2025年3月26日水曜日

How does it feel? ー ディランの映画「名もなき者(A Complete Unknown)」を観た

方々で評判になっている若き日のディランを描いた映画「名もなき者(A Complete Unknown)」を観た。
まず映画として面白かった。2時間20分があっちゅうま。

映画を通して伝わるディランの人柄や振る舞いに憧れたり影響を受けるようなことはもうないけれど、あらためてディランの楽曲の素晴らしさを再認識した。大いに触発され、映画を観ながら創作意欲が湧いてくるのを感じた。
ディラン演じるティモシー・シャラメの、ディランに寄せつつもメロディーに忠実で本人よりもクセを抑え気味の歌唱が、曲の魅力をよりわかりやすく伝えてくれたと思う。

映画のクライマックスは、ニューポート・フォーク・フェスティバルにディランがトリで出演する際、主催側の意向であるアコースティックギターでの演奏に従わず、エレキギターを手にバンドを率いてステージに上がる、あの伝説のシーンだった。
映画でそのシーンを観て、ディランに喝采を送る気持ちにはなれなかった。どちらかに一方的に肩入れするわけではないけれど、無粋に振る舞うディランに振り回されるピート・シーガーやフェス関係者が不憫に思えた。

当時のディランは既に「名もなき者」ではなく、時代を味方につけ(一部から批判も受けつつ)、アメリカのフォークシーン全体よりも影響力を持つ強者だったはずた。フェスでのディランの行為は最上のインパクトと効果をもたらし、時代の変化を早めたのかもしれないけれど、それによって多くの人達が大切に育んできた文化が蔑ろにされ切り捨てられたことも事実だろう。

ピート・シーガーやフェス関係者の頑なとも思えるこだわりは、アメリカンのフォークミュージックのリバイバル運動の歴史や背景を知らなければ理解できない部分があると思う。
映画の中でピートがディランに対して、人々がスプーンで砂を掬っているところに、大きなシャベルを持ち込むことへの暴力性を訴える場面が印象に残った。

フェスが終わった翌日に会場の後片付けに勤しむピート・シーガーの背中を見て、ディランは何を感じたのだろう。
どちらかと言うと自分も、一つのシーンに殉じることができないタイプではあるけれど、自分がこれまで手にし続けてきたのはシャベルではなくスプーンの方だ。人として身近に感じたのは、ディランよりもピートの方だった。

映画を通して、ディランに関わるまわりの人間の苦悩は十分伝わってきたけれど、本人の心の機微はそれほど伝わってこなかった。そのミステリアスさがディランらしく魅力的であると同時に、その割り切り具合に残酷さも感じた。
この映画はディランを描くことで、革命に伴う犠牲の存在にもスポットが当てられている。観終えた後には、映画タイトルの「名もなき者」はディランを指す言葉ではないように思えた。

20代の頃にこの映画を観ていれば、間違いなくもっとディランに肩入れしただろう。見解の変化は、自分の数十年の生き方の反映だ。
若い頃にディランの音楽と言動に心躍らせた同世代や年配の人達は、今この映画をどんな心持ちで観たのだろうか。
How does it feel?

ー 2025年3月26日(水)

2025年3月25日火曜日

「御上先生」最終回を観て

ツアー戻りで TBSドラマ「御上先生」の最終回をU-NEXTで観た。
名作に相応しいエンディングだった。

「頭の中に答えの出ない質問がたくさんあることは未来そのもの。苦しみの中選び取る答えは、きっと弱者に寄り添うものになる。」
御上先生が卒業してゆく生徒達に送った言葉の中に、この物語の主張と願いが凝縮されているように感じた。

ドラマの中で生徒の神崎君が言っていたように、安易な答えにすがることなく悶々と考え続ける作業は、「自分にやさしくない」し非効率でもある。けれど、その面倒なプロセスを経てゆくことが、多様や雑多に基づく破滅回避の継続社会を切り拓いてゆくのだと思う。

物語を単純化することなく、知性を全面に押し出し、受け手の感性に委ねるようなドラマだった。
知性に欠かせない要素の一つは、弱者に寄り添う想像力であることを作品を通じて再認識させてもらった。
続編希望します。

ー 2025年3月25日(火)