2025年9月18日木曜日

レイシズムや排外主義に影響された人達に「寄り添う」ことについて

「参政党支持者にも寄り添うべきだ」という言説に対する違和感を伝えるFacebook上の投稿を読んで、色々と考えさせられている。

自分の知り合いの中にも参政党の党員になった人がいる。
彼がコロナ禍の数年前からデマや陰謀論と思しき投稿をSNSで繰り返すの見ていたので、党員になったと知っても驚きはなかった。そのわけを知りたいとも思ったけれど、既にこちらから距離を置いてしまった後だった。
その知人はこちらが距離を置いた理由を感じ取っていたと思う。自分にとっては、音楽を愛するいい人だし、お世話にもなった人なので、彼を傷つけたかもしれないと思うと後ろめたさが残った。

コロナ禍に陰謀論に走った知人は何人もいるし、確認はしていないけれど、先の参院選挙で参政党や日本保守党に投票した知人もいるだろう。各地で出会う人達との会話の中で、レイシズムを含むデマや排外的な発言が当たり前のように出てくることもある。
そういった発言を受けて、打ち上げの席でこちらが議論を持ちかけたり、逆に同席の誰かから議論を持ちかけられたりしたことが何度もある。そういう場合は、上から目線で話したり論破を目指さないよう心掛けているつもりだけれど、なかなか難しい。こちらが強い言葉を投げかけたことで相手が余計頑なになってしまったこともあり、それは苦い思い出となっている。

また別の打ち上げの席でのこと。何かのきっかけで外国人労働者が話題になった時、同席していた一人が彼の街で暮らす移民の人達との軋轢について堰を切ったように語り始め、「自分のこの訴えをレイシズムと呼ばれるのは納得がいかない」と目に涙を浮かべながら訴えかけてきたたことがあった。
その時は、まず自分の言葉を飲み込んで、とにかく彼の話を聞き続けることにした。少し前まで楽しかった打ち上げの空気は一変してしまったけれど、その場にいたみなが彼の話に耳を傾けた上で、ぞれぞれが自分の考えや体験を語り始め、意見を交わし合った。その夜は、ぎこちなさを含む会話の中で、ある程度の対話が成り立ったように思えた。

レイシズムや排外主義に影響された人達との関係を全て断とうとすれば、自分の音楽活動は支障をきたすだろう。それらはもはや特別な態度ではなく、隣人や仕事仲間・社会全体にカジュアルに浸透しているように感じる。誰もが抱きがちな暗い本音が、「お墨付き」によって解き放たれてしまったとも言えるかもしれない。

それぞれの差別・排外意識には濃淡があり一括りにはできないけれど、その多くの人達が自分にとっては「いい人」であり、お世話になり感謝すべき人も含まれる。
だからこそ、なぜなんだと思うし、もう少し寄り添い合って、そこに至る思いを理解できないものかとも考える(ただ、そう思えるのは彼らが知人であることが大きい。YouTubeなどで、レイシストが街頭で聞くに耐えないヘイトスピーチを繰り返す映像を観る度に怒りが湧くし、もし自分がその現場にいて醜悪なレイシストの姿を目の当たりにすれば、彼らとの対話はおろか、寄り添う気持ちにもなれないだろうと思う)。

同時にマイノリティの知人達の姿、特に、在日朝鮮人の幼馴染みの顔が思い浮かぶ。彼らがどれほど傷つき不安な日々を送っているかを、参政党員の知人は想像できていないだろう。

まず寄り添うべきは、差別や排外の対象になっている人達であるべきだと思う。けれど、参政党・日本保守党の支持者や排外的な空気に染まった人達への「寄り添い」を拒否して彼らを一括りに切り捨てることが、この先の共生につながるようには思えない。
レイシズムや排外主義を毅然と拒否し続けると同時に、それらに影響された人達が不安・被害者意識・ルサンチマンを抱いているのなら、その正体にもふれたいと思う。そのためにも、ぎこちない対話と内省の時間を大切にしたい。

ー 2025年9月18日(木)

2025年9月13日土曜日

心の揺らぎと想像力 ー チャーリー・カーク氏への銃撃事件について考えたこと

 戦争状態において敵側の人間は人扱いされず、その夥しい死が歓迎・祝福され、殺人の指揮者は英雄扱いされる。
一方で、敵国側の自国に対する殺人行為は「人手なし」とみなされ憎悪の対象となり、味方の戦死は「殉教者」として戦意高揚にも政治利用される。

