いつの頃からか、過去を振り返ったり、体験を反芻したり、定義づけたり、まとめたり、つなげたりする時間が減ってしまったように思う。仕事と遊びに忙しくて空の時間が足りなくなってきた。自分は実人生を、音楽生活を、ツアー生活を、楽しみ過ぎているのかもしれない。
高田渡さんのことを思い出した。渡さんは、そのキャリアのわりには自作曲をあまり多く残していない。晩年はソングライティングにそれほど興味を持っていな
いようにみえた。実際、その音楽以上に、渡さんの生き方とキャラクターの方が、人々にインパクトを残していたように思う。ステージで酔って寝てしまい、ま
ともに歌えなくても、お客さんはその様を観て、喜んでいたところがある。
渡さんは、自分のキャラクター、生き方そのものが自分の作品なのだという自覚があったように思う。実際、渡さんにふれると、音を奏でなくとも、存在そのものが音楽だという感じがした。
自分は渡さんの後を追いかけているようなところもあるけれど、自分と渡さんはやはり違う。
今行っているソロアルバムの製作を通して再認識したことの一つは、自分のソングライターとしての才能と可能性だ。結局自分は、自分の才能を疑いつつも、最
終的には確信し続けているのだ。毎日自分の曲に向き合っているうちに、この才能をもっとアピールするべきだし、さらに活用して、引き出してやるべきだと、
今更ながらあらためて思い直した。
三島由紀夫は「芸術と人生は一つの勝負であり競争である」と語ったそうだ。大層やなあとも思えるこの言葉が最近、心に響く。自分の実人生と自分の才能、芸術性も、もっと切磋琢磨させられる余地があるに違いない。
今の自分は無意識の内に芸術よりも実人生の方に重きを置いている気がする。実人生に重きを置く理由の一つは、どこかで自分の才能が報われていないという思
いがあるからだろう。今でも多くの人達が、自分の作品やパフォーマンスに対してありがたい反応を返してくれているにも関わらず、自分はどこかで、自分の才
能、表現は理解されていない、評価されていないという思いを抱えて続けている。そういうことを思ってこんがらがるのはしんどいもんである。性格もねじれそ
うになる。だからなるべく考えないことにした。
「色々あったし、これからもあるやろうけど、せっかっくやし楽しむしかないやん」そういう心持ち
で暮らして行きたいと思った。実際、生き方の技術は前よりも身に付いた気がする。楽しくしていると、ある程度人も集まってくるもんである。ただ、そういう
生き方に重きを置こうとすることで、何かにふたをしてしまっている部分もあるかもしれない。
少し前に、ある知り合いから「今のリクオは寅さん的な生き方に比重が行き過ぎているのではないか」というようなことを言われたことがある。うん、それはあるかも。
実際、寅さんてどんな人やったんやろ。つうか、実在してないけど。明るさ、気楽さの陰に隠された寅さんの心情、ブルーズを想像してみる。寅さんの葛藤をもっと知りたいな。自分の中の寅さん像をもう少しふくらませてみよう。
才能をみせつけようとすると、固くひとりよがりになりがちだから、才能を共有する、才能を引き出し合う、というような感覚を大切にできたらと思う。才能、芸術は1人では成り立たないものだから。
そう言えば、才能は人を幸せにするって、誰かが言ってたなあ。ただ、人を幸せにする前に、誰かを傷つけたり、生け贄にすることもある気がする。傷つけ合うことを恐れていては、前に進めないことも事実。
曲作りをしていたのだが、完成しなかった。ばらばらのパズルがうまく組み合わず、途中で頓挫した感じ。天に繋がるに近道なし。
焦らずじっくりと。
0 件のコメント:
コメントを投稿