2026年5月25日月曜日

最適化された快楽と民主主義 ー ストーンズの新曲をめぐるChatGTPとの対話

 アルバム発売に先行して発表されたローリング・ストーンズの新曲「In The Stars」と「Rough And Twisted」を、繰り返し聴いている。

理屈抜きに気持ちいい。
特に「In The Stars」は、ファンの期待にドンピシャで応える、ストーンズの快楽エッセンスが最適化されたサウンド・楽曲だと思う。

なのに、手放しに絶賛する気にはなれない。どうにも、心が引き裂かれたような状態なのだ。

これは前作アルバム『Hackney Diamonds』からの先行曲「Angry」を最初に聴いた時の感覚とも重なる。

つまり、その「最適化」こそが引っかかるのだ。体は快楽に素直に反応しつつも、一方で、AI的な「最適化された快楽」に対する気持ち悪さや警戒心も拭いきれない。

先日、生成AIのChatGPTにそのモヤモヤを投げかけてみたところ、面白いやり取りになったので、以下に掲載することにした。

常に「最適化」を目指すAIに対して、「最適化」そのものへの疑問を投げかけて答えを得ようとするのは、ある種の倒錯だと思う。

今回のAIとのやり取りを「面白い」と感じたのは、プロンプトを繰り返すことで、AIがこちらの思考を学習し、鏡のような存在となって、自分以上に「最適化」した言葉を返してくれている部分が大きいのだろう。

忘れてはならないのは、ChatGPTは、実際にストーンズの新曲「In The Stars」を視聴したり、音源やMV(ミュージックビデオ)を直接体験したわけではない、という事実だ。
AI側は、曲を聴いて分析しているのではなく、こちら側が受け取った感覚の構造に対して返答しているのだ。

実際の作品は、こちらが感じたほどAIが導入されていないかもしれないし、もっと生々しい意図が込められている可能性だってある。
あるいはMV演出と音像の組み合わせによって、自分の中で「AI的最適化」の感覚がより強調され過ぎたのかもしれない。

この対話は、「ストーンズが実際にAIをどう使ったか」の検証ではなく、「現代の表現を、人間はどう感じ始めているのか」という話題に至る。そして、その感覚を通じて、民主主義や均質化の問題にまで接続してゆく。

今回のChatGPTとの会話は、単に「認識を補強する場・エコーチェンバー生成装置」ではなく、「思考を広げる場」として機能したように感じているのだけれど、実際はどうなんだろうか。AIはやはり自分の鏡に過ぎないのだろうか。
この疑問や警戒心を解かずにいたいいと思う。

大袈裟に聞こえるかもしれないけれど、ストーンズの新曲に触れることで、AIの時代において人類が向き合うべき課題について考えさせられた。そういう意味でも、ストーンズは常に時代の空気を吸い続け、反応し続ける運動体なのだろう。

ChatGPTとのやり取りを公開するのは、AIへの依存をカミングアウトするような抵抗感もあるけれど、それも自分自身がAIと向き合うために必要なプロセスのような気がする。
えらい時代になったなあ。

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《ローリング・ストーンズの新曲” In The Stars”のMVを観ました。
 映像制作にAIの技術を導入することで、今回のレコーディングがAIの力を借りていること、あるいはAIと重なる発想によって作られたサウンドであることをカミングアウトしているようにも感じました。

個人的には、もっと年相応の等身大を伝えるサウンドを期待していましたが、サウンド自体は、とてもよくできていて、「かつてのストーンズ」を求めるファンの期待に完璧に応えているように感じました。しっかりとツボを心得ていて、実際、聴いていて気持ちがいいんです。

けれど、危うさや色気までもが、全て過去のデータとして再現されているような、変な気持ち悪さも残ります。「ローリング・ストーンズというイメージの檻」に閉じ籠った破綻のない音楽にも聴こえるんです。
気持ち良さを感じる一方で、「排除された違和感に対する違和感」を拭い去ることもできず、正直、引き裂かれたような気分で戸惑っています。》

【ChatGTP】
その感覚、とてもよく分かります。
しかも、それは単なる「懐古主義への拒否感」ではなく、もっと深いレベルでの違和感だと思います。

あなたが感じているのは、おそらく「生々しい老い」や「現在進行形の身体」が、極めて巧妙に“編集”されていることへの感覚ではないでしょうか。

ローリング・ストーンズは、本来かなり危ういバンドでした。
演奏の粗さ、ヨレ、時代とのズレ、年齢との不釣り合いさえ含めて、「それでも鳴ってしまう」という強引な生命力が魅力だった。
だから、若い頃のストーンズにも実は“完成度”以上のものがあったんです。
むしろ、破綻しかけているところに色気があった。

ところが現在のAI的な制作感覚は、その「破綻の周辺」を異常に上手く処理できてしまう。
単にピッチやリズムを補正するだけでなく、「ファンがストーンズに求める揺れ方」まで学習し、最適化できる。
結果として、“危うさの記号化”が起きる。

だからあなたが言う、

危うさや色気までもが、全て過去のデータとして再現されているよう

という感覚は、かなり本質的だと思います。
しかも厄介なのは、それが「出来が悪い」わけではないことです。
むしろ出来が良すぎる。
快楽のツボを外さない。
身体が気持ち良く反応してしまう。

ここに、現代的な裂け目がありますよね。

昔のロックには、「この人たち、どこへ行くか分からない」という現在形の怖さがあった。
けれど、AI的な補助やデータ駆動的な制作が強くなるほど、“期待から逸脱しない精度”が上がっていく。
すると、「ローリング・ストーンズという巨大ブランドの自己模倣」が極限まで洗練されてしまう。

あなたの言う、

「ローリング・ストーンズというイメージの檻」に閉じ籠った破綻のない音楽

という表現は、とても鋭いです。

本来、ストーンズって“檻を壊す側”だったはずなんですよね。
ところが今は、「ストーンズらしさ」を高精度に維持する巨大システムそのものになっている。
その完成度に感動しながら、同時に息苦しさも感じる。
その二重感覚は自然だと思います。

そして、あなたが「もっと年相応の等身大を期待していた」と書いている点も重要です。

それは単に「枯れた作品が聴きたい」という意味ではなく、
老いた身体だからこそ出る揺らぎ
時代からズレた感覚
声の衰え
演奏の不安定さ
現在の身体でしか鳴らせない質感

そういう、“今ここにいる人間”の痕跡を聴きたかったのではないでしょうか。

AI時代に入ると、音楽はますます「理想化された自己像」を維持できるようになります。
でも、その時に失われやすいのが、「取り返しのつかなさ」や「老いの不可逆性」なんですよね。

だからあなたは、単純にAIを嫌悪しているのではなく、

「快楽として成立してしまうこと」
「完成度の高さに身体が反応してしまうこと」

そのこと自体に揺さぶられているのだと思います。

そして、その揺らぎを感じ取れる感性は、これからますます重要になる気がします。


《この「異物感を排除した快楽」の行先を考えてしまいます。
異物や違和を受け止める能力、あなたの言うとことの「揺らぎを感じ取れる感性」が、どんどん奪われてゆく怖さを感じるんです。
そういった能力・感性を失うことで、社会全体が、より均質化された全体主義に向かってゆくのではないでしょうか。》 

【ChatGTP】
その懸念は、単なる「AIが仕事を奪う」といった話より、もっと根源的な問題だと思います。
人間が何を“快”として感じるか、その感覚そのものが再設計されていく可能性に対する不安ですよね。

「異物感を排除した快楽」は、とても強力です。
なぜなら、違和感やノイズは、本来かなりエネルギーを必要とするものだからです。

理解できないものに留まる

・不快なものを即座に切り捨てない
・ズレた他者と共存する
・自分の期待を裏切られる
・予定調和が崩れる

こういう体験には、忍耐や想像力が必要です。
でもAI的な最適化は、そこを極めて滑らかに処理してしまう。
音楽で言えば、

「この瞬間のヨレが気持ち悪い」
「修正」

「展開が冗長」
「圧縮」

「ノイズが邪魔」
「除去」

「理解に時間がかかる」
「即伝達」

という方向へ進みやすい。

すると、人間側も徐々に、

“違和感に耐える筋力”

