2025年12月3日水曜日

熱狂への恐れ

 添付したのは、「GEZAN」フロントマンのマヒトゥ・ザ・ピーポーことマヒト氏が、22日にX上で高市首相を「こんなバカ」呼ばわりして物議を醸したことを受けて、29日Xに投稿したコメント。




正否のみで即座に判断するのが勿体無い、真摯な文章だと思ったので、その一文を添えて、29日のマヒト氏の投稿を引用リポストしたら、誹謗中傷を含む否定的なコメントばかりが返ってきた。

26日の、ファンキー末吉さんの投稿に対する自分の引用リポスト(https://x.com/Rikuo_office/status/1993637199120671143?s=20 )に対しては、100を超える否定コメントが集まった。
「共産党の犬」「もう辞めたほうがいい」「ロックじゃない」「アホ丸出し」「お花畑」「くっそダサい」「垢の見本」等々、ここまで過剰な誹謗中傷が集まるのは、自分のアカウントでは珍しいことだ。
どちらの投稿もダイレクトな政権批判をしたわけでもなかったので、正直、予想を超える反応だった。

炎上の発端となった22日のマヒト氏の投稿に対しては、彼の元に「殺すぞ」「バンドができないようにしてやる」との脅迫を含んだメールも多く届いたそうだ。それを受けての添付した彼のコメントに対しても、心無い言葉の集中砲火が続いた。

高市政権発足以降、政権批判に対する過剰反応がエスカレートしていて、それは言論封殺の域に達しているように思う。明らかにフェーズが変わったし、その熱狂ぶりに怖さを感じる。

先日観た報道番組の中で、政権に異議申し立てをするデモに集まった若者たちの姿が報じられていたのだけれど、インタビューを申し込まれた若者たちは、身元が割れることとを恐れて顔出しを拒み、ボカシ映像でのインタビューに応じていた。10年前のシールズのデモでは、そういった事態は起こらなかったと記憶している。
顔を隠さなければ政権批判できない、本音を言えない状況が既に始まっている。

嫌中を掲げて口汚く罵る者たちが、結果的に、今の中国に通じる抑圧・言論封鎖に加担しているのは皮肉に思える。自分で自分の首を絞めている。
冷笑・揶揄・誹謗中傷・罵詈雑言を浴びせて、一時は万能感を得たり、スッキリするのかもしれないけれど、返ってくる代償は大きいと思う。

ー 2025年12月3日(水)

2025年11月20日木曜日

映画「スプリングスティーン 孤独のハイウェイ」感想

自分にとってブルース・スプリングスティーンの魅力の一つは「光と闇のコントラスト」だと思う。あの爆発的エネルギーは深い内省を経てこそ解き放たれる。
‘82年にリリースされたスプリングスティーンの弾き語りアルバム『Nebraska』の制作時期を描いた映画『孤独のハイウェイ』は、スプリングスティーンの弱さと内省にスポットを当てた作品だった。劇的で華やかなストーリーと映像を期待していた向きには肩透かしの内容かもしれないけれど、自分にとっては、スプリングスティーンに惹かれ続けてきた理由をあらためて確認させてくれるような映画だった。

スプリングスティーンを演じた主演のジェレミー・アレン・ホワイトは、あんまりスプリングスティーンに似ていなかったけれど、それが気にならないくらい繊細の伝わる惹きつける演技だった。彼が、プロレス一家を描いた映画「アイアンクロー」の主役、プロレスラーのケリー・フォン・エリック役を演じていたことには、映画を観た後で気づいた。どちらの作品も父親との複雑な関係や孤独を描いていて、何か腑に落ちたような繋がった気がした。

この映画の核の一つはスプリングスティーンとマネージャー・ジョン・ランダウとの友情物語なのだけれど、今度はスプリングスティーンと長く活動を共にしてきたEストリートバンドとの関係を描いた映画も見たいと思った。

帰宅してから久し振りに「ネブラスカ」を聴いた。静かに迫るものがあって心がざわついた。

ー 2025年11月20日(木)



2025年10月23日木曜日

新内閣に思うこと

 多分、政権交代が起きたくらいの大きな変化なんだと思う。

自分には危うさばかりが目につくけれど、世論調査によれば若年層の高市内閣への期待は高い。それくらい閉塞感の強い社会ということか。


海外のメディアは新首相を「国家主義」「極右」と表現しているけれど、日本の既成メディアはそういった表現を避けている。社会の流れに対して既成のメディアは基本的に追随してゆくのだと思う。


今後さらにスローガン的、扇動的な言葉が広がってゆく気がする(「日本人ファースト」も一例)。そういう社会の中では、左右に関係なく「対話」は重視されなくなるのだろう。