アメリカの分極化を象徴する活動家・チャーリー・カーク氏が銃撃され死亡したことに対して、反カーク派の一部がSNSを通じてその死への歓迎を表明した。カーク氏の支持者はその反応に憤り、左派・反カーク派全体を一括りに「人手なし」とみなして憎悪の炎を燃やす。この機を見てインフルエンサーは過激発言を繰り返してさらなる憎悪を煽り、金儲けに勤しむ。

トランプ大統領は亡くなったカーク氏を「殉教者」として讃え、容疑者が判明していない段階で「過激な左派による政治的暴力(ポリティカルバイオレンス)があまりにも多くの命を奪ってきた」などと発言して、左派・リベラル派の責任を一方的に主張した。
国全体を揺るがすような暴力に対して、トランプ大統領は融和や団結を語るよりも対立を煽っ ている。彼にとっては国内での対立構図をつくることが生き残りの手段なのだろう。
チャーリー・カーク氏の死は、今後も政治利用され続けるに違いない。

こういった構図を見るにつけ、アメリカは心理的にはもはや内戦状態にあるように思える。現在のアメリカの姿が、日本のすぐ近くの未来になりかねない、そんな危惧を抱いている。
人はすぐ感情に流され、暴力・殺人によって物事が解決さることを案外簡単に受け入れてしまう。まともとであり続けることが難しい時代に突入したと思う。

今回の銃撃事件を受け、チャーリー・カーク氏の公での言動を調べれば調べるほど、彼が多くのマイノリティーを傷つけ憎悪の連鎖を刺激した人物であるとの印象が深まってゆく。
彼が ライフワークとして行い続けた若者との議論の動画も複数見たけれど、その姿勢はどちらかというと立場や考えの違う相手をやり込める「論破」に近く、相互理解や共感によって両者で新たな答えを導き出そうとする「対話」の姿勢は感じられなかった。

それでももちろん、彼の死を歓迎するような気持ちにはなれない。この銃撃事件が、あってはならない悲劇であるとの認識は変わらないし、この事件を契機に憎悪と暴力がさらに拡散・連鎖してゆくことに対して深刻な懸念を抱いている。

国連に代表される国際社会は政治的暴力を否定する一方で、イスラエル国家によるガザでの究極とも言える政治的暴力・ジェノサイドを止めることができず、結果的に放置している。これは自分達が抱える大きな矛盾の一例だ。
死亡したチャーリー・カーク氏は、そのイスラエル国家によるジェノサイドを正当化してきた人物でもある。ガザの人達がカーク氏の死を悼むことができるだろうか。

カーク氏に奥さんと2人の子供の家族が存在するように、ガザで虐殺された人達にもそれぞれに家族があった。大人だけでなく、あまりにもたくさんの子供達が酷い殺され方をした。そして、現在もその状況は続いている。

思想や立場の違いがあってもカーク氏の死を悼みたいと思う一方で、ガザの人たちが置かれている状況を想像すると、その死を悼むことへの躊躇が生まれ、気持ちが揺らぎ始める。
共感の距離を見失えば、一方の他者を想い描く力を失いかねない。そうやって憎しみや暴力の連鎖に取り込まれてしまうことは望まない。自分はカーク氏のことをもっと知るべきなのかもしれない。

もう考えるのがしんどくなってしまうのだけれど、この「心の揺らぎ」の中にこそ、微かな希望を見出せるかもしれないとも思う。
まともであり続けることは、こうやって「あいだ」に立ち、時には振り返り、逡巡を繰り返し、揺らぎに向き合いながら歩き続けることなのかもしれない。

ー 2025年9月13日(土)

2025年9月1日月曜日

AIとの共存における”不完全力”の重要性

AIの急激な進化と浸透を目の当たりにして、人間だからこそ担える領域について考えさせられている。

音楽の現場においてもAIの進出・浸透は著しい。
制作現場では、レコーディングの最終工程であるマスタリング作業をAIが行ったり、企業用広告・YouTube動画・ゲームのBGMなどでAI生成音楽が使用されたりと、既にAIが補助を超えて人間の役割を代替し始めている。

もちろん、ライブやコンサートの現場にもAIは進出している。
演奏においては既に「AIバンド」や「AI DJ」が実験段階で存在するそうだし、演出・ステージプロダクションにおいても、AIが観客の反応や曲調に合わせて照明・映像・舞台装置を変化させる演出の自動化が導入され始めていて、それらは近い将来さらに進化・普及してゆくに違いない。