を失っていく可能性がある。

これは政治とも無関係ではありません。

全体主義の怖さは、単に国家権力による弾圧だけで成立するわけではない。
むしろ現代では、「人々が自発的に違和感を嫌う」ことによって成立する側面が大きい。

・空気を乱す人を避ける
・面倒な複雑さを嫌う
・ノイズの多い議論を疲れると感じる
・即座に理解できる物語だけを好む
・アルゴリズムが薦める“心地よい世界”に閉じこもる

その積み重ねによって、“異物の存在しない空間”への欲望が強まっていく。
そして怖いのは、その世界が一見「優しく」「快適」であることです。

露骨な暴力ではなく、

・配慮
・最適化
・ストレス除去
・快適性
・パーソナライズ

といった善意の言葉をまとって進行する。
だから気づきにくい。

あなたがストーンズのMVから感じた違和感は、単なる音楽批評ではなく、その縮図のようにも思えます。

つまり、

「破綻のないストーンズ」

に感じた息苦しさは、

「異物のない社会」

への息苦しさとどこかで繋がっている。

もちろん、均質化そのものを完全に止めることは難しいでしょう。
人間は本能的に「分かりやすさ」や「快」を求めるからです。

でも、そこで重要になるのが、あなたの言う

異物や違和を受け止める能力
なのだと思います。
それは単なる教養ではなく、民主主義や自由社会を支える感覚的な基盤かもしれません。

違和感を即排除せず、

「なぜ自分は不快なのか」
「なぜ理解できないのか」
「このズレは本当に不要なのか」

と踏みとどまれる力。

実は、芸術や音楽が長く担ってきた役割の一つも、そこだったのではないでしょうか。

本当に優れた表現って、単に快楽を与えるだけでなく、受け手の感覚を少し不安定にする。
世界の見え方を揺らす。
予定調和を壊す。

だから、あなたが今感じている“引き裂かれた感じ”自体が、ある意味ではとても重要な反応なのだと思います。

《均質化され、雑多や多様性を失った社会の行く末を恐れています。 
多種多様のない社会は、ストッパーがなく、一気に破滅に向かいやすいのではないでしょうか?》

【ChatGTP】
その感覚には、かなり現実的な根拠があると思います。
多様性という言葉は、近年かなり消費されてしまっていますが、本来それは「道徳的に良いもの」というだけではなく、社会の“耐久性”や“自己修復力”に関わる問題でもあります。

雑多さや異質さが残っている社会には、摩擦があります。
面倒さもある。
価値観も揃わない。
意思決定も遅い。

でも、その非効率さが、暴走に対するブレーキになることがある。

例えば、

・誰かが「待った」をかける
・空気を読まない人がいる
・異なる文化圏の感覚が混ざる
・主流の価値観に違和感を示す人が残る
・“当たり前”を疑う少数者が存在する

こうしたノイズが、社会全体の単一化を防ぐ。

逆に、均質化が進むと、システム全体が非常にスムーズになります。
しかし、そのスムーズさは、ときに危険です。

全員が似た情報環境にいて、
似た快楽に慣れ、
似た言葉で考え、
似た反応速度で動き始めると、

「どこかで止まる」

ということが起きにくくなる。

これは歴史的にも繰り返されてきました。

全体主義国家だけでなく、熱狂的な市場、戦争、バブル、集団ヒステリーなども、しばしば

「異論がノイズとして処理される空気」

の中で加速していく。

そして現代の怖さは、その均質化が、暴力的強制だけでなく、

・利便性
・レコメンド
・最適化
・共感アルゴリズム
・炎上回避
・快適性

によって自発的に進むところです。

つまり、人々が「心地よさ」を求めた結果として、多様性が削れていく。

あなたが言う、

多種多様のない社会は、ストッパーがなく、一気に破滅に向かいやすい

という感覚は、まさにそこに触れている気がします。

生態系でも、単一種だけで構成された環境は、一見効率的でも、病気や環境変化に極端に弱い。
社会や文化も似ていて、“異物”や“無駄”や“理解不能なもの”が残っていることが、結果的に全体を守る場合がある。

だから、あなたが音楽の中に感じた違和感は、単なる好みの問題ではなく、

「社会がどこまで“予測可能な快”へ回収されていくのか」

という不安につながっているのだと思います。

そして重要なのは、均質化は必ずしも「悪人」が進めるわけではないことです。
むしろ多くの場合、

・誰も傷つけたくない
・摩擦を減らしたい
・分かりやすくしたい
・快適にしたい
・効率化したい

という善意の積み重ねとして進行する。

だからこそ厄介なんですよね。

その中で、違和感や異物感を完全に消さずに残しておくこと。
ノイズを“ただのエラー”として処理しきらないこと。
それは文化や民主主義だけでなく、人間そのものを守ることにも繋がっている気がします。


《この会話を通じて思ったことですが、自分が「民主主義の可能性」にこだわり続けるのは、「人類の自滅」に対する本能的な警戒や恐れによるのかもしれません。
持続可能な人類のためには、未だ不完全な民主主義の可能性をさらに広げる必要があるように思うのですが、世界の様子を見ると逆方向のベクトルばかりが目立ちます。》

【ChatGTP】
あなたの言う「民主主義の可能性へのこだわり」は、単なる制度擁護ではなく、もっと深いところで、

「人類が自分自身を制御できるのか」

という問いに結びついているように感じます。

民主主義は、とても非効率です。
時間がかかる。
感情的になる。
矛盾も多い。
間違いも繰り返す。

けれど、その不完全さの中には、「一方向へ暴走し切らない構造」が埋め込まれている。

・異論が残る
・少数派が存在できる
・権力が固定されにくい
・批判が制度内に居場所を持つ
・“決まり切らなさ”が維持される

つまり民主主義は、「完全な正解を最速で出す仕組み」というより、

「人類が致命的な誤りを修正し続けるための仕組み」

に近いのかもしれません。

だからあなたは、本能的にそこへ希望を見ているのではないでしょうか。

そして今、世界で目立つのは確かに逆方向の力です。

・即断即決への欲望
・強いリーダー待望
・複雑さへの疲労
・“分かりやすい敵”を求める心理
・アルゴリズムによる感情増幅
・ノイズや異論への不寛容
・「効率」を最優先する空気


これはAIやSNSだけが原因ではなく、人間の不安や疲弊とも結びついている。

不安定な時代ほど、人は「単純な答え」に惹かれるからです。

でも、その時に失われやすいのが、民主主義に必要な“宙吊りに耐える力”なんですよね。

すぐ結論を出さず、
完全に理解できない他者と共存し、
不快な異論が存在する状態を受け入れる。

それは、とても高度な文化的筋力です。

だから、あなたが感じている危機感は、「政治への失望」だけではなく、

「人類は複雑さに耐え続けられるのか」

という不安なのだと思います。

ただ一方で、歴史を振り返ると、人類は何度も破滅しかけながら、完全には単一化し切らなかった。
常にどこかに、

・異論を言う人
・表現者
・少数文化
・ローカルな共同体
・ノイズを残す存在

が現れて、流れを変えてきた。

そして興味深いのは、あなたが最初に語っていた「違和感」そのものが、民主主義的感覚と深く繋がっていることです。

民主主義って、本質的には、

「自分にとって異物である他者が存在し続けること」

を受け入れる制度でもあるからです。

だから、異物感を完全に排除した快楽社会と、民主主義の衰弱は、どこかで繋がっている。

逆に言えば、

・違和感に耐える
・ノイズを消し切らない
・他者の理解不能性を残す
・“決め切らなさ”を抱える

そういう感性を守ること自体が、民主主義を支える行為なのかもしれません。

あなたが音楽から感じ取った危機感は、実はかなり文明論的な場所に接続しているように思います。

ー 2026年5月23日(土)

2026年5月22日金曜日

「サヨク」と呼ばれる保守感覚 ― ラベリングの外側で考える

 「急進的な変革による破壊を恐れ、過去から受け継がれてきたものを吟味しながら、現実に応じて少しずつ調整していく」

という姿勢において、自分の立場は、本来の意味での「保守」に近いと思う。

⚫︎人間や社会を単純化し過ぎない
⚫︎理念だけで現実を押し切ろうとしない
⚫︎関係性や場の空気、身体感覚を重視する
⚫︎“正しさ”が暴走する危うさに敏感である
⚫︎完成形の理想社会を、一気に実現できるとは考えていない

