以下のブログを読んで、異議を唱えたくなってしまった。
http://kasakoblog.exblog.jp/22226966/
この人のブログ、何度かFBでシェアされているのを見かけたことがあって、いずれも興味深いテーマだったので、読ませてもらっていたのだが、同意できる部分もありつつ、その語り口と内容に対して、常に違和感が残った。今回のブログも、さっきFBでシェアされていたのを見て、読ませてもらったのだが、正直に言うと、読んだ後に少し腹立たしい気持ちになった。
「もういい加減、商店街というビジネスモデルが崩壊していることを、きちんと理解したらどうか。」
「商店街同情論者は、CDが売れないのにCDを買ってと嘆くミュージシャンや、1000円理髪店を不衛生だとナンクセつける旧理髪店とか、いりもしないのに作ってしまったがために、なんとしてでも再稼働したい原発推進派とまったく同じ」
「潰れるものは潰す。衰退するものを無理に助けない。」
まず、以上のような尊大で切り捨てるような物言いに、いらっときた(ちなみにオレは原発推進論者ではありません)。けれど、こういう明快な物言いにこそ納得して喝采を送る人が多いのだろう。
自分は、商店街や個人商店には、これからも大切な役割があると考えている(もちろん、時代に対応してゆく必要はあるけれど)。自分のような、草の根のネットワークを頼りにフェイス・トゥ・フェイスで活動しているツアー・ミュージシャンにとっても、地方の商店街が廃れ、街が空洞化してゆて行くことは、決していいことではない。
ブログを読んで、個人の利害を超えて、街の活性化や人のつながりを大切に考えながら、地方の街で個人商店を続ける知人達の顔が思い浮かんだ。自分の音楽活動は、そんな人達によっても支えられているのだ。
2000年に、大型店の出店調整が可能だった大規模小売店舗法(略称「大店法」)が廃止され、出店規模の審査をほとんど受けない大規模小売店舗立地法(略称「大店立地法」)が、あらたに立法化されたことで、大型店の出店は事実上自由化された。
大店立地法が立法化されるにあたっては、米国からの圧力にかなり影響されたようだ。商店街が廃れてゆく背景には、こうしたグローバリズムの影響も存在する。かっての大店法が、結果として商店街の競争力を奪っていたとはいえ、商店街の衰退を、商店を営む個人だけに責任を押し付けるのは違うと思う。
大店立地法施行後は、シャッター街に歯止めが利かなくなる地域が続出した。自分は、ツアー暮らしの中で、各地でその状況が進行してゆく様を目の当たりにしてきた。10年以内の間に一気に商店街が廃れていったという印象がある。
商店街が廃れるということは、街が死んで行くということだ。つまり、人々が集い、繋がる路上がなくなってゆくということだ。面と向かっての偶然の出会いの場所が奪われてゆくということだ。
自分が愛した多くの音楽は、街から生まれたストリート・ミュージックだった(都会だけでなく地方の街も含む)。自分は今、その連なりの中で音楽活動を続けているという自覚がある。街と音楽は繋がっているのだ。
街があって、バーやカフェ、ライブハウス、CDショップが存在し、そこに人々が集い、出会い、情報を交換し、その中で自分のようなツアー・ミュージシャンに演奏の「場」が与えられるのだ。1店舗だけでは厳しい。いろんなお店が集うストリートが必要なのだ。その横の繋がりの中で猥雑な「場」が生まれる。
個人商店が元気で、街が活性化していると、草の根のネットワークや、口コミが生まれやすい。今の時代でも、自分のようなツアー・ミュージシャンの活動に、口コミは重要なのだ。
人口が数万人以下をきる市や町に、ライブハウスがないのは仕方がないとしても、商店街は必要だと思う。商店街が廃れると、地域の人々の繋がり、コミュニティー、地域の特質が失われて行くことを実感している。これは、グローバリズムの進行が、むしろ多様性や選択肢を奪ってゆく一例のようにも思う(念のために、グローバリズムが一方的に悪だと言いたいわけではない。善悪ではなく、それを受け入れざるえない状況も存在するかと思う)。
