緊急事態宣言が出された東京で、路上に追い出された「ネットカフェ難民」に対して都が12億円の予算措置をつけることへの批判が、ネット上で拡散されているのを見て、つらい気持ちになった。
「弱い者たちが夕暮れ
さらに弱い者を叩く
その音が響きわたれば
ブルースは加速してゆく」
ザ・ブルーハーツ「TRAIN-TRAIN」の1節を思い出した。
自分も「加速したブルース」を持て余しながら、この文章を綴っている。
批判する者にとって、「ネットカフェ難民」は、納税義務も果たさずに国から保護を受けようとするずるい存在として、怒りの対象になっているようだ。休業補償を行う厚生労働省の制度が、接待を伴うナイトクラブなどの飲食店や風俗業の関係者に支給されることへの批判と同じ流れだ(そういった人達を一括りに非納税者と断定すること自体が偏見で、間違いを含んでいると思う)。
つまるところ「自己責任論」のもとに、「ネットカフェ難民」や風俗関係者は救うべき存在とは見なされていないのだ(あるいは優先順位の最下位)。「不安定な生き方を選んだ自分のせいだ、社会のせいにするな」として、彼らが切り捨てられることをよしとしているのだろう。
そういった考えは、新型コロナウイルスの感染拡大をより広めてゆくことにもつながりかねない。都が「ネットカフェ難民」を援助しようとするのは、感染拡大を防ぐための切迫した事情だと想像する。
自分のようなフリーランスのミュージシャンの多くは、この状況下で、路頭に迷う自分自身の姿を現実的に想像する者も多いんじゃないかと思う。自分も、収入の大半を占めていたライブ活動を自粛しているので、しばらくは無収入に近い状態が続くだろう。
「収入がなくなり納税も滞るようになれば、自分達も社会から切り捨てられるべき存在と見なされるのだろうか。いや、もともと自分達のような不安定な業種は、こういう事態に陥れば、早くに切り捨てられる存在だったのかもしれない。」なんてことも考えてしまう。まあ、そうであっても、くたばってたまるかって気持ちだけれど。
「自己責任論」を振りかざす者の多くは、多分、悪人なんかではなく、周囲に対しては気配りや思いやりを注ぐことのできる、真面目で優しい人間だったりするのだと思う。だから余計にかなしい。
その「思いやり」を、自分とは立場の違う存在、「ネットカフェ難民」やホームレス、夜の接客や風俗で働く人達、生まれたところや皮膚や目の色の違う人達に、少しだけでも注ぐことはできないだろうか。
その「優しさ」の対象は、あくまでも「限定条件付き」でしかないのだろうか。
「ネットカフェ難民」のことを、ずるい存在、怒りの対象ではなく、手を差し伸べるべき弱い立場の人間、この社会の一員として受け入れることはできないだろうか。彼らの存在を一括りに見るばかりではなく、それぞれ異なる事情を持った一人一人の人間として想像することはできないのだろうか。
これらの言葉が「きれいごと」に受け取られるのは重々承知しているけれど、この「きれいごと」こそが新型コロナウイルスを克服するための一つの手立てだと思える。
この状況の中で、自分達はどこまで「限定条件」を外して、他者への想像力を広げてゆくことができるだろうか。
今、本当に困っている立場の弱い人達に手を差し伸べることができなければ、収束はますます遠のいてゆくように思う。今こそ、セーフティネットの重要性を、国や行政の側だけでなく、自分達生活者が意識すべき時じゃないだろうか。
グローバル化した社会において、この感染の影響は一国のみの収束を許さない。自分達さえ良ければ済む問題ではなくなってしまったのだ。国や人種、あらゆる立場を超えた「連帯」がなければ、経済面も含めて、このウイルスのダメージはますます長引いてゆくだろう。
ウイルス感染が収束した後の世界は、「連帯」に向かってゆくのか、あるいは、さらに内向きに「分断」してゆくのか。どちらが人類にとって持続可能な世界なのか。その答は出ているように思う。
今、自分達はウイルスによって試されている気がする。
ー 2020年4月12日(日)
激しく同意しました。昨年夏の万博記念公園でのフリーフェスで永遠のロックンロールを聴いて合唱して次はワンマンに行きたいと思った者です。このクソみたいな状況を乗り越えたらまたライヴしてください。
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