もう、そういう心構えを持っておいた方がいい気がする。


波に飲み込まれないよう引きの視点を持ち続け、余裕のない社会の中でも「思いやり」と「想像力」を失わずにいたい。


ー 2025年10月23日(木)

2025年9月18日木曜日

レイシズムや排外主義に影響された人達に「寄り添う」ことについて

「参政党支持者にも寄り添うべきだ」という言説に対する違和感を伝えるFacebook上の投稿を読んで、色々と考えさせられている。

自分の知り合いの中にも参政党の党員になった人がいる。
彼がコロナ禍の数年前からデマや陰謀論と思しき投稿をSNSで繰り返すの見ていたので、党員になったと知っても驚きはなかった。そのわけを知りたいとも思ったけれど、既にこちらから距離を置いてしまった後だった。
その知人はこちらが距離を置いた理由を感じ取っていたと思う。自分にとっては、音楽を愛するいい人だし、お世話にもなった人なので、彼を傷つけたかもしれないと思うと後ろめたさが残った。

コロナ禍に陰謀論に走った知人は何人もいるし、確認はしていないけれど、先の参院選挙で参政党や日本保守党に投票した知人もいるだろう。各地で出会う人達との会話の中で、レイシズムを含むデマや排外的な発言が当たり前のように出てくることもある。
そういった発言を受けて、打ち上げの席でこちらが議論を持ちかけたり、逆に同席の誰かから議論を持ちかけられたりしたことが何度もある。そういう場合は、上から目線で話したり論破を目指さないよう心掛けているつもりだけれど、なかなか難しい。こちらが強い言葉を投げかけたことで相手が余計頑なになってしまったこともあり、それは苦い思い出となっている。

また別の打ち上げの席でのこと。何かのきっかけで外国人労働者が話題になった時、同席していた一人が彼の街で暮らす移民の人達との軋轢について堰を切ったように語り始め、「自分のこの訴えをレイシズムと呼ばれるのは納得がいかない」と目に涙を浮かべながら訴えかけてきたたことがあった。
その時は、まず自分の言葉を飲み込んで、とにかく彼の話を聞き続けることにした。少し前まで楽しかった打ち上げの空気は一変してしまったけれど、その場にいたみなが彼の話に耳を傾けた上で、ぞれぞれが自分の考えや体験を語り始め、意見を交わし合った。その夜は、ぎこちなさを含む会話の中で、ある程度の対話が成り立ったように思えた。

レイシズムや排外主義に影響された人達との関係を全て断とうとすれば、自分の音楽活動は支障をきたすだろう。それらはもはや特別な態度ではなく、隣人や仕事仲間・社会全体にカジュアルに浸透しているように感じる。誰もが抱きがちな暗い本音が、「お墨付き」によって解き放たれてしまったとも言えるかもしれない。

それぞれの差別・排外意識には濃淡があり一括りにはできないけれど、その多くの人達が自分にとっては「いい人」であり、お世話になり感謝すべき人も含まれる。
だからこそ、なぜなんだと思うし、もう少し寄り添い合って、そこに至る思いを理解できないものかとも考える(ただ、そう思えるのは彼らが知人であることが大きい。YouTubeなどで、レイシストが街頭で聞くに耐えないヘイトスピーチを繰り返す映像を観る度に怒りが湧くし、もし自分がその現場にいて醜悪なレイシストの姿を目の当たりにすれば、彼らとの対話はおろか、寄り添う気持ちにもなれないだろうと思う)。

同時にマイノリティの知人達の姿、特に、在日朝鮮人の幼馴染みの顔が思い浮かぶ。彼らがどれほど傷つき不安な日々を送っているかを、参政党員の知人は想像できていないだろう。

まず寄り添うべきは、差別や排外の対象になっている人達であるべきだと思う。けれど、参政党・日本保守党の支持者や排外的な空気に染まった人達への「寄り添い」を拒否して彼らを一括りに切り捨てることが、この先の共生につながるようには思えない。
レイシズムや排外主義を毅然と拒否し続けると同時に、それらに影響された人達が不安・被害者意識・ルサンチマンを抱いているのなら、その正体にもふれたいと思う。そのためにも、ぎこちない対話と内省の時間を大切にしたい。

ー 2025年9月18日(木)

2025年9月13日土曜日

心の揺らぎと想像力 ー チャーリー・カーク氏への銃撃事件について考えたこと

 戦争状態において敵側の人間は人扱いされず、その夥しい死が歓迎・祝福され、殺人の指揮者は英雄扱いされる。
一方で、敵国側の自国に対する殺人行為は「人手なし」とみなされ憎悪の対象となり、味方の戦死は「殉教者」として戦意高揚にも政治利用される。

