ある人の投稿を通じて、AIへの過度な依存について、あらためて考えさせられた。
AIには、ユーザー自身がすでに抱いている解釈や感情に寄り添い、それを文章として補強することで、万能感を抱かせてしまう危険性がある。
結果として、最初の誤読や偏った前提を、AIがより精巧な論理と美しい文章によって補強してしまうことも起こり得る。
自分が読んだその文章も、「前提の誤り」よりも「文章の整合性」のほうが、読者に強く印象づけられる内容になっていた。AIの力を借りたとは断言できないけれど、AIと親和性の高い文章だと感じたのだ。
AIを「寄り道」の相手ではなく、自分の物語を補強する「優秀な共同脚本家」として使っているような印象を受けた。
自分自身もそういう使い方をしてしまっている自覚があるからこそ、余計にそう感じたのだろう。
これは、AIを使った文章で起こり得る問題の一つだと思う。
AIを、自分の物語から外へ出るための補助として使うのか。
それとも、自分の物語をより強固にする存在として使うのか。
この違いは大きいと思う。
ただ、前者として使うには、かなりの自覚が必要だろう。
AIとの対話によって自己を相対化できるとは限らない。むしろ、自分の考えを補強しているだけなのに、それに気づかないことだってあるだろう。
AIの世界にこもるばかりでは、AIに取り込まれてしまうんじゃないだろうか。
だからこそ、現実世界のノイズの中で、しっかり揉まれ続けたいと思う。
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