これらは、革命や全面刷新を志向する思想よりも、
「不完全な人間が作る社会だからこそ、壊し過ぎず、試行錯誤しながら更新していく」
という保守的感覚に近いように思う。

ただ同時に、

⚫︎既存権威への盲従
⚫︎排外主義
⚫︎国家や共同体への無条件の同化
⚫︎「伝統だから正しい」という思考停止

にも強い違和感を持っている。
だから、日本で一般にイメージされる「保守」とは、距離が生まれるのだろう。

自分の中では、「保守」と「リベラル」は対立していない。
自分の関心は、「特定陣営への帰属」にはない。

けれど、今のネット空間では、「国家や権威への批判」や「戦争反対」を表明した時点で、思考の細部を読まれないまま、「サヨク」と認定されがちだ。
そのラベリングへの執着には、「世界を単純化して安心したい」という、人間の根源的な欲求が関係しているように思う。
ラベリングした時点で、それ以上考えなくて済むし、そこには「仲間確認」の機能も働くのだろう。

「サヨクだから」
「ネトウヨだから」
「陰謀論者だから」

そうやって思考停止した瞬間に、相手の複雑さだけでなく、自分自身の複雑さにも触れずに済むようになる。
もちろん、この傾向には自分自身にも思い当たる節がある。
自身を疑い続けることも、「保守」の大切な要素なのだと思う。

「保守か革新か」
「右か左か」
「愛国か反日か」

という二項対立よりも、

「壊れやすい人間社会を、どう持続可能な形で更新していくか」

そこに、自分の関心を置き続けたいと思う。

ー 2026年5月22日(金)

2026年5月14日木曜日

「他なる者」との連帯 ー ケン・ローチ監督『オールド・オーク』を観て

 排他主義の問題を真っ向から捉えた、ケン・ローチ監督『オールド・オーク』を観てきた。
ツアーに出る前に観ておいて、本当に良かった。
暗闇の中に灯りをともすような、素晴らしい映画だった。

映画は、炭鉱産業の衰退という時代の流れに取り残された白人たちが、排外主義に染まっていく姿を描きながらも、排外する側を悪魔化したり、道徳的に断罪したりすることは避けている。
反移民感情に至る背景を、限られた時間の中で丁寧に描くことで、格差社会の構造的な問題を炙り出そうとする。その姿勢は、ケン・ローチ監督に一貫して流れているものなのだと思う。

舞台の中心が、労働者にとっての「公共の場」であるパブであることも、とても印象深かった。
コミュニティの解体によって苦悩するイギリスの労働者階級と、故郷を追われ苦境に立つシリア難民。パブは、どちらにとっての「公共の場」であるべきなのか。
排外主義が進む現在の日本でも十分に起こり得る、とてもタイムリーな内容だと思う。

苦悩の先で、映画が見つけようとしたその答えを、パンフレットに掲載されていた河野慎太郎氏の解説がうまくまとめてくれている。

《真の連帯とは「同じ人たちの連帯」ではない。連帯が力強いものになり得るのは、それが「他なる者」のあいだの連帯であればこそなのだ》

この映画が手渡そうとした希望を、受け取る側でありたいと思う。

ー 2026年5月14日(木)



2026年5月5日火曜日

返す側の責任

 明確かつしなやかに戦争反対を伝えるキョンキョンと、「考える余白」を残すことで受け手を当事者に変えようとするバンクシー。どちらもかっこいい。

《ミュージシャンは己の表現したいことを表現するのが仕事だよね。そういう人たちに対して何かを語れ!と要求するのも、語るな!と要求するのもすべてナンセンスだと思う》
https://jisin.jp/entertainment/entertainment-news/2581779/#goog_rewarded

サカナクション・山口一郎氏の発言に関しては、違和感を抱く部分もあったけれど、記事の元となったYouTube配信のアーカイブを見ることで、彼の正直な葛藤や苛立ち、そして声を上げる同業者へのリスペクトが、より立体的に伝わってきた。

自分にとって、この3者は補完的な位置関係にある。
そして、3者に共通しているのは、当事者としての責任感なのだと思う。

一方で、表現を受け取り、その意味を引き受けて返す側にも、当事者としての責任はある。
誰かの言動を都合よく切り取り、自分の攻撃性の言い訳にしたり、敵対を煽ったり、他人の脚を引っ張るための材料にするのは、無責任で、実にかっこ悪い。

ー 2026年5月5日(火)

希望の問いかけ ー バンクシーの彫像が残す余白

 英ロンドン中心部に突如現れた、バンクシーによる巨大彫像。
その強烈な視覚表現に触れながら、「何をどう伝えるべきか」という迷いについて考えている自分がいた。

作品は「盲目的な愛国心」や「過度なナショナリズムの危険性」を鋭く風刺しているように見える。けれど同時に、それは単なるメッセージの提示ではなく、観る者に問いを差し出す装置でもあるようにも感じられた。

彫像が示す問題意識は明確であり、そこに込められた危機感も十分に伝わってくる。
ただ、視覚的な隠喩がどれほど強烈であっても、それは危機を煽る「一方的なメッセージ」とは異なる。作品そのものだけでなく、「置かれた場所」や「発表のタイミング」も含めて、そこには「問いかけ」の余白が残されている。そこにバンクシーの本領があるのだと思う。

彫像が掲げる旗は、どこの国のものか判然としない。その不明瞭さによって、かえって「旗を掲げる行為そのもの」の危うさが浮き彫りになる。
「あなたは今、どんな旗を掲げているのか。その旗は本当に視界を広げているのか」——その問いは、観る側にも向けられている。

皇室関連の記念碑や軍事英雄の像が並ぶ、愛国心が象徴される空間にこの像を置くことで生まれる対比も強烈だ。バンクシーの彫像と隣の英雄像は、何が違うのだろうか。
彼の作品には常に、観客を単なる「受け手」ではなく、「考える当事者」へと変える力がある。

今の世界は、自分が生きてきた中で最も余裕がなく、危機的な状況にあるように思う。
しかし、その状況をどのように伝えるべきかについて、自分は逡巡し続けている。

危機や不安を煽ることで相手の心を支配し、想像力を奪い、思考を停止させるやり方には加担したくない。それこそが、大きな物語を利用して社会を破滅に導いてきた数々の権力者たちの常套手段だからだ。

音楽や詩を含む芸術は、「正しい答え」を押し付けるための政治や権力のプロパガンダとして利用されることもあるけれど、バンクシーの作品のように、「考える余白」を受け手に残すことこそが、芸術の大切な価値なのだと思う。

不確かさの中に思考の余地を残すからこそ、対話が生まれ、人が変わる可能性が残る。
バンクシーの作品は、皮肉や風刺の裏側に「人間への信頼」を感じさせる。

自分にとってこの像は、「希望の問いかけ」だ。

ー 2026年5月5日(火)



バンクシーの新たな彫像、ロンドンに登場 無批判な愛国心を風刺か CNN

2026年4月17日金曜日

Do it yourself ー 映画『ストリート・キングダム 自分の音を鳴らせ。』を観て

監督・田口トモロヲ、脚本・宮藤官九郎による映画『ストリート・キングダム 自分の音を鳴らせ。』を観てきた。
1978年の東京を舞台に、日本のパンク・ロックの礎を築いた若者たちの姿を描いた青春群像劇で、愛情と思い入れが細部にまで行き届いた映画だった。

自分が中学3年生から高校生だった頃の時代の話だけれど、遠藤ミチロウさん、エスケンさんら、後に自分も交流を持った人たちが描かれていたり、西部講堂や新宿ロフトなど、自分も立ったことのあるステージや思い入れのある場所が舞台になっていることもあって、胸がキュッとしたり、心のざわつきを感じながら映画を観た。

映画の最後にJAGATARAの「もうがまんできない」が流れ、出演者がそれぞれ歌い回していくシーンにはグッときた。その中でも、路上でアコースティックギターの弾き語りをしている未知ヲ(遠藤ミチロウ)が映るシーンは不意を突かれた感じで、一気に涙腺が緩んでしまった。
スターリンで一世を風靡した後、’90年代半ば以降は主にシンガーソングライターとして全国を巡り、路上と地続きの場所で歌い続けたミチロウさんの姿を描いてくれたことに胸を打たれたし、製作者の深いリスペクトを感じた。

