2026年9月23日水曜日

「人間性」を守るために、政治と向き合うということ ー マックルモアの声明文を読んで考えたこと

エド・シーランのツアーから外されたことを受けての、マックルモアの声明文の日本語訳を読んで、感銘を受けた。
エド・シーランを批判する側、擁護する側、どちらにも読んでもらいたい。

マックルモアは今回のことで、エド・シーランと「意見の相違を認め合う敬意ある話し合い」を行い、「彼の人格攻撃のために悪意を持ってこれを書いている訳では無い」と語る。

続けて、エドがひどい板挟みの状況に陥り、「いつものノンポリ姿勢」を保てなくなった状況を伝えている。
「なぜ人々がこの件で支持・不支持を表明しないのかは分かる。」
としつつも、
「しかし、抑圧者と被抑圧者の間に“中立”は存在しない。」
「反ユダヤ主義は実在する。だからこそ、“反ユダヤ主義”という言葉は非常に重要で、イスラエル国家への批判に対する盾として使われるべきものでは無い。イスラエルを批判すること、シオニズムに反対すること、あるいは『Free Palestine』と言うことを、ユダヤ人への憎悪と同一視することは、ユダヤ人を守ることにはならない。ただ、イスラエルを説明責任から守るだけだ。」
というマックルモアの考えに、自分も同意する。
さらに、強い言い方をすれば、虐殺に対して中立という選択肢はないと思う。

マックルモアは、考えの相違があってもエドとの関係が続くことを望み、エドが「『中立とは何か』を思い悩み続けることを願う」と語る。

エド・シーランは、マックルモアがツアーから外された後のステージ上で、
「政治ではなく人間性を大切にしてほしいけれど、これは人道上の問題だ」
と語り、マックルモアは「義務。勇気でも無い。人間であること。」という言葉を使って、今回の行動を説明した。

「これはイデオロギーの問題ではなく、人道上、人間性の問題である」という点において、今の2人の考えは重なっているように思える。
エド・シーランは、今回の出来事を通じて、「人間性」を守ろうとした結果、政治から距離を置くことができなくなったんだと理解している。世界的アーティストとしての責任ある立場と今の社会状況が、彼を追い詰めたようにも見える。

今回の件で、「エド・シーランは人道に背いた」という単純な人物評価によって、彼を敵視する人も多いように感じる。けれど、少なくともマックルモアの声明は、そこには向かっていない。
むしろ彼は、エド・シーランとの関係を維持したまま、譲れないことについては厳しく異議を唱えている。

相手を批判することと、相手を敵にすることは同じではないはずだ。

今回の件を受けて、エド・シーランの人間性までも否定しようとする人たちにも、マックルモアの思いが届くことを願っている。

ー 2026年9月23日(水)

2026年9月14日月曜日

沖縄県知事選挙の結果を受けて、辺野古で聞いた声を思い出す

 今回の沖縄県知事選挙の結果を受けて、色々考えさせられている。

2年前の兵庫県知事選、昨年の宮城県知事選でも問題となった、ネット空間でのデマや誹謗(ひぼう)中傷が、今回はさらに激しく横行したことに、民主主義の土台が崩れてゆくような強い危機感を覚えている。

ただ、今回の古謝氏の当選という選挙結果を、ネット空間でのデマや誹謗中傷の影響も含めて、どう受け止め、どう読み解けばいいのかについては、慎重でありたいと思う。選挙によって示された民意であることは間違いないとしても、それを単純な一つの意思として捉えることは、沖縄で暮らす人達の複雑な思いを切り捨ててしまいかねない気がするのだ。

抽象的な政治言語だけに閉じることなく、ツアーで毎年訪れる沖縄での体験や、そこで出会った人たちのことを思い出しながら考えたい。

沖縄のことを考える時に、忘れられない思い出がある。
今から12年前、米軍普天間飛行場の移設予定地となっている辺野古を訪れて、アップルタウンと呼ばれる社交街で、地元の方々と交流した体験だ。その時の出来事をまとめてブログに投稿するまで1年を要した。それでも、体験したすべてを具体的に書き記すことには躊躇を覚えて、思い留まった。

