2021年1月15日金曜日

「言論の自由」について ー トランプ大統領のアカウント永久停止から考える

 先週6日に発生した米連邦議会議事堂への暴徒乱入事件を契機に、暴動を煽動したとしてトランプ大統領のツイッターのアカウントが永久停止された。それを受けて、日本でも、トランプ支持者を中心に「言論弾圧」を訴える投稿がSNSで拡散され、ツイッターのトレンドワードになるほどの盛り上がりを見せた。

この出来事は、「言論の自由」について再考させる機会を自分に与えた。

SNSのアカウント停止の背景には、トランプ派による暴力の危機が継続していて、20日に就任式が行われる首都ワシントンだけでなく、全国各州でトランプ派による暴動が懸念される切迫した状況がある。

トランプ氏がSNSでメッセージを発し続けることで、さらなる暴力が誘発される可能性は高いと思う。既に実際、彼の煽動によって、議事堂襲撃事件は起きてしまったのだ。

こうした切迫した暴力を避けるための緊急措置としてのアカウント停止に対しては、自分は理解を示す立場でありつつも、永久停止ではなく、一時停止という選択肢もはなかったのかとの思いも残る。

「言論の自由」の観点からだけでなく、この措置が、一部の狂信的なトランプ支持者をよりカルト化させ、火に油を注ぐ結果を招くことも懸念している。

そもそもトランプ氏は、今回の扇動だけでなく、これまでも、ツイッター社との利用規約に反するツイートを繰り返してきたのではないか。それを許容してきたツイッター社の対応と、今回のアカウント停止は整合性がとれていないように思う。

むしろ、もっと早くにデマ、暴力、偏見、差別、分断を煽る規約違反のツイートを削除するなり、アカウントを一時停止するべきだったのではないだろうか。ツイッターが、トランプをさらにモンスター化してしまった側面もあるように思う。

BBSニュースによれば、議会襲撃を受けてツイッター社員約350人が、ジャック・ドーシーCEOに、大統領のアカウントを禁止するよう連名の手紙で呼びかけていたそうだ。社員たちはその中で「(ツイッターは)トランプのメガホンになり、1月6日の流血沙汰に、我々が燃料を提供する結果になってしまった」と書いていたという。

この記事によるならば、トランプ氏のアカウント永久停止は、ツイッター社員の良心が後押しした判断だともとらえられる。

トランプ支持者を中心に盛り上がる「言論弾圧」という主張への反論として、一企業との契約の中の利用規約に違反してアカウントが停止されただけなのだから、それは「言論弾圧」に当たらないという意見もネット上で散見して、一定の説得力を感じた。

ただ、日本ツイッター社のアカウント停止の傾向を見ていても、この企業にどこまで信頼を置いていいのだろうかとの疑念が自分の中には残っている。

こういった大きなプラットホームが今後、時の権力や影響力の強い勢力と結びつくことで、言論統制、思想統制の意向が組み込まれる可能性だって考えられると思う。利用規約に違反したから仕方がない、では片付けられない状況も想定すべきではないだろうか。

今回のアカウント永久停止は、本来なら行うべきではない、止むに止まれずの選択、緊急の最終手段であるべきだと思う。結果論かもしれないけれど、ツイッター社は、ここまでの事態に至る前の段階で、行うべき対処があったのではないだろうか。

ドイツのメルケル首相が今回のアカウント永久停止に批判的であるとのニュースに対しては、「メルケルがトランプのアカウント停止を批判したのは、私企業が判断を下す危険性について批判したのであって、それは国家が法的に規制するべきという主張が背景にある。」との清義明氏のツイートに説得力を感じた。

ナチスに関する言論が法律によって規制されるドイツと、国家が言論の自由に介入せず、それに対する批判も規制も私権に委ねられるアメリカとの違いが、メルケル首相の発言の背景にあるようだ。

「言論弾圧」を声高に主張する人達に対しては、何を言っても許されるのが「言論の自由」なのかと問いかけたい。

ヘイトスピーチを繰り返すレイシストが、「〇〇人を皆殺しにしろ」「〇〇人はゴキブリ以下」「〇〇人は強制送還しろ」などと叫ぶことも「言論の自由」だと訴える場面を、この10年ほどの間に何度も目にして、憤りとやりきれなさを感じてきた。

「言論の自由」は大切だけれど、無制限ではないと思う。その境界線が必ずしもはっきりしなくとも、デマを撒き散らして、暴力、差別、犯罪を過剰に煽るようなツイートは、やはり制限されるべきだと思う。

そもそも憲法が保障する言論や表現の自由は、権力者に対する主権者の権利を保障する言葉だったはず。

「言論の自由」という言葉の成り立ちや意味をもう一度確認し、問い直すべきだと思う。その問いかけが放棄された時に、自由は容易く失われてゆくのだろう。

誰かが用意した劇的な物語を盲信する時点で、実は、「言論の自由」以前に、自由な思考は放棄され失われているのだと思う。

ー2021年1月15日(金)

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