10数年前、ミチロウさんがツアー中に血を吐いて倒れ、しばらく療養していた時に、ミチロウさんと電話で話した。
声を聞いて、まだ本調子ではないのが伝わった。それでも、ミチロウさんは電話口で復帰への思いを語り続けた。
「リクオ君、オレは歌えないのが悔しいよ」
「いやいや、無理せずたまにはゆっくり休んで下さいよ」
そんなやりとりをした。ミチロウさんの「悔しい」って言葉が耳に残った。
程なくミチロウさんはステージに復帰して、年間200本を前後するツアー生活を再開させた。ミチロウさんは、その後何度も倒れ、その度に復帰して、杖に頼るようになってもツアーをやめなかった。
ミチロウさんは自分よりも14歳年上で、チャボさんや清志郎さんらと同世代なのだけれど、先輩というよりも、同じスタイルでツアー暮らしを続けてきた「旅の同志」という意識の方が強い。ミチロウさんからも、「自分がソロで弾き語りを始めた時期とリクオ君のデビューの時期が近いから、リクオ君は後輩という意識があまりないんだよ」と言われたことがある。元々、先輩風を吹かすことなど一切なく、誰に対しても対等に接する人だった。
ミチロウさんが切り開いたライブネットワークは'90年代後半に「音泉マップ」という一冊の本にまとめられ、自分も含め多くのツアーミュージシャンがこの本を頼りにツアーに出た。自分が苦労して作ったネットワークを独り占めすることなく、惜しげも無く公開するのが遠藤ミチロウという人なのだ。
福島出身のミチロウさんは、3.11以降、東北支援にも力を尽くした。ただ支援するだけではなく、戦後の日本の在りように対して問題提起することも忘れなかった。
ミチロウさんは、誰かやシステムを一方的に断罪することはしなかった。原発と同じ時代を生きた人間として、1人1人が意識を変えてゆくことの大切さを訴えた。それは、まさに身を削っての活動だった。なんだかミチロウさんがみんなの罪を背負っているようにも見えて、痛々しかったし、自分に後ろめたさを覚えた。
'11年以降は、オフステージで消耗仕切ったミチロウさんの姿をみる機会が多くなった。それでも、ステージ上のミチロウさんはいつも全身全霊でエネルギーに満ちていた。その姿にいつも圧倒され震えた。そして泣けた。
昨年、10月の手術後も、ミチロウさんは曲を書いていたそうだ。またステージで歌うことを考えていたに違いない。病床で悔しい思いをしていたのだろうと思う。それは、「死ぬまで生きる」ということだ。
その歌に、そのドロドロの美しさに、その勇気に、その優しさに、その誠実さに、その繊細さに、その大らかさに、どれだけ力をもらったことか。
ミチロウさん、日本各地で共演させてもらって最高でした。大好きです。
これからも、ありがとうございます。
オレもずっと旅を続けます。
ー 2019年5月2日
悲しいですね
返信削除名盤、銀鼠アナログで再発とかないかな?
リクオさん
返信削除初コメントですが、ミチロウまでも天国の扉を開けたのかと。本当にショックで号泣してしまいました。
スターリンを聞いて、追悼しています。
また、偉大なミュージシャンを日本は無くしましたね。