《気まぐれダイアリー「辺野古の埋め立て承認取り消しで考えたことー1年前に辺野古を訪れたときのこと」》

今回の選挙では「基地問題」よりも「暮らし・経済」が大きな争点になったとされているけれど、両者の問題は地続きなんだということを、その時に痛感した。
選挙結果を受けて「基地移設を容認する人が増えた」とだけ理解するのは、おそらく地域の感情を単純化しすぎている。
沖縄において、基地問題は賛成・反対の二元論で語れる単純な問題ではない。

12年前に辺野古を訪れ、そこで暮らす人たちと酒を酌み交わし、時には感情的になりながら語り合って感じたのは、基地に賛成か反対かという2択では捉えきれない、地域で暮らす人たちの複雑な思いや、積み重なった疲労・絶望だった。

「本当は地元の誰も積極的には基地移設に賛成していない」
これは地元の基地移設容認派のリーダー的存在の方から聞いた言葉だ。
辺野古で暮らす人達にとって、基地移設はイエスかノーで解決できる問題ではなく、自分達の暮らしと町の将来にからめた条件闘争として考えざるを得ないのだ。

もう一つ、両親が米軍嘉手納基地で働いていた沖縄民謡歌手・古謝美佐子さんの話も忘れられない。
《気まぐれダイアリー「古謝美佐子さんのこと」》

古謝さんは幼い頃に父親を、基地内でアメリカ軍の車両にひかれる事故で亡くされている。
当時、うかがった話では、「自分には基地に育てられたという思いもある。日本に存在する米軍基地の70%が沖縄に集中しているのはおかしいことだと思うし、辺野古への基地移設も反対だけれど、基地で働いていた地元の人達とのつながりもあり、そういった人達の気持ちを気遣うと、自分が声を上げて辺野古移設に反対することには躊躇がある」とのことだった。

けれど、その後、古謝さんは辺野古基地移設反対の意志を公に表明し、行動されるようになる。そこに至るまでには、自分が声を上げることで繋がりのある誰かを傷つけるかもしれないという葛藤も含め、さまざまな思いがあったのだろうと思う。

今回の選挙結果を受けて、そんな過去の体験をあらためて思い返している。

基地移設反対運動が、その地域で暮らす人達一人ひとりの思いや立場・暮らしを無視するものであってはならないし、「国」や「国益」といった大きな言葉が、そこに暮らす一人ひとりを蔑ろにすることがあってはならないと思う。
今回の選挙結果を受けて、もう一度そこに立ち返って考えたい。

ー 2026年9月14日(月)

2026年9月3日木曜日

現実世界のノイズへ――AIに取り込まれないために

 ある人の投稿を通じて、AIへの過度な依存について、あらためて考えさせられた。

AIには、ユーザー自身がすでに抱いている解釈や感情に寄り添い、それを文章として補強することで、万能感を抱かせてしまう危険性がある。
結果として、最初の誤読や偏った前提を、AIがより精巧な論理と美しい文章によって補強してしまうことも起こり得る。

自分が読んだその文章も、「前提の誤り」よりも「文章の整合性」のほうが、読者に強く印象づけられる内容になっていた。AIの力を借りたとは断言できないけれど、AIと親和性の高い文章だと感じたのだ。

AIを「寄り道」の相手ではなく、自分の物語を補強する「優秀な共同脚本家」として使っているような印象を受けた。
自分自身もそういう使い方をしてしまっている自覚があるからこそ、余計にそう感じたのだろう。
これは、AIを使った文章で起こり得る問題の一つだと思う。

AIを、自分の物語から外へ出るための補助として使うのか。
それとも、自分の物語をより強固にする存在として使うのか。
この違いは大きいと思う。

ただ、前者として使うには、かなりの自覚が必要だろう。
AIとの対話によって自己を相対化できるとは限らない。むしろ、自分の考えを補強しているだけなのに、それに気づかないことだってあるだろう。

AIの世界にこもるばかりでは、AIに取り込まれてしまうんじゃないだろうか。
だからこそ、現実世界のノイズの中で、しっかり揉まれ続けたいと思う。