52歳になりました。
20歳の頃の自分が、50を過ぎた自分をどんな風に想像していたのかは、もうよく覚えていないけれど、多分、今とはかなり違った姿を想像していたのだろうと思います。
「えらい年齢になってしもたなあ」という戸惑いに近い思いを抱く一方で、今も落ち着かず、変化のさなかにあるらしい自分自身を楽しんでます。
「四十にして惑わず」という諺がありますが、52歳にして、そういう境地にはまだ全然達していない気がします。孔子さんは「五十にして天命を知る」とおっしゃってますが、まだ自分の天命とか運命を決めつけたくないというか、簡単に受け入れたくないような自分が存在します。
時々「リクオさんは、ぶれないですね」なんて言われることがありますが、いやいやそんなことはありません。自分の軸がないとは思わないけれど、その軸棒は、時に地殻変動や強風にさらされ、左右前後上下に揺さぶられています。
「オレって歩みが遅いのかなあ」と前々から感じていたのですが、最近増々その思いを強くしています。だとしたら「七十にして惑わず」くらいでいいのかもしれない、いや、惑い続けた挙げ句、「我」も捨てきれずに、くだばってしまうのも自分らしいかもしれんなあ、などと思ったりしてます。
まあ、70までも生きれないかもしれないけれど、だとしても、今の自分にはまだ「惑う」プロセスが必要なんじゃないか、もっと色々と「経て」いかなきゃいけないんじゃないかという気がしてるんです。そして、「経て」ゆく順序やスピードは人それぞれでいいんではないかと思うんです。
今年に入ってからの自分は、悔しい思いをする機会が多くなりました。なんだか「悔しさ」と「ときめき」の量が比例しているような感じです。これは、自分の気持ちにより正直になってトライした結果なんじゃないかと思ってます。
自分のキャパとシティ相談しながら、このトライを続けてみようと思っています。まだまだ夢を見続けるつもりです。
ロックン・ロールが苦悩から解放してくれるわけじゃない。悩んだまま踊らせるんだ。ー ピート・タウンゼント
自分が思う「ロックン・ロール」に対する答の1つがこの言葉にあります。
ちょっと大袈裟な言い方ですが、夢を見続ける作業は絶望や孤独を伴います。けれど、それらが言葉になり、メロディーとリズムに乗り、形となったとき、共感と救いが生まれ、世界が変わってゆくことを、出会った多くの人達や先人が教えてくれました。それが間違いじゃないことは、積み重ねた体験の中で確信しています。
でも、まだ道半ばって感じです。まだまだ証明したいこと、確かめたいことがあります。そんな自分の「欲」に向き合ってゆこうと思ってます。まだまだ余裕こき過ぎずに、楽しみながらあがいてゆくつもりです。
1人で見る夢はだだの夢。誰かと見る夢は現実。ー オノ・ヨーコ
とても好きな言葉です。
これからも夢に付き合ってくれたら嬉しいです。
そして、今まで夢を現実にしてくれてありがとう。
まだまだやれそうな気がしてます。「経て」ゆく様を見てもらえたら、光栄です。
ー2016年9月17日(土)
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