東京新聞の望月衣塑子記者を追ったドキュメンタリー映画「i - 新聞記者ドキュメント - 」を観た。
監督・森達也氏の前作「FAKE」が、観る者の価値観を揺さぶるような印象に残るドキュメンタリーだったので、楽しみにしていたのだけれど、今回も期待を裏切らない内容だった。実は、映画を観てからもう1週間以上が経過しているのだけれど、まだ余韻を引きずってる感じ。
答ありきではなく、森監督自身が撮影を通じて体験し、考え、問いかけ続ける基本姿勢は変わらないにしても、今回は、望月衣塑子という「揺るぎ」を感じさせない存在が主人公に据えられている点が、前作とは違っていた。
画面を通して、各地を駆けずり回り、声を上げ行動を続ける望月記者のバイタリティーには圧倒された。
今回の映画に連動する形で、夏に公開された、望月記者を主人公のモチーフとした映画「新聞記者」を先に観ていたのだけれど、モチーフとなった本人の方が、「新聞記者」の主人公を凌ぐ強烈な存在感を放っていた。
画面の中で、猪突猛進の望月記者と、声を張り上げることなく少し陰気な佇まいの森監督は、同じリベラルな立場でありながら、対照的な存在として映った。意図された描写なのかどうか分からないけれど、そのコントラストがこの映画の重要な要素の一つだと思えた。自分には、2人が補い合う関係のように感じられた。
映画を通じて印象に残った一つは、それぞれの登場人物の言動や所作、表情からあぶり出される情報量の多さだった。
菅官房長官が望月記者の質問を受けた時の素っ気ない返答や、苦々しそうだったたり、苛立ったりする表情。彼女の質問を遮り妨害しようとする上村報道官の感情を押し殺した言葉のトーン。森友学園問題で注目を集めた籠池夫妻の漫才のようなやり取りが続く中、森監督から本質的な質問を受けた時の2人の語調や表情の変化。
それらから何を受け取るかは、人それぞれだろうけれど、こういった多角的、立体的な情報をSNSの世界で短時間で受け取ることは難しいと思う。
時に、それらの表情や言動はユーモラスにも映り、ドキュメンタリーのかた苦しさを緩和する効果も上げていた。映像の効力と同時に怖さも感じた。
映画を通じて、現政権が続く7年の間に、この国が失い続けた良識や言葉への信頼、他者への想像力、思いやり等についてあらためて考えさせられた。
けれど、この映画は単に政権批判を目的としたものではなく、メディアへの問題提起や、この国で暮らす全ての人達への問いかけを含んでいると感じた。
映画は後半からエンディングにかけて、路上での集団の高揚と、この国で深まり続けるクラスタ同士の対立、分断を映し出す。その現場に佇む望月記者はどこか所在無さげだった。あの現場で彼女は何を感じとっていたのだろうか。
リベラルな立場で社会運動に身を置く人達が、この映画のエンディングを観たら、どう感じるのだろうと想像した。中には、違和感や反感を抱く人もいるのではないかと思った。
例えば、排外や差別を煽る集団と、それらに抗議し、阻止しようとする集団が対立すれば、自分は、その考えにおいて100パーセント後者を支持するし、自分も排外や差別に対して意義を唱え続けたいと思う。そういった対立場面において、抗議の方法に賛否があったとしても、両者を単純に相対化するべきではないし、「どっちもどっち」とする考えは違うと思う。
けれど、どんな立場の集団にも同調圧力と暴走は起こりうる。その中で「個」を保つことの大切さを、森監督は映画の最後に、敢えて?ナレーションをつけて訴える。
集団に飲み込まれることなく、僕やあなたは、「i」=「一人称、個」を、本当に保ち続けることができているのだろうか?
すっかり馴染みとなった「忖度」という言葉は、集団の中で「個」を放棄することで別の「個」を排除する行為の象徴になってしまった気がする。権力の中にも、メディアの中にも、会社の中にも、日々の暮らしの中にも、いたるところに「忖度」は存在する。
明らかな「忖度」も厄介だけれど、この国においては、「空気」のような「忖度」も厄介だと感じる。そういった「空気」が切り捨ててゆくものに対する自覚が、自分達には欠けている。その行き着く先は、いつか来た道だろう。
「i - 新聞記者ドキュメント - 」が最終的にたどり着いたテーマは、「新聞記者」のテーマとも重なった。この時代に最も必要とされる問いかけの一つだと思う。
ー 2019年12月19日(木)
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