者はいなかったと記憶している。
あの夜の出来事以来、Aと同じように、理不尽な思いを飲み込みながら生活する在日コリアンが多数存在することを、より意識するようになった。あれから 7年の歳月が流れ、彼らにとって日本はさらに生きづらい国になってしまった。

後日、Aと電話で話をした。
「先日はありがとう。話を聞いてくれる日本人がいてくれて嬉しかった。」
彼からそう言われて、少し救われる思いがしたと同時に、後ろめたさを含んだモヤモヤとした感情が残った。卒業後は新年会で1,2年に一度会うくらいの仲だったとは言え、自分はあの夜まで、彼の在日コリアンとしての思いに一度も気づくことがなかったのだ。

自分はこれからも在日コリアンの人達、そしてこの国のその他の多くのマイノリティーの人達と共に暮らしてゆきたいと思う。けれど、今までの自分が、この国のマイノリティーの人達の思いに寄り添って暮らしてきたのだと本当に言えるのだろうか。あの夜の出来事は、そういった自問を自分に与えた。

数年前、朝鮮名で活動を続ける知り合いの後輩ミュージシャンとライブイベントで共演した時、楽屋での彼があまりに落ち込んだ様子だったので、相談に乗り話を聞いたことがあった。
彼の話によると、前日のライブで、客席から在日であることを揶揄するヤジが飛んできて、その瞬間からまともな演奏ができなくなってしまったのだという。過去の積み重なった体験がトラウマとなり、そういう言葉を受け取ると、心も体も言うことを聞かなくなってしまうそうだ。
ライブ後にさらに追い打ちをかける出来事が続いた。ライブの様子を見ていた彼のスタッフから、ヤジを飛ばした人間を非難するのではなく、彼が朝鮮名で音楽活動することに問題があるのではという指摘を受けたのだという。そのスタッフに悪気はなかったとしても、彼がどういう思いで朝鮮名を名乗って活動を続けてきたのかを、想像できなかったのだろう。

日本の中で、朝鮮名を名乗って音楽活動を続けるミュージシャンはほんのわずかだ。自分の知る限り、芸能人になると、それは皆無に等しい。その事実の中に、日本での在日コリアンの生きづらさが表れているように思う。
排外や差別に加わらなくても、彼らの置かれた立場や生きづらさに気づかない限り、差別や偏見はなくらないし、本当の共生は成り立たないのだろうと思う。
ー 2019年12月5日(木)