初音ミクのようなバーチャルアーティストやABBAのホログラム公演のように、そこに人間が実在しないコンサートやライブが既に成立して観客を集めているし、AIで生成された“架空のアーティスト”がステージに立ち、観客とコミュニケーションすることも技術的には可能な段階にきているそうだ。

ちなみに、この文章もChatGPTのサポートを受けている。例えば、音楽の現場にAIがどのような形で進出しているのかをChatGPTは実にわかりやすく具体的に教えてくれた。上記の文章の具体例はChatGPTからの情報を参考にしている。

文章を書き進める中で、ChatGPTにこんな問いを投げかけてみた。
「将来において、AIがライブステージにおける人間の役割を代替する可能性はありますか?」

この問いに対してもChatGPTはいくつもの事例を上げながら実に丁寧な返答をくれた。その上でChatGPTが導き出した結論は以下だった。
「ライブは“AI主導型”と“人間主導型”が並立する時代になると考えられます。」

自分が続けているライブ活動はもちろん“人間主導型”。
“人間主導型”のライブ現場では、”不確定要素”を受け入れながら双方向性・偶発性・即興性を活かしてゆく対応がさらに重要になってゆくと思う。お客さんのリアクションや会場の響き・その日の自身の心持ちや体調によって演奏のニュアンスや選曲・MCを変えたり、機材トラブルやミスタッチ・歌詞忘れなどの思いがけないハプニングをライブの物語の一部としてポジティブに取り込んでゆく、そういった対応はAIには難しいだろう。

AIと共存してゆく時代においては、自身の体験や人柄をステージやクリエイティブに生かすことがますます大切になってゆくように思う。そこはまだ人格を持たないAIが踏み込めない人間ならではの領域だろう。

その上での重要なキーワードは”不完全力”だと思う。自信が(あるいは人間そのものが)完璧ではなく不完全であることを受け入れ他力を取り入れることで化学反応・相互作用を生み出す力を自分はそう呼ぶことにした。
”不完全力”を高めるためには取り繕わず正直であること、自身の姿や状況を受け入れて視野を広げて柔軟に対応する姿勢が大切になる。
そうやって身についた”不完全力”が、AIの「完璧さ」では演出できない演出を超えたドラマや一期一会を生み出してゆく。この考えは自分の積み重ねた体験に依拠するところが大きい。

現時点ではAIが自分の音楽活動に極端な変化をもたらすまでには及んでいないけれど、今後その影響はますます大きくなってゆくだろう。
海外では「近いうちに人間並みの知能を持つAIが登場してAI自身がAIを進化させて人間以上の知能を持つことが可能になり、ここ数年のうちに人間の仕事のあり方や社会の仕組み・生き方を劇的に変えてしまう」といった内容の論文が話題になっているそうだ。AIの進化は自分の想像をとっくに超えている。

人間はAIを使いこなし共に進化することができるのか?あるいはAIの意思決定に依存するような存在に成り下がってしまうのか?AIがもたらす権力集中・民主主義の危機、経済・教育格差の拡大もこれから大きな問題になってゆくのだろう。
この止まらない進化の加速に、果たして人間はどこまで対応できるのだろう?考えるほどに楽観できる状況ではないように思える。なんか知らん間にえらい時代になってきた感じ。

まあ、悲観も楽観もし過ぎず、柔軟にAIとの共存を意識しつつ”不完全力”を高めて、他者との関係性の中でこれからも面白おかしくやってゆけたらと思う。

ー 2025年9月1日(月)

2025年8月31日日曜日

六角精児さんの歌は業(ごう)の肯定

六角さんの歌は「業(ごう)の肯定」だと思う。
昨夜YouTubeに公開した「六角とリクオ」のライブ動画2曲もそう。

一昨日磔磔で見た六角精児バンドのライブは、メンバーの皆さん、ステージでお酒が進みつつも演奏が乱れることはなく、いいリラックス効果をもたらして、磔磔の空気にも馴染んだ楽しいパフォーマンスだった。自分もそうありたい。

楽屋で六角さんとお酒の話になった時「『呑み鉄』見てたら、六角さんずっと飲んでるね〜」とオレが言ったら、「アレは編集の力やよ」とのこと。そりゃそうやわな。
「六角さん、芝居の本番前に飲んだりすることあるの?」との問いには「芝居の舞台では本番前も本番中も飲まない」とのこと。そりゃそうやわな。

