2014年8月5日火曜日

相馬のMさんからのメール

福島県相馬市・南相馬市発信のフリーペーパー「そうま・かえる新聞」最新号に寄稿させてもらった文章を、許可を得てブログに転載させてもらいます。
10月12日(日)には南相馬市・朝日座において、そうま・かえる新聞主催によるライブ・イベント「うたのありか2014〜そうま・かえる新聞presents リクオ&中川敬(ソウルフラワーユニオン)LIVE IN 朝日座〜」の開催が決定しました。
http://somakaeru.jugem.jp


2011年3月11日に東日本大震災が起きた時、自分は湘南の自宅でテレビを観ていました。湘南でも自分がかつて経験したことのない激しい揺れを感じました。
ほどなくしてテレビが、津波に飲み込まれてゆく東北各地の街の映像を流し始めました。その光景に強いショックを受けると同時に、東北で暮らす多くの知人の顔が想い浮かびました。被災したいくつもの街に、自分はツアーで何度も訪れていました。地震と津波によって多くの犠牲者を出した上に、原発事故によって大量の放射能が降り注いだ相馬市と南相馬市も、自分にとっては縁の深い街でした。
 相馬市には、カルメン・マキさんのツアーのサポート・キーボーディストとして、1998年に初めて訪れました。その後は主にソロでのピアノ弾き語りのスタイルで、定期的に相馬市と南相馬市を訪れるようになりました。お寺、小ホール、喫茶店、バー、イタリアン・レストラン、スーパーetc. 相馬ではホントさまざまな場所で演奏させてもらいました。
毎回地元の人たちと楽しく打ち上がり、ツアーで訪れるたびに相馬の知人が増えていきました。こういった繋がりがなければ、自分にとって震災や原発事故は、もっと他人事になっていたのかもしれません。
震災直後は、とにかく東北の知人の安否確認を急ぎました。まず相馬で最も付き合いの古いMさんと連絡を取ることができました。
彼は、津波に飲み込まれた相馬市海沿いの街の様子を写メで送ってくれました。その写真を見て言葉を失いました。どう返事を返してよいのか、わかりませんでした。Mさんの自宅も津波に飲まれたのです。
被災地の知人たちとの安否確認が一通り終わった後も、彼らとの連絡を取り続けるよう心がけました。被災した何人もの人が、ライフラインを断たれた避難生活の中で、夜空の明るさ、美しさを語ってくれていたのが印象に残っています。自分も震災から2カ月後に初めて被災地を回り、街の灯が消えた中で、輝く夜空に見とれました。夜空は輝き続けていたけれど、僕たちはそのことに気づく事なく、前ばかり見続けていたのかもしれません。
3・11以降の体験を経て、「手に入れることによって失った大切な何か」について考えるようになりました。
震災、原発事故直後からしばらくは、被災地以外の場所でも、大半の音楽ライブ・イベントが自粛され中止になりました。自分は、震災直後から多くのライブ・ツアースケジュールが入っていました。震災翌日の12日、小田原市でのライブでは、リハーサル中に、福島第一原発の事故が起きたことを知りました。激しく動揺する気持ちを押さえて、ライブを強行したのですが、大半のお客さんが来場をキャンセルしました。
翌13日の大和市、19日の藤沢市でのライブ・イベントは中止になりました。こういう状況下での音楽のあり方について、自分のなすべきことについて、深く悩みました。相馬のMさんから再びメールが届いたのは、そんな悩みと不安の最中でした。以下のような内容です。

リクオくん
駄目だよ、LIVEを中止しちゃ。
皆が元気になるパフォーマンスを全国に届けてあげないと。
この状況で音楽まで奪われたら人間だめになるよ。
やりなよ。
ミラクルマン唄いなよ。
リクオくんの使命だよ。

相馬にとどまり、降り注ぐ放射能の恐怖と不安を抱えながらの避難生活を続ける中で、Mさんはこのメールを送ってくれたのです。
震災直後、被災した何人かの知人が自分に託した言葉は「歌い続けてくれ」でした。彼らの言葉に背中を押されて、迷いや葛藤を抱えながらも、その後の音楽活動を続けました。先行き不安の中、不謹慎と言われようと、無理をしてでも皆で音楽を楽しもうと心がけました。
震災後、多くの被災地を回りました。相馬にも何度も訪れました。現地に足を運ぶたびに初めて知ること、感じることが多く、自分の想像力の限界を思い知らされました。情報化社会の中、我々は何でも知ったつもりになり、自覚無く多くを無視し、切り捨てているのだろうと思います。
被災地でショッキングな光景を目の当たりにしたときは、自分の心にリミッターがかかったような気がしました。あまりにも大きな哀しみや絶望を受けとめるだけの心の容量が、自分にはなかったのだと思います。
でもこの哀しみや絶望から目を背けることが、再び過ちを犯すことにつながるのでしょう。当事者として、過去を背負いながら、希望を失わず、そして楽しむことも忘れずに音楽活動を続けたいと思います。
そこに街があり人の営みがある限り、これからも相馬に何度も戻ってくるつもりです。

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