アメリカの分極化を象徴する活動家・チャーリー・カーク氏が銃撃され死亡したことに対して、反カーク派の一部がSNSを通じてその死への歓迎を表明した。カーク氏の支持者はその反応に憤り、左派・反カーク派全体を一括りに「人手なし」とみなして憎悪の炎を燃やす。この機を見てインフルエンサーは過激発言を繰り返してさらなる憎悪を煽り、金儲けに勤しむ。

トランプ大統領は亡くなったカーク氏を「殉教者」として讃え、容疑者が判明していない段階で「過激な左派による政治的暴力(ポリティカルバイオレンス)があまりにも多くの命を奪ってきた」などと発言して、左派・リベラル派の責任を一方的に主張した。
国全体を揺るがすような暴力に対して、トランプ大統領は融和や団結を語るよりも対立を煽っ ている。彼にとっては国内での対立構図をつくることが生き残りの手段なのだろう。
チャーリー・カーク氏の死は、今後も政治利用され続けるに違いない。

こういった構図を見るにつけ、アメリカは心理的にはもはや内戦状態にあるように思える。現在のアメリカの姿が、日本のすぐ近くの未来になりかねない、そんな危惧を抱いている。
人はすぐ感情に流され、暴力・殺人によって物事が解決さることを案外簡単に受け入れてしまう。まともとであり続けることが難しい時代に突入したと思う。

今回の銃撃事件を受け、チャーリー・カーク氏の公での言動を調べれば調べるほど、彼が多くのマイノリティーを傷つけ憎悪の連鎖を刺激した人物であるとの印象が深まってゆく。
彼が ライフワークとして行い続けた若者との議論の動画も複数見たけれど、その姿勢はどちらかというと立場や考えの違う相手をやり込める「論破」に近く、相互理解や共感によって両者で新たな答えを導き出そうとする「対話」の姿勢は感じられなかった。

それでももちろん、彼の死を歓迎するような気持ちにはなれない。この銃撃事件が、あってはならない悲劇であるとの認識は変わらないし、この事件を契機に憎悪と暴力がさらに拡散・連鎖してゆくことに対して深刻な懸念を抱いている。

国連に代表される国際社会は政治的暴力を否定する一方で、イスラエル国家によるガザでの究極とも言える政治的暴力・ジェノサイドを止めることができず、結果的に放置している。これは自分達が抱える大きな矛盾の一例だ。
死亡したチャーリー・カーク氏は、そのイスラエル国家によるジェノサイドを正当化してきた人物でもある。ガザの人達がカーク氏の死を悼むことができるだろうか。

カーク氏に奥さんと2人の子供の家族が存在するように、ガザで虐殺された人達にもそれぞれに家族があった。大人だけでなく、あまりにもたくさんの子供達が酷い殺され方をした。そして、現在もその状況は続いている。

思想や立場の違いがあってもカーク氏の死を悼みたいと思う一方で、ガザの人たちが置かれている状況を想像すると、その死を悼むことへの躊躇が生まれ、気持ちが揺らぎ始める。
共感の距離を見失えば、一方の他者を想い描く力を失いかねない。そうやって憎しみや暴力の連鎖に取り込まれてしまうことは望まない。自分はカーク氏のことをもっと知るべきなのかもしれない。

もう考えるのがしんどくなってしまうのだけれど、この「心の揺らぎ」の中にこそ、微かな希望を見出せるかもしれないとも思う。
まともであり続けることは、こうやって「あいだ」に立ち、時には振り返り、逡巡を繰り返し、揺らぎに向き合いながら歩き続けることなのかもしれない。

ー 2025年9月13日(土)

2025年9月1日月曜日

AIとの共存における”不完全力”の重要性

AIの急激な進化と浸透を目の当たりにして、人間だからこそ担える領域について考えさせられている。

音楽の現場においてもAIの進出・浸透は著しい。
制作現場では、レコーディングの最終工程であるマスタリング作業をAIが行ったり、企業用広告・YouTube動画・ゲームのBGMなどでAI生成音楽が使用されたりと、既にAIが補助を超えて人間の役割を代替し始めている。

もちろん、ライブやコンサートの現場にもAIは進出している。
演奏においては既に「AIバンド」や「AI DJ」が実験段階で存在するそうだし、演出・ステージプロダクションにおいても、AIが観客の反応や曲調に合わせて照明・映像・舞台装置を変化させる演出の自動化が導入され始めていて、それらは近い将来さらに進化・普及してゆくに違いない。

