単純な物語に寄りかからず、自分で丁寧に物語を紡ぐ。
「正義」を押し付けない。決めつけない。
受け身の取り合える喧嘩を。殺さない。
「敵対」より「共感」を。
社会から、多様性、他者への想像力、寛容、ユーモアが失われませんように。
ー2014年8月15日
ツイートする前には、何度も自分の文面を見直し、自問を経た上で、画面の「ツイートする」をクリックした。
上記の言葉をツイートした後、自分がフォローしているある人物の連続したツイートをタイムライン上で目にした。そこには、とても強い言葉が連なっていた。
「戦いを望む連中に、戦わずに勝てると思うな。祈りは何の役にも立たない。行動だ。」
「社会を変えるには明確に照準を合わせる敵が必要だし、敵を本当に倒すには社会を変える必要がある。」
「『戦争に反対する人が闘いだ!なんて…。』とか甘っちょろい事を言っていてよい時代は終わりました。日本という国を戦争に向かわせる人間と“闘う”事と、そいつらと闘わないで、後から他国と“戦争”をして文字通り殺しあうこと。どちらが良いかは明白でしょう。」
一連のツイートを読みながら、なんだか自分が責められているような圧力を感じた。
3.11以降、この人物のツイートを長く読み続けてきた。脱原発を訴える反原連での活動やヘイトデモに対するカウンター活動など、その行動力にはリスペクトの気持ちを持っていたし、ツイートを読んで納得させられたり、教えられたりすることも多くあった。同意できない部分も含めて、ここ数年、この人物の言動が自分に考えるきっかけを色々と与えてくれていたことは確かだ。
今回、自分のツイートとこの人物のツイートを読み比べてみて、自分のツイートはいかにも「甘っちょろい」と感じた。これは自分を卑下しているわけではない。むしろ「甘っちょろい」言葉が通じない世の中が来ることを危惧している。
彼のツイートの中で特に「祈りは何の役にも立たない」という言葉が強く心に刺さった。
「もう2年前とは状況が変わったんだな」あらためてそう思った。
2年前の春から夏にかけて、自分は原発再稼働に反対する官邸前の抗議集会に何度も参加していた。春に参加した頃は数百人の集まりだった抗議集会が、時の野田政権が大飯原発の再稼働容認を表明したことを一つのきっかけに、6月以降は万単位が集まる大集会に膨れ上がっていった。その時期、官邸前の多勢を占めたのは、いわゆる活動家やセクトの人間ではなく、再稼働に反対するというワンイシューの下、イデオロギーを超えて集まった一般の幅広い世代の人達だった。
女性の参加者も多く、そこには激しい「怒り」や「闘い」だけではなく、静かな「祈り」も存在した。この抗議行動がイデオロギーを超えた集まりであり、行動の中に「祈り」が存在することに、自分は新しい社会運動としての可能性を感じた。
けれど、その官邸前デモを主催する側の立場だった1人が、「祈りは何の役にも立たない」とツイートしたことは、この2年間の状況の変化を象徴しているような気がする(ツイートした本人は、2年前から同じ考えだったのかもしれないけれど)。
外から見る限り、この2年の間に都市部を中心とした運動の多くが、「闘い」を全面に押し出し、先鋭化する方向に向かっている印象を受ける。その流れは、恐らく安倍政権発足以降に加速された。今月初旬、都内で行われた安倍政権とファシズムに反対するデモのタイトルが「怒りのブルドーザーデモ」だったことは、そうした傾向を象徴している気がする。それだけ危機感が高まったということだろう。
そういう状況の中では、「受け身の取り合える喧嘩を」「『敵対』より『共感』を」なんて言葉は、右からも左からも「甘っちょろい」「きれいごと」として、切り捨てられそうだ。
3.11以降、ネットやマスメディア上で、たくさんの人達がなじられ吊るし上げられるのを目にしてきた。責任の所在をはっきりさせるために、権力を持たない側から「糾弾」という形が取られることは、場合によっては仕方がないことかもしれない。けれど、「糾弾」が大手を振る社会が好ましいとは決して思わない。
自分は次第に、どちらかというと糾弾する側よりも糾弾される側の立場に自分の気持ちを置くようになっていた。2項対立を危惧し、どちらかに一方的に寄らない、グレーゾーンの存在を切り捨てない。そういった姿勢は、世の中が切羽詰まって同調圧力が強まる程に、左右関係なくどちらの立場からも「糾弾」の対象になりかねない気がしている。
いや、少し深刻にとらえ過ぎなのかもしれない。
少なくとも、自分の回りは、そんなに閉塞した状況ではない。ツアー中心の音楽生活の中では、日々「HAPPY DAY」が地道に積み重ねられているし、自分達なりの楽しみや価値観を見つけ、新しい繋がりを模索し、丁寧に個々のストーリーを紡ごうとする人達との出会いも多い。そんな出会いを重ねることで、世の中は良い方向にも変化していると実感している。
ネットやマスメディアを通して得る情報と、自分の回りの状況はまるで別世界のように感じることがある。こちらの側でずっと面白おかしくやっていたいとも思うけれど、やはり両者はつながった作用し合う世界であり、無視することもできない。
どこか一方に寄り過ぎないよう、さまざまな世界を自分の中で保ち、それぞれを渡り歩き、つなぎあわせてゆけたらと思う。公の問題を無視することはできないけれど、それに押しつぶされてはいけない。深刻になり過ぎたらアカン。
自分はこれからも「甘っちょろい」「きれいごと」を言い続けてみようと思う。しんどくなったら多分やめる。他の表現方法を考える。
「甘っちょろい」「きれいごと」が言えるのは、ある程度余裕ある安全な立場に自分がいるからだということは自覚している。「汚れ役」を他にまかせているから、そういうことが言えるのだという批判も成り立つだろう。
けれど、世の中を変えるのは「闘い」を全面に押し出した社会運動や、政治運動だけではない。皆が正面切って闘う必要はないと思う。それぞれの立場、活動に違った役割があり、それらは互いを補完し合う関係にある。そんなことをイメージし合える世の中であってほしい。もちろん、この言葉も「甘っちょろい」「きれいごと」だと自覚している。
ー2014年8月24日
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