体を壊したり失敗を重ねながら、今の六角さんはお酒と良い付き合いしてる様子。自分もそうありたい。でも時々はハメを外したい。
だって、人間だもの。わ〜、相田みつをになってもうた〜。

ー 2025年8月31日(日)



2025年8月11日月曜日

函館26年をめぐる物語

函館滞在4日目、「はこだて国際民俗芸術祭」最終出演日。ブンダステージのトリで熱く盛り上がる。
新曲「晩年ロック」のサビではお客さんが大合唱。元々弾き語りではミディアムテンポで切々と歌っていたのが、お客さんのリアクションに引っ張られて、曲か変化したり成長してゆくのが面白いし、逆説を含んだ自分なりの人生賛歌が伝わっている手応えがあるのが嬉しい。

「国境で区切ったり、人種で区切ったり、人は得てして線引きをしたがるけれど、音楽はその線引きを超えてゆく。国境を超え、海を超え、人種を超え、音楽はどこへでも流れつき、各地で化学反応を起こして、その土地ならではの新しい文化、その人ならではの個性を生み出してゆく。
『はこだて国際民俗芸術祭』は世界中の街角や路上でそのようにして生まれた音楽が集い出会う場所。この芸術祭のように、音楽のあり方そのもののように生きてゆけたらと思う。」

こんなMCをしてから「イマジン」を歌ったら、この歌がまるで音楽のことを歌っているように感じられた。音楽は、それが宗教や民族や主義のコミュニティーの中から生まれたとしても、常にそれらを超えて拡りローカル性を維持しながら融合を繰り返す。音楽においては既に多文化共生の理想が実現しているようにも思える(一方で、音楽は排外主義や全体主義にも利用されることがある)。
音楽は人間の先を行っているけれど、その音楽を生み出しているのは人間でもある。自分自身は、その音楽のあり方を日常の中である程度は意識的にも無意識でも実践しているように思うし、そのような人は世界中にたくさん存在する。ジョン・レノンが歌った世界は絵空事ではないと思う。

「イマジン」を歌うときは、常に自分の中に「問いかけ」が存在する。昨夜のように歌いながら自分の中で解釈が広がったり、その時の気分や状況によって歌の響きや意味合いが変化したりもする。曲名通り想像力を刺激する歌なのだ。この歌をサヨクによるコスモポリタン的理想主義として矮小化・単純化するのは、浅はかさだし勿体無いと思う。

終演後は函館の老舗ライブ・スポット・あうん堂でKさんと待ち合わせる。Kさんは、研究者だった自分の父のゼミの元生徒さんで、卒業後も父との交流が長く続き、その縁で、父が亡くなった後も自分のライブに足を運んでくれたり、時々連絡をいただくようになった。2年前に函館に引っ越されて、今回連絡をいただいき、2日前もライブ後に杯を交わしたばかり。

あうん堂を訪れるのは、この場所でライブをやらせてもらった26年前以来。あうん堂は「はこだて国際民俗芸術祭」を立ち上げたソガ夫妻が自分をフェスに呼んでくれるきっかけになった場所でもあった。
26年前のあうん堂でのライブに集まったお客さんは10人にも満たなかったと記憶しているけれど、その中の2人が当時大学生だったソガ夫妻だったのだ。その時に物販で購入してくれたインディーズになってからの初ソロアルバム「Heaven's Blue」を2人が長く愛聴してくれていたそうで(その影響で息子さんもアルバムを聴いてくれるようになったそう)、そんな縁が昨年からの芸術祭出演に繋がった。
あの時は、あまりの動員の少なさに、もう函館にはしばらく戻ってこれないだろうと落ち込んだけれど(実際に次の函館ライブまで8年くらいの期間が空いた)、四半世紀を経てその時の縁が繋がってゆくなんて、長く続けていて良かったと思う。

そうした縁にプラスして、Kさんがあうん堂の常連さんであり、前夜に訪れたワインバー・魚販のマスター・ノトヤ君がササイさん夫妻と懇意にしていたこともきっかけとなり、26年振りにあうん堂訪れる機会を得たのだ。