このブロガー氏が語るように、確かに時代の変化への対応は必要だろう。けれど、新しいものばかりが善であるはずがない。
過疎地に商店街が成り立たないのは理解できるけれど、そもそも地方が過疎化してゆく状況や街のドーナツ化減少を、そのまま仕方がないと受け入れてよいのだろうか。筆者の「潰れるものは潰す。」という物言いはあまりにも強引で、浅はか過ぎる。
このブロガー氏は以前にも、「未だにCDを買ってと嘆く音楽業界の末期症状」( http://kasakoblog.exblog.jp/22057487/ )というタイトルのブログで、同じような調子で「CDなんてもはや死語に近い」と切り捨てていて、寂しい違和感を持ったのを覚えている。
永遠に続くビジネスモデルは存在しないし、今後’90年代の頃ようにCDが売れることもありえないだろう。けれど、そんな簡単に新しいビジネスモデルに舵を振り切ってしまってよいのだろうか。
ダウンロードにはないパッケージとしての良さや、MP3とは違う音質がCDやアナログレコードに存在していることも確かだ。音楽からアナログ文化が消えてゆくことのダメージも大きいと感じる。切り捨てようとしている部分に、これまで積み重ねられた音楽文化の大切な要素が含まれている事も知るべきだ。ただ時代の流れを受け入れるだけでなく、受け継がれたものを自覚的に守ることによって、未来に向けて育まれてゆくものも存在する。
ブログの筆者がそのことを全面的に否定しているとは思わない。けれど、そういった音楽の豊かさを、「実感としては」知らないのではないかという疑問が残る。新しい時代の中で、選択肢の幅がひろがったつもりでいても、実際には、若い世代の音楽好きやミュージシャンの中には、普段はMP3音源しか聴いていない、レコードの音をじっくりと味わったことがない、真空管の機材や楽器を使ったことがない、という者が相当数存在しているようだ。聴いたり弾いたりした体験がないから、その必要性すら特に感じない。それは、選択肢を失っているのと同じことではないだろうか。
自分は、CD、レコード、ダウンロード配信、YouTubeそれぞれが共存できる状況が望ましいと思う。話を戻せば、同様に商店街とショッピングモール、個人店と大型店が共存する方向へ向かうべきだと思う。時代に対応できない個人商店が出てくるのは、ある程度は仕方がないことかもしれないけれど、やはりシャッター街は、その街で暮らす人達にとっても望ましくないと思う。同時に、地方の商店街に大きなダメージを与えた「大店立地法」が本当に望ましい立法であったかも検証する必要があるのではないだろうか。これはTPPにもつながる問題だと思う。
つまり、選択肢の幅と多様性を維持するべきだというのが自分の考えだ。このブログの筆者には、利便性と引き換えに失うものや、多様性に対する認識が欠けていると感じる。
「何を手にして、何を失おうとしているのか」そういう自覚を持って、新しい時代に望みたいと思う。
このブロガー氏の意見にはうなづける部分もある。一面の事実を語っていると思う。けれども、それはあくまでも一方から見た、一面の事実に過ぎない。そのことに対する自覚のなさからくる傲慢、尊大な語り口こそが、最も自分が反発を感じた部分だと思う。
ネット上には、他者を慮ることのない一方的な意見や情報があふれている。その単純さ、明快さ、浅はかさこそが、読み手を引きつけるのだろう。より強く、偏った物言いをした方がアクセス数が増えることで、どんどん表現がエスカレートしてゆくという傾向も感じる。そういった送り手と受け手の共犯関係が、フラットな思考を奪い、「事実」や「真実」をどんどん遠ざけているのだと思う。これは、自分自身への戒めの言葉でもある。
ー2014年7月25日(金)
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