ツアー先の仙台のホテルにてうまく寝付けず、ベットの中でドラマ「不適切にもほどがある」の最終回を考察するYouTube番組をラジオ感覚で音だけで聴いてたら、自分の思いと重なる意見や新たな発見があったりして、とにかく面白くて聞き入ってしまった。
無限まやかし【エンタメ面白解剖ラジオ】
芸人の大島育宙氏と高野水登氏が映画やドラマ、漫画などのフィクションを考察
「不適切にもほどがある」の最終回が放送されてから5日経ってもまだドラマの余韻を引きずっていたので、このYouTube番組は自分にとってタイムリーだった。
「寛容」をめぐる大島氏と高野氏の熱さと冷静さを伴った議論は聞き応えがあり、議論の過程で両者の考えが更新されてゆく様は対話の理想形を示しているように思えた。
完全に目が覚めてしまったので、備忘録のつもりで、自分も、番組の意見を参考にしつつ最終回の感想を少し書き残しておこうと思う。
ドラマは毎回、ミュージカルソングが披露されるのが恒例で、第1回放送では「話し合い」がテーマの歌が披露され、歌の中で「話し合いましょう」というフレーズが何度もリフレインされていた。
その後も、「話し合い」はドラマの重要なテーマの一つとなる。
けれど、ドラマ最終回においては、状況によっては必ずしも「話し合い」が万能ではないことを示唆する展開が用意される。 当たり前の話だけれど、「話し合い」は一方通行では成り立たない。時間を置くことも大切。「話し合い」も一筋縄ではいかないのだ。
「話し合い」に関するこうしたオチの付け方こそが、作品の多面性と誠実さを示していると思うのだけれど、ドラマを見続けなければオチが伝わらないあり方は、多くの誤解と批判を招いてしまった。
情報過多の時代においてワンクールのドラマにじっくり付き合うことが難しくなっている状況や、条件反射的なリアクションが可能なSNSのあり方が、批判に拍車をかけたように思う(一概に批判を否定するわけではないです)。
ドラマ最終回のミュージカルソングのテーマは「寛容」だった。歌の中で「寛容になりましょう」というフレーズが何度も繰り返されるのを聴いて、共感と同時に、正直、戸惑いも感じた。その思いはYouTube番組「無限まやかし」での藤原氏も同じだったようで、この歌に対してより肯定的だった高野氏との議論は多いに白熱した。
「寛容」はこのドラマのみならず現代のキーワードであり、もはや「ファイナルワード」のようにも自分は捉えている。故に「愛」と同様に、言葉が安易に消費され無意味化されてゆく危険性を孕んでいるように思う。
歌の中に「寛容と甘えは違う」というようなツッコミ的な歌詞も含まれているとは言え、少し表現の解像度が低く、言葉が都合よく解釈されてしまう懸念を抱いた。
3.11以降、差別する側が「レイシズム反対を訴える側にこそ自分たちが行う『区別』を受け入れる『寛容』さが欠けている」と主張したり、トーンポリシングの問題と結びつけてデモなどを通して理不尽に対する怒りを表明する態度を「不寛容」との言葉で押さえつけようとする傾向などを見てきたので、「寛容の肝要」を感じるからこそ、次第に言葉の使い方や使用場面を慎重に考えるようになっていたのだ。
ドラマの歌の締めの歌詞は「大目にみましょう」だけれど、そうだよなと思いつつ、大目にみちゃいけない場面があることも確かだとも思うのだ。
でも、脚本のクドカンさん(宮藤官九郎)はそんなことは百も承知なのかもしれない。このベタさ、直球具合こそがクドカンさんの覚悟と捉えることもできるように思う。言葉の危うさを自覚した上で、クドカンさんは批判覚悟で敢えて、「寛容」という露悪なき直球ど真ん中の「正論」をドラマの最後に投げ込んだのかもしれない。そして、ドラマを観続けてきた視聴者であれば、その真意は伝わるだろうとの思いもあったのかもしれない。
あるいは、クドカンさんは、この歌で再び批判が生まれることさえも、議論の機会としてむしろ良しとして期待していたのかもしれない。
個人的には、現在は「正論」が足りない時代だと思っているので、「相対化の時代」を生きてきたクドカンさんが、この状況において露悪表現なしに「正論」を投げかけることの意義の大きさも感じる。
自分は、このドラマを、自身の体験と重ね合わせて観る機会が多かった。第1話での「ケツバット」の場面は、中学生の野球部員時代に先輩からやられた側の記憶として、いい気分はしなかったし、少し心が固くなった。
ドラマのテーマの一つとなっている「話し合い」がうまくいかなかった苦い経験も思い出した。いつか面と向かって真意が伝わる時がくればいいなと思うけれど、その時点ではやはり「話し合い」はベストな選択ではなかったのだろうなと、ドラマを通してあらためて認識し直した。
「無限まやかし」でも語り合われていたけれど、マタハラで訴えた側の後輩・杉山ひろ美と訴えられた側の先輩・渚がエレベーターの中で偶然再会する場面は、最終回の中でも特に特に印象に残った。
2人はお互いに彼氏ができた近況を報告し合い、両者笑顔で別れる。互いの環境に変化が起こったことで、以前より2人に心の余裕ができてたことを窺わせる場面だった。
けれど、両者による「話し合い」が行われることはなく、多分、お互いのわだかまりは完全には解けていない。
後輩の杉山ひろ美と別れた後に、渚が自身に言い聞かせるように「寛容になりましょう」と呟く姿を見て、自分自身の経験が蘇り、「ああ、自分の方も相手を許せていなかったんだな」と気付かされた。
渚のように、自分自身にこそ「寛容」を言い聞かせてゆこうと思う。
そして、たまたま再会するような機会があれば、笑顔でいれるだけの心の余裕を持っていたい。
このドラマを通じて「何をいかに表現するか」の「いかに」の大切さと難しさをあらためて自覚させられた気がする。自分がどこまで受け取ることができたかわからないけれど、ドラマの中でクドカンさんが「いかに」表現するかを悩み自問自答した形跡は確かに感じられた。
ドラマのテーマとなるワードはシンプルでも、その言葉を肉付けしてゆく表現は多面的で気づきに満ちていた。繰り返し観れば、また新たな発見に出会うことのできる作品だと思う。
最初から最後まで深く楽しませてもらいました。
ー 2024年4月4日(木)