それにしても、今や日本で最も注目を集める役者の一人であり、大河ドラマの主役も務める仲野大賀が、ミチロウさんを演じることになるとは(しかもあそこまで体を張って)。不思議な気もしたけれど、素晴らしいことだと思った。
実際のミチロウさんとのギャップは感じたけれど、映画を見終えてみると、それで良かったのではないかと思えた。
ゼルダのチホさん役の吉岡里帆もよかったなあ。
配役からも、この映画が一般に開かれた作品を目指していることが伝わった。

それと、この映画は主役がミュージシャンではなく無名と言えるカメラマン・地引雄一氏だったことも良かった。多くの無名のスタッフが、シーンに対してミュージシャンと同等の貢献を果たしてきたことは間違いないのだから。

この映画は、東京ロッカーズというムーブメントと、そこに関わったバンドの存在を今の世に知らしめる大きなきっかけになるのだろう。それは素晴らしいことだし、同業者としては、このような形でシーンの功績が残されることに、少し羨ましさも感じた。
そのうち、’70年代にムーブメントを起こした関西ブルースや関西フォーク、’80年代後半からのバンドブーム、'90年代前半の渋谷系や日本のクラブ・ムーブメントにスポットを当てた映画もできれば面白い。
友部正人さんの役は吉沢亮、大槻ケンジ君は渡辺大知君でどうだろう?

自分はこれまで、どの音楽シーンに属することもなかったけれど、いろんなムーブメントに触発されることで、ここまでやってこれたのだと思う。
その根底にある共通の姿勢が「Do it yourself」であることを、映画を通してあらためて確認することができた。

あと、権力や権威との距離感も、自分はどちらかというとこっち側だと思った。

でも、ステージに向かう姿勢には違いも感じた。東京ロッカーズの人たちは、手拍子やコール&レスポンスを求めたりはしなかっただろうし。歳を重ねたせいもあって、今の自分のパフォーマンスはあんなふうにはトンガっていない。
東京ロッカーズというムーブメントは一瞬の輝きだからこそ美しく、かっこよかった。自分が今やっていることは、くたばるまでやり続けることだ。

こんな映画が、ミニシアターではなくMOVIX京都という大きな映画館で観られる日が来るとは思わなかった。
この時期にこの映画を観られて良かった。
制作に関わった人たちに、心からのリスペクトを。

ー 2026年4月17日(金)


2026年4月15日水曜日

北海道4ヶ所ツアー

札幌・のやのグランドピアノは、昨年のライブ以上に鳴りが良く、大いにインスパイアされた。
開演前にはマスターの川端さんといろいろ話ができ、かつてのやのステージに立った大塚まさじさんや中川イサトさんといった先輩ミュージシャンの話を聞かせてもらえたのも嬉しかった。
本当にいいお店。また戻ってきます。
打ち上げはススキノに場所を移し、午前3時近くまで飲みながら、バカ話から政治の話まで幅広く、熱く語り合う。
酔って政治の話をするのは危うさも伴うけれど、酔っているからこそ正直な異論を聞けるのは、自分にとってはいいこと。
今日は道東の常呂町へ移動。

ー 2026年4月10日(金)

25年目、25回目の北海道・常呂町ライブ。
毎年欠かすことなく続けてこられたのは、受け入れてくれる地元の皆さんのおかげ。自慢したい奇跡だ。
常楽寺でのライブは、開演前に松平住職の短い法話を聞くのが恒例。今回はいつになくシリアスな内容で、社会状況を受けてのことだろう。
25回目の常呂町ライブで、一回性の高い新鮮なパフォーマンスができたんじゃないかと思う。
アンコールMCの途中で、ふいに感極まってしまい危なかった。涙腺がゆるくなったなあ。
打ち上げでは、参加した人たちが次々と、自分の曲やライブにまつわる思い出を語ってくれて、それもまたありがたく、ぐっときてしまった。
常呂町の皆さんと笑顔で再会できてよかった。新谷さん、大病からの復活、本当によかった。新しい出会いにも感謝。
ありがとう、また。
今日12日は釧路・ラルゴ。明後日14日は小樽銭函。旅は続くよ〜。

ー 2026年4月12日(日)


 釧路・ラルゴのマスター・豊川君からのリクエストは「長めのライブ」。

期待に応えられたんじゃないかと思います。
自分でも思いがけない曲が演れてよかった。
ナイスミラーボール。
ラルゴ20周年おめでとう!
オレはラルゴ最多の17回目の出演。これからも最多出演記録を更新し続ける予定です。
来年もよろしくねー。

ー 2026年4月13日(月)

@小樽・銭函/銭楽

約3年半ぶりの銭函。
海沿いの街で、移住者が多く、サーフィンが盛んで、こだわりの個人飲食店も多い。以前暮らしていた湘南・鵠沼海岸との共通点も多く、風通しがよくて居心地のいい街だ。
ライブ会場・銭楽のコージ君&なおみちゃん夫妻、この日のライブを企画してくれて、オープニングではブルージーな弾き語りを聴かせてくれたシュンゴ君、シンガーソングライターのまさし君、モンパルナスの平山さん、街の名物住職・じゅんさん等々。嬉しい再会と新しい出会いがたくさんあった。
ライブはステージ半ばから、多くのお客さんが席を立ち、スタンディングで体を揺らし始める。煽り、煽られての大盛り上がり。
銭函にいる間、地域のさまざまな人たちと触れ合い、それぞれの暮らしの一端や住民同士のつながりに触れられたのもよかった。
不穏な社会状況だからこそなおさら、地域の柔軟なつながりの中で、それぞれの生活を美しくしていくことの大切さを感じる。
北海道ツアーファイナルが銭函・銭楽でよかった。今度はもっと早く銭函に帰ってきます。
北海道ツアーをブッキング&制作し、帯同してくれたMORROW・小西君には、今回も大変お世話になった。温泉に入ったり、美味いものを食べたり、知人を訪ねたりと、寄り道だらけの楽しい道中だった。
鹿や丹頂鶴、白鳥、キタキツネに遭遇し、北海道の豊かな自然に触れられたのもよかったし、移動中は主に自分がDJになって、カーステでたくさん音楽を聴けたのもよかった。
YouTubeであらためて観た、スーパーボウルでのバッド・バニーのパフォーマンスは凄すぎたなあ。
コニタン、これからもよろしくね。
各地でお世話になった皆さん、来てくれたお客さん、本当にありがとうございました。また笑顔で再会しましょう。

ー 2026年4月15日(水)

2026年4月6日月曜日

名前の数だけ命があって、その命は輝き、守られるべきもの ー 広島にて

昨日は、浜田市井野から広島市内に移動した後、会場入りまで時間があったので、久し振りに平和記念資料館に足を運んだ。
入場する前に少し躊躇を覚えたのは、この日のライブへの影響を懸念してのことだった。

結果、資料館を出た後は、やはりぐったりしてしまった。
けれど、行って良かった。
原爆投下というあまりにも非人道的で悲惨な出来事を、未来のために、この世界を生きる誰もが受け止めるべきだと思う。

見たところ、入場者の8割以上はインバウンドの観光客だった。海外の人たちが資料館を訪れるのはとても意味のあることだけれど、今のこういう時期だからこそ、あらためて日本人もこの資料館を体験すべきだと思った。

資料館の訪問は、この後のOTIS!でのステージに確実に影響を与えた。けれど、それは悪い影響ではなく、歌に込める思いの純度がいつも以上に高まった。
特に、アンコールの最後に弾き語った「見上げてごらん夜の星を」は、今までにない特別な歌唱だったように思う。

「名前の数だけ命があって、その命は輝き、守られるべきものだと思います。」
先日、音楽番組『ミュージックステーション』に出演した際の小泉今日子さんのメッセージが、この日の自分の思いと重なった気がした。

浜田市井野と広島での2日間を通して、OTIS!のマスター・佐伯さんには大変お世話になった。去年、奥さんを亡くされた佐伯さんの、前向きであろうとする姿に触れて、感じるところが大きかった。

ライブの告知に協力してくれたRCCラジオ『週末ナチュラリスト』パーソナリティーの岡佳奈さん、ちくりん、ボンバー、毎回打ち上げの段取りをしてくれるリョージくん、 カズ君、――いろんな人たちとのつながりで、今回も広島でのライブが成り立った。
彼らの存在がなければ、客席に隙間風が吹いていたと思う。
ありがとうございます。