初音ミクのようなバーチャルアーティストやABBAのホログラム公演のように、そこに人間が実在しないコンサートやライブが既に成立して観客を集めているし、AIで生成された“架空のアーティスト”がステージに立ち、観客とコミュニケーションすることも技術的には可能な段階にきているそうだ。

ちなみに、この文章もChatGPTのサポートを受けている。例えば、音楽の現場にAIがどのような形で進出しているのかをChatGPTは実にわかりやすく具体的に教えてくれた。上記の文章の具体例はChatGPTからの情報を参考にしている。

文章を書き進める中で、ChatGPTにこんな問いを投げかけてみた。
「将来において、AIがライブステージにおける人間の役割を代替する可能性はありますか?」

この問いに対してもChatGPTはいくつもの事例を上げながら実に丁寧な返答をくれた。その上でChatGPTが導き出した結論は以下だった。
「ライブは“AI主導型”と“人間主導型”が並立する時代になると考えられます。」

自分が続けているライブ活動はもちろん“人間主導型”。
“人間主導型”のライブ現場では、”不確定要素”を受け入れながら双方向性・偶発性・即興性を活かしてゆく対応がさらに重要になってゆくと思う。お客さんのリアクションや会場の響き・その日の自身の心持ちや体調によって演奏のニュアンスや選曲・MCを変えたり、機材トラブルやミスタッチ・歌詞忘れなどの思いがけないハプニングをライブの物語の一部としてポジティブに取り込んでゆく、そういった対応はAIには難しいだろう。

AIと共存してゆく時代においては、自身の体験や人柄をステージやクリエイティブに生かすことがますます大切になってゆくように思う。そこはまだ人格を持たないAIが踏み込めない人間ならではの領域だろう。

その上での重要なキーワードは”不完全力”だと思う。自信が(あるいは人間そのものが)完璧ではなく不完全であることを受け入れ他力を取り入れることで化学反応・相互作用を生み出す力を自分はそう呼ぶことにした。
”不完全力”を高めるためには取り繕わず正直であること、自身の姿や状況を受け入れて視野を広げて柔軟に対応する姿勢が大切になる。
そうやって身についた”不完全力”が、AIの「完璧さ」では演出できない演出を超えたドラマや一期一会を生み出してゆく。この考えは自分の積み重ねた体験に依拠するところが大きい。

現時点ではAIが自分の音楽活動に極端な変化をもたらすまでには及んでいないけれど、今後その影響はますます大きくなってゆくだろう。
海外では「近いうちに人間並みの知能を持つAIが登場してAI自身がAIを進化させて人間以上の知能を持つことが可能になり、ここ数年のうちに人間の仕事のあり方や社会の仕組み・生き方を劇的に変えてしまう」といった内容の論文が話題になっているそうだ。AIの進化は自分の想像をとっくに超えている。

人間はAIを使いこなし共に進化することができるのか?あるいはAIの意思決定に依存するような存在に成り下がってしまうのか?AIがもたらす権力集中・民主主義の危機、経済・教育格差の拡大もこれから大きな問題になってゆくのだろう。
この止まらない進化の加速に、果たして人間はどこまで対応できるのだろう?考えるほどに楽観できる状況ではないように思える。なんか知らん間にえらい時代になってきた感じ。

まあ、悲観も楽観もし過ぎず、柔軟にAIとの共存を意識しつつ”不完全力”を高めて、他者との関係性の中でこれからも面白おかしくやってゆけたらと思う。

ー 2025年9月1日(月)

2025年8月31日日曜日

六角精児さんの歌は業(ごう)の肯定

六角さんの歌は「業(ごう)の肯定」だと思う。
昨夜YouTubeに公開した「六角とリクオ」のライブ動画2曲もそう。

一昨日磔磔で見た六角精児バンドのライブは、メンバーの皆さん、ステージでお酒が進みつつも演奏が乱れることはなく、いいリラックス効果をもたらして、磔磔の空気にも馴染んだ楽しいパフォーマンスだった。自分もそうありたい。

楽屋で六角さんとお酒の話になった時「『呑み鉄』見てたら、六角さんずっと飲んでるね〜」とオレが言ったら、「アレは編集の力やよ」とのこと。そりゃそうやわな。
「六角さん、芝居の本番前に飲んだりすることあるの?」との問いには「芝居の舞台では本番前も本番中も飲まない」とのこと。そりゃそうやわな。

体を壊したり失敗を重ねながら、今の六角さんはお酒と良い付き合いしてる様子。自分もそうありたい。でも時々はハメを外したい。
だって、人間だもの。わ〜、相田みつをになってもうた〜。

ー 2025年8月31日(日)