生き続けることは誰かを見送り続けること。
年齢を積み重ねるにつれ、この言葉が実感となりつつある。
最近は、旅立った人を想って感傷的になり過ぎることを自制しようとする自分がいる。多分その理由は色々で、まだうまく説明できそうにない。
会えなくなった人達のことを忘れずにいたいと思う。忘れてしまうことで、自分自身の何かが欠けてしまう気がする。あのニオイや佇まい、あの時の気分を覚えてはいても、具体的な出来事が思いだせなくて寂しい気持ちになることがある。もっと感傷以外の感情や出来事も思いだしたいのだ。あの人達のさまざまな姿が自分の中で、ずっと生き続けてほしいのだ。
再活動を始めたばかりの上田正樹とサウス・トゥ・サウスのメンバーであり、リトル・スクリーミング・レビューやラフィータフィーのメンバーとして忌野清志郎さんとも活動をともにしたベーシストの藤井裕さんが亡くなった。食道がんだった。
裕さんとは、自分がまだ大学生だった頃、石田長生さんの紹介で知り合った。自分の初の東京ツアーだった高円寺JIROKICHIのライブをブッキングしてくれたのは裕さんだった。そのライブでサックス奏者の梅津和時さんと知り合ったことが、自分のメジャーデビューの1つのきっかけになった。
自分の本格的なレコーディング初体験となった有山じゅんじさんのソロアルバム「聞こえる聞こえる」のレコーディングでのベーシストも裕さんだった。特に20代の頃は、裕さんと共演させてもらう機会が多く、勉強になることばかりだった。
音楽家・藤井裕のワン&オンリーの個性を支えていたのは、音楽に対してどこまでも真面目で真摯であり続ける姿勢と、その継続によって身につけられた極めて高い演奏技術だった。感性に頼るだけでなく、冷静に科学的にグルーヴをとらえることのできる人だったと思う。
精神面では、自分のナイーブさをいつまでも切り捨てることのない人だったとの印象がある。そういう姿は、人によっては不器用とうつったかもしれないけれど、自分が大切にする何かを最後まで守り通した人だと思う。
8月のお盆前、入院している裕さんを見舞いに有明の病院を訪ねた。相部屋のドアを開けて中に入り、区切りに使われていたカーテンを開けると、ベッドの上で上半身を起こし、頭にヘッドフォンをつけCDを聴いている裕さんの姿が目に入った。こちらに気付くと、裕さんは不意をつかれたような表情をした。その姿を見て、思ったよりは元気そうだという印象を持った。
傍らには何枚ものCDが置かれていて、ベッドの横には中身の入ったベースのハードケースが立てかけられていた。自分は裕さんにチェットベイカーとニーナシモンと自分の新譜のCDをプレゼントした。
サウス・トゥ・サウスの再活動に向けて既に数曲を完成させていて、これからさらにサウスのための曲作りを続けるつもりでいること等、裕さんは今後の活動について前向きに話して聞かせてくれた。病院の相部屋の狭いスペースの中でも裕さんの音楽生活は続けられていた。
見舞いにうかがう前は、何を話せばいいのかわからない気分だったけれど、会ってみれば予想以上に会話がはずみ、随分と長居してしまった。会話の流れの中で、10年くらい前に下北沢の飲み屋で裕さんと朝まで口論したことを思いだして、その話をしてみたら、本人はあまり覚えていない様子だった。
口論のきっかけは笑ってしまうような些細な出来事だったけれど、2人ともムキになって言い合いを続け、気付けば始発どころか朝の通勤ラッシュの時間になっていた(そんな時間まで突き合ってくれたお店のマスターに感謝)。2人でお店を出た時、朝日がまぶしかったことを覚えている。その頃には既に2人のわだかまりは解けていて、深酒したにも関わらず、裕さんはすっきりとした顔をしていた。多分、自分も同じような表情をしていたに違いない。
一回り年の離れた先輩と口喧嘩するなんて、なかなかないことだけれど、裕さんとは年齢を超えてそういうコミュニケーションが成り立った。それは、裕さんが対等な関係で自分と付き合おうとしてくれていたからだと思う。
「その時のことはよく覚えてないけど、多分そのときオレはリクオに対して悔しい気持ちがあったんやと思う」
下北沢での口論の話をした後、裕さんからこんなふうに言われた。裕さんから自分に対して「悔しい」という言葉を聞いたのはこれが始めてではなく、以前も酒の席でそんなことを言われたことがあった。その時は、尊敬する先輩の裕さんが自分を意識してくれていたことを意外に感じると同時に、少し嬉しくも思えた。一回り年の離れた後輩に対して、そういう気持ちを伝えることのできる正直さ、素直さを、裕さんはずっと持ち続けていたのだと思う。
病室を出る時、裕さんは不自由な体でわざわざエレベーターのある場所まで見送ってくれた。恐縮する一方で、まだ歩行も難しい状態だと聞いていたので、これだけ動けるまでには回復したんだと、希望を持った。
部屋を出てエレベーターに到着するまでの間、裕さんは自分に何度か感謝の気持ちを述べてくれた。そのときに、「また来ます」と伝えたら、「その前に退院してるわ」という言葉が笑顔と一緒に返ってきた。それが裕さんとの最後の対面になった。
9月の半ば、松坂でのサウス・トゥ・サウスのライブで、裕さんがベースを3曲弾いたという話を聞いたときは、本当に嬉しかった。裕さんは最期まで音楽とともにあり続けたのだ。
これからも裕さんのことはすぐに思い出せるだろう。あの低い位置でベースを弾く姿、あのグルーヴ、音色、あの声、あの笑顔、お酒をちょびちょびと飲む哀愁ある姿、嘘のない言葉。きっと、いつでも思い出せるだろう。
裕さん、ありがとうございます。
もう言い合いができないのは、やっぱり寂しいです。
ー2014年10月18日 ツアー先札幌のホテルにて
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