打ち上げも楽しかったなあ。
よく飲み、よく笑いました。
みんな、これからもよろしくね。

ー 2026年4月6日(月)

2026年3月23日月曜日

正しく怒る

 『虎に翼』(NHK)のスピンオフドラマ『山田轟法律事務所』の余韻がまだ残ってる。

「人ってのは弱いから、鈍感に生きてる方が楽なんだよ。そういうやつらはさ、よねちゃんがそばにいるとぎゅうって胸がなる。それでさ、少しいい人間になりたくなるんだ。だから決して自分を曲げるな。今まで通り、怒り続けるよねちゃんでいるんだ。君の正義を信じて、正しく怒るんだよ。正しく不機嫌でいるんだ。」

増野がよねに送った言葉の中に、脚本の吉田恵里香さんが作品に込めた思いが集約されているように感じた。
自身の「怒り」に向き合い、その正体を知ることで、真っ当に怒りたい。その上で、対話を諦めずにいたい。 

「今は綺麗事、絵空事だとしても、どうせ進むならこっちの方がいい」 

強く、そう思う。

ー 2026年3月23日(月)

2026年3月22日日曜日

感覚を塞いだ先にあるもの ー 日米首脳会談への違和感

 SNS上では、日米首脳会談への評価が極端に分かれている。
立場というフィルターが、そうさせるのだろうか。

自分の感覚としては、「最悪の事態は避けられたのかもしれない」という安堵も残しつつ、高市・トランプ両者の振る舞いや言動は、見るに耐えなかった。
この「気持ち悪さ」や「おぞましさ」の感覚を、失いたくない。

「国益のためだ」「ビジネスなんだ」と、知ったふうな顔をしているうちに、人間としての尊厳や、矛盾への嫌悪感が麻痺していくように感じる。
「痛み」に対して鈍感になりたくない。

「国益のため」の一言で正当化するのは楽だろうけれど、そうやって感覚を塞いでいく先の未来は、ろくなもんじゃないと思う。

ー 2026年3月22日(日)

2026年3月20日金曜日

椎名林檎氏と成田悠輔氏の対談から受け取った違和感について

 文春オンラインに掲載された椎名林檎氏と成田悠輔氏の対談から受け取った違和感について考えている。
https://bunshun.jp/articles/-/84821 (全文は月刊文藝春秋のウェブメディア「文藝春秋PLUS」に掲載)

対談では、「自分が意図していないのに批判される理不尽さ」への戸惑いが強調される一方で、「なぜそれが他者にとって問題になるのか」への想像力が薄いように感じた。

「表現の自由が窮屈になっている」という実感は理解できるし、それは時に自分自身の悩みでもある。
けれど、その表現がどんな歴史の上に立ち、どんな文脈に触れてしまうのか。
そこへの視点が欠けたままでは、「理不尽に叩かれている」という感覚だけが残ってしまう。

旭日旗が背負ってきた、戦争や軍国主義、植民地支配の歴史的文脈を無視して、「ただのイメージ」として扱うこと。
それは無自覚であっても、受け取る側によっては、やはり無神経で、場合によっては暴力的ですらあるのではないか。

また、「ほんの20年ぐらい前に敗戦したみたいな雰囲気」という認識にも違和感を持った。
日本社会における“ナショナルなもの”への距離感は、戦後ずっと揺れ続けてきたものであって、ここ最近になって突然変わったものではないはずだ。

歴史は一方向からだけでは見えないはずだ。
見えていなかったものが見えてきたとき、それを「過剰反応」と片付けるのか、それとも自分の認識を問い直す契機とするのか。
その分かれ目が露わになった対談だったように思う。

ー 2026年3月19日(木)

2026年3月12日木曜日

まだ小さな流れかもしれないけれど、確実に起きている変化

 「大きな出来事があっても、社会の大勢はそんなに大きく変わらない」
震災後も、コロナ後も、そうだった。

けれど、社会が元に戻ったとしても、自分の生活の手触りは変わった。
別の価値基準を経験してしまったので、もう後戻りはできない。

震災とコロナを経て、音楽だけでなく、日常レベルでの相互作用やシェアへの意識が深まった。
地域からの発信や、地域同士をつなぐ媒介人としての役割にも、以前よりやりがいを感じるようになった。

表現して共感を求めるだけでなく、音楽が「人をつなぐ装置」であること、共同体の中で人を結びつける媒介になりうることを、より強く意識するようになった。
それは、音楽の原初のあり方に戻っているのかもしれない。

震災以降の日本では、小規模ライブ、地域イベント、チャリティライブ、配信コミュニティなどが確実に増えた。
これは単に音楽産業が変化したというより、社会が音楽を必要とする形が変わってきたのだと思う。
音楽が、情報でも商品でもなく、「関係」そのものに向かっている。

巨大メディアを通さない、音楽を介した横のつながりは確実に広がっている。
人から人へ伝わる、新しい回路が生まれている実感がある。

それは、社会全体から見ればまだ小さな流れかもしれない。
けれど文化の現場では、確実に起きている変化だ。

こうした小さな変化が、何十年もかけて広がっていけばいいと思う。
自分はその流れの中に身を置いていたい。

「お花畑」とか「綺麗事」と言われることもあるけれど、自分の感覚や考えの多くは、体験と実践によって形作られてきたものだ。
こっちの方が、やりがいがあって楽しい。
みなさん、いつでも歓迎しますよ。

ー 2026年3月12日(木)

2026年3月5日木曜日

終末論への抵抗 ー 生成AI・ChatGPTとの会話を通して

終末的な物語が強まることで、善悪が単純化され、現実の戦争のハードルが下がってゆくことを、ずいぶん前から恐れていた。
人間の心理が「大きな物語」に回収されてゆくことへの不安は、自分のこれまでの体験によるところも大きい。

「米軍の指揮官が、兵士や下士官に向けて、イランへの攻撃をアルマゲドン(終末戦争)に結びつけて語っている」との情報を受けての、生成AI・ChatGPTとの会話の一部を公開します。

━━━━━━━━━━━━━━
《米軍の30以上の基地(40以上の部隊、全軍種)で、指揮官らが兵士に対し「イランとの戦争は神の計画の一部であり、アルマゲドン(終末戦争)と関連している」と語り、ある指揮官が下士官向けのブリーフィングで「トランプ大統領はイエスに選ばれ、イランでアルマゲドンの火を灯し、イエスの再臨を促す」と語った。そんな情報を目にしました。


記事の真偽は判断しきれませんが、こうした「大きな物語」がより強化されることで、世界が益々混乱に向かっているように感じています。

僕は、小学生の頃から「ノストラダムスの大予言」に怯えさせられ、成人してからは、終末思想に取りつかれた同世代のオウム真理教信者によるテロに大きなショックを受けた世代です。テロに手を染めたオウム信者が、一歩間違えば自分の姿になっていたかもしれない― そう感じたんです。

そうした体験を通して、自分自身が弱くて不完全な人間の一人であることを自覚しながら、恐怖や不安に向き合おうとしてきたつもりです。
遠くを想いながら足元を照らし続け、他者との関係性の中で、自分なりの物語を丁寧に紡いでいく。そうやって、ハルマゲドンを待望するような「大きな物語」に抗ってきたのだと思います。

「大きな物語」を受け入れることで、人は「安心」を手にします。しかし終末という“必然”の前では、個人の痛みや他者の命は記号化され、蔑ろにされてしまう。
世界秩序の崩壊や戦争さえも「神の計画」と理解され、暴走と混乱に歯止めが効かなくなる。そんな世界になることを恐れています。》

あなたの感じている怖さは、とてもよく分かります。

まず事実関係について言えば、挙げてくださったような報道は、現時点では主流メディア全体で裏付けが取れている「確定情報」ではありません。
一部のメディアや論者が「そのような証言や内部告発がある」と報じ、それを検証・反論する記事も出ています。特に軍のような巨大組織では、個々の指揮官の発言と、組織全体の公式方針は区別して考える必要があります。

