2020年4月15日水曜日

「批判する者を批判する」ということ

新型コロナウイルス関係のニュースや意見ばかり追っていると、やはり心が疲れてくる。
起きる出来事の一々に反応していると、俯瞰の視点が消え、感情に流され過ぎて、自分を見失ってしまいそうだ。

声を上げる側の切迫した思い、批判ばかり目にして心がやられそうになる人、どちらの痛みも想像しながら、一呼吸置いて発言したいと思う。

例の一件は、音楽に携わる人間として、非常に腹立たしく、やりきれない思いに囚われたけれど、感情にまかせた批判は自重することにした。
既に、たくさんの人達が批判の声を寄せ、その中には冷静で的確な指摘も含まれていたので、結果的に、その様が可視化された気がする。

最近は、批判をやめて皆が一丸となるべきとの声もよく聞かれる。確かに、この渦中で、敵対が深まり「分断」が広がれば、コロナ収束後の社会にも悪い影響を残すだろうと思う。
けれど、明日からの暮らしに困窮する人達が続出する中で、「批判する者を批判する」ことが結果的に、異論を排除し、弱い立場の声を封じ込めたり、彼らの存在を切り捨てることにもつながらないだろうか。
過去の歴史を振り返って、「批判を許さない空気がもたらした社会」についても忘れずにおきたい。強い口調の批判や非難ばかりを目にすることに疲れつつも、そう思う。

まわりの事業者やミュージシャンの間では、既に多くの助け合いやこの状況を乗り切るための助け合いやアイデアの交換が見られ、それが自分にとっては救いの一つになっているけれど、もはや、それだけで乗り切れる事態ではなくなっている。
この状況下での、国や各自治体の対応を見ていると、生活者の怒りや悲痛な声が、ある程度は届き始めているようにも思う。国の対応が遅まき過ぎると感じつつ、それらの声が届くことで政策が改善されてゆくことに、一つの希望を見いだしたい(急を要するけれど)。生活者の声が政策に反映され、国へのチェック機能が維持されることは民主主義のあるべき姿だと思う。

声を上げる者とそれを受け取る者、批判する者とされる者は、互いに「補い合う関係」だという意識を残しておきたい。特に、この状況においては、政治の場でも、超党派で案を出し合い、協力して、より良い政策を迅速に実現してもらいたい。

ただし、迅速さが求められるのは、非常時の対応においてであって、収束後は、空気に流されない、じっくりと時間をかけた議論も続けてもらいたい。そして、コロナウイルス禍での様々な対応を、きっちりと検証し直し、今後の教訓として生かしてゆくこことも大切だと思う。

怒りややり切れなさを抱えていても、「分断」という油に火を注ぐことのないよう、むやみに不安を煽ることのないよう、言葉を選び、「声の上げ方」にも慎重であろうと思う。
自分の言葉が、立場の違う誰かを傷つける可能性があること(それも致し方ない場合もあるとは思う)、議論は大切だけれど、「論破」することが前向きなものを何も生み出さないことも、あらためて自覚しておきたい。

こういう自分の態度は、無収入になっても、まだしばらくは蓄えでなんとか凌げそうな立場にいることで担保されているのかもしれない。この状態がさらに数ヶ月、半年と続く中で、冷静な思考を保ち続けることができるだろうか(今も冷静かどうかわからないけれど)。
そう考えると、今まさに切迫した立場に追いやられている人に、冷静で寛容な態度を求めるのは酷のように思う。まず、そういった人達に心を配り、手を差し伸べるのが成熟した社会ではないだろうか。

こういった非常時には、市民の様々な権利が抑制される。今はそれも仕方がないと考えて、自宅にこもっているけれど、決まって非常時に民主主義が崩壊してきた歴史は忘れずにいたい。
「一丸となる」という言葉への違和感を抱きながら、主義主張を超えて助け合いたいと思う。

コロナウイルス禍はいつかは収束する。そのダメージは長く残り続けるのかもしれないけれど、今は離れた場所で痛みを分かち合いながら、コロナ後の新しい世界に希望を描きたいと思う。

ー 2020年4月15日(水)

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