「参政党支持者にも寄り添うべきだ」という言説に対する違和感を伝えるFacebook上の投稿を読んで、色々と考えさせられている。
自分の知り合いの中にも参政党の党員になった人がいる。
彼がコロナ禍の数年前からデマや陰謀論と思しき投稿をSNSで繰り返すの見ていたので、党員になったと知っても驚きはなかった。そのわけを知りたいとも思ったけれど、既にこちらから距離を置いてしまった後だった。
その知人はこちらが距離を置いた理由を感じ取っていたと思う。自分にとっては、音楽を愛するいい人だし、お世話にもなった人なので、彼を傷つけたかもしれないと思うと後ろめたさが残った。
コロナ禍に陰謀論に走った知人は何人もいるし、確認はしていないけれど、先の参院選挙で参政党や日本保守党に投票した知人もいるだろう。各地で出会う人達との会話の中で、レイシズムを含むデマや排外的な発言が当たり前のように出てくることもある。
そういった発言を受けて、打ち上げの席でこちらが議論を持ちかけたり、逆に同席の誰かから議論を持ちかけられたりしたことが何度もある。そういう場合は、上から目線で話したり論破を目指さないよう心掛けているつもりだけれど、なかなか難しい。こちらが強い言葉を投げかけたことで相手が余計頑なになってしまったこともあり、それは苦い思い出となっている。
また別の打ち上げの席でのこと。何かのきっかけで外国人労働者が話題になった時、同席していた一人が彼の街で暮らす移民の人達との軋轢について堰を切ったように語り始め、「自分のこの訴えをレイシズムと呼ばれるのは納得がいかない」と目に涙を浮かべながら訴えかけてきたたことがあった。
その時は、まず自分の言葉を飲み込んで、とにかく彼の話を聞き続けることにした。少し前まで楽しかった打ち上げの空気は一変してしまったけれど、その場にいたみなが彼の話に耳を傾けた上で、ぞれぞれが自分の考えや体験を語り始め、意見を交わし合った。その夜は、ぎこちなさを含む会話の中で、ある程度の対話が成り立ったように思えた。
レイシズムや排外主義に影響された人達との関係を全て断とうとすれば、自分の音楽活動は支障をきたすだろう。それらはもはや特別な態度ではなく、隣人や仕事仲間・社会全体にカジュアルに浸透しているように感じる。誰もが抱きがちな暗い本音が、「お墨付き」によって解き放たれてしまったとも言えるかもしれない。
それぞれの差別・排外意識には濃淡があり一括りにはできないけれど、その多くの人達が自分にとっては「いい人」であり、お世話になり感謝すべき人も含まれる。
だからこそ、なぜなんだと思うし、もう少し寄り添い合って、そこに至る思いを理解できないものかとも考える(ただ、そう思えるのは彼らが知人であることが大きい。YouTubeなどで、レイシストが街頭で聞くに耐えないヘイトスピーチを繰り返す映像を観る度に怒りが湧くし、もし自分がその現場にいて醜悪なレイシストの姿を目の当たりにすれば、彼らとの対話はおろか、寄り添う気持ちにもなれないだろうと思う)。
同時にマイノリティの知人達の姿、特に、在日朝鮮人の幼馴染みの顔が思い浮かぶ。彼らがどれほど傷つき不安な日々を送っているかを、参政党員の知人は想像できていないだろう。
まず寄り添うべきは、差別や排外の対象になっている人達であるべきだと思う。けれど、参政党・日本保守党の支持者や排外的な空気に染まった人達への「寄り添い」を拒否して彼らを一括りに切り捨てることが、この先の共生につながるようには思えない。
レイシズムや排外主義を毅然と拒否し続けると同時に、それらに影響された人達が不安・被害者意識・ルサンチマンを抱いているのなら、その正体にもふれたいと思う。そのためにも、ぎこちない対話と内省の時間を大切にしたい。
ー 2025年9月18日(木)