2013年8月20日火曜日

宮崎駿監督「風立ちぬ」を観て【後編】

ー宮崎駿が描く「美しい日本」 自分がこの映画に惹かれた1つに、失われてゆく列島の風景が描かれている点が上げられます。映画の中では、田園風景をはじめとした緑の多い日本の風土が実 に生き生きと美しく描かれています(それらとは対照をなすように、当時の整備されていない貧しい町の景色も、映画の中で描かれています)。
宮崎駿は、スタジオジブリが毎月刊行している小冊子『熱風』の7月号「憲法改正特集」の中で、30代の頃、ヨーロッパを旅して日本に帰ってきて、日本の風 土が素晴らしいものだという認識を持つようになったと語っています。自分がこの言葉に共感するのは、自分自身もミュージシャンとして日本各地をツアーして 回る生活を長く続けることで、恐らく宮崎駿と共通する感覚を持つに至ったからです。
自分はツアー生活の中で、日本各地の風土の美しさだけでなく、その多様性にも魅了されるようになりました。各地を細かくツアーをしていると、同じ都道府県 内であっても、風景、気候、食事、人の気質、方言、時間の流れ等が様々に変化してゆくのを実感します。様々な風土にふれると、五感が解放され、それらのバ ランスがよくなってゆく気がします。自分のツアー暮らしは、五感を使って「美しい日本」を発見する日々であるとも言えます。そして、その「美しさ」は、実 は「日本」という枠では一括りにできない実に様々な姿を持っていました。
それは人においても同様でした。10人10色、さまざまなバックボーンの中でホンマいろんな人が各地におるんやなあという実感が、自分の心の風通しをよくしてくれました。
自分がツアー暮らしの中で思いを深めた「美しい日本」とは、多様な風土や文化、そして数多くの愛すべき個人一人一人の存在であって、国家や国体ではなかっ たんじゃないか。宮崎駿がこの映画で表現しようとした「美しい日本」もやはり、国家や国体を含んでいない。そんなふうに感じました。宮崎駿は、国家や国体 の幻想に身を委ね過ぎることによってもたらされる破滅を恐れている。彼自身がそのような破滅に向かう気質を持った人間であるという自覚が、警戒心を一層強 めさせているのだと思います。
自分のツアー暮らしは、美しい風土を発見する一方で、多様性や美しさを失いつつある日本を目の当たりにする日々でもあります。人間との共生によって成り立 ち、微妙なバランスを保ちながら、長い時間をかけて「手入れ」され続けた日本の美しい自然は、破壊され「管理」されることで、その姿を失いつつあります。 郊外にショッピングモールや大型チェーン店が進出することで、個人店はシャッターを降ろし、繁華街は廃れ、街の空洞化、画一化が、各地で進んでいます。地 方における原発の立地も、環境の破壊や共同体の分裂をもたらしました。このような現状に対する危機感が、宮崎駿の中にもあり、その思いが、この映画を作 り、「美しい日本」を描こうとする動機の一つになったのではないかと考えます。
時の首相が口にする「美しい国」と、宮崎駿が思い入れする「美しい日本」、二人がさす「美しさ」には共通項が少ないのかもしれません。現政府が掲げる国土 強靭化計画によって必要以上に海がコンクリートで固められ、TPP参加によって、グローバリズムがより進行することになれば、各地の風土色はそこなわれ、 画一化に拍車がかかり、共同体は破壊され、「美しい日本」が加速度を増して失われてゆくのではないかと危惧します。
体験がもたらしたこういった自分の感覚、捉え方は、イデオロギーから来たもではないと思います。そして宮崎駿がこの映画で伝えようとしていることも、イデ オロギーに偏ったものではないと思います。自分のイデオロギーにあてはめて語ることで、見えなくなる大切な何かがあるということを、この映画は伝えている ように感じました。
しかし、体験がもたらす感覚も、やがて特定のイデオロギーに取り込まれ、ナショナリズムの高まりや国家間や民族間の争いの渦に巻き込まれてゆく要素を持っ ているのかもしれません。文章を綴るうちにそんな考えも生まれ始めました。思考はもどかしく続きます。答えはすぐには見えないし、割り切った答を出すべき ではないと思います。
「風立ちぬ」という映画には、共感だけでなく、違和感を抱かせる描写もあり(それは確信犯的な表現かもしれませんが)、語るべき点がまだ色々と存在しま す。女性がこの映画を観たら、もっと強い違和感を持つのではないかとも思いました。この映画は、自分のさまざまな感覚にリンクし、問題を提起し、思考を拡 げてくれました。答を押し付けるのではなく、まず感じさせた後に考えさせる、そんな力を持つすぐれた作品だと思います。
ー2013年8月20日(火)

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