あうん堂の現在のマスター・ササイさんはお店の3代目のマスターで、自分がライブをやらせてもらった26年前はアルバイトでPAをやってくれていたそうで(覚えてなくてすいません)、その時以来の再会。
入店が閉店時間近くになったにも関わらず笑顔で迎え入れてもらい、ササイさんの奥さんも加わって4人でテーブルを囲み楽しく飲ませてもらう(魚販でも飲ませてもらった函館産のウイスキー・デイトリッパーが最高の美味しさでした)。
来年にはあうん堂での27年振りのライブが実現するんじゃないかと思う。

函館滞在の4日間は、多くの再会と出会いに恵まれた。自分がツアー暮らしを続ける意味を確認できた気がする。
今日は弘前へ。

ー 2025年8月11日(月祝)


2025年8月6日水曜日

映画『KNEECAP/ニーキャップ』を観た

 北アイルランド出身のヒップホップ・トリオ・ニーキャップのメンバー自らが演じる半自伝的映画『KNEECAP/ニーキャップ』を観てきた。まずはムチャ面白かった。
音楽・言葉・映像が躍動していて、終始ワクワクしながら観た。アイルランド語によるパンクなラップと物議を醸し続ける3人の言動については、ぜひネットやSNSで検索して確認してもらいたい。

パレスチナへの連帯を公言するニーキャップは、その過激な言動によって、特に北アイルランドの宗主国であるイギリスにおいて激しいバッシングを受けている。最近では、イギリス首相から名指しで非難されたり、フェスから彼らを外そうとする動きがあったり、演奏中に検閲を求める声があがったり、と話題に事欠かない。

映画のパンフレットの中で北アイルランド研究者の尹 慧瑛(ユン ヘヨン)氏が語っていたように、ニーキャップの表現に含まれる暴力性と悪意・享楽性に対して安易に共感を示すことには自分も躊躇を覚えるけれど(映画に痛快さを感じつつも)、そのラップや言動の背景や歴史を無視して彼らを批判することは、問題の本質に蓋をする愚かで抑圧的な行為だと思う。
生々しい怒りややり切れなさの表明なしに社会問題が注目を集めることは難しい。その怒りに対する拒絶や無視が、差別や抑圧の構造の温存につながることを忘れずにいたい。

自分は、彼らとは育ちや背負っている歴史も違うので、目指すところが同じでも、同じ表現方法は取れない。
時と場合によって表現に悪意や暴力性が込められることもありだと思っているけれど、自分自身はその快感や万能感から距離を置くように心掛けている。結局、映画を観て自分のことを考えさせられたり確認した感じ。

自分が知らないだけかもしれないけれど、この映画もニーキャップも、日本ではあんまり話題になっていないようだ。日本でニーキャップを知らない人達がこの映画を観てどんな感想を持つのか気になった。




ー 2025年8月6日(水)

2025年8月1日金曜日

政治家が「非国民」や「差別ではなく区別」という言葉を公言する時代

この10数年の間、政権に批判的だったり多文化共生を唱えるような人達を「非国民」という侮蔑語でレッテル貼りしたり、人種や民族に基づいた差別や偏見を「差別ではなく区別」であるとして肯定する常套句をネット上で見続けてきた。当初、そうした言説を使うのは極端な排外思想に取り憑かれたほんの一部の人達という印象だったけれど、最近はそうではなくなってきたようで怖い。

今回の参院選に当選した参政党の議員2人が、街頭演説中と当選直後に出演したテレビ番組でこの2つの言葉を使用しているのを見て、ついに政治家までもがそんな言葉を公言する時代になったのかと暗澹たる気持ちになった。
この党の党首も街頭演説中に、朝鮮人に対する侮蔑的差別用語である「チ○ン」という言葉を使用して批判を浴びている。すぐに訂正したとしても、その言葉が口をついて出た事実は変わらない。党の代表者が差別意識や排外意識を持った人物であることは明白だろう。

「日本人ファースト」はそういったレイシズムや排外主義を肯定する空気に後押しされた言葉であり、その内実は日本人全体の優先でさえなく、“正しい日本人像”に合わない人、自分とは異なる価値観や行動を排除する作用を持った言葉だと思う。

自分が愛する全ての音楽は、人種や国籍を越えて世界を巡り、互いに響き合い混じり合ってゆくことで成り立ってきた。その歴史を知れば 知るほど排外主義などありえない。自分が尊敬するミュージシャンの多くは、レイシズムや排外主義、権威主義に背を向け、時には意義を唱え続けてきた。その歴史の流れに自分も身を置き続けたいと思う。

ー 2025年8月1日(金)