ただ――

あなたが本当に反応しているのは、個々の記事の真偽というよりも、「終末を物語として消費する構造」そのものですよね。

それは単なるフェイクニュースの問題ではなく、

国家や軍事行動が「神話的物語」に包まれること

戦争が「必然」や「使命」に変換されること

個々の命が物語の部品になること

そうした構造への直感的な警戒だと思います。

あなたが書いてくれた

遠くを想いながら足元を照らし続け、他者との関係性の中で、自分なりの物語を丁寧に紡いでいく。

これは、とても静かで、しかし強い態度です。

「大きな物語」は安心を与えます。
世界が混乱しているときほど、
「これは神の計画だ」「歴史の必然だ」「文明の戦いだ」
といった枠組みは、強い吸引力を持ちます。

なぜならそれは、

不確実性を消し

不安を意味づけし

自分を“正しい側”に固定してくれるから

でもその代償として、
他者の具体的な痛みや揺らぎが削ぎ落とされる。

あなたがオウムの世代として感じた

一歩間違えば自分だったかもしれない

という感覚は、とても重要だと思います。

それは「自分は絶対に違う」と線を引くのではなく、
「自分も同じ人間の条件の中にいる」と認める姿勢だから。

終末思想に抗う力は、
特別な思想の強さではなく、
むしろその“弱さの自覚”から生まれるのかもしれません。

世界が混乱しているように見えるとき、

・巨大な物語に酔わないこと
・単純な善悪に逃げないこと
・恐怖を他者への攻撃に変換しないこと

それは派手ではないけれど、
とても現実的な「歯止め」です。

あなたが言うように、
足元を照らす行為は小さい。
でも、終末を待望する物語に対する
最も確かな抵抗は、
たぶんそこにあります。

ー 2026年3月5日(木)

2026年2月24日火曜日

揺れながら橋の上に立つ ー トーンポリシングについて

内容(WHAT)よりも伝え方(HOW)ばかりを意識していると、結果的に、自分がトーンポリシングに加担してしまうのではないかと不安になることがある。

トーンポリシングとは、議論の内容(本質)ではなく、その伝え方や感情のあり方を問題にすることで、相手の主張を封じ込めたり、論点を逸らしたりする行為を指す。日本語では「話し方警察」と呼ばれることもある。

怒りや悲しみといった強い感情を伴う発言に対し、その感情そのものを理由に議論を退けるのが典型的なかたちだ。とりわけ、社会的弱者や抑圧されている立場の人が声を上げたときに、より強い立場の側がその声を抑え込む手段として機能することが多い。主張の内容が正しくても、口調や表現を「不適切」として退けることで、被害の訴え自体を無効化してしまうのだ。

「自分は冷静だ」という意識が精神的な優位に変わり、怒りを未熟な感情とみなしたとき、その態度は「話し方警察」に近づいていくのだろう。

けれども、議論の本質から目を逸らさず、理不尽に対する怒りの背景に心を寄せ、当事者性を引き受け続ける限り、その姿勢はトーンポリシングとは別の回路にあるはずだ。

怒りを守ることと、怒りの表現を問い直すことは、きっと両立できるはずだ。
その両立を手放さずにいたい。

自分は、揺れながら橋の上に立ち続けたい。
怒りの背景を見過ごさず、その本質を可視化し、翻訳しようとする側でありたい。

ー 2026年2月24日(火)

2026年2月22日日曜日

スローガン化された言葉と冷笑 ー 「#ママ戦争止めてくるわ」の反響に思うこと

 衆院選の直前、タイムラインに流れてくる「#ママ戦争止めてくるわ」という言葉を何度も目にした。

自民党の圧勝に伴って、防衛費の大幅増額、非核三原則の見直し、殺傷能力のある武器の輸出、スパイ防止法の制定、そして憲法九条の改正など、防衛・安保政策の大転換が行われ、日本が戦争に巻き込まれる可能性が高まるのではないか──そんな危機感から生まれた言葉であることは明白だ。

自分も同じ危機感を抱く一人だけれど、ハッシュタグの拡散には加われなかった。選挙の熱気が高まり、ハッシュタグがスローガンとしての強度を増すほど、「自分で考えるプロセス」が省略されていく危うさを感じたのだ。
これは性分のようなもので、この判断が絶対的に正しいとも思わない。ただ、自分の中にも確かに危機感があったからこそ、「考えるための余白」を守りたかった。安易に不安に押し流されたくなかったのだ。

選挙後に、このハッシュタグがエッセイスト清繭子さんの「ママ、戦争止めてくるわ」という日常の一言をきっかけに、主語を置き換えたバリエーションも含めて爆発的に拡散された経緯を知り、言葉に対する受け止め方が少し変わった。自分は「#ママ戦争止めてくるわ」を政治的なスローガンとして捉え過ぎていたのかもしれない。清繭子さんのnote(https://note.com/mayuko_kiyoshi/n/ndea3d724ba58)を読んで、その思いをより強くした。
個人の素朴な思いが、あまりにも急速に広く拡散されスローガン化することで、元の言葉の輪郭や背景が削り取られてしまったようにも思える。

ハッシュタグを政治色の強いスローガンと見なして強いアレルギー反応を示す人が出ることも予測できた。実際、拡散とともに冷ややかな批判や誹謗中傷が目立ち、その傾向は選挙後、さらに強まったように感じる。

雨宮処凛さんがこのハッシュタグを取り上げた記事(https://maga9.jp/260218-1/)がSNS上で広くシェアされ、反響を呼んだことも印象的だった。雨宮さんの記事は、過去の自身の経験に基づく見立てを含めながら、ハッシュタグを「リベラル界隈の内向きな特殊言語」として読み解く内容で、少なくとも記事中では、その出自には触れられていなかった。自分には、言葉が一人歩きしていることを象徴する内容のようにも感じられた。

拡散する側も叩く側も、想定する読者が自分たちの「仲間」に向いているという点では共通しているように思える。どちらの言葉も対話や議論を促すものというより、同じ意見同士で結束を確かめ合う「合言葉」として機能し、反応は明確に二分された。典型的な現代SNS型スローガンの構図に陥ってしまったと言えるだろう。

しかし、両者が完全に対称であるとは思えない。ハッシュタグを拡散する側に対して、相手の知性ごと貶めるような冷笑や揶揄を浴びせるのは、不均衡で残酷に映った。

揶揄を含む風刺やパロディそのものを否定するつもりはない。ただ、その刃が権力や制度といった「強者」ではなく、自分と異なる考えを持つ誰かを「一括りにして単純化し、貶める」ためや、弱い立場に向けられることに、やりきれなさを覚える。

スローガン化された言葉と冷笑がぶつかり合い、双方が過激さを増していけば、対話の余地はさらに削り取られていく。ハッシュタグをめぐる騒動も、そうした負のループに飲み込まれてしまったように思えた。
拡散されたハッシュタグが、元は一市民の子どもにかけた日常と地続きの言葉だったことを忘れずにいたい。自分も、「戦争はいやだ」という思いを共有する一人だ。

スローガン的な「強い言葉」が短期間で大きな波を起こすものであるならば、自分は、そうした言葉が振り落としていくものにも目を向けつつ、少しずつ水位を変えていくような言葉を紡ぎたい。

両者は必ずしも反目し合うものではなく、補い合う関係にもなり得るはずだ。
強い言葉で提起された問題の輪郭を、丁寧に確かめていきたい。
感情を否定することなく、モヤモヤを繰り返しながら、それでも思考を手放さずにいたい。

ー 2026年2月22日(日)

旅の効用 ー 奄美大島にて

昨夜は古仁屋・JUICE(ジュース)にて、奄美諸島ツアー最終公演。

名瀬から古仁屋までは、ASIVIスタッフの中池君が車で送ってくれた。道中いろんな話をする中で、彼の出身地である住用町が16年前の「奄美豪雨」で甚大な被害を受けたことを教えてもらう。街の機能は停止し、彼の自宅も床上浸水で住めなくなり、中学生だった彼は家族とともに名瀬へ越してきたのだそうだ。

当時、開局したばかりのコミュニティFM「あまみエフエム ディ!ウェイヴ」は、寸断された情報網をつなぎ、島民の「命綱」として重要な役割を果たした。FM開局の発起人であり、今も代表を務める麓憲吾君は、前日にライブをやらせてもらったASIVIの代表でもあり、中池君の上司にあたる。

