戦争状態において敵側の人間は人扱いされず、その夥しい死が歓迎・祝福され、殺人の指揮者は英雄扱いされる。
一方で、敵国側の自国に対する殺人行為は「人手なし」とみなされ憎悪の対象となり、味方の戦死は「殉教者」として戦意高揚にも政治利用される。
アメリカの分極化を象徴する活動家・チャーリー・カーク氏が銃撃され死亡したことに対して、反カーク派の一部がSNSを通じてその死への歓迎を表明した。カーク氏の支持者はその反応に憤り、左派・反カーク派全体を一括りに「人手なし」とみなして憎悪の炎を燃やす。この機を見てインフルエンサーは過激発言を繰り返してさらなる憎悪を煽り、金儲けに勤しむ。
トランプ大統領は亡くなったカーク氏を「殉教者」として讃え、容疑者が判明していない段階で「過激な左派による政治的暴力(ポリティカルバイオレンス)があまりにも多くの命を奪ってきた」などと発言して、左派・リベラル派の責任を一方的に主張した。
国全体を揺るがすような暴力に対して、トランプ大統領は融和や団結を語るよりも対立を煽っ ている。彼にとっては国内での対立構図をつくることが生き残りの手段なのだろう。
チャーリー・カーク氏の死は、今後も政治利用され続けるに違いない。
こういった構図を見るにつけ、アメリカは心理的にはもはや内戦状態にあるように思える。現在のアメリカの姿が、日本のすぐ近くの未来になりかねない、そんな危惧を抱いている。
人はすぐ感情に流され、暴力・殺人によって物事が解決さることを案外簡単に受け入れてしまう。まともとであり続けることが難しい時代に突入したと思う。
今回の銃撃事件を受け、チャーリー・カーク氏の公での言動を調べれば調べるほど、彼が多くのマイノリティーを傷つけ憎悪の連鎖を刺激した人物であるとの印象が深まってゆく。
彼が ライフワークとして行い続けた若者との議論の動画も複数見たけれど、その姿勢はどちらかというと立場や考えの違う相手をやり込める「論破」に近く、相互理解や共感によって両者で新たな答えを導き出そうとする「対話」の姿勢は感じられなかった。
それでももちろん、彼の死を歓迎するような気持ちにはなれない。この銃撃事件が、あってはならない悲劇であるとの認識は変わらないし、この事件を契機に憎悪と暴力がさらに拡散・連鎖してゆくことに対して深刻な懸念を抱いている。
国連に代表される国際社会は政治的暴力を否定する一方で、イスラエル国家によるガザでの究極とも言える政治的暴力・ジェノサイドを止めることができず、結果的に放置している。これは自分達が抱える大きな矛盾の一例だ。
死亡したチャーリー・カーク氏は、そのイスラエル国家によるジェノサイドを正当化してきた人物でもある。ガザの人達がカーク氏の死を悼むことができるだろうか。
カーク氏に奥さんと2人の子供の家族が存在するように、ガザで虐殺された人達にもそれぞれに家族があった。大人だけでなく、あまりにもたくさんの子供達が酷い殺され方をした。そして、現在もその状況は続いている。
思想や立場の違いがあってもカーク氏の死を悼みたいと思う一方で、ガザの人たちが置かれている状況を想像すると、その死を悼むことへの躊躇が生まれ、気持ちが揺らぎ始める。
共感の距離を見失えば、一方の他者を想い描く力を失いかねない。そうやって憎しみや暴力の連鎖に取り込まれてしまうことは望まない。自分はカーク氏のことをもっと知るべきなのかもしれない。
もう考えるのがしんどくなってしまうのだけれど、この「心の揺らぎ」の中にこそ、微かな希望を見出せるかもしれないとも思う。
まともであり続けることは、こうやって「あいだ」に立ち、時には振り返り、逡巡を繰り返し、揺らぎに向き合いながら歩き続けることなのかもしれない。
ー 2025年9月13日(土)
0 件のコメント:
コメントを投稿