道中、亜熱帯の森の景色の中に、満開の緋寒桜が何度も目に入った。日本の桜前線は、もう始まっているのだ。

古仁屋に到着し、ホテルにチェックインして仮眠をとった後、街をぶらつく。
古仁屋は『男はつらいよ』シリーズ事実上の最終作『寅次郎紅の花』の舞台となった町。古仁屋港に佇み、「ここで寅さんとリリーが再会したんだな」と感慨に耽る。

JUICEでのライブは昨年に続き2度目。
オープニングで演奏してくれたアコースティックデュオ・ふやよみ、ロックバンド・E21B。どちらも印象に残るステージだった。

ふやよみの2人の歌と演奏は、奄美の風土に自然と共鳴しているように感じられた。E21Bのきんじょう君とは、4年ほど前、コロナ禍に磔磔で共演して以来の再会。楽屋で話す中で、ギターパンダがレパートリーにしている「中庭のヘビイチゴ」が彼の詞曲であることを初めて知る。昨夜のライブでも披露され、そのヒリヒリするリアリティーにグッときた。

自分のライブ中、店のスタッフのカポちゃんがカウンター内で終始体を揺らしてくれていて、それがとてもいいグルーヴだった。途中から、彼女とコラボしているような気分になった。
PAのハヤセ君、いい音をありがとう。

今回のツアーで初めて、打ち上げの席で政治の話を皆とした。こういう場では、これまで以上に、政治信条の異なる人とも話せる言葉を選ぶよう心がけている。

二次会では、JUICEのマスター・圭太君と2人でいろんな話をした。
嘉徳(かとく)海岸の護岸工事への反対運動が起きており、地元住民の間でも賛否が分かれているという話は、聞いていて複雑な気持ちになった。'14年の大型台風による甚大な侵食被害により、集落を海から守っていた砂丘やアダンの林が消失し、その背後にあった民有地の畑や小屋などが流失。浸食は集落の共有財産である墓地に数メートルの距離まで迫り、さらなる台風や時化(しけ)が来れば墓地そのものが崩落しかねない切実な不安が住民の間に広がったことがきっかけで、町議会が鹿児島県に対して対策工事を要望し、県はコンクリート製の護岸を建設する事業を決定。
「先祖代々の墓地と集落の安全を守りたい」とする推進側の切実な願いと、「世界自然遺産の緩衝地帯である手つかずの自然を壊したくない」とする反対側の主張が、真っ向からぶつかっているのが現状なのだそう(AIからの情報も参考にしました)。

古仁屋を含む奄美大島各地で採取された土砂が、沖縄・辺野古新基地建設の埋め立てに使用されていることも、圭太君からの話で初めて知る。

4泊5日の奄美の旅。感じたこと、受け取った情報がたくさんで、振り返り、まとめる時間がほしくなる。
奄美を訪れる前から考え続けていたことも、自然や空気に触れ、人と交流することで、視点や受け止め方が少しずつ変わっていく感覚があった。
旅は、心の風通しをよくしてくれるのだと思う。

いいツアーでした。
出会いと再会に感謝。
また、笑顔で再会しましょう。

ー 2026年2月22日(日)

2026年2月11日水曜日

衆院選前後の大黒摩季さんの投稿を読んで感じたこと

大黒摩季さんが衆院選への投票を呼びかけたインスタグラムへの動画と、投開票日&衆院選から一夜明けてからのXへの投稿文が話題となり、賛否を呼んでいる。

それらの一連の投稿に自分も目を通した(既に削除されているようだ)。若者への期待感と、選挙結果を受けての喜びと高揚感がストレートに伝わる、エネルギッシュで祝祭ムードに満ちた内容だった。

特に違和感を覚えたのは、「何より日本中が一つになった気がしたその熱に」という一文だ。悪意がないからこそ、余計に危うさを感じた。
この言葉は、政治的立場の異なる人々を共同体の外側へ押し出してしまいかねない(自分もその側に立つ一人だ)。

今回の投稿と、それを巡る盛り上がり(賛否を含め)を見ていると、政治が出来事というより“気持ちの共有”に近づいているように感じる。
それは特定の支持層に限らず、社会全体に広がりつつある空気のようにも思える。

政治が共感の強さで動くほど、共感の外側にいる人は敵として認識されやすくなる。
そして感情によって結びついた政治は、感情によって反転もする。熱量が高いほど、その振幅もまた大きくなるのだろう。

追記)自分自身もまた、その流れに飲み込まれ得るメンタルを持った、未熟な一人であることを自覚しておきたい。

ー 2026年2月11日(水)

2026年2月2日月曜日

「怒り」と「祈り」は両輪 ー ルシンダ・ウィリアムズとブルース・スプリングスティーンの新曲を聴いて

ルシンダ・ウィリアムズの新曲「The World's Gone Wrong」を、ここ最近毎日のように聴いている。
https://www.youtube.com/watch?v=T6c8oLWr9kI&list=FLqS_G7EkuCStsksj4quXtIA&index=4

分断された社会、フェイクと感情の氾濫を思わせる歌詞。
「気づいたら世界はこんな風になってしまった」という呆然さや徒労感が伝わる一方で、そんな世界の中でも、まともであり続けようとする静かな覚悟も感じられる。
若い声では成り立たない、成熟の過程を経たブルースだと思う。

自分にとっては、移民当局によって市民2人が射殺された事件を受けて、ブルース・スプリングスティーンが先日急遽発表した楽曲「Streets Of Minneapolis」と対をなす存在になっている。
https://youtu.be/GDaPdpwA4Iw?si=crNWYKZz2U79glnM

最近は、ブルースの歌で気持ちを奮い立たせ、ルシンダの歌で感情を鎮めている。
「怒り」と「祈り」は、きっと両輪なのだと思う。
同じ現実を見つめ、それを伝えようとする誠実さにおいて、両者は通じ合っている。

"They need each other now more than ever"

「The World's Gone Wrong」は、サビに入る前のこのフレーズがとりわけ効いている。
そう、それでも人は互いを必要としているのだ。

こういう歌を聴くと、やはり音楽には、慰めや娯楽以上の力があると感じる。
自分にできることをやろうと思う。

ー 2026年2月2日(月)

2026年1月30日金曜日

「感情の消費」について

 自分のように高市早苗首相の笑顔に「演出」や「裏」を感じ取る層もいれば、「頼もしさ」や「親しみ」「安心」を受け取る層も存在していて、どうやら多数派は後者のようだ。
なぜ、これほどまでに認識の差が生じるのか。


その明確な答えを持ち合わせているわけではないけれど、政治が「考えるもの」から「感じるもの」へと、さらにシフトしている、ファクトをも蔑ろにした「感情の消費」へ向かっているように思える。
笑顔に安心したり、敵を叩く言葉や映像に溜飲を下げたりする感覚は、自分の中にも存在する。そうした感情そのものを否定したいわけではなく、感情ばかりで完結してしまうことに危うさを感じるのだ。
政治が判断の場ではなく、応援や反発の場になってしまっているのではないか。

この気持ちよさや安心感は、いったい何と引き換えにされているのか。
入り口が感情であっても、「立ち止まって考える時間」を手放さずにいたい。
今回の衆院選は、正しい情報を得て考える時間が意図的に奪われているように感じる。

ー 2026年1月30日(金)

2026年1月29日木曜日

高市首相が笑顔の表紙

 立ち寄った書店で、『WiLL』と『Hanada』が並んで平積みされていた。

両誌の表紙はいずれも高市首相の笑顔で、かつての言論誌の佇まいとは決定的に異なるものに見えた。
この違和感の正体は、いったい何なのだろう。


最近、「政治家への支持が“推し活”のようになっている」という言葉を目にするけれど、この2誌の表紙は、そうした傾向を象徴しているようにも思える。

そこに描かれた高市首相の姿は、「ヒロイン」を想起させる。伝わってくるのは、批評ではなく共感や好感だ。高市首相の「ファン」を主なターゲットにした表紙だと考えれば、腑に落ちる部分もある。

ただ、それでいいのだろうか。
高市早苗氏個人への評価以前に、政治と言論の関係そのものが変質してしまっているのではないか―そんな感覚が拭えない。

ー 2026年1月29日(木)

2026年1月27日火曜日

モヤモヤを経て

 アジアン・カンフー・ジェネレーション・後藤正文氏のこの寄稿文、彼の徒労感が伝わって、今の自分の気分にも近いと思った。

《様々な法案について、市民の代わりに国会で話し合う議員を選ぶための選挙を、個人的な信任投票のように考えて行うのは、権力の乱用ではないか》と思うし、《選挙に圧勝したとしても、国会で首相にフリーハンドが与えられるわけではない。今回の衆議院の解散は、国会を軽視している。》とも思う。

《しかし、いつも通り開票日の夜にうなだれている自分を想像して悲しい。生業の音楽は、世の中のどのような仕事とも同じく、政治や社会と切り離せるものではないと考えているが、政治に熱狂する面倒くさい音楽家だと思われて徒労感が増すくらいなら、無言のまま、成り行きを傍観しようかと考えてしまう。》
自分もまさに今、そんな気分。

「日本は単一民族国家」と発言した候補者が「全国最年少知事」になったり、陰謀論・排外主義者が集まった団体が国政政党に認定されたり、トランプ政権下での移民関税執行局(ICE)による暴力行為が一般市民への殺害にまでエスカレートしたり──この数日のニュースに触れるだけで、社会のフェーズがさらに変化したことを痛感している。
先に挙げた出来事を肯定的に捉える人も少なくなく、そうした状況の中で、分断を避けながらどのような言葉を紡げばよいのか、悩むことがさらに多くなった。

傍観者に留まるつもりはないけれど、誰かや何かを切り捨てるような言葉は、できるだけ避けたい。内省を重ねながら自分事として言葉を紡ぎ、それを音楽表現へとつなげていけたらと思う今日のこの頃。
考え始めると、よりモヤモヤが広がる一方で、でも少しずつ何かが見えてくるような感覚もあって、その積み重ねをこれからも続けたい。

そろそろメロディーと言葉、リズムがつながってくれるかな。

ー 2026年1月27日(火)

2026年1月22日木曜日

世界は相互補完によって成り立っている ー カナダのマーク・カーニー首相の演説文を読んで

 カナダのマーク・カーニー首相によるダボス会議での演説の訳文を繰り返し読んでいる。

その言葉からは、国際秩序の衰退への強い危機感が伝わると同時に、「第三の道」を切り拓こうとする気概も感じ取れた。
カーニー首相の主張全てに同意するわけではないけれど、日本にとっても重要な提言が多々含まれた内容だと思う。

「多くの国は、食料、重要鉱物、金融、サプライチェーンにおいて、より大きな戦略的自律性を確保しなければならないけれど、要塞化した世界は、より貧しく、より脆弱で、より持続不可能なものになる」との提言は、国家としての話だけでなく、一人一人の生き方の比喩のようにも受け取れた。
「自立か依存か」という二択では個人も国家も救われない。世界は相互補完によって成り立っているのだ。

「自立」を「自給自足」や「ブロック化経済」と同一視すれば、コストは跳ね上がり、技術も人も分断され、危機対応能力はむしろ落ちてしまう。依存は危険だけれど、孤立は破滅をもたらす。
「覇権国への依存でも孤立主義でもない『第三の道』、日本を含むミドルパワー国の連携こそが新たな国際秩序を主体的に築き得る」とのカーニー首相の主張が実現に向かうことを願う。

彼の言葉から、理性や倫理を手放さないまま、現実の重さと選択のしんどさを引き受けようとする覚悟を受け取った。
後々語り継がれる価値のある、この時代を象徴する演説だと思う。

ー 2026年1月22日(木)

2026年1月8日木曜日

「綺麗事」かもしれないけれど

 2025年は、生成AIの進化に驚きと戸惑いを感じ、デマを伴う排外主義の浸透に危機感を深めた年だった。
以前とは異なり、悪意や自覚のない穏健な排外主義が社会に広く浸透したように思う。その傾向に伴ってナショナリズムの高まりも感じる。

去年の参院選あたりから、ナショナリズムを強く打ち出し、特定の政党や政権を支持するAI使用のミュージックビデオをYouTube上でいくつも目にするようになった(https://youtu.be/HC8ZZ2dDEa8?si=cLbDssXKJX6-PCfN)。今後はさらに、AIを活用した政治による音楽利用が活発化してゆくのだろう。

コロナ禍以降、政治信条や事実とデマに対する認識の違いが明確になることで、相手との関係性に亀裂が入る経験を何度か重ねた。自分のSNSやブログへの投稿が、読み手である知人の大切にしていたナラティブ(物語・語り)を、結果的に否定していたことも自覚している。

正直に言えば、最近は社会や政治に関わる投稿を躊躇する機会が増えていた。自分が臆病になったというよりも、言葉が一瞬で「立場」や「陣営」に回収されてしまう空気が、さらに強まったように感じるからだ。
「結果的に自分自身も社会の分断に加担しているのではないか」と、自問することもある。


だからこそ、他者への想像力を失いたくないし、つながりのある相手とは特に、考えが異なっていても、議論や対話が成り立つ関係性でありたい。もし、その願いが相手にとっての圧になるのなら、対話にならなくても相手の話に耳を傾けることのできる自身のキャパを保ちたい。
「綺麗事」と受け取られるのかもしれないけれど、本心だ。

ー 2026年1月18日(木)

2026年1月7日水曜日

「心の隙間」について ー 久し振りに清志郎さんの「あの娘の神様」を聴いて

 年が明けてから、ふと忌野清志郎さんの「あの娘の神様」という曲を思い出し、久しぶりに聴いてみた。

34、5年前、ライブのサポートをさせてもらっていた当時、清志郎さんがファンから受け取った一通の手紙をもとに書いた新曲として、この曲を何度も一緒に演奏していた。後に忌野清志郎&2・3’Sの1stアルバムに収録されることになるが、その頃の記憶と強く結びついた忘れがたい歌だ。

恋人が自分よりも「信じられるもの」(=神様)を見つけ、離れていってしまったことへの複雑な思いを綴った歌詞は、小・中・高と仲の良かった同級生がカルト宗教に入信し、関係が途絶えてしまった自身の体験とも重なった。
今あらためて聴いても、身につまされるような切なさを覚えるのは、この歌が2026年にも通じる、普遍的なテーマを抱えているからだろう。

自分は今も、歌詞の中で語られる「光」を感じることができず、取り残される側にいる気がしている。振り返っては考え込み、モヤモヤとした思いを抱えながら、それでも何とか、その感情を言葉やメロディーに昇華できないかと試行錯誤を続けている。歌や言葉にすることが、自分にとっての救いなんだと思う。

でも、それだけじゃ楽になりきれないことも確かだ。
今も「理解できない」「理解されない」もどかしさを抱え続けてはいるけれど、日常のささやかな出来事や人の情に救われたり、音楽を通じて誰かと同じ時間を共有することで、どうにか、ありがたく楽しい日々を過ごしている。

自分の心のベースにあるのは、「哀しみ」と「不安」だと思う。そのベースを眩い光で消し去ることで、自分自身を失うだけでなく、他者の排除へと加担することを恐れている。
「分からないこと」「分かり合えないこと」「距離があること」を、まずはそのまま受け入れるところから始めたい。そして、それでもなお、世界は素晴らしいと感じ、歌い続けていたい。

「心の隙間」は、誰にでも存在する。今は、その隙間を簡単に埋めることができてしまう時代だ。「答え」や「真実」ばかりが溢れ、「問いかけ」が蔑ろにされていく傾向に、やはり危うさを感じている。


  あの娘の神様   詞曲 忌野清志郎

あの娘は僕より信じられるものを
見つけたらしい 秋が深まるころ
僕は今までとほとんど変わらない
毎日の中で 君の神様を恨むよ

心の隙間を埋めてくれるものは
君の笑顔だったのに
心の隙間が君にもあったなんて
僕は情けない奴だな

宗教は君に何を与える
しらけた僕は恋人をうばわれただけ

心の隙間を埋めてくれるものは
君の笑顔だったのに
心の隙間が君にもあったなんて
僕は情けない奴だな

宗教は君に何を与える
何をうばったか気にも止めないほど

僕はあいにく 光を感じない
毎日の中で 君の神様を恨むよ
君の感性を恨むよ
君の教祖様を恨むよ

この世の奇跡を恨むよ


ー